2010/05/12

基地より吉

今、鳩さまを馬鹿にするのは簡単だ。

しかし、「じゃあ、どうすりゃいいのか・・・」は、実際極めて難しい。

具体的に皆を納得させる提案が出来る人がいたら、とっとと発表して欲しいものだ。

クリスチャンは基本的に「鳩」っぽいので「蛇」っぽい狡猾さは欠けやすい。

善人ぶってアジアの国々にペコペコ誤る奴はいても、アメリカ人に「おまえ謝れ!」と言える奴はそういない。

さて、あり得ない想像だが、もし私が総理大臣のブレインのひとりなら・・・・

政権交代を機に、まず原爆投下の謝罪、地位協定の改定あたりを問題にするようにサジェションするかなあ。大波紋を巻き起こしてつぶされて終わりかも知れないが・・・

相手はこっちを見下してるんだから、まず目線を正すことから始めないとまともな交渉なんて出来っこない。

こんなのはどうだ?

「私の主張は友愛なんだ。これは公約の実行だ。とにかく県外と言ったら県外だ。沖縄に新しい基地など作らせない。愛は平等だ。沖縄を除く全ての都道府県知事にクジ引きして移設先を決める。 裏取引なしだ。だから、文句など言わせない。決断するのが政治家の務めだが、決断出来ないからクジで決める。石原氏が引いたらどうするって?知らんよ、そんなことは。」

あるいは、

「友愛を具現化するために、ここは憲法を改正して核武装する。そして在日米軍基地はすべて撤退してもらう。核を所有して何が友愛かって?これは、戦(いくさ)をせずに攘夷を実現しようとした坂本龍馬の理想と同じ。国民に大人気の大河ドラマにヒントを得たのだから立派な民意の反映だ。友愛はまず同胞に示してこそ他国への思いやりも生まれるというもの。妻の占いでもそれが吉と出ている。基地より吉だよ。」

馬鹿馬鹿しいとは思うが、現状の馬鹿馬鹿しさよりはちょっとマシだ。

2010/05/11

さっちゃんはね・・・・

先日のリコーダー講座のひとこま。

「音楽にとって大事なことは何だと思いますか」という私からの問いかけに対して、参加者のみなさんに思いつくことばを出してもらった。

「リズム、メロディ―、ハーモニー」というような学校的な答えだけでなく、「癒し」「豊かさ」「コミュニケーション」「協調性」「充実」など・・・・ホワイトボードに書ききれないほどの多様な答えが出た。

ひとつひとつのことばが意味するところの背景やそのつながりを私なりに解説しつつ、「人にとって音楽とはいったい何なのか」を出来るだけ丁寧に言語化してみた。

それにしても、それほど深く考えずにパッと発したことばが、各自のこれまでの音楽との関わり方や現状を見事に映した表現だったのには驚いた。

中でも、さっちゃんが答えてくれた「楽しさ」や「和み」といったことばは、他の参加者の心を大きく揺り動かしたと思う。と言うのは、まさに彼女自身がそれを見事に体現しているからだった。

今回の参加者は、たまたまさっちゃん以外は全員教師だった。中には音楽の専科や、銀じ郎さんのように障害児教育のスペシャリストもいた。そして、さっちゃんはダウン症だ。「でも」や「だから」は関係ない。彼女は音楽がただ好きで、音楽を心から楽しんでいて、その姿が周囲を和ませている。

さっちゃんには、幼いころから音楽に親しむ環境があり、ともに楽しむなかまがいる。だからさっちゃんは楽譜も読めるし、楽器の演奏技術も高い。

さっちゃんは、別に歯を食いしばって「でも」や「だから」を乗り越えようとしたわけではないけど、軽~くクリアしているわけだ。

教師は「ダウン症のさっちゃん」という見方をしてしまうことが多い。でも、私たちの意識の中では「さっちゃんはダウン症」なのだ。似たようなものと思われるかも知れないが、この違いは大きい。私たちは音楽を共有することで、さっちゃんの人柄や生き方に触れたので、私たちは障害のことを時々忘れてしまう。

障害のある方々と関わるとき、「福祉的」な配慮も絶対必要である。しかし、大切にしたい関係性の中で「福祉」を第一に考えている障害者なんかひとりもいない。

「楽しむは音楽の楽」「和みは和音の和」である。

まさに私が講座に名付けた「楽しいリコーダー・アンサンブル」のねらいそのものを、さっちゃんはあまりにもサラッと言ってくれた。

ありがとう。さっちゃん。

2010/05/07

5月のリコーダー講座

5月のリコーダー講座のご案内

明日 5/8(土) 14:00~
「楽しいリコーダーアンサンブル」
ぬく森の郷 学びの部屋にて

連休中に、リコーダー用の練習曲を数曲準備できた。曲はまさに演奏者の息を吹き込まれて「いのち」を得る。私は熱心な参加者の皆さんのおかげで、曲を作り続けることが出来ている。

練習曲はいろいろな練習の個別の目的のために作った曲ではあるが、単に機能的に作っているわけではない。その時々の私の想いが織り込まれている。

毎回新鮮な気持ちで楽しめるのは本当に幸せなことだ。

2010/05/05

連休の終わりはセンチメンタル

こんなにゆっくり出来たGWは久しぶりだ。細々とした用事もあったが、ほぼカレンダーどおりに休めた。それだけに連休最後の日はちょっとセンチメンタルなのだ。

この前まで立っていた建物が町から突然消えて更地になっているという光景は、郊外の町にはそれほど珍しくないが、ネット上から馴染みのブログがひとつふたつと消えていくと寂しさを感じる。

Koji君の「The Word」やムベさんの「石ころ」はよく訪れていただけに残念だ。

私は彼らとは親しい関係にあるので、ブログが閉じられてもリアルなつながりが途絶えるわけではないが、ネットを通じてしか彼らの暮らしの息づかいを感じられない方は、もっとガッカリしておられるのではないだろうか。

でも、そんなことくらい、当の御本人たちは十分考えた上で「しばらくお休み」という結論を出されたのだから、私がグダグダ言っても仕方がない。

そもそも「何の為に」という動機が一番大切だ。ブログの為に費やす時間やストレスが大きくなりすぎるとその「何の為に」がぼやけてくる。

Koji君やムベさんは真面目な方なので、「何の為に」に釣り合う中身を追い求められて、きっとあれこれ思い悩まれたのだろう。

私の場合は、半分はけっこう真面目な発信なのだが、もう半分は「こんなもん、たかがブログじゃねえか!」と遊び心でやっているので、この程度であれば、負担どころかけっこう楽しみになっている。

しかしまあ何ですなあ~(桂小枝調で)ネットの付き合いに義理も作法もないのかも知れませんけど~いろいろ考えさせられますぅ。

誰でもが簡単に書き込めるのは、表面上極めてフラット化されているようだけど、実際はそんなことはない。どんな短いコメントであっても、ことばには「その人間」が現れる。そうしたコメントを見ながらプロファイリングするのは面白い。自由と平等は共存出来ない。自由度が増すと、くだらないものは本当にくだらないということがけっこうハッキリ明らかになる。

また、私の場合はリアルなつながりの濃い人たちとのやりとりが主になるので、表現上の誤解でもめることもないし、大して気も使わないが、コメントのことばじりをとりあってもめたりするのはさびしいことである。

内容については、大いに議論していいと思う。反対意見や多様な角度からのコメントが寄せられるブログは価値が高いと思う。

でも、あんまりそういうのはないかな。

所詮、それがブログであって、それ以上でも以下でもない。

最後に、先の譬えをもう少し正確に修正して私の希望を述べれば、更地になったとしてもリニューアルオープンのための建て直し工事なのだ・・・と期待している。

2010/05/04

Salt&Uribossa なにわの「ブラジルに登場!




サザエさんの歌じゃないけど、「今日もいい天気~!」で気持ち良かった。

昨日は野菜を植え、ギターとピアノをポロンポロン。今日はヨシュア記6章を10回くらい読んで、ひたすら脱力、放心。そしてランニング。角笛の音ってどんな音かなあ。音色は?音域は?城壁一周すると。どれくらいの距離。速さは、タイムは・・・など、いつものようにあれこれいろいろ思いめぐらせる。

そうこうするうち、大阪西区靱本町にある「なにわのブラジル」こと「カイピリーニャ」でのライブの詳細決定!大阪周辺の方は是非。本格的なブラジル料理も楽しめる。

「カイピリーニャ」は知る人ぞ知るブラジル音楽ファンの集う店。小さなお店ながら、ちょっと奈良にはない感じの異空間。さて、耳の肥えたお客さん相手に、ひと味違う和ボッサで酔わせることが出来るだろうか。

正直、この数日間でちょっと重かったからだもリフレッシュ。ヒノキ花粉もそろそろ完全終結。次の杉花粉あたりまでは、調子よくいけそうだ。感謝。感謝。

   
     ♪      ♪      ♪


今回はゲストにブラジル・コンゴ帰りのイタミ―ニョを迎えてさらにパワーアップ。

〒550-0004 大阪市西区靱本町
1-15-4-1F06-6445-3886(サンバやろう!)


http://caipirinha.jpn.org/home/【こちらがお店のHP】

2010/05/02

ゴールデンライフ

ちまたでは、いわゆるゴールデンウイークということで、私もその恩恵にあずかって休む。

ただ「休み」が続くだけで単純にゴールデンだとは思わないが、久しぶりに「自分でスケジュールをやりくりできる時間」はまさにゴールデンだ。時間にゆとりがあるのは実にすばらしい。

「自由業」の友人が多い。私には私の与えられた分があるので羨むことはないが憧れはある。「キリストの奴隷」でなければ、「公務員」などという選択は絶対なかった。「キリスト教」の人には絶対わからないと思うが、私は「献身」したから「教員」をやっているのだ。

教員なので、ゴールデンウイークはカレンダー通りのお休みである。毎年、何処へも行かない。毎週土日は予定がないことはないくらいだが、ゴールデンウイークはあえて予定を入れない。今年は日曜も休みにした。

ゴールデンウイークに「この時」とばかりにがんばる気も遊ぶ気もない。タイトなスケジュールでも日々宴会気分を満喫できるエネルギーを温存するべく、ひたすら脱力して、静かに自分自身と日常を点検する。

黄金(ゴールド)は、乳香、没薬と三点セットである。信仰者にとってはこれが鍵である。

「イエスの栄光」「イエスの人格」「イエスの死」この三つを地上で確かめる旅こそクリスマスである。12月25日のお祭りではない。

クリスチャンは右肩上がりのゴールデンライフでないとね。

2010/05/01

憂哀

鳩さま一人をルーピー呼ばわりしてはいけない。むしろ、このイカれたボンボンは戦後の平和ボケ日本の見事なシンボルではないか。国の責任は主権者たる国民にある。

アメリカも日本も「国としての責任」を問われるときが来る。地の塩たるそれぞれの国の教会の塩加減はどうであろうか。それぞれの国に立てられた見張り人(ウオッチマン)は何を見ているだろう。憂いや哀しみのない柔和さや、痛みのない喜びは偽物の匂いがする。祭司は涙をもってとりなす心を持っているだろうか。

三島は「憂国」という短編を書き、この国の行く末を見切って腹を切った。目に見える醜悪さや滑稽さと彼の残した文学の表面的ギャップの故に評価が難しいが、彼が見ていた幻は確かに現実になっていることは疑いない。

エレミヤは「哀歌」を残した。その霊的に空洞化していく国を思う嘆きは、単なるナショナリズムではない。エレミヤの嘆きと涙は私を深く慰める。腹を切ったらおしまいだ。

「主よ。ご覧ください。私は苦しみ、私のはらわたは煮え返り、私の心は私のうちで転倒しています。私が逆らい続けたからです。外では剣が子を奪い、家の中は死のようです」(哀歌1:20)
この表現などは、「憂国」の切腹の描写よりもずっと単純だがもっと深い。

「口をちりにつけよ。もしや希望があるかもしれない」(哀歌3:29)
それでもエレミヤは絶望しない。彼は贖いを待っているからだ。

本当の合い言葉は「友愛」ではなく「憂哀」だ。

2010/04/30

鳩レベル

「戦後日本はマッカーサーと昭和天皇のツーショット写真から始まる」と美術家の森村泰昌は語っており、マッカーサーと昭和天皇に二役に扮して、自分の生家をバックにセルフポートレイトをとっているが、私の認識は森村の肯定的なノスタルジーとはかけ離れている。

http://www.morimura-ya.com/gallery/
http://syabi.com/contents/exhibition/index-4.html

日米の同盟関係は、陵辱された男にしがみつくようなもので腹立たしくてならないが、関係が切れないのなら、せめて援助交際レベルに精神的に優位に立ちたいものである。残念ながら、わが国の鳩様は、国内問題も外交問題もきちんと相対化する力がなさそうである。

沖縄の基地問題に関して、ようやく口を開いた鳩様のおことばにただ唖然。

「友愛」ではどうにもならない。私の心は「憂哀」だ。

死んだ魚のような彼の虚ろな目を見ていると、その視線の先には庶民の暮らしなどはまるでなさそうだ。

以下は、遡ること約2週間前のワシントンポスト原文の一部とその和訳だが、「その評価は大きく外れてはいないよなあ・・・」と改めて痛感。

しかし、それ以上にアメリカの上から目線にはムカツクのだが。


By far the biggest loser of the extravaganza was the hapless and (in the opinion of some Obama administration officials) increasingly loopy Japanese Prime Minister Yukio Hatoyama. He reportedly requested but got no bilat.

なんといっても、この首脳外交レースショーで最低最悪の敗者は、哀れにして、さらに(複数の米政府 当局者の言葉を借りれば)「ますます頭がイカれてきた」日本の首相、鳩山由紀夫だった。公式会談の要請を米国に蹴られた、あの男だ。

The only consolation prize was that he got an "unofficial" meeting during Monday night's working dinner. Maybe somewhere between the main course and dessert?

それでも、月曜夜のワーキングディナーでの 大統領との「非公式会談」をねじ込めたのは残念賞だったと言ってよい。メインディッシュとデザートの合間あたりでやったのだろうか。

A rich man's son, Hatoyama has impressed Obama administration officials with his unreliability on a major issue dividing Japan and the United States: the future of a Marine Corps air station in Okinawa. Hatoyama promised Obama twice that he'd solve the issue. According to a long-standing agreement with Japan, the Futenma air base is supposed to be moved to an isolated part of Okinawa. (It now sits in the middle of a city of more than 80,000.)

この金持ちの息子がいかにいい加減な男か、沖縄の海兵隊基地の問題という大きな懸案を抱える オバマ政権の関係者の間では、とうに共通認識となっている。鳩山はオバマ大統領に対して、2度、問題の解決を約束している。過去、長年の日米協議によって、普天間空軍基地は沖縄県内の人里離れた場所への移設が決定済みだった(この基地は現在、8万人以上が暮らす人口密集地のど真ん中にある)

But Hatoyama's party, the Democratic Party of Japan, said it wanted to reexamine the agreement and to propose a different plan. It is supposed to do that by May. So far, nothing has come in over the transom. Uh, Yukio, you're supposed to be an ally, remember? Saved you countless billions with that expensive U.S. nuclear umbrella? Still buy Toyotas and such?

それが、この鳩山の党が、もう決まった計画を見直したいと言い出したのだ。5月までに決着させるそうだが、この掟破りの成果は今のところ何もない。ユキオ?おたくの国は我が国の同盟国だったはずでは?核の傘に何億かかるか分かってますか? なのに我々にはトヨタを買えと?

2010/04/28

猿レベル

京都大学などの国際研究グループは、西アフリカのギニアで野生のチンパンジーの数十頭の群れを30年余りにわたって観察している。この群れでは、これまでに3頭の幼いチンパンジーが死んだことが確認されているが、母親は2歳半の子の死がいをミイラの状態になるまで27日以上背負って運び続け、ハエを追い払ったり、毛づくろいをしたりしていた。また、同じ母親のチンパンジーは、1歳の子が死んだ際は死がいを68日間肌身離さず運び続け、同じ群れの別の母親も2歳半の子が死んだ際、19日間、同じ行動をとっていたという記録もある。この群れでは文化的な伝統として、幼い子どもが死んだときに固有の行動をしているとみられる。

「愛情深い」あるいは「宗教的な」猿の群れのお話。

京都大学霊長類研究所は、「ヒトが死を悼み、弔うようになった起源が読み取れるのではないか」また「非常にまれで、しかも死を特別に扱うような行動」とコメントしていたが、これを聞いて不謹慎かも知れないがちょっと笑ってしまった。

これは「猿が人間のような感情を持って行動した」のではなく、「人間の弔いに関わる宗教心が猿レベルだ」ということである。

「牧師の言ってることは変だと思うが、出てしまうと葬式が心配だ」という年寄りは、各地の教会にいっぱいいるはずだ。まさに猿の発想である。

進化論もまた、己を猿レベルに貶める仮説である。「猿でいいのなら、猿でいろよ」というのが、神の答えだろう。

「無実の猿よりは、贖われる罪人であることを選んだ方が利口だぜ」というのが、私が伝えるメッセージジのアウトラインだ。

2010/04/27

家庭訪問初日

6年ぶりの担任としての家庭訪問はタイヘンだった。

「さあ出かけるぞ!」と昇降口に行けば、キンキンに入れておいたタイヤの前輪から空気が抜けている。のっけからトホホの出来事だが、気を取り直し、代わりのミニサイクルにまたがって出発した。ところが久しぶりの担任なので、知っている家はわずか2軒だけ。

「家はわからん」「時間は遅れる」「頭は痛い」と三重苦。

次が何軒目であろうが、迎える方はそうではない。一期一会の気合いが緩むと相手に失礼になる。

何とか最後のお宅を後にしたときには、軽い目眩が・・・

ふと新任の頃を思い出した。次の家がわからなくて、見上げた空も今日と同じように青かった。つくづく私は教員になどむいていないなあとしみじみ思う。人と会うこと、聴いたり話したりすることは、心身の活力を激しく消耗させる。私なんぞが、よく25年もこんなショーバイやってこれたものだ。

ひとつ大きく違うのは、あの頃オバサンに見えた母親たちが、お姉さんに見えること・・・

光陰矢のごとし。

2010/04/24

カナン教会5月の予定

予定は未定ながら、おおよその見通しは以下のとおり。

2 家庭礼拝(天理での礼拝はなし)
9 メッセージ ひねくれ者のための聖書講座⑮ 
16 分かち合い 聖餐式
23吉野での家庭集会
30 メッセージ 「エリコの戦い」(約束の地カナン⑤)

現在の月2回の割合でのメッセージは、まずまず無理ないペースで、私の健康にも良い。

毎回メッセージを終えると、「もう話すことなんか別にないや」と思うが、不思議と次回までには語るべきことが整えられる。

明日は、約束の地カナンのシリーズ第4回だ。「主の軍の将」というテーマで話すが、信仰における自己チューの問題にも触れることになるだろう。

ちょっときいてな

今年度は、Saltファミリーにとっても大きな節目である。

妻も職場が聾学校に変わった。教会に聾唖者の兄弟姉妹は来られなくなったが、身につけた手話が生かされている。下の息子は私たち夫婦が出逢った母校に行くことになり、ずっと夢だった高校野球ではなく、バスケットボールに転向した。長男は妹と一緒に再度受験する気配だが、さて、どんな展開になるのだろうか・・・・

主のなさることは深く、そして無駄がない。

私も4年2組の担任となって、新任のような気分で原点回帰。毎日疲れるが、実に面白い。

先日は参観日の国語の時間にLaugh&Peaceの「ちょっときいてな」をかけた。音読の工夫をさせようというねらいだが、親たちはちょっと固まっていた。

http://www.youtube.com/watch?v=285m8cJ2Qu8 【ちょっときいてな】

昨日は理科の時間に白衣を着て登場しただけで大いに盛り上がった。サイエンスの眼を持って予断や偏見を持たない思考パタンを身につけさせたいという願いをこめてのコスプレ。

いよいよ来週は家庭訪問。金曜日に自転車をチェック。タイヤにはキンキンに空気を入れておいた。

さて、「ぬく森の郷」に場所を移しての「新・リコーダー講座」が始まった。こちらも気分新たにとってもいい感じ。村おこしやその他のもろもろのことを考えずにすむので、荷はずいぶん軽くなり、純粋に音楽に向き合えそうだ。

来月はレギュラー参加者の銀じ郎さんの希望で、ちょっとインターバル短めだが、5月8日(土)の午後2時から、場所は「ぬく森の郷」学びの部屋にて。

2010/04/23

教会に「行く」「行かない」

教会に「行く」「行かない」の議論はそもそも不毛だ。

キリストを信じているなら、教会とは私なのだから。

私が神にとっては、「いばらの中のゆりの花」なのだ。

集まったところが、「ゆりの花束」ならいいけれど、パチンコ屋の開店の花輪みたいな造花だということもある。

造花は枯れないが香りもしない。

生きた植物なら、根をおろしてさえいれば、いのちはめぐる。

だから、行くべきところがなければ、行かない方がずっと正しい。「どこかへ行く」という発想ではなく、キリストが私を集まりの起点にされると信じて時を待つ、あるいはアクションを起こすというのが正しい。

聖書は、「何でもいいからとにかく集まれ」とは言っていない。「集まることをやめたりするな」とは言っている。それは「集まりの質を保って集まりを保持せよ」という意味だ。

教会に「行く」にしても「行かない」にしても、その先に「礼拝」があるかどうかの方がずっと重要である。

ただ「行く」ことにも「行かない」ことにもそれ自体意味はない。

「長年教会に行き続けたけど礼拝したことがなかった」というほとんど意味のわからないようなことが実際にはあまりにも多い。

聖日礼拝を守るべきかどうかも、虚しい話題である。

日曜礼拝の参加者が礼拝しているとは限らない。大声で賛美歌を歌っている人が賛美しているとは限らない。断食祈祷している人が祈っているとは限らない。

私はキリストを経由して返ってくる手応えをくれるような兄弟姉妹との交わり以外は信用していない。私たちの交わりは、「御父ならびに御子イエス・キリストとの交わり」だと書いてある。

キリスト教用語を羅列するだけの馴れ合いなんて、特に交わりとは呼ばない。礼拝とは集まることでも歌うことでも祈ることでもない。

どんな教会でも、同じ聖書を使い、たいてい似たような祈りをし、大して変わらぬ歌を歌っている。そんなことは同じ信仰の証ではない。

十字架を経ていないものは全て偽物であり、よみがえりとともにないものにはいのちがない。

2010/04/20

「おはボン」は原点

5周年目のアースデーでは、キンキ雑楽団が、壮馬が、Prinusが、それぞれに「おはよう・ボンジュール・ハロー」を演奏してくれた。今回Salt&Uribossaはビギンのリズムで演奏した。エンディングでは全員での合唱。6時間にわたる舞台にひとつの流れが出来て、演出としても成功だったと思う。

「おはボン」は、アースデーでは、いつも陰で動いてくれているY.B.M氏やつっちゃんたちと私を結ぶ曲でもあり、カフェテラスNZのイメージソングでもある。そして何よりSalt&Uribossa結成のきっかけとなったのもこの曲だ。

いろんな活動をしている市民団体のメンバーたちが、それぞれに出会いを紡いでくれたらという願いをこめて、第1回のアースデーでも歌っており、その時はクロマチック・ハーモニカのあらいなおこさんが吹いてくれたのを思い出す。

どうしても今回、「おはボン」を取り上げたかったもうひとつの理由は、最初にこの曲を録音してくれた森卓也さんの追悼のためである。彼もまたこの春に癌で急逝したのだ。

2日あけて今日は参観日。ギターを教科書に持ち替えて教壇に立つ。持っているのはギターだろうが、教科書だろうが、聖書だろうが、いつも私は変わらない。

世界に向かって語りかけることばは、復活の「おはよう」しかない。

2010/04/19

アースデー打ち上げ茶話会

若いミュージシャンたちが、自分の人生を賭けて真摯に音楽と向き合う姿を見るのは何とも嬉しいものだ。しかし、好きな音楽で簡単に家族を養っていけるほど、世の中そう甘くはない。しかし、それが難しいからといって、簡単に諦めたり方向転換をする必要がどこにあるのだろうか。

壮馬とプライナスのふたりが、熱く語っているのを見て、ちょっと心がふるえた。彼らの姿は決して愚かではない。はっきり言って、今の日本の音楽シーンで彼らよりもすぐれたミュージシャンがそれほど多く存在するとは到底思えない。それは、単なる贔屓ではなくほぼ正当な評価だと思う。

客観的に見ても商品価値の高い彼らが、人から商品イメージを押しつけられることには強い違和感を感じている。それが何とも面白い。

彼らも自分の本当のレベルを知っている。成功するとかしないとか、食えるとか食えないとかじゃなく、そんなことでやりたいこと、やるべきことが左右されてはいけないと彼らは本気で考えている。自分たちの選択について、妥協の上で安逸をむさぼっている連中に忠告されるようなことではないと心の中で叫んでいる。それは実に正しい。

川名君は言った。「もう競争するのはやめた。大事なのは心といのち。自分を裏切らない生き方であれば、それは音楽でなくてもいいんだ」と。それは、「何としても音楽を続けたい。いつかは成功するんだ」という薄っぺらな夢を見ている者のことばではない。

別れ際に、壮馬とプライナスは各々の音源を交換して再会を約束していた。とっても美しい光景だった。「人の演奏を聴いても感動することなんかあまりない」と言っていた壮馬の方から自分のCDを差し出し。マミちゃんがそれに応えた。

後ろで見ていた私は、Uribossa氏と顔を見合わせて「俺たちも右肩上がりでいかないとね・・・」と決意を新たにした。

2010/04/16

5周年

このクソ忙しい時期に、毎年恒例になった土日連続のビッグイベントのお知らせ。

「カフェテラスNZ」も「アースデーならsouth」も、ともに5周年を迎える。

いずれも何となくお手伝いをしてきたが、気がついたら相当なエネルギーを注いでいた。「頼まれると嫌とは言えない」というところも無くはないが、「期待されると期待以上をかたちにしたい」し、何より楽しいから続いている。

あと何年やれるかはわからないが、やめる理由の方が続ける理由よりも納得できそうなら、きっと自然に始まったように自然に終わっていくのだろう。「ふるさと元気村」撤退みたいに、突然思いがけずに終わりが来るかも知れない。

☆Prinus LIVE at カフェテラス NZ
~NZ5周年記念~
プライナスとは、ちょうどよいところ、バランス・調和・全体を表しています。
名古屋を中心に活躍する本格的J-POPバンド。
翌日のアースデイならSouthにも出演します。
日時:4月17日(土)15:30~場所:カフェテラスNZ(奈良市法蓮町1330-1
TEL・ FAX:0742 - 42 - 7115)チャージ:1500円(ドリンク代別)

☆アースデイならSouth2010~たのしみながら考えよう、環境のこと~
日時:4月18日(日)10:00~16:00
場所:橿原文化会館前広場(近鉄・大和八木駅下車すぐ)

内容
◎ステージ
10:00 オープニング
10:05 アクティブサポートwhat’s up?(ヒップ・ホップ)
10:20 はちみつ(コーラス)
10:50 キンキ雑楽団
11:20 楽団ひとり(大道芸)
11:50 石橋愛史 (ハワイアン)
12:10 Salt&Uribossa (ボサノヴァ)
13:00 アクティブサポートwhat’s up? (ヒップ・ホップ)
13:15 壮馬(ギター弾き語り& ジャンベ)
14:15 吉村恵美子(歌謡)
14:45 prinus(ポップス・ユニット)
15:45 エンディング「おはよう・ボンジュール・ハロー」(出演者全員)

◎リサイクルマーケット自転車、衣服のリサイクル、苔玉、手作りカバン、ステイショナリーなど
◎飲食バザーシュハスコ、無農薬梅干、サーターアンタギー・沖縄物産、郷土伝承・サナブリ餅など
◎子どもの遊びコーナー
◎一箱古本市
◎環境のみどりのハンカチ(本部企画)
※24日の「アースデイ2010 in なら」につなぐ共同企画

2010/04/14

「冥福を祈る」を常用すればいい

先日来られた宣教師のご婦人に「Saltさんはどれぐらいの漢字が読み書き出来るか」と尋ねられ、「そうですね、きちんと読み書き出来るのは2500文字くらいでしょうか・・・」と適当に答えた。今日のニュースによると、常用漢字が少し増えたらしい。これで常用漢字は2136文字になった。とすれば、いくら何でも2500くらいなら何とかなるだろう。三鷹市の市長が「鹿や熊が常用漢字になったのに鷹がはずされるのは合点がいかない」と話していたのが面白かった。

「あの字をはずそう」「この字を入れよう」というようなことは、文化審議会国語分科会の漢字小委員会というところが決めるらしいが、おせっかいなことだ。

「常に用いる」って何だ?

この「常用」は「携帯」と似た響きがあって何となく信用出来ない。

「携帯電話」を略すなら正しくは、「携帯」でなく「電話」だろう。「携帯」するなら「傘」の方が歴史がある。でも、「携帯傘」を「携帯」とは言わないだろう。私の母は、携帯をほとんど携帯しない。持つのが重いのだそうだ。母の携帯はリビングのテーブルの同じ場所にいつも置いてある。そして時々孫とメールをやりとりして満足しているのだから、そんなものを「携帯」と呼ぶのは奇妙に思える。

まあ、そんなことはどっちでもいい。母の使い方もそうした道具の呼び名でも、みんなが呼ぶように呼ばなければ、感覚を共有できないではないか。だから、私も電話に出たり返信したりが面倒臭いときは数日にわたってあえて携帯しないこともあるが、「時々ケータイ」とか「気まぐれ電話」とは言わずに、世間の例にならって「ケータイ」と呼んでいる。

表現やことばについてこだわるというのは、本質的にそういうことではないのだ。

教会が「エクレシア」であることは知っている。「エクレシア」はもちろん「教える会」ではない。でも、カナンエクレシアではお菓子屋さんみたいではないか?別にカナン教会でいい。そんなところでこだわりを見せてもしゃあないのだ。

違いをわかっていることは大切だ。しかし、それを抱き込みつつ、きちんと分別していることが大人の態度である。

若者のことばの乱れが・・・言葉の使い方が・・・・どうのこうの、本当の意味はかくかくしかじかと、蘊蓄をたれる人は何処の世界にもいる。しかし、ことばなんか所詮は記号なのだ。どっちが正しい記号かというようなことは愚かな議論だ。大事なことは、「なぜ本質が別の記号にスライドしたか、そのズレが本質の捉え方にどんな変化をもたらすのか」ということだけ。

「冥福を祈る」という言葉がある。リクエストがあったので、面倒くさいけど、「・・んなこたあ、どっちでもいい」ということを言うために無駄な蘊蓄をたれてみる。

冥福とは厳密に言えば、冥土における幸せのこと。冥土とは死者が亡くなってから49日間さまよう場所のこと。仏の道においては、生前の行いを裁かれ、次の世界を決める場所であるとされる。大乗仏教である浄土真宗十派では死んだ瞬間に即得往生で仏の仲間入りをするので、他宗の様に冥土の旅そのものが存在しないので、その最中の幸福を祈るということはそもそも意味が無い。

「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」というわけだ。「真宗なおもて冥福を祈らず、いわんやキリスト信仰をや」ということなのだろうが、「仏教用語じゃないのか」という指摘の中でも、このように教義は分裂しているわけだ。

「普通の感覚」だとこの辺りでどうでもよくなってくるはず。

だから、普通の「死後の幸福」という程度の意味で使っているのなら、クリスチャンが「冥福を祈ります」と言っても別にかまわないと思う。クリスチャンが「多分信じていないだろうな」という人の死に際して使うふさわしいことばが他には見当たらないでしょう。

死んだ者はいくら祈っても甦らない。人が死んだら誰であれ、死を悼むのが常識。時として歪んだ信仰は人を無神経で不謹慎にする。

私は食前にとってつけた祈りはあえてしないが、給食の前には子どもと一緒に「合掌」する。別にパンやおかずを拝んでいるわけではない。

「冥福を祈ります」は、亡くなったときの、良くはないけど、悪くはない決まり文句だと思う。キリスト教の手垢にまみれた表現よりはよほど自然なことばだと思う。

それよりも、唯物論者こそ、自分たちの持論にふさわしい弔いや慰めのことばを考えればいいと思う。「死んだら終わり。死後の世界(霊界)も輪廻転生もありえない」と信じる人は、代わりにどういう言葉を使うのかを聴いてみたい。

2010/04/12

2匹の魚と5つのパン

やらなければならないことが山ほどあるが、どこから手をつけようかと思案する。思案するうちに喫緊の課題が迫り、取りあえずはそこから・・・という繰り返し。あまり良いリズムではない。

今年は2月から飲み始めた漢方薬のおかげで花粉症のダメージは軽いが、大切な友人知人の死や子どものダブル受験に加え、仕事の役割や元気村撤収などの環境の変化もあり、春先の体調は最悪。

昨日も教会にはたくさんのゲストをお迎えしたのだが、肩こりと頭痛がひどくて、きちんとメッセージが出来たのか、まともな受け答えが出来たのかかなり不安が残る。

しかし、こうした様々な制限があることは幸いだ。時間も、能力も、意欲も、健康も、すべてに満たされ、豊かに溢れていることなんてまずない。私たちがどういう状態であろうと、ただ主にあるからこそ、私たちの手持ちの力である2匹の魚や5つのパンが役に立つ。

2匹が1匹でも、5つが3つでも問題ではない。私たちがそれを喜んで主に差し出し、主がそれを裂いて祝福してくださるかどうかが鍵なのだ。

追記
(昨日来てくださったみなさん、右目を腫らし、口は半開き、肌つやが悪く、無愛想なSaltですみませんでした。本当はいろんな点でもうちょっとだけマシなんです。)

2010/04/10

折りしも、オネシモ

昔コロサイの町にピレモンという人がいた。彼はオネシモという奴隷を所有していた。詳細は明らかにされていないが、オネシモは主人であるピレモンに何らかの借りのある状態で逃亡する。その後、オネシモはパウロと出逢い信仰を持つ。パウロはこのオネシモをピレモンに送り返し、主にあって兄弟として迎えるように促す。(ピレモンへの手紙)

長男の大学受験の件ではいろいろと励ましのコメントをいただいたりした。

はからずも父としての情を醸すような文章を書いてしまったが、実はその後の展開の中で、大いに教えられることがあった。

主の不思議なお取り扱いの中で、私は「父」として「教師」として、根本的に駄目出しをいただいた感じを持っている。それは、とても苦く甘い経験だった。

親子は主人と奴隷ではない。そんなことは当たり前だ。しかし、子どもが親に対して妙な「負い目」を感じているようであれば、何かが違っている。

私は何があろうが、子どもが「健やかな状態」でいられるように育てて来たつもりだったが、いくつかのダメージは彼から「健やかさ」を奪ってしまった。


私は彼を「主にある兄弟として」(ピレモン16)迎えなければならない。けれども、私は心の何処かで課題を先送りしていた気がするし、そういう感覚は正直あまりなかった。

彼の問題は何であれ最終的に私が責任を持ち解決してやる覚悟でいたし、それが正しいと思っていた。だが、どう考えても私には初めからその力がない。

「父」として「教師」としての私が、無能感、無力感、自己嫌悪に襲われる。

「彼は私の心そのもの」(ピレモン12)と言えるような子どもであって欲しいという願いと現状との大きなギャップ。

しかし、ピレモンは、「パウロの助けによって」オネシモを永遠に取り戻す。

「彼(オネシモ)がしばらくの間あなた(ピレモン)から離されたのは、たぶん、あなたが彼を永久に取り戻すためであったのでしょう」(ピレモン15)

このみことばは私を深く慰めた。まさに「折りしも、オネシモ」という感じ・・・

アブラハムは約束の子イサクを捧げて再び取り戻す。

「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです」(ヘブル11:19)

このみことばは、かつて恋人であった女を妻として取り戻す時にも私を支えたことばでもある。

私はきっと息子を取り戻すだろう。それは受験や進路がどうしたとかいうレベルのことではない。

信仰とは・・・
礼拝とは・・・

理屈や概念ではない。それは、「今、生きること」であり、「今、選ぶこと」であり、「今、委ねること」だ。あらゆる場面で主を主とすることは、キリスト教の牧師の説教のように簡単ではない。

2010/04/09

すぐ手の届くところにある真理を拒む心理

人は抽象的で複雑な議論を好む。

深い葛藤や苦悩も意外にけっこう居心地が良かったりする。

それは最も敵の得意とする領域でもある。

かつては、私も風車に立ち向かうドン・キホーテの如く、敵の何たるかも知り得ぬ状態で自力でねじ伏せようなどとも考えたが、そういう発想自体が敵の思う壺。

答えはいつもあまりに簡単。この簡単な結論に一筋に思いを向けるのが難しいだけなのだ。

つまり「聖書にこう書いてある」と宣言すること。これに尽きる。

しかし、人が心からこれを宣言するには、私たちのプライドは高すぎ、少しは物を知っている。

だから殆どの人たちがたった10日ばかりの道を40年もさまよって、結局「約束の場所」に至らないといったことが今日も同じように起こるのである。

2010/04/07

4年2組始まる

4年2組の担任の先生として1年のスタートをきった。

それにしてもよくこれだけ次から次からやることがあるなあとびっくり。

いっさい工夫せず、ほとんど努力しなくても、ただ雑にこなすだけでも十分面倒くさい。

もともと学校にいること自体がそんなに好きではないので、全然やる気はないのだが、これだけ面倒くさいことをやりながら、何の工夫もせず、いたずらに時を過ごすことにはもっと耐えられないので、結局いつもあれこれ仕掛けをしてしまう。これはもう性分なので仕方がない。

さて、26人の子どもたちと対面。目の前に子どもが出て来ると、やはりエンジンがかかる。どいつも、こいつも、みんななかなかかわいいじゃないか。休んだ子にもその日のうちに教科書を届けてやろうと家庭訪問。

学年だよりの各担任からのコメント欄には、「楽せず、楽しく」とひとこと。「楽」を覚えたら、「楽しみ」なんかなくなる。子どもに楽させてはいかん。教師も楽しようと思ったらいかん。

今日はこんな話をした。
「アルファベットは26文字。26文字の組み合わせですべてのことを言い表せる。これってすごいことです。逆に一文字欠けても言えないことがある。26人いるということはそういうことだよ。」

子どもたちは、ふーんという顔をして聴いていた。

さて、彼らと一緒にどんなドラマをえがくことになるのだろう・・・・

2010/04/04

ワラシはワタシ

さて、ふるさと元気村を出た創作実験工房「童」だが、私は別に荷物の置き場に困るくらいで、よく考えてみれば創作実験工房「童」というのは、ふるさと元気村2番教室の名前というよりは、私自身のことなのだ。

工房名をつける時は、ずいぶん悩んだが、「童」と書いてワラシと読ませた。昔風、田舎風の子どもの呼び方である。呼び方だけでなく、子どもは昔のように育たないと田舎っぽい環境で育たないと駄目だと思っている。子どもは緑や水や風のない町でまともに育つはずがない。

「童」という字は「里の上に立つ」と書く。それが気にいったのだ。さらに「童」という字は土の上に音が重なっている。まさにsound of earthではないか。しかも、私は3人の子持ちで男の子も女の子もおり、おまけに小学校の教員である。このネーミングは今でも最高だと思っている。

私が生きている限り、創作実験工房「童」はつづく。

というわけで、今月のリコーダー講座は、場所を室生ぬく森の里・学びの部屋に移して実施することにした。

4月24日(土)10:00~12:00

http://www.city.uda.nara.jp/nukumorinosato/index.html【室生ぬく森の郷】

しおどき

今日は、SiGNの写真茶話会に行く予定だったが、引っ越し先のない工房の片付けに追われた。

一枚一枚絵をはずしながら、一枚一枚を同じ絵をかけていたときのことを思い出した。

キリスト教徒にとってはおよそどっちでもよさそうな「村おこし」に関わったのには、私なりのちょっとしたこだわりがあった。

どこの村や町に行っても、その集落に住む人を無視して、ひたすら「教え」や「文化」を押しつけてきた世界宗教としてのキリスト教に対して、私は強い反発を持ち続けているからだ。この世に厚顔無恥のおせっかいほどウザったいものはない。それをわが主の名と権威をもって人殺しまでやるのだから、赦されようはずがない。

アメリカの星条旗信仰を批判して教会を追われたから根にもって恨んでいるわけではない。ただ、イエスはそういうやり方は決して好まれないという確信があるのだ。そうした熱心は正しい知識によるものではない。

室生での村おこしにおいて私が自分に課したテーマは、「何もない村にある価値を相対化すること」そして、「参加者にアートを通して体感してもらうこと」だった。私は「価値を相対化出来る力」や、「自然のうつろいを味わいアートを楽しむ心」は福音の種を育てる土壌だと思うからだ。

集団の中に溶けこもうとしても、やはり私は溶け残る異物であったという証明を得たことは、当然の結末と言えばそれまでなのだが、みんないい人ばかりなので、気持ちは多少複雑である。

片付けの合間に食堂でうどんを食べていると、「またたっぷり時間が出来たら、戻ってきてください。待ってますから」と館長の奥さんが声をかけてくれた。

関係者の方々は、私が出て行ってほっとしておられるだろうし、反面、まさか出て行くとは思っていなかっただろうと想像する。彼らが組織として私に出した提案は、「妥協」を迫ると言うよりは、「交換条件」という程度のもので、普通の人ならまずOKしている程度のことだったからだ。

しかし、この提案は、私にとっては潮時、まさに「塩時」を教えるものとなった。ちょうどこの話に前後して4月からは6年ぶりに学級担任に復帰することが決まった。どんなに時間をうまく使っても、管理運営上の規則を守れそうにはない。

工房運営に関しては、やはり自分の力量不足を痛感した。「忙しい」「しんどい」は言い訳にならない。複数の人をみんなに気持ちよく動いてもらうのは難しいし、経済をまわすのも大変だ。でも、もう少しうまくやれば不可能ではなかった。まだまだ何処かに甘さがある。いつかまたどこかで何かを始めるとしたら、その時の良い準備になった。

2010/04/03

さらば「ふるさと元気村」

2007年、私は「ふるさと元気村」の常設アーチストとしての招きを受け、創作実験工房「童」を立ち上げた。そこで数々のワークショップを企画・主催してきた。

現役の勤め人が、さびれていく地域のために貢献できることは何かないだろうか。そんな小市民としての正義感に燃えて立ち上がったのである。アートと癒しと村おこし、けっこう面白いテーマである。

「ふるさと元気村」は廃校になった田口小学校を文化芸術活動体験交流施設として再生させたものだ。

私の生業は「世間が狭い」などとしばしば揶揄される学校の先生だが、私には誰にもそんなことを言わせない幅拾い分野の友人たちがいる。しかも、それぞれの道の達人も少なくない。こうした出逢いを、ただ私が面白がっているだけではもったいないと思ったからだ。

アトリエは、最初から自己実現の為の制作の場所ではなく、何でも出来る実験工房としてスタートさせ、私が教えるのではなく、それぞれの道のプロに来てもらって、間口が広く奧の深いワークショップを体験してもらうことにした。私はコーディネーターに徹し、講座の時は、私も生徒としてお金を払って参加するスタイルをとった。

他の工房は、それぞれに「陶芸」や「竹細工」や「一閑張り」や「切り絵」をしておられるのに対し、私のやっていること、やろうとしていることは、初めからまるで性格が違う。
他の人は大体、毎日来られて工房を開けているのに、私は月に数回しか来ない。

月に2回の講座も1日にまとめて、午前と午後にしている。この講座の質と成功にかかっているわけだ。しかし、雪の多い冬場は期待するほどの参加者が見込めない。せっかくの企画にも少人数の参加者では申し訳ないので、2009年からは苦肉の策として、自らが講師となってリコーダー講座を始めた。これは参加者が少なくても自分が講師なら気を使わなくてすむという極めて後ろ向きな理由で始めたのだが、これがウケた。伴奏者としてmomoちゃんが来てくれてからはますます面白くなり、神戸でも出張講座が開かれた。これなら、まだまだ続けられそうだ。そう思って、この春からも契約を更新しようと思っていた。

ところが、皮肉にも元気村全体の活動も活発になり、また宇陀市の管理が強化されることで、講座の日以外は閉じられている私の工房のあり方について、いろいろな意見も出るようになった。やはり、組織が妙に機能し始めるといのちの働きを損なうのである。

館長さんや、工房を取りまとめる代表者の方は、私が音楽室を自由に使えるようにして、元気村に残れる道を考えて、新しい提案をしてくださってはいたが、何回かに渡る話し合いの中で、彼らの善意とともに、一番根本的なところで「私がそこにいることの意味や価値」がほとんど伝わっていないことを感じることとなった。それで、互いの違和感が限界に達する前に、工房をたたんで元気村を出ることに決めたのである。

初めから自分の居場所や自分のやり甲斐を求めて始めたわけではないので、寂しさはほとんどないが、「そんなもんなんだなあ・・・」と思う。私がここにいて活動していることを励みにしてくださっていた方々には少し申し訳なく思う。

この3年足らずの間に、本当にいろんなところから、いろんな方が来てくださって、実に楽しかった。かなり濃密な想い出が出来た。改めてスタッフや協力者の皆さんに感謝したい。

「こけ玉づくり」や「ビオトープ」や「寄せ植え」など、子どもから大人まで幅広く取り組める内容で、植物の魅力を再発見させてくれた「植物屋・風草木」のJunpei君。

「流木アート」や「ダッチオーブン料理」でアウトドア魂を見せててくれた理想工房Craftのつっちゃん。

私をもうならせた圧巻の「デジカメ連続講座」で自分自身写真熱に再び火をつけてしまうことになったSiGNのY.B.M氏。

「アロマの香り」で工房を別の空間に変えてしまった「CalmDays」のイソカイさん。

たくさんのスタッフを引き連れて、「さをり織り」を明るく楽しく指導してくれた「アトリエSUYO」のすーちゃん。

私の企画展「44eyes」のために特別に額を制作し、「青空工房」でたくさんの仲間を呼んでくれた「wood Craft空sora」の松永さん。

素敵な宿を提供して、いつも仲間をもてなし、私を励ましてくれた「栗の木の家」の竹本さん。

旅の音楽家丸山さん、笛吹きの野田さん&赤星さん、そして相方のUribossa氏と姪っ子のMomoちゃん。そして、陰で支え応援してくれた妻と子どもたちに感謝している。

2010/04/01

走り寄る愛

互いに肉体という弱さや制限を負いながら「イエスを共有している」ということの価値、この時空にあって永遠の今を生きていることの素晴らしさを思う。

主が与えてくださる出逢いとそのタイミングはいつも人知を遥かに越えている。交わりは、確かに主よってつながれている。

ヨナの頭上には「とうごま」が、ザアカイの足元には「いちじく桑」が備えられる。そして、アナニヤやパウロに、コルネリオはペテロに会いに行く。

しかし、クリスチャンは「宣教」とか「伝道」のために生きているわけではない。「生きることがキリスト」であるから、死ぬことも益なのだ。キリストではない事業を目的にするといのちを失う。教団や教会という組織による囲い込みの無意味と無力を笑おう。

この世における成功にも失敗にもそれ自体には意味はあまりない。「今どこにいて何を見ているか」大切なのはそれだけだ。

もし主を正しく主とするなら、私たちは祝福から逃れることなど出来ない。私たちが自らの重さで何処まで堕ちてもさらに主は低いところで受け止めてくださる。闇が深ければ深いほど光はその輝きを増す。

今日は走り寄る父の愛を感じ、胸いっぱいで過ごすことが出来た。準備されるのは、ぴったりの服、ぴったりの指輪。ぴったりの靴。

2010/03/30

奇跡より軌跡

ゆばるさんのご子息の大学が、これからわが息子がラストチャレンジしようとしている学校だとわかって、私は本当に驚いた。主がゆばるさんのご家族を遣わしてくださったのだ。それは気持ちがキレかけていた息子にとっても大きな励ましになった。

「もしかしたら、これはイケルかも・・・」と思った。

「奇跡は鈍い奴のためにあるんです」「エジプトであれだけ奇跡がなければ民は出て来れなかったでしょう」と電気やさん。確かにそのとおりだと思った。

電気やさんのことばを聞いて、「私は鈍い奴なので、きっと今回は奇跡がおこるぞ」と、妙な自信も得たのだが・・・

どっこい、そうはいかなかった。

今回、息子は「合格するよりもさらに良い結果」となったわけだが、なかなか生身のSaltファミリーにとっては、それはかなり厳しいものである。

単なる合否ではなく、息子なりにこれまでいろいろと辛い思い(勉強のことではなく)をしてきたので、今回ばかりは最後の最後に逆転劇があるのではないかと期待していた。何とかちょっといい思いをさせてやりたかった・・・・というのは浅はかな親心。

しかし、さらに深い愛と知恵は、息子を奈落の底へ突き落とす。

私たちの信じる神には、御利益などまるでない。

なぜなら、イエス御自身が祝福の中心であるから。

私たちはこの御方に触れることなしに他の何を得ても無意味である。逆に、この御方に捉えられていれば、私たちはすべてを得ているのである。

ここ数年の間に、大きな喪失や、思うままにならないことをいくつも続けて体験する中で、改めて「私たちにとって主はどなたであってどんな方なのか」をしみじみと味わっている。

しかし、一連の決して望んではいない厳しい現実の中で味わっているのは、「見放された」という失望感ではない。むしろ「私たちは覚えられている」という甘美な喜びである。私たちは「祝福を失った」のではなく「祝福のただ中にある」ということだ。 御自身の掌に刻まれ、ひとみのように守られているということなのだ。

そんな「あたたかいしるし」が、私の落胆や失望をはねのけて、私の心の奥底から溢れ出てくるのを経験している。これはとても不思議な体験で感覚だ。それは辛くて悲しくて、押さえきれないほどの感情を伴いながらも、なぜかその傷口からキリストの香りがするのである。

電気やさんからいただいた手作りのスパークリングワインを飲みながら、交わりの中で「葡萄はつぶされて発酵することで腐らない(永遠のものになる)」と話していたことを思い出した。

私は未だ些細なことに一喜一憂する小さき者にすぎないが、神が真実な御方であることはちゃんと心得ている。

クリスチャンにとっては、奇跡よりも主に従った軌跡が大事。見ずに信じる者は幸いである。


【追記】
家族のために祈っていただいて本当にありがとうございました。多くの励ましのことばに心から感謝します。

2010/03/28

マジ、ワリィってカンジ?!

今日は教会としての礼拝はなかったが、長野県戸隠から電気やさん御夫妻が訪ねてくださったので、半日ご一緒させていただいた。教会でともに礼拝することもすばらしいが、こういうプライベートなゆるーい交わりは、また違った味わいがあって良いものだ。

電気やさんはブログでのイメージどおり実に面白い方で、黙っていれば一体何屋さんだかわからない正体不明なところや、コメントにも見え隠れしていたしっかり者の保護者的な奥様がおられるところ、そして紆余曲折の信仰の経歴・・・等々、私ともいくつかの共通点があって話も非常に盛り上がった。

「引き出しはいっぱいあるが中身は空っぽ」などとトボケながら、豊富な経験の中から次から次へといろんな話をしてくださったので、あっという間に時間が過ぎた。こうして与太話を繰り広げつつ、リアルでコアな交わりが出来るのは実に楽しい。私からは大して実のある話は出来なかったので、せっかく来てもらったのに、マジ、ワリィってカンジ?!  

さて、今回電気やさん夫妻が宿泊を予約されたのは、室生唯一のB&Bで、奇しくも私の古い知人でもある西峯さんのところ。実は彼女と私は農水省の役人らとともに、ドイツとイギリスにグリーンツーリズムの勉強に行かせてもらったことがあるのだ。西峯さんは「黙ると死んでしまう」とご自分で言われるほどエネルギッシュな方で電気やさんをも時々沈黙させるほどのパワー。

ここでちょっと「B&Bにしみね」のご紹介を・・・

B&Bとはbed&breakefastのこと。
宿泊は里帰り感覚で泊まれるどこか懐かしい和室。ロケーションも抜群でまるでおとぎ話の風情。くつろげるリビングにはカリンの壁面にテーブル、アップライト・ピアノ。最近は殆ど目にすることもなくなったタンノイの巨大スピーカーでクラシックが堪能できる。

http://www.pref.nara.jp/miryoku/nouka/tomaru/nishimine.html

http://web1.kcn.jp/bb_nishimine/


そしてもうひとつ。

今日は、ゆばるさんのところへリチャードさんたちが行かれたようだ。これも何だか嬉しいニュース。

http://aohiko.seesaa.net/

私も、西へ東へあちこち飛び回りたいところだが、4月からはさらに忙しくなってしまいそう。う~ん、悩ましい。

2010/03/27

桜咲く日

私はあまり自分の弱みを吐露しないこともあって、鉄の心で何でも受け流して、何もかも上手くやっているように思われがちだが、それは事実ではないので、ちょっとだけ告白しよう。

たかだか学校の合否になんでこんなにヤキモキするのだろう。

学生時代にはテストにも入試にも全く無関心だった私が、子どものことを必死になって心配している。あるいは、「学歴」や「学力」という物差しをとことん嘲り続けた罰であろうか。

子育ての中では、「自分の中にこんな感情が眠っていたなんて・・・」と自分でも驚くような心の動きを経験する。私は自分に関する悩みや心配が殆どないので、家族のことで悩み心配させられているわけだ。

私は一人ひとりの子どもたちに対する神の最善のお取り扱いを信じている。しかし、こうした感情は、霊的な平安とは別の次元で絶えず動いている。実はこれはとても幸せなことだ。家族がいるからこそ、ドキドキワクワクできる。こうしたちょっとマイナスに思える感情が信仰によって消え失せるとしたら、何と味気ないことよ。だから、同じような悩みを抱えるみなさん。強がることはないのですよ。おおいに主の前にありのままの不安や不満をぶつければいい。

正直、子どもをどんな風に祝福してくださるのかわからないことには不安がある。そしてそれは本人にとって喜ばしくない受け入れがたい事実であることも少なくないということを経験的に知るようになると、よけいにあれこれと考えてしまう。すべてが明らかになるには時間がかかる。生きている間には誰にも意味がわからないことさえあると思う。

アブラハムが約束の子イサクを得るまでにどれだけ待っただろうか。周りの女たちにはどんどん子どもが生まれているというのに、約束をもらったはずの自分のところには、その成就がない。これは絶えず今を生きるしかない生身の人間にとってはキツイ試練である。

だからこそ、待たされることには意味があるのだろう。また、目の前の事実が望みや約束を打ち消しているかのように見える最中に主に対する信頼を告白することは、確かにすばらしい生贄であろう。この期間に誰が主であり、祝福の本質とは何であるのかを問われ続ける。そして、約束のものを得てもなお、その祝福をいつでも手放せる自由を持っていることが求められるのである。理屈は簡単。教訓は具体的な苦しみや痛みには何の力もない。

しかし、息子のことで悩んでいるのは私だけじゃない。妻もそして子どもたちもそれぞれの立場で苦しみをともにしている。この一体感を作っているものこそ合否よりも遥かに尊いものだと思っている。

妻を得たとき、私は実存として安定した気がした。平たく言えば、ずっと片方しかなかった靴が両足そろった感じがした。

そして、3人の子どもを得たとき、その靴があるのは、「約束の場所」を目指して家族そろって歩いていくからなんだとわかった。

子どもたちの成長は家族の成長である。すべての家族の源である天の父がすべてをご存じで、必ず良くしてくださる。

霙まじりの冷たい雨が降っている。曇り空の下の桜の木は二度と花など咲かないかのようにも見える。でも、そんなことはない。桜は己が咲く日をじっと待っている。

明日わが長男は今年度のラストチャンスに賭ける旅に出る。結果はどうあっても、私は主を賛美しよう。合格なら良し。不合格なら合格よりさらに良し。これが現在の私の信仰告白である。

いずれにせよ、今年の桜は今まで見た中で一番美しいものになるだろう。

息子の面接の為に英語の特訓を引き受けてくれたMomoちゃん、もし読んでたら、ホントにありがとう!

2010/03/26

ココロのビョーキ・ジンカクのショーガイ

ただわがままで身勝手なために周囲と折り合いがつかなくなって、落ち込んだり居場所を失ったりすることによって、心の中が何だかモヤモヤする・・・なんてことはどこにでもある話。こうした自業自得の不快や不具合をココロのビョーキやジンカクのショーガイのせいにしてしまうのは、「ズルい」と言うか何と言うべきか、とにかく私はあまり好きではない。

適当な診断名をつけてもらうと、「こうなったのは、私ではなくてビョーキやショーガイのせい」という納得が出来る。こうしてビョーキやショーガイの周辺の人たちは自分のビョーキやショーガイに依存し続ける傾向を生む。それほど「よくなりたい」とは思わない心理が働くのである。むしろちょっとかわいそうな自分でいたいのだ。

ビョーキやショーガイを利用するのは当人だけではない。通常の因果関係を超えた理解不能の事件が起こると、悪いのはその人ではなくビョーキやショーガイがそうさせたのだということになり、ひどい場合は、人を傷つけたり、殺したりしてもお咎めなしということさえある。

学校においても、自分では手に負えない子どもたちにショーガイのレッテルを貼って、「ショーガイだからショーガナイ」と納得する教師も少なくない。

人というのは、「物事を自分の認知の枠にはめてその因果関係を納得したい」という物凄い欲望を持っているのだなあとつくづく思う。

しかし、それが間違った納得であることは簡単にわかる。特に殺人事件などは、「ビョーキやショーガイの人が犯して放免された罪の始末はいったいどうなるのか?」という被害者の心の切実な叫びがお手軽な納得を覆す。

「少年がどこまで少年なのか」が曖昧である以上に、病原菌も見つからず、レントゲンにも映らないココロのビョーキやジンカクのショーガイは非常にデタラメなカテゴリーなのだ。

「専門家でも詐病はなかなか見抜けない」と専門家が語っていた。診断は時にデタラメであっても、その証言は本当だと思う。自分はビョーキじゃないと意識してビョーキを装う病的セイカク。不幸なことに私はこういう人を何人も知っている。

さらに、教会には本物のビョーキの人もやってくる。私もいろんなツワモノを相手にしてきたが、良い結果が出たことほとんどない。それは私のせいかも知れないが、その可能性はあまり高くはない。主がご存じだ。

ビョーキの人は簡単に悔い改めない。強情でいつまでも意地を張るからビョーキになり、ビョーキであり続ける。

どこまでが自業自得で、どこからがお気の毒で、何が主の恵みなのかは簡単に他人がとやかく言うべきことではない。私も謙遜を装って口をつぐんでいるわけではないが、正直、私はわけがわからない。こんな狂った世の中で、どこまでも正常で健常であり続けることは難しいことだと思う。

正常って何?健常者って誰?と問いたい気分だ。本当に健康な人なんて宇宙飛行士の数より少ないのではないか。本当に健康な人を義人と定義するなら、「それは存在しない」と聖書は言う。

信仰がなければ、私は確実に死と狂気と背徳の世界に仲間入りしていたはずだが、己のズレや欠けを感じるのは、どこかにマトモがあるからだと思った。神は疑ったが辛うじて「マトモの存在」はココロのどこかで信じていた。

「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく病人です」というイエスのことばが胸に沁みる。これはマトモなコトバだと思えた。装うのではく、「あなたの患者です」と言うことが出来た。

2010/03/25

神のまなざし

今週のメッセージ『ヨルダン川を渡る』の中に出て来た「自分ではない自分を演じることによって、心が空洞化してしまう」「よい子が引きこもる」という部分に反応があったことが後の交わりの中で少しずつわかってきた。

それぞれに自分の経験や現状に当てはめて振り返ってくださったからだと思う。複数の兄弟姉妹からそうしたお話を聴いて、私になりにいろいろ思うことがあったので簡単にまとめてみたい。

人はなぜ「よい子(人)」でありたいと願うのか。

それは他者からの承認を得るためである。
「なかま」や「権威筋」からの承認を得るためなら、自分では納得のいかないことや、やりたくないことまで、人はやり続けるものなのだ。

「よい子(人)」であろうと志向するエネルギーや環境が整っている人はその方向で努力するし、逆に、それとは反対の環境にいる人は、あえて「悪い子(人)」であろうとする傾向を持ちやすい。

それは、人は本来別に「よく」も「悪く」もなく、ただ善悪の木の周辺へと解き放たれているという証拠なのだと思っている。いずれも承認を得るための行動であると見ると理解しやすい。承認を得ることによって得るものは、「善」でも「悪」でもなく「快」なのだ。

「よい子でいよう」「周囲に期待される自分でいたい」と思うことが悪いことなのかと言えば、そうではない。「快」を得るための道筋としては、「悪」よりも「善」を志向することの方が正しい。それは「快」はそれ自体が悪いものではなくよいものだから。

人間の成長や人格形成には、そうした「養育係」は必要なのだ。ここでは詳しい説明を省くが、聖書をよくご存じの方は「養育係」ということばが「律法」に対して使われていることを思い出されたと思う。「善」を目指しても「快」は得られないことを知ることにのみ、それを希求する価値があるというのがパウロの論である。

果たして「自分らしい自分」はどうしたら獲得できるのか。「自分探しの終わり」はどこにあるのかという問題につきあたる。

「あるべきクリスチャンの姿」などを目指すと、とんでもなく醜悪な偽善者を生む。そんなものが「自分らしい自分」ではないことは明らかだ。

クリスチャンは、「自分らしさ」など決して求めないことだ。何者にもならず、何事も成し遂げようとはしないほうがいい。ただ主に愛されている私を単純に受け入れれば、「私らしさ」が見えてくるはずだ。それは、教会の組織をまわすための役割とイコールであろうはずがない。そんなものに生き甲斐ややり甲斐を感じてはいけない。

ポイントがひとつあるとしたら、「人のまなざし」ではなく、「神のまなざし」を意識することだろう。

こう書くと、神は「私が~であれば、・・・なまなざしを向けられるのでは」と考えがちだが、それは違う。神はいつも変わらない。心の空洞はこの御方以外の何かによっては埋めようがない。

私たちはこの御方(われわれ=三位一体の神)に似るように(そのイメージで)造られたと書かれている。

いつも最高の愛で愛されている私の姿を信仰によって見ることだ。生き甲斐とは何かをすることではなく、キリストのうちにあることだと知ることだ。私がやることはすべてやり甲斐に溢れすばらしい価値がある。つまり、自分の何気ない行為も主にあっては誰かの役に立っているのだとわかるからだ。

2010/03/23

出会い系サイト

自分を棚に上げて申し訳ないが、正直クリスチャンを名乗る連中とは誰とも会いたくないし、新たな出会いにも何ら期待もしていない時期もあった。

「あなたはクリスチャンですか」と問われたら、「あなたが考えているようなそれではない」という言い方しか出来ない時期があった。どう答えても誤解されるのなら、間違って理解した気になられるよりは、理解されない方がマシだと思っていたからだ。

私は心の中でずっと主に訴えて続けていた。「みことばが約束している『傷なきしみなきキリストの花嫁』なんていったいどこにいるのですか?キリストのフィアンセを自称する女は、結婚式に備えるどころか、まるで、バラバラ死体遺棄事件みたいになってるじゃないですか、各地で肉片の朽ちる腐臭が立ち上っています」と・・・・

そんな渇きを、主は私が思ってもみなかった方法で満たしてくださっている。それはインターネットという10年前には見向きもしなかった手段を通じてである。主は真実であり、主のなさることは、私の想像をいつも遥かに越えている。

とは言え、私はネット社会を単純に肯定しないし、未だにネットには懐疑的で、一定の心の距離を置いている。不愉快な要素も危険も不安もいっぱいある。「好きか嫌いか」と二者択一を迫られるとしたら迷わず「嫌いだ」と答える。しかし、これほど素晴らしいことが続くと、私の心もだんだん緩んできた。

ネットでの配信をしなければあり得なかった交わりが現在ある以上、飛行機は嫌いでも外国に行きたければ空港へ向かうようにPCの前に座るようになった。「大嫌い」が「それほど好きじゃない」くらいになった。

私のHPがまさに「出会い系サイト」となって、リアルな兄弟姉妹たちが次々に私の前に現れるのだ。いわゆる「教会」をエクソダスした人もいれば、中には一回も「教会」に行ったことがないという人までいる。家族そろってお付き合い出来る方や、そうした出会いがもとで本当に結ばれたカップルまで登場した。

ここ数年、ネットを通して働かれる主のわざを見続けている。それは、私の渇きと叫びに対する思いがけない答えであったことが、また嬉しい。

ただ私が知らなかっただけで、主は各地に御自身のしもべを育てて守っておられるのだ。私は主の前に思い上がった渇きを訴えたことを恥じることが出来るまで、いろいろな出逢いを与えてくださった。

各地の人手によらぬ交わりが、この世では決してひとつのかたちを持つことなくても、やがてひとつの大きな喜びにつながっていくことだろうと思う。

2010/03/19

Saltが考えるプロフェッショナルな教師②

本来、小中学校の教員こそprofessionalなライセンスでないといけないと思うが、残念ながら、その養成課程も採用もその職責の重さにふさわしい人材を育成し登用するシステムにはなっていない。公立の小中学校の教員レベルでは、大学教授が持っているような学問的にも時間的にも自律性が保証された身分ではない。

社会的地位も低いが、それには教職員組合の卑屈な価値観と主張がいっそう自分たちの立場を悪くしている。教師が己を労働者と規定したことは、自らその職責を軽んじた宣言だと受け取られかねない。

高い職能を必要とするシステムが、すぐれた資質をスポイルするような連帯を内部に作りあげるのは大きな問題を孕んでいるが、本質的な改善を望むのは不可能だと見ている。

子どもと関わっている時間に自分の権利を主張すること自体がすでに敗北である。

出る杭は必ず打たれる。
打たれる前に引っ込む器用さは私にはない。
「飛んでいる杭は打たれない」と言うが、飛ぶと組織からはみ出てしまう。
これはいただけない。

残された道はふたつ。
打とうと思っても打てぬくらいに深く食い込むか、頭を突き出すかしかないのだ。

学校の外側が変わらない限り、学校の内側は変わらない。システムを攻撃してもほとんど意味はないし、徒労に終わる。エネルギーはもっと効率よく、かつ楽しく消費するべきである。なかまで攻撃し合うのは愚の骨頂である。

私は誰をも否定しないが、自分の立場や主義主張に凝り固まって感情的になるのはド素人の証だとだけ宣言しておこう。

それほど、教師という人種は「われわれことば」で語る傾向が強い。

なぜ私は親のご機嫌など一切とらないにも関わらず、親は私を信頼しやすい傾向にあるのか。これからも、私は許される範囲で私自身のことばを語り続けよう。全部本当のことなんて決して言えるはずはないが、自覚している嘘は言わずにいよう。それは私自身の健康の為でもある。

現場で人として当たり前に感じることをありのまま自分のことばで話すだけで、まず間違いなく親御さんは信頼してくれるものだ。それは簡単な理屈だ。親は自分のいのちより大事な子どもをあずけているのである。だから親というものは、基本的に「自分の子どもに深くかかわる教師は信頼に足る人だ」と思いたいのだ。

こうした心理を理解して、ただ率直に丁寧に話せばいい。自分が納得していないようなことばで相手を説得できるわけでもないので、私はまず自分を説得し納得してからしか、話し始めることはない。「こっちの立場もわかって欲しい」というようなレベルのお願いに耳を傾ける親は少ない。

「われわれことば」で語ると、いざというときに責任を回避するための保険をかけているような印象を与える。しかし、「その子が自分の子だったら、どんなことが心配で、何をしてやりたいか」を自分のことばで伝えれば、必ず落ち着きどころは見つかり、「先生、よろしくお願いします」となる。

だから、文句を言いに来た親にも、たいてい御礼を言って帰ってもらうことになる。だって親も私も子どもがかわいいんだから、そういう結論になるのは当たり前なのだ。

Professionalな教師は、「われわれことば」の本質が何であるかをわかっていて、「われわれことば」を使わない。「われわれことばの本質が何であるかをわかっていて」という断り書きは何かというと、単に組織の一員であることをわきまえず、秩序を乱す「自分のことば」を使う者も時々いるからだ。こういう教師が学校の信用を著しく失墜させる。

Professionalな教師は、相手にわかる自分のことばで語る。そして、自分の発言に責任を負う態度で子ども向き合う。だから出来ないことは言わない。

何か事件が起きても、「こんなことは二度と繰り返しません」「問題は即急に必ず解決します」などとは絶対言わない。

私はいつもこんな風に言う。
「私たちがどんなにがんばっても明日もっとひどいことが起こる可能性があります。学校というのは基本的にそういうところです。私に約束できることは限られていますが、約束は必ず守ります。起こったことは隠さず事実どおりに伝えます。そして、なるべく似たようなことが今後起こらないように時間をかけて取り組みます。お怒りはごもっともです。悲しみはよくわかりますが、なぜこうしたことが起こってしまったのかを正しく理解し、それを解決するには時間がいるのです。私は子どもの心や世の中を変える力はありませんが、考えられる限りのことは試してみます。どうかもう少し一緒に見守っていただけませんか」と。

年度末にあたり、一年間の反省と自戒をこめて簡単にまとめてみた。

2010/03/17

卒業

そつぎょう

①学校の全教科または学科の課程を終了すること
②ある状態・段階を通過すること

末っ子の卒業式に出た。

懐かしい昭和の匂いのする田舎の中学校の卒業式。

息子が答辞を読んだ。
「○○中学校 ありがとう 桜の木の下でまた逢いましょう」
そういう内容だった。

末っ子なのでわがままで甘えん坊で、ずっと幼いイメージしかなかった彼だが、いつしか私の身長を追い越し、野太い声で生意気なことも言うようになった。そんな息子も9年間の義務教育を今日で終える。

「3人の子どもに対する国民としての義務を果たし終えたことになるよなあ」といつものように馬鹿馬鹿しいことを言う私に「ほんまやなあ」と感慨深く相づちを打つ妻。

義務教育を終えさせても、子育てはまだまだ続く。

先日は、公立の試験が終わって帰って来るやいなや、「ケイタイ欲しい」と訴えて来た。上のふたりにケータイを持たせたのも高校からで、そういう約束になっていたからだ。

ところが、妻のケータイと妻を使って職場に訴えてくるその横着さが、私の首をすぐには縦に振らせなかった。

ちょっとかわいそうだが、私は「まだ中学生だろう。部屋を片付けなさい」という主旨の返信をした。

末っ子はケータイ欲しさに2日かけて必死に部屋を片付けていた。

私もそれを見て、自分の部屋を少し片付けた。

卒業・・・・・

悪くない響きだ。

Saltが考えるプロフェッショナルな教師①

日々成長し変化していく子どもたちを個々の性格や発達段階に応じて効果的な指導をするのは、それほど簡単なことではない。さらに今日学校現場でおこる様々な事象には、さらに複合的な社会の事情が織り込まれてくる。これらのひとつひとつを解きほぐし、問題に関わる様々な立場の人たちをひとつの落ち着き所へと導くのは至難の業であり、極めて高い専門性が要求される。

私は私自身が納得出来るレベルのprofessionalな教師でいたいと思うが、残念ながらそれは現場ではあまり必要とされない職能でもあり、そうしたこだわりや価値観は、周囲にとってはかなり迷惑なものなのだということも身に沁みてわかっている。

子どもの利益を最優先して、自分のこだわりを殺さなければならないことは、1日のうちに2度も3度もある。私はこれを妥協であり敗北であるというイメージで自己評価していたので、ずいぶん苦しい時期もあった。わけのわからないしがらみの中で思ったようにやれないことをシステムのせいにするのは恥ずべきこと、単に自分の力量不足なのだと思っていた。

しかし、子どもの現実をサポートするために最適の落としどころを見つけることは、妥協でも敗北でもなく、正しい手順なのだと思えるようになってきた。

私の力は小さく、私に出来ることはほんのわずかでしかない。子どもの現在は過去からも、そして未来へもつながっているのだと思うと、ほんのわずかな期間の今にしかかかわれない私が気負いすぎるのはよくない。かと言って、出来ることに手をこまねいてはいられない。どこまでやれるか、やるべきなのかは、常に一期一会の真剣勝負である。

中途半端な気持ちでは出来ないことを遊び半分でやっているSaltである。だから、半分の真剣さは半端じゃないのだ。

立場や考え方がまるで違う人たちと協調し、わけのわからん親たちと気持ちが重ならなければ、その子にとっての幸せは見えてこない。

どんな時でも目の前にいる子どもの利益を最優先できること。

それが何であり、どうすればいいのかを見極め、その為に素早く動ける教師はprofessionalだ。

2010/03/16

お知らせ(3月21日の礼拝について)

来週3月21日の礼拝に、横浜から4名の兄弟姉妹が来られることになっている。

HN「ゆばるさん」とそのなかまたち。

ゆばるさんは、作曲や編曲をお仕事にされているので、「竪琴や笛を奏する者の先祖」と言われているユバルからHNをつけられたのだろう。横浜で集まりを持っておられる方で、メッセージも聴かせてもらったが、私なんかよりずっと落ち着いた感じで品格がある。

奈良へ来られるお話があった時点で、礼拝をどんなプログラムにしようかと皆に相談した。「時間も限られているので交わり中心にしたら」という私の提案に対し、「そりゃ、アンタのメッセージを聴きに来はんねんから、ちゃんと喋らんなあかんで」ということになってしまい、「ひねくれ者」よりは「約束の地カナン」のシリーズの方が良かろうということで予定を組み替えた次第。

今回はカナンのレギュラーメンバーに加えて、西からは神戸のMeekさんや桑名のKoji君もともに交わりに加わる。これも楽しみ。Meekさんは7日にも単身参加されたが、21日はファミリーで来てくださるそうなので楽しみだ。

毎週、一期一会の新鮮な喜びと感動があるカナンの礼拝ではあるが、さらにエキサイティング。興味のある方はどなたでもどうぞ。

ゆばるさん関連のページ
http://homechapel.sblo.jp/ 【十弦の琴~音たちの賛歌~】
http://home.r05.itscom.net/kanon/ 【音楽工房 Kanon Und Gigue】
http://homechapel.sakura.ne.jp/ 【横浜フェローシップホームチャペル】
(メッセージは無駄が少なく聖書的、スッキリしていて聴きやすい!)

プロフェッショナルとは・・・

「職業人」や「専門職」を表すprofessionalは、「信仰告白」を意味するprofessということばに由来している。大学教授のprofessorにも「信仰告白者」という意味がある。

professには「神の託宣」の意味があり、元来professionalは「神の託宣を受けた者」なのである。つまりspecialistというのとはちょっと違う。

professionalは、神の承認とパブリックなミッションをおびた職能を有する者であるということだ。

有名なイギリスのオックスフォードやケンブリッジ、アメリカのハーバードは牧師を養成する為の学校であった。18世紀までは殆どの学生は牧師になったのである。従って医者や弁護士よりも先にprofessionalと呼ばれたのは、実は牧師だったわけだ。

私はこうした欧米のスタイルに賛成しているわけではない。professionalということばが一般的にも、そういう理解の上に成り立って分化していったものだということを言いたいのである。

つまり、職業的専門性は、自分以外の人の為に役立てる義務を内包しているわけである。それゆえにprofessionalと呼べるにふさわしい職能を有する方々は尊敬を受けて当然なのである。

職人はオーダーがあれば要求どおりにそれに応えるかも知れない。しかし、professionalは、オーダーに対して単純にその通りに応えない。自分の出した応えを相手に納得させ、喜んでもらえるようにと導くだろう。

2010/03/15

聖書から見た仕事

「あなたは、顔に汗して糧を得、ついにあなたは土に帰る」(創世記3:19)
「そして彼らに・・・すべてのものを支配させよう」(創世記1:26)

仕事には、「罪ゆえの苦役」という面と「神から委託されたものを管理する」という面がある。仕事で流す汗は、苦しみの証であるだけではない喜びの印でもある。

イエスは家業の大工の仕事をなさっただろうし、パウロも天幕を作って暮らしを立てていた。この職業選択は決して無意味ではない。

仕事の中で学ぶことは少なくない。

仕事を日々の糧を得るために時間を売ることだと考えてはいけない。

職業とは、社会との関わりの中で個人の能力を生かすことであり、その価値の代償として報酬を得る。これは聖書の中でも神の恵みとは明確に区別されている。

ローマの百人隊長は異邦人の軍隊という一見信仰とはかけ離れたような組織にあって、秩序や権威というものの本質を経験によって理解しイスラエルにさえ見られない信仰を学んでいたではないか。

なぜ、みことば三昧のイスラエルの教師たちにも見られない信仰が、ローマの兵士の中で育っていたのか?

百人隊長はみことばと生活が結びついていたのである。自分の仕事も信仰の中でとらえていたと言える。一方で現実の生活を軽く見て、ことばや観念の世界で神をとらえていた人たちの心は虚しく、その信仰は全く死んだものでしかなかったのだ。

というわけで、私はこうしたことをふまえて今の仕事にあたっている。

仕事は私にとっては訓練の意味合いが強いので、はっきり言うと、とても辛い。そして出来れば一日も早く辞めたい。でも続ける以上はプロフェッショナルでありたい。

2010/03/14

青い文脈

先週の日曜日は「ひねくれ者のための聖書講座」として、聖書を読む文脈について語った。

今日の午後からの分かち合いの中で、少しだけ続きの話をした。

聖書を文脈で読むためには、一定の長さと深さの人生経験が必要だ。人生の文脈がなければ、みことばを文脈に添って読むことは出来ないということ。

「誰でも自分の人生の中では自分が主人公」である。あれ、さだまさしがそんなこと歌ってたっけ。言ってみれば、それが「私が主であるところの」自分の人生の文脈。

どんなに気配りの出来る思いやり深い人でも「他人を主」にして生きている人などいない。人間自己チューが当たり前。ただしこれを露骨に出すと嫌われる。そういう人たちは性格が悪いというより処世術が下手なのである。

私たちは生きていく中でいろんな人と出逢いさまざまな出来事を経験し、その文脈を豊かにしていく。人生経験豊かな人のお話は実に面白いし、豊かな経験を重ねた人は魅力的でもある。そして、そういう人は自分の経験に基づいた人生観や人生論を持っているものだ。

しかし、聖書をいくら読んでも、心に響いたみことばを自分の人生の文脈に織り込むだけでは、それはただの読書であり、熱心に織り込んでも宗教の域を出ない。おそらく彼らが反応するのは、自分の人生観や人生論を後押しするようなみことばに限られている。遠藤周作や曾野綾子なんかは頻繁に聖書を引用するが、己の文脈で語るだけである。

私が聖書を正しい文脈によって読むべきだと繰り返すのは、みことばの断片ではなく、みことばの全体性こそが重要だからだ。

聖書の文脈と自分の文脈を擦り合わせ、聖書の文脈の中に自分自身を織り込んでいくこと、つまり、「自分の人生における主は自分ではなくイエスである」という読み方をしていくことが「信仰によってみことばを聴く」という態度なのである。

子どもの頃からみことばに親しみ、疑うことなく繰り返し、学校を卒業したら職業牧師になるような人がキリスト教界にはたくさんおられるが、聖書と擦り合わせる文脈が貧しいという問題がある。

天秤の分銅と釣り合わせせる具体物を見たことがないようでは、分銅のめもりが読めても実際の重さの実感が乏しい。

縦糸はたっぷりあるが横糸がちょろちょろでは、まともな織物が織れないのである。

別に、放蕩の経験が必要不可欠だと言っているわけではない。額に汗して働くという一定の経験や、神を知らない人の絶望の底を少しは知っておいても良いと言っているのだ。

かと言って、元ヤクザや元シャブチューが新しい組長や名医代わりのイエスを語るのは、やはり己の文脈を越えたとは言えないのである。

こういうことをふまえておかないと、「蔦の絡まるチャペル」ではなく、「舌の絡まるチャペル」になってしまう。お子様ランチみたいなメッセージは、舌の肥えた客にはジャンクフード以下なのだ。「青い山脈」的青春では、語り手の中には「青い文脈」しか残らない。

なぜ、モーセやヨセフはエジプトで苦労させられたのか。なぜ、ダニエルやネヘミヤはバビロンで仕えたのか。パウロは初めからイエスの弟子ではなかったのか。それは己の文脈を得るためである。

なぜ、イエスのまわりに人生の落伍者と見える与太者ばかりが集まったのか、しかし、与太者すべてが信じたわけではないという事実。ここに信仰がある。

「小犬にやるパンなどない」と言われた女は、「犬でもこぼれたパンくずを拾う」と応えてイエスにその信仰を認められた。自分自身の存在をイエスの文脈に見事にはめ込んだのだ。

一方で「永遠のいのちを得るにはどうしたらいいでしょう」と言ってやって来た金持ちの青年は、「持ち物を施せ」と言われて、悲しみながら去って行った。自分の文脈の延長にイエスの存在をはめ込もうとしてしくじったのだ。

この違いがおわかりだろうか。

正しい文脈で聖書を読むというのは、意外にというか相当難しい。

難しいだけでは結論にならないので、私が大事にしているポイントを3点挙げておく。

まずは霊的ではない読解力。聖書は非論理的な本ではない。ルカが福音者や使徒行伝を書くにあたって丹念に文献にあたったり、調査をしたように冷静で客観的な態度で聖書に向き合うことが大事だ。

もう一つはベタニヤのマリヤがイエスのひざもとに座って聴いたように、「人となられた神イエス」にひざまずいて聴くことである。

最後に母マリヤのように、「自分に語られたと感じるみことばを常に思いめぐらすこと」、そして「おことばどおりにこの身になるようにと願うこと」である。

2010/03/12

ケーキのおいしい食べ方

卒業を前に、大人はなぜか子どもたちに夢を語らせる。そして夢はなぜか職業と結びつく。

高校を卒業してもなお、何の具体的な夢も持てなかった私は、デタラメであってもとりあえず自分のことばで夢を語る小学生がある意味凄いなと思う。何で夢がいとも簡単に職業に結びつくのだろう?

あの頃に未来に生きる今の私がそれを果たせているのかどうかさえ、夢を語ることを避けてきた私にはわからない。

式の練習を聴いていると、子どもの夢の中に「有名な○○になって・・・」というフレーズがけっこう出て来るのが気になった。子どもながらに「有名っていいことだ」と思ってるんだなと改めて驚いた。

「無名でいいから・・・」という夢など確かに成り立たない。でも、「無名」と言っても名前がないわけじゃないないか。

そう言えば、私はバーチャルでもリアルでもSaltと名乗っている。ネット上のHNだけではない。まるで、主からいただいたように、本名以上にしっくりくる。そんないい名前は有るのだけれど大して「有名」ではない。でも、全く知られていないわけでもない。何とも微妙である。

不特定多数の人に一方的に知られることは、あまり愉快なことではない。「有名になること」など私にとって少しもありがたいことではないのだ。主がご存じであればそれで十分ではないか。ずっとそう思っている。

私はどうやら「有名であること」自体がどこか偽物である感じているらしい。「有名であること」に嘘っぽさが漂うのはなぜだろう。それは、大勢の人が一人の人に知られることはあっても、一人の人が大勢の人を知ることは出来ないからではないだろうか。人は一生の間にそんなに大勢の人には出逢えない。挨拶程度や一過性の関係なら当たり障り無く過ぎていくだろうが、一定以上の双方向コミュニケーションを維持するためには相当なエネルギーが必要だ。

だから、有名な人の発信はどうしても一方的な垂れ流しになってしまう。それは悪意ではなく量的な限界を超えているからだ。

長くいろんなことをやっていると様々な出逢いもある。私はおせっかいを焼くのも焼かれるのも嫌いだし、全く八方美人ではないので、「Saltはとんでもなく変な奴だ」と了解した人としかつながりを持たない。

近づいて来られてもうっとうしい人からは付いて来れないくらいの早足で逃げるようにしているし、固定したイメージを持たれるのが嫌なのではぐらかす。それがちょうどいいやっかい払いになって、大体いつも自分の身の丈にあったサイズの人間関係を維持できていると思う。

分母が大きくなると当然のことながら、関係は薄くなる。ケーキを焼いたら、食べるのにちょうどいい人数というのがある。分母はそんなもんでいいのだ。ケーキは家族や気心の知れた仲間と食べるから旨い。

2010/03/10

成長させてくださるのは神②

基本的に、私は子どもが元気で楽しそうに生きていればそれでいい。そうした「子どもの快適さ」を守るためにだけ時々登場するという役割だ。間違った手段で快適さを求めることをしないように、たまにチェックすりゃ十分。ちょっとだけその舞台裏を紹介しよう。

私は基本的に細かいことは嫁さんに任せるかたちをとっているが、丸投げしているわけではない。役割分担である。嫁さんのほうがその手の能力は私よりずっと高い。でも、ポイントはちゃんと押さえているつもりでいる。子どもたちが小さい頃は、「お父さんは頭にうつるテレビで自分たちのことを見ている」と大まじめに信じていたほどだ。種を明かせば、嫁さんから得た情報をあたかもその現場を見ていたかのように子どもたちに話して、褒めたり叱ったりしていたからだ。こういう夫婦の連携プレーが意外にモノを言う。

テストや成績には一切口を出さないが、受験に際しては足りない力を何とか補ってやろうと、必要に応じて家庭内で講義を行うこともある。4月から志望校に通っているという状況が子どもたちにとって落ちるより少しだけ快適だと思うからである。大学そのものや学歴という評価に価値を求めてはいない。教育オヤジのスタンスとは基本的に違うのだ。

昨年度は娘の高校受験前に英語を教えたが、今年度は長男・次男が大学と高校のW受験なので小論文対策の講座を続けている。もちろん目前の入試の科目にあるからこそやっているわけだが、それだけでは私が一定以上の力を注ぐ動機付けとしてあまりにも弱いので、中長期的には「暮らしを見つめる感性」を養い、「情報を取捨選択し整理する技能」を身につけ、「論理的な思考力」を磨くことにつながるのだと本人たちにも意識させているし、実際にそのような教え方をしている。

私の子どもたちは、この世にあって飛び抜けて優秀というわけではない。あえて断るほどのことでもないごく普通の子だ。しかし、私は彼らが今の世にあって、それぞれに宝石のような輝きを秘めているいるのを見出す。それは私にとっては大きな誇りであり喜びでもある。人がどう評価するかではなく、父親としてわが子をそう思えることが大事ではないだろうか。

思いっきり普通に育ってきた。当然、生まれ育った時代や地域や学校の影響はあるが、子どもはもっとたくさん家庭の空気を吸って生きているのだ。それに、何しろ「成長させるのは神」なのだから、そういう意識をもった親がおかしなコントロールをなるたけ避けて養育すれば、「それなりに育つ」のは当たり前なのだ。

実際3人の子どもたちはどう思っているだろう。「私が父親」という環境で存在し、DNAを受け継いでいるとういうだけでも、相当なリスクというかハンディキャップというか・・・・
出生を呪わずとも、うっとうしいと感じる時期があるのは当たり前だろう。いろんなことを乗り越えて自分らしさを見つけていくには、まだまだ時間がかかる。

両親は出来る最高のことは、神を信じることが「正しく」かつ「楽しい」ということを示すことだ。ろくでもないこの世界で人生を肯定する姿を見せることだ。

私は子どもを育てることによって育てられ、成長を見守ることで成長していると思う。成長させてくださるのは神なのだ。子育てを楽しもう。

私は常に神が私の思惑を越えた最善を備えてくださっていると信じている。私たちに信仰の備えがあれば、神の祝福の備えを味わえる。

ちなみに、未だ受験の思わしい結果が出ず、悶々と苦しい時期に書いている記事であることを追記したい。今年の桜はさぞ美しかろう。

成長させてくださるのは神①

偉大な教育書(だと思われている)「エミール」を著したルソーは、自分の子どもたちを施設にあずけっぱなしだったと伝えられている。

Saltもあれだけ好き勝手に生きていたら、子どもと触れ合う時間なんてないのでは。偉そうなことは言っても自分の子どもは放ったらかしだったり・・・と思っておられる方もおられるかも知れないが、意外にそうではない。

「自分の子どもをキチンと育ててナンボ」と思っている。肝腎要で手は抜いては一生の不覚。取り返しがつかないばかりか、老後の自分に跳ね返ってくる。まあ、それは冗談だが、自分の所有物やペットではなく、「尊重すべき人格」として接している。つまり、自分が大事だと思うことは選択肢として伝えようとは思うが、決して押しつけない姿勢を貫いている。つまずく可能性があっても先回りして、障害物を除いたりはしない。選択肢を狭めて、良いものだけで取り囲むと結局子どもはダメになる。

「天からの留学生を預かっている」という感覚をもって養育することが大事だと思う。つまり、関わり自体を面白がっている部分があるということ。そして、最終的な養育責任者は私ではなく神だということ。彼らは神の配剤によって私のところへやってきた人たちなのだ。それゆえ、やがて父と母を離れる日がやってくる。それぞれが結ばれる相手を見つけて一つになる事実はキリストと教会のモデルであり、神との一体が親との関係よりも大切だということのしるしでもある。「成長させてくださるのは神」なのだ。

教師や牧師の子どもに問題児が多いのは、親の肩に力が入りすぎて子どもをコントロールしようとするからだ。親の期待に過剰に応えようとすることも、烈しく抵抗することも同じ原因による裏表の反応である。親と子どもは別もの。自意識過剰な親たちを私は飽きるほど見てきた。

「親は親」「子どもは子ども」私とは全く違う人格なので、私が好きなことを同じように追いかけることはないのだ。子どもが全然異なる分野に興味をもったなら、自分もそれを面白がればいいのだ。子どものことに必死にならず、親は親で自分の人生をきちんと生きてさえいれば、子どもも自分の人生を大切に生きようとする。それだけのことだ。それぞれの人生をプラニングするのが神であり、それに応答するのは本人以外の誰でもない。誰かに求められた生き方をなぞって誰でもない自分を演じることに意味を見いだせないと、自殺するか、宗教にはまるかである。それがたまたま人から評価されたり、うまくいったりすると、仕事人間になるか、ほとんど何も考えない馬鹿になるかである。信仰を選ぶ自由を与えなければ、たとえ信仰が正しくても意味はないとさえ思う。自分で選ばない人生には意味などない。

2010/03/09

徘徊終了

今日をもって1年間の徘徊は終了。
1日7時間×30日×4校を終えたことになる。ふぅ。

ほとんど干渉せずただ見守るという立場で、教室を後ろから観察するというのは、今まで経験したことのない不思議な感覚を私にもたらした。教育という営みや子どもの成長というものを軸にいろいろなことを思いめぐらした一年であった。

新人たちに対して、そうして得た情報を整理して提示し、自らの指導のあり方を丁寧に振り返らせる。一日の事実は教育をめぐる抽象論より大切だ。

教育というのは、「今日種を蒔けば今日のうちに花が咲いて明日実を結ぶ」というようなものではない。誰がどこでどうしたからこうなったというような即効性のあるものでも、そのことによって特定の誰かに手柄をもたらすものでもない。教育というのは、「子どもの成長といういのちの営みに寄り添うこと」以上ではない。しかし、寄り添う大人たちが、「どこで」「何をしたか」ということの蓄積が確実に子どもを変えていくことは間違いない。だからこそ、教育は尊い。

「○○式」とか「~メソッド」などと、個人のくだらない思いつきに子どもをはめ込んでしまうことに対して私は否定的だ。そんなものは教育と呼ぶに値しない。その発案者も追従者も、子ども一人ひとりをしっかり見てはいないからだ。簡単にいうとただの「横着」である。「子どもの尊厳」を嘗めきっている。「子どもの成長」という崇高ないのちの営みを侮っている。

だから、Salt式やSaltメソッドなどはない。そんなものをまとめたりもしない。もしそこに無理にでもことばを当てはめるとするなら、指導者ではなく一人ひとりの子どもの名前を入れるべきだと私は考えている。

「私が植えてアポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。それでたいせつなのは植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです」(Ⅰコリント3:6~7)

明日から終業式までは所属校勤務で残務整理をしながらスローダウン。事務や片付けは超苦手なのでちょっと憂鬱。それが終われば少し休める。

2010/03/07

ユアサる

最近のUribossa氏からのメールの中に、友人のミュージシャンのライブ・フライヤーのオファーを受け、超お友達価格なのに通常の5倍ぐらいのパワーを注いで作ったという内容が書かれていた。経済苦の中でこの余裕というか心意気が凄い。また、Uribossa氏のコメントがいい。「ユアサってしまった。。。アホです。でも喜んでもらえたからよしとせねば」

私はUribossa氏の「ユアサってしまった」ということばに、Y.B.M氏への敬意と、己へのやや屈折した自嘲と自尊を感じ、痛く共感してしまったのである。(注:ユアサというのが、Y.B.M氏の本名)

そこでUribossa氏への返信メールの中で〔ユアサる〕を、「この世の殆どの人にはどうでもいいようなことが、絶対どうでもよくなく、人知れず必要以上に力を注ぎ、密かに満足を得ること。全く割りにあわない効率の悪さにも関わらず、なぜか連鎖反応が起こったりする」と定義した。

私はY.B.M氏の人や物への関わり方が好きだ。家具も写真も、全く興味がなかったわけではないが、Y.B.M氏と出逢ったことで、その世界の奥行きが見えてきた。

Y.B.M氏が木工家に転身するにあたって封印した写真への情熱のくすぶりを誰よりも強く感じ取り、煽る風を送ってきた者として、彼が自身の家具工房で開催する写真茶話会はすごく気になっていながら、なかなか参加する時間がとれなかった。前回は終了後に合流、今回(昨日)は少し遅刻して顔を出せた。

私の工房での連続講座で見せてくれた彼の指導法は、通常の写真講座のイメージとはかけ離れたもので、あえて技術にこだわらず、撮り手の情報の集積である「写真」という記号の本質に迫っていく。

「写真は逆証である」という仮説に基づいたY.B.M氏の写真の読解力は卓越したものがある。写真を媒介とした撮り手との対話の中で、撮り手自身が気づいていない無意識さえ言語化してあぶり出す。このような手法であの梅佳代や浅田政志という優れた才能を育ててきたのだなと納得した。

この世のほとんどの人がどうでもいいと思っているY.B.M氏のこだわりについて、野暮ったいことばで抽象化したくない。それは具体的なひとつひとつの作品としてしか表し得ないものだから。

この世のほとんどの人がどうでもいいと思っていることは、本当はとても大切なことなのだ。

http://www.norioyuasa.com/%e6%95%99%e5%ae%a4%e3%81%ae%e3%81%94%e6%a1%88%e5%86%85/(SiGNの写真茶話会案内ページ)

2010/03/06

信仰と群れ②

「信仰と群れ」の問題は「教会と私」の問題に単純に置き換えることは出来ない。

ことばの定義の問題にもなるが、群れを作っているのは個人であり、そもそも私自身が教会だからだ。教会は「行くところ」ではなく、その名を呼ばれ召し出された一人一人が教会そのものなのだから。

群れを構成するのは、「私」という個人である。群れ全体の責任なんてない。責任はいつも個人に帰す。

モーセはイスラエルという群れの為に立てられ、同時に群れの一部として行動した。アロンは群れの関係性を優先して金の子牛を拝んだ。モーセは群れ全体の合意による偶像礼拝にとりこまれることはなかった。神との関係性を優先し、たった一人で群れに立ち向かったのである。ここにモーセとアロンの決定的な差がある。

群れはみな同じようにエジプトを出て来たのだが、主を見ていたのではなく、モーセという指導者を見、前後左右の隣人に合わせ、祝福にあずかって何となく流されてきただけだった。イスラエルという「ムラ共同体」の過ぎ越しという行事に参加していただけだったのである。

その結果、エジプトを出て来た世代で約束の地カナンに入ったのは、ヨシュアとカレブのたったふたりだけ。

「群れをなすこと」には、天にも似た祝福と地獄のような醜悪さというふたつの両極に至る可能性を秘めている。

グチャグチャいう奴はいつも誰かを引き合いにする。これもお約束。マリアを引き合いにしたマルタ然り。取税人を引き合いにしたパリサイ人然り。

主の前にひとり出ること。これに尽きる。

2010/03/05

信仰と群れ①

日本の伝統的なムラ共同体には「世間体」という不文律の覆いがかかっている。

「世間」は、覚醒した自立的な自己主張を敬遠し、程度が一定の容認を越えるとそうした「自己」は孤立させる。そのような環境では意識的に「世間」に立ち向かう「自己」は育ちにくい。「自己」を圧迫する「世間」は「自己」の集合体ではないので、「世間」の仕業に対して誰も責任をとらない。ムラ人であるという資格は、自由を売り渡して責任を放棄することによって得られる。

「村八分」ということばに表される阻害を合理化する空気は、あらゆる社会の小集団においてはいじめを生み出す素地を作っている。根本的には日和見主義でエゴイスティックでありながら核になるエゴが育ってないのがムラ共同体的日本人である。

それ故、ムラ共同体的日本人がキリスト教徒になっても、単なるお引っ越しに過ぎない。所属するムラを変えるだけなので、相変わらず「自己」はない。だから、「どちらの教団ですか、○○先生の教会ですね」などという自己紹介と認識の仕方になるのだ。「○○ムラの××べえ」でいることに安息するのである。

彼らは年貢を払うように献金を納め、田んぼを耕すように割り当ての奉仕をこなす。領主が横暴になると騒ぎ出すのである。

そして、彼らの美徳であるムラ共同体的な仲むつまじさも、実は「世間」という実体を持たない己の影法師に対する強烈な信仰と怖れが支えているものだ。

本質的な意味合いにおいて、「自己」がないところに愛は芽生えない。互いに寄りかかって支え合うことは信頼ではない。聖霊は、イエスとともに十字架に付けられてともに死に生まれ変わった「自己」がキリストのかたちへと変えてゆくのを助ける。ちょうどヤコブがイスラエルになっていくように。

聖霊の働きをムラ祭りに利用しようとする動きには驚き呆れる他ない。

神の前のひとりを自覚した個人が各々神から託された分を果たすような交わりにしか、兄弟愛などというのは存在しないのだということを念押ししておきたい。

友達の友達はみな友達だ

Uribossa氏のお友達のお友達、LA在住のボサノヴァ・ファンが「風のメロジア」を御自身のブログで取り上げてくださっている。

会ったこともないのに、実に丁寧かつ好意的なコメントを書いてくださっているのが嬉しい。

紹介してもらっているのを紹介するのも妙な感じだけど、ニューアルバム制作の為には、「風のメロジア」をもっと売らないといけないので・・・・

興味のある方、また、販売に協力してCDを預かってやろうという方はご連絡を。

http://riocato.exblog.jp/12977668/ 【空と雲と原っぱ、そしてボサノバriocatoさんのブログ】

2010/03/04

小さき者あるいは一羽の雀

「燕雀安んぞ 鴻鵠の志を知らんや」(史記)

小さな鳥には大きな鳥の心はわからない。度量の小さな人物には大きな人物の志がわかるはずがないという意味。後に英雄となる陳勝がまだ日雇い百姓をしていたとき、仲間に将来の夢を語り嘲笑された。その態度を悲しんで語ったものだと言われている。

イエスは弟子たちに御自身が十字架にかかられることを折に触れて語り続けられたが、弟子たちには全くわからない。しかし、イエスは即座に理解されることを期待して語られたわけではなかった。

イエスが語られたのは、弟子たちが後に理解するためであった。つまり「その時は理解されないこと」「理解できないこと」が重要だったのだと言える。

後になって聖霊を与えられた弟子たちがすべてを理解したとき、その時はどんなにがんばっても誰も意味がわからなかったことを理解することが重要なのである。

神の家にも、大きな器もあれば小さな器もあるだろう。しかし、大事なのはその器が神から注がれる恵みで溢れていることだ。

大小というのは比較の概念であって、意味はあっても価値はない。大きな神の前には人はみな小さい。だから、イエスに出逢ったサウロはパウロ(小さき者)と名乗ったのだ。みこころはいつも人の計り知れぬところにある。ゆえに、私たちはただ「自分の願うところではなく、みこころがなるように」と祈るのである。

2010/03/03

伸縮する時間

学校にチャイムが鳴るのは、一定時間内に作業や課題を仕上げるということに価値が与えられるようになったからである。それは産業構造の変化と大きな関連がある。

それ以前の暮らしのチャイムは、長いスパンで言えば、季節の変化、天候程度のものだ。産業構造の変化ということで言えば、農事ごよみとの関連である。

漁師には漁師の時間、牧人には牧人の時間、商人には商人の時間があるだろう。そして、大多数の人が寝たり遊んだりする時間に働いている人たちもいる。

時代の需要や技術の進歩によって、同じ職業の人たちでも、長い歴史の中でその時間感覚は大きく変化を遂げている。

いずれにせよ、現代の社会で生きる私たちは管理された時間を配分され、その中で成果をあげることを半ば義務づけられ、そして値踏みされるようになった。

そうした価値観に飼い慣らされた結果、管理された時間の外へ解き放たれると、何をしていいやらわからなくなり、休日は寝て過ごしたり、ありきたりの娯楽に身を投じたりすることになる。

しかし、こうした「変化の始まり」を遡れば、せいぜい100年程度の過去まで戻れば十分だ。

200年、300年前は、これほどせかせかした時代ではなかっただろう。便利になった筈なのに、大したことをしているわけでもない人まで、「忙しい」「疲れた」を連発するような時代ではなかった筈だ。

私はいろんな人から「よくそんなことしてる時間ありますね」と言われるが、これには「忙しいはずなのに、そんなどっちでもいいような面倒くさいことをよくやってるよなあ」という軽蔑と「それだけの質と量の内容をこなしているのは、ある意味驚異的だよ」という驚きが入り混じっているものとして、当人は受け止めている。

誰がどう思っているかは私にとってはどうでもいいことだ。私はどちみち私のことなど親身に考えてくれそうもないような人たちの評価など初めから全く気にとめない。

私は他者に配分された時間よりも、自分で創造する時間に重きを置いているので、私の中でその時間は、感覚的にはある程度伸縮の効くものなのだ。アインシュタインも物理学の観点から、その可能性について言及しているし、何より聖書はもっとスケールがでかいことを言っている。主の前では千年は一日のようであり、一日は千年のようなのである。

私のいのちの砂時計の砂はいつかなくなるのだから、他人に値踏みされ振り回されて空っぽになるのだけは御免だと思っている。他人のプログラムにのっかって時間を消費するような娯楽を避ける傾向が強いのもそのためだ。

2010/03/02

教訓もお面もいらない②

いつの頃からか小学校の卒業式では、優等生が送辞や答辞を読む代わりに「呼びかけ」という全員参加の形式に代わった。おそらく全国的にもこの傾向が強いと思う。それが、新しい学校の教育観が生んだ「優等生な結論」である。それはそれで悪くないが、大して良くもない。

私見ではあるが、内容的には、送辞・答辞よりも呼びかけに軍配があがる。しかし、それにかける労力を考えるとどっちもどっち。むしろ呼びかけに費やす時間に無駄を感じる。優等生に任せておけばよかったものを、誰かがその予定調和的なシナリオを書き、失敗しないように寒い体育館で何回も練習しなければならない。

某小学校で、まさに「呼びかけ」の核心部分である「お父さん、お母さん」という文言を「家族のみなさん」に変えようと提案があった。母子家庭や父子家庭への配慮だそうだ。なるほど立派に教訓めいてはいるが、鉄面皮なお面の笑顔である。

「家族のみなさん」などという不自然な日本語を、この呼びかけ以外に一生に一度でも使う日本人がいるだろうか?

当事者であるお父さんやお母さんがいない子どもにとっては、「かわいそう?」な自分に妙な気を使っておかしな日本語を使っていることの方がよほど不愉快だと思う。たとえそうでなくても、この種のおせっかいな配慮は、そうした背景を持つ子どもたちにとって教育的かというと私は断じて違うと思うのだ。

しかし、こういう提案を良いことであり、当然の配慮だと信じて疑わない感性の持ち主にとっては、私のような者は「やさしさ」や「思いやり」に欠ける無神経な人間に見えるのだろう。まあ、それもやむなしだが、無理に波風立てず黙っていることにしよう。

2010/03/01

教訓もお面もいらない①

すごく悲しいとき、とびきりしんどい時に、教訓はただムカツク。ヨブの友達みたいにいつも優等生みたいなことを言う奴はシバキたくなる。みことばに簡単にアーメン出来る人は、みことばが何を言っているか本当に理解できているのかと心配になる。きっと優等生だから大丈夫なんだろうが、少なくとも私はそんなにラクには信じられない。一つひとつみことばを受け入れるには、いつも烈しい葛藤がある。

丸ごと鵜呑みにしてしまった人(あえて「信じている」とは言わない)は、いつもかなり無理して柔和な表情を作っているが、私には妙なお面でもかぶっているようにしか見えない。表情が嘘っぽく目が笑っちゃいないのである。聖書を良く読めば、ちゃんと「目が大事」と書いてあるのだ。

私は時々「役割」として神のことばを取り次いでいるが、間違っても「善人」ではないし、ちっとも「立派」ではない。若い頃よりは幾分落ち着いてはきたものの、まだまだ「品性」に欠けているので、いろいろなことに「忍耐」しつつ、日常を何とかこなしている。

この日曜日にも分かち合いの中で「クルクル○―」ということばを使っていたそうで、帰りの車の中で妻に指摘された。納得のいなかない私は、「そんな連中(この世の学校へ通わせると汚れるので自分でホームスクールをやっているような人々)はクルクル○―でもまだ言い足りない」と反論したが、当然妻の言い分の方が正しいので渋々黙りこんだ。

「みことばは真実だなあ」と身に沁みないとわからないようなかなりの馬鹿者であるが、それだけにメッセージでは自分が身に沁みて味わってきたことを中心にお話することにしているので、教会と牧師館を往復して献金で食っている人の話よりはさすがに多少の説得力はあるのだそうだ。

今月も勇気ある兄弟たちが私に会いに来てくださる。とても楽しみだ。

みなさん、是非リアルSaltに親しく出会ってがっかりしよう!

2010/02/25

emiさんとのお別れ

emiさんと最後のお別れをした。

国道沿いのコンビニ葬儀館には、emiさんがはっきり切り分けけじめをつけたかったはずの安っぽいキリスト教的な空気が立ちこめていた。カシオポータサウンドの玩具的音色の伴奏にねぼけたような賛美が響く。私が出来ることなら、いろんなことをもう少し何とかしてあげれば良かったと思ったが、そんなことは全く意味のないことなのだともわかっていた。この世における人の最期とは、まあこんなものなのだ。

考えてみれば、「キリスト教」という大騒ぎも、イエスの死の本質を忘れたイエスの死に関するイベントである。いずれの混沌にも、その核に何を見ているかは各人の霊の中に答えがある。どんな風にかたちにしても、いかに演出しても、「どこか違う感じ」は地上では拭えないものだろう。しかし、この違和感の中にイエスがおられるのだと私は思う。

私は喪服の参列者の黒に溶けこんで、五感に染み込んでくる不愉快な要素を可能な限りシャットダウンしつつ、emiさんのことを静かに思っていた。

emiさんはとても繊細で静かな方だった。そして、心の奥深くに熱く燃えるキリストへの熱を秘めておられた。

私との出逢いでボサノヴァにも興味を持ち、中止になったジョアン・ジルベルトの来日公演にも一緒に行くはずだった。

私の作る音楽にも深い理解を示して応援してくださっていた。阿武隈の山小屋で、奈良市のカフェで、室生の工房でライブを聴いてくださった。

オリジナルの賛美を共作しようというプランもあり、1曲だけしか出来なかったけど、KFCでも歌ってくださった。第2弾、3弾も作りたかったのに。

奈良では、「山の辺の道」や「明日香」を歩いた。体力的にもキツかったと思うが頑張って歩かれた。Sugarさんの阿武隈の山小屋でも何とも楽しい時間を過ごした。山の上から一緒に輝く太陽を見た。

「もう一度奈良を歩こう」「今度は一緒に北海道やイギリスにも行こう」そんな話をしていた。気休めや慰めではなく、本当にそんな日が来ることを願っていた。

私の音声メッセージの配信も、彼女がその気にさせてくれたようなものだ。それまでもリクエストに対しては個別にはダビングして対応していたが、不特定多数の方々に向かってネット上で発信しようという気持ちはそもそも私には全くなかったし、物理的にもむりだった。当時はISDN環境だったので、毎回CDに焼いてemiさんのところに送っていた。それを毎回emiさんがデータを変換して更新してくださっていた。その回数は100回を超えた。データCDと一緒にemiさんが好きそうな音楽CDを選んで送るのも私の楽しみのひとつになっていた。

彼女と共有した時間や経験は簡単にことばに出来ないほどとても貴重なものだ。そして、これらの交わりはすべてイエスという御方によって共に結び合わされているという幸せと希望がベースにあった。

訃報に触れたとき、何とも言えない気持ちになった。Lukeさんが送ってくださった液晶画面の文字が淡々と事実を告げていた。去年の暮れから、emiさんのことを想うと心が重くて辛かったが、その時なぜか悲しみとは別の不思議な平安が訪れた。

これは、なかなかことばではうまく表現できない。心の持ちようとか、気分ではない。未だに感情はブロックされていて涙も出ない。

「祝福に満ちた唯一の主権者・・・・」義父が急死したときに、その枕辺の祈りの中で与えられたみことばが再び心に甦る。ただそのことばによりかかっている。これは祝福であり、残されたご遺族にとっても最善であったのだと・・・・

そんなことを、私ごときの脳みそが簡単に理解できるはずがない。ただそのことばが真実であり、主は間違いないということを信じるしかない。

emiさんの悲しみも喜びも、死も復活も、そして私たちの希望もすべてはイエスにかかっている。そんなことはわかりきったことのはずだが、「本当にアーメンする」には、私はまだまだ頑なで強情なのだと思う。

いつもemiさんが気にかけておられた御主人とふたりの娘さんにお会いできてよかった。3人のしっかりとした表情から、それぞれに心の準備をされて、emiさんとお別れされたんだなと伝わってきた。

ご遺族のこれからのために私が出来ることなんてたぶん何もないが、もし何か出来ることがあれば、何でもさせていただきたいと思う。

関係の皆様の上に慰めと平安がありますように。

emiさん、おやすみなさい。いずれ、そのうち。

emiさんの証

私たちの愛する姉妹emiさんこと三宅恵美さんからのメッセージです。
ご遺族からのお礼のことばとともに、参列者に配布されたものをご紹介します。

     
            †        †        † 



証詞(2005年4月27日)

私は、がんと闘い治療する日々の中で、クリスチャンとしてのあり方の変化を経験しました。
以前は、自分の努力で自分を変えようと一生懸命であり、そこに喜びを感じられず、考えられるすべてのことを試し、癒しを求め、しかし何もおきず、どうして良いかわからない状態でした。

放射線治療の影響で、礼拝も聖書を読むこともできない中、ただ「主よ」、「主よ、助けてください」と祈ることしかできませんでした。そのような状態においても、主は私を受け入れてくださることはわかっていつつも、喜びを感じることができずにいました。

しかし、ある小さな出来事を通して、主の恵みは行いの結果ではないのだと理解しました。何よりも大切なことは、私がどうであるかでも、何ができるかでもなく、ただ主がすばらしいということ。私の目線は私自身から主へと変わり、解放と喜びを経験しています。

私の内での変化は、周囲の人々にも影響しはじめました。キリストのいのちは私の中で大きく育ち、周囲と広がっていきます。私はただ主のうちにとどまり、楽しむだけです。主は真実な方、与え、十分に満たしてくださります。

そのために主は十字架につけられ、よみがえりました。それは特別な誰かのためだけではなく、求めるすべての人に与えられます。

キリストにあって私はもうすべてを満たされました。最もすばらしいお方が、最も近くにおられます。なんという幸いでしょう。

「なぜなら、私にとって生きることはキリストであり」(聖書 ピリピ人への手紙1章21節)

「なぜなら、命の御霊の法則が、キリスト・イエスの中で、罪と死の法則から、私を解放したからです」(同 ローマ人への手紙8章2節)

                                    三宅恵美

(原文は英語だったものを、牧師及び家族で翻訳しました)

2010/02/23

やさしさ

「やさしさ」ということばに不快感を持つ人は少ない。しかし私は、多くの人たちがためらうことなく使っている「人にやさしい」「地球にやさしい」という表現にも、「やさしさ」ということばで一括りされるものの本質的な欺瞞を感じずにはおれない。

これらの表現において明らかなように、やさしくされる人は弱者であり、やさしくされる地球は壊れかけだという前提じゃないか。つまり、「やさしさ」とはやさしくする側に立つ者が自分のうしろめたさを誤魔化してはいい気になるための宗教的価値観に過ぎない。

弱者の側に立つことをためらうことなく宣言する人々は、自分の立ち位置からの距離感で人を簡単に値踏みし、自分から遠い場所で生きる者を烈しく攻撃する。総括したり糾弾したりする人たちがそうだ。彼らはある種の同族への強烈な「やさしさ」を強要する。シー・シェパードだって鯨にはやさしい。

私はよくよく考えて言い分がどっちもどっちの時には弱者の応援をしたいが、弱者に非がある場合だっていくらでも存在する。

だから、私は人の吹聴する「やさしさ」を取りあえずは警戒するのである。

思いやり

「思いやり」ということばにマイナスのイメージを持つ人は少ないだろう。しかし、「思いやり」というのはエゴイズムの変形であるという見方も成り立つ。「情けは人のためならず」という諺のように、「思いやり」は自分を防衛し、露骨に人に気づかれずに自分に利益を誘導するための保険なのだ。それぞれに「思いやり」を持ち合うことで相互扶助する。

「Saltはまたひねくれたことを言うなあ」と思われるだろうが、「思いやり予算」ということばの意味を考えるなら、「思いやり」の中に潜むエゴイズムが浮かび上がる。鬼畜生よばわりしていたアメリカの前にひざまずいて、その薄汚れた靴を嘗めているのが日本の示す「思いやり」だ。

何という御都合主義、何というエゴイズムであろう。それでも、そうすることが少しだけ得なのだ。

そんなわけで、私は人の吹聴する「思いやり」をまず疑ってかかるのである。

2010/02/22

教員のメンタルヘルス

教員のメンタルヘルスの問題がクローズアップされることが多くなった。文科省の委託プログラムの調査結果を見ても、かなり厳しいものがある。

質問項目に対するマイナス解答のパーセンテージの高さより、一般企業との比較の中で語った方がはっきりする。教員は「気がめいる」「イライラする」「いろんなことに頭がまわらない」では約2倍、「気持ちがしずんで憂鬱」では約3倍、「ぼんやりして、作業に集中できない」という項目では5倍近い人たちが自覚症状を訴えているのだ。健やかな子どもたちを育てるはずの先生たちが病んでいたのでは話にならない。なぜ、こういう結果が出るのか。

物凄く簡単にまとめてしまうと、社会的な尊敬が失われたのに、要求は多様化して件数も増え、授業の他にもいくつもの校務をこなし、運動会や遠足や学芸会などの数々の行事をこなし、どうでもいいような書類を山ほど書き、さらに様々な研修に参加し、その上で過剰な要求に応え、勤務時間を超えて家庭訪問を繰り返したり、電話をかけたり、学校で個別に対応したりしているのである。しかも、肝腎の子どもはなかなか落ち着かず、言うことを聞かない。そりゃあ、おかしくもなるわ・・・とこういうことだ。

民間企業での経験を経てから、教員に転職された銀じ郎さんや隆嗣さんたちがコメントしてくれれば、私が言うよりも説得力があると思うが、確かに教員の仕事は忙しすぎるのだ。しかも、報いを感じることは少ない。「ハイリスク・ローリターン」が続くと元気がなくなってくるのは当然だ。

子どもは商品ではないし、教育はサービスではない。だからこそ「聖職」と言われるのである。昔は社会全体に教育を神聖視する空気があった。しかし、歪んだ人権思想が自他の権利意識を増長させ、教師が自らを「労働者」として規定して、「教育」を工場労働の類と同質なものにした。

「私は立派ではなくても、私の仕事は立派だ。」
そういう誇りと責任を捨てた結果が、現状を招いた学校サイドの要因であると私は考えている。

そんなわけで、私は教職員の組合運動とは常に一線を置いてきた。
「教職は聖職である」と規定する以上は、何があろうと現場から逃げたり、目をそむけたりは出来ないということでもある。

とは言え、「そんなことどうだっていいからとっとと逃げたい」と思うことはたまにある。

2010/02/21

訃報

癌で療養中であったemiさんが、その闘いを終え、21日午後3時頃天に召されたという知らせが届いた。 今はただ静かに喪に服したい。 ご家族や関係の皆様の上に深い慰めがありますように。

2010/02/19

再度ご案内

2月20日(土) 10:00~  13:30~ 参加費 1500円

創作実験工房「童」 ワークショップ
「リコーダー・アンサンブルを楽しもう」  講師 Salt / ピアノ伴奏 Momo

講座も2年目突入。毎回一期一会の面白さ。フルーティー菅野は現れるのか?
午後には銀じ郎さんに逢える。

  
ふるさと元気村 宇陀市室生区下田口1112番地 0745-92-2001  
  

 ☆  ☆  ☆


2月27日(土) 15:30~  チャージ 1500円

PRUNE LIVE

さをり織りの手ほどき人にしてケーナ奏者のSue。フリースタイルで貪欲に新しい音楽に挑戦する若きピアニストMomo。そして、作曲・ギター担当のSalt によるトリオ。 どこか懐かしくて、不思議に新しい無国籍な癒しのサウンドをどうぞ。

カフェテラスNZ 奈良市法蓮町1330番地の1  0742-42-7115 

アスリートの鍛え抜かれた肉

オリンピックもなかなかゆっくり見る時間はないが、垣間見て驚かされるのは、トップアスリートの鍛え抜かれた身体能力の高さである。とにかく凄い。

メダルを競う人たちの差は、0コンマ何秒とか、数センチとかいう単位であることも珍しくない。彼らは精密な機械で測定したり、録画を再生しなければわからないほどの僅差の中で戦っているのだ。肉体や技を鍛え上げ、板やシューズやユニフォームも限界まで合理化されている。

その道にすべてを注がなければ、参加できない高みである。だからこそメダルには価値があるのだ。「ナンバーワンにならなくてもいい、誰でもはじめからオンリーワン」というようなヘタレな歌を口ずさんでいる者は、スタートラインに立つ資格もない。「あなたは主の前に高価で尊い?」贖われることのない厚かましさは間違っても尊くはない。

しかし一方では、年がら年中冬のスポーツをやっているというのも妙な話で、そんな0コンマ何秒とか、数センチのために人生を賭けるより、他に大事なこともありそうな気もする。「正しい人生のバランス」というのがあるとしたら、何かが偏っているのだと、国母選手の物凄い技術を見て改めて思う。

私は教会の中で「罪」だとか、「肉」だとかいって一括りにして否定しているものの重さや中身をずっと見つめ続けている。なぜ神はそれらをすべてキリストにあって十字架につけてしまわれたのかを静かに考える。

「聖霊」を口にしても、それが「肉の劣等感や不全感のすり替え」である人たちの浅ましさには嘔吐が出る。私は国母選手のハーフパイプの演技にむしろリアリティ―を感じるのである。

「肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。このことばは真実であり、そのまま受け入れるに値することばです」(Ⅰテモテ4:8~9)

おお、この微妙な言い回し。見せかけの敬虔は無益ってことさ。

2010/02/18

教室と教会の「教」の歪み

「義務教育」というシステムの功罪については、誰もが平等に語る権利や義務を有していると思う。現代社会は驚くほど学校化されている。そのフラクタルな構造の中に、いずれをも読み解くヒントが隠されている。

学校外の力学が学校内のいじめを生んだり、学校で培われた価値観が学校後の選択に大きな影響を与えるからだ。教育について考えることは、社会について考えることであり、教育を語ることは人間を語ることだ。そして、目に見える世界には目に見えない世界を鮮やかに映している。

公立小学校の教室には、様々な背景をもった多種多様な個性をもった子どもたちがいる。興味も能力もバラバラである。そこに面白さがある。

この互いの違いがすりあわされ、意味や価値が構成されることの中に教育の醍醐味がある。ポイントは、子どもが潜在的に持っている力や、集団が有機的に機能したときの可能性を信じられる教師がいったいどれだけいるかということだ。

小学校の授業というのは、いわゆる講義ではない。子どもが学びの主体であって、教室は学び合いのリングである。知らないことを知ることの喜びや出来ないことが出来る嬉しさ以上に、価値あるものを友達と分かち合うことや友達の存在そのものを感じる楽しさが溢れるものなのだ。教師の感性や力量によって、学びの質は大きく変わる。

物凄く前向きなことを書いたが、こうしたことがもう夢物語なのではないかと思える現実が目の前にある。

久しぶりに国語の授業をした。新任に見せる師範授業というやつだ。一番荒れているやりにくいクラスだ。教師に先輩も後輩もない。子どもの学びや成長の支援者でしかない。

価値を教え込むのは簡単だ。そうではなく教えずに感じさせることが大事なのだ。子どもたち自身の探求の果てに「約束の場所」へ行き着いてくれるような地図を示すことだ。

これらは霊的な原則とも完全に一致する。成長させてくださるのは神である。種を蒔き、水を蒔く時と場所と程度をわきまえていればいいのだ。後は慎むことに尽きる。

神は不思議な助言者であり、イエスだけが偉大な教師である。牧師なる存在が価値を教え込むのは、福音の妨害であろう。

エクレシアを教会と訳したことにも、その本質の歪みが明らかである。神は聖書と聖霊をお与えになった。聖霊はあくまでも助け手あり、この方はただイエスという御人格と御業を明らかにする。

2010/02/15

母なる国の代表選手

国母選手の服装が問題になっている。私も「ラシクナイ」ことにかけては国母選手の上をゆくので、この手の話にはかなり大らかほうだが、記者会見の映像をYouTubeで見て、さすがに「ちょっとなあ・・・」と思った。

反省している人間がふんぞりかえって座ったり、歯を見せて笑ったりしない。そして、間違っても「反省してま~す」とは言わない。

ある分野の能力が少し秀でていただけで周囲がチヤホヤするから、こういう増長する若者が出て来るのだ。「メダルを穫れば名誉挽回」という町の声もあるが、それは全く別の次元の話ではなかろうか。

「お国のためにメダルを獲得」という雰囲気は私も好きではない。自分のスタイルを大切にしたって構わない。しかし、礼儀に反する自己流は大人の世界では通用しない。「税金を使って国の代表として国際試合に参加するのだ」という自覚に著しく欠ける言動は慎むべきである。バッシングはやむなし。甘受して反省すべし。

ただし、ボクシングの亀田にしてもこの国母にしても、その道では世界で競えるだけの結果を出すために、相当な努力をしてきているのだということも事実である。そのことは世間も十分認め、目くじら立てている人たちも自分の道で精進するべきだろう。そこは彼らの努力に習うべきである。一方で、彼ら自身は「その道から一歩出れば全く世間に通用しないただのガキなんだ」ということも思い知らねばならず、また、思い知らさねばなるまい。こうした一番大事なことを伝えないことが、落ちぶれてゴミクズのようになっていく芸能人やスポーツ選手を生む。

あんなガキに当たり前の世間のルールを教えられない指導者たちには、さらに大きな問題もあると思うのだ。

職場の後輩に元国体選手がいる。彼に意見を聴いてみた。彼も県の代表団として出場するとき、同じように服装のチェックを受けた経験を持っている。若き日の自分と重なるところもあり、いろいろ考えさせられたという。

彼の意見もやはり、「あれは、いかんでしょう」とのこと。でも、世代や価値観も近い彼の感性に触れるのは面白かった。彼は、「国母選手のスタイルが格好いいと思うタイプの若者たちがこの騒動をどう受け止めているのか興味がある」と言っていた。また、このプレッシャーの中で、自分らしい競技が出来るのかを気遣ってもいた。

おもしろいのでさらに彼に聞いてみた。「もし君が同じナショナルチームの先輩だったら、彼に注意するか?」と問うと、「しないでしょう」とのこと。「じゃあ、もしコーチだったら」と問い直すと「注意します」と即答した。どうやら、このあたりに彼の社会人としての境界線があるようだ。妙に納得。

「愛は礼儀に反することをせず」(Ⅰコリント13:)
礼儀は単なる処世術ではなく、愛の領域にあるとパウロは言う。これが真理である。今回のことに懲りて、変にかしこまって大人しくなって欲しいとは思わない。トンガッタままで、多少は周囲を察する愛が欲しい。

歪んだナショナリズムと一緒にパトリオシズム(自然な郷土愛や同胞愛)さえも、捨ててしまったこの国の代表チームに、こうした若者がいるのは当たり前と言えば、当たり前であって、国母選手個人に責任を追及するのは、いささか厳しすぎるし、気の毒であると思う。

名字が「国母」だなんて、何とも・・・笑えないギャグだ。

2010/02/14

遊女ラハブの信仰

ラハブの家にイスラエルの斥候が身を寄せたのは、ラハブの信仰を見抜いていたからではなく、ラハブが遊女であったからだ。他の遊女の家でも良かったという点では、言わば偶然である。

しかし、神にとってそれは必然であった。神は、町ごと全滅させられるべきエリコに住む憂いと渇きをもったひとりの遊女を覚えておられた。ちょうどイエスがスカルの女に出逢うためにサマリヤを通っていかなければならかったように、ふたりの斥候をラハブの家に送られたのである。

「私はこのふたりの斥候のひとりが、『サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ』(マタイ1:5)のラハブの夫サルモンであった」という言い伝えを支持する。聖書の中に根拠はないが、何とも美しい話ではないか。

神の救い、神の配剤とはそういうものだ。神の恵みに信仰をもって応答するとき、神は驚くべき贖いの大作の中に私たちの思い出を織り込んでくださる。

どうしようもない町のどうしようもない遊女が、アブラハムのとなりに信仰列伝に名を連ね、ダビデとキリストの系図に名を残している事実を軽く見てはいけない。

キリストにあって望みがない人はいない。いつだって遅すぎるということはなく、不可能は可能になる。

詳しくは、音声メッセージをどうぞ!

2010/02/13

ボサノバレンタイン

奈良盆地のど真ん中、田原本は私が育った町。そしてカフェ・アルコはY.B.M氏の工房SIGNの跡地。周辺にも多くの友人知人が住んでいる。昨年の11月に行ったカフェ・アルコでの1回目のライブは、Y.B.M氏とカフェ・アルコのオーナー夫妻へのメッセージでもあり、自分の気持ちにけじめをつけるためでもあった。今回2回目のカフェ・アルコは1回目とは少し感覚が違い、1回目には感じなかったアット・ホーム感が強まった。

今回はアレンジにもいっそう力が入り、新しい挑戦もあった。すごく楽しいライブだった。体調も良く事前のリハも絶好調。しかし、調子に乗って声を出しすぎ、本番でハスキーボイスに。トホホ・・・

それで全体としてはまずまずいいパフォーマンスが出来たと思う。演奏後においしい食事をいただき大満足。今日は朝から絶食してガムしか噛んでなかったので、胃袋も喜んでいた。

これでS&Uの活動は約1ヶ月の休養に入る。Uribossa氏とさらなる飛躍を誓って握手。ご来場くださった皆さん、本当にありがとう。

2010/02/12

気づくこと・気づくかないこと・気づかれること

私は教員3年目に、1クラス40人程度の町の学校から、1クラス10人未満の山の学校に転勤した。そのときに受けたショックは忘れることが出来ないほど強烈なものだった。

最初の2年も、子ども一人ひとりを意識して見ているつもりだったが、いかにそれがアバウトでデタラメなものであったかということを思い知らされた。

私は何となく全体を見ていただけだった。

4月の早い段階にそれはやってきた。いつもはテンポよく進むはずの授業が、なぜか急にリズムが崩れ、空気がよどむのだ。

原因は明白。それは、私が時折まずい発問をするので、虚しい沈黙が生まれてしまうからだ。教室に40人もいれば、どこに投げても誰かが投げたボールを受けてくれるのだが、10人未満だとそうはいかない。投げたボールが誰にも届かずに教室の床に転がる。こうした経験で私は初めて目が覚めた。

40人もいれば沈黙も気にならず、黙っている子どもたちも、答えられない自分を責めたりしないが、10人だと子どもたちが沈黙に気を使いはじめて申し訳ない表情を浮かべたりする。

思考が深まる沈黙は大歓迎だ。しかし、発問が子どもの現実のそぐわない不適切なものであるために生まれた沈黙は授業にとって大きな妨げとなる。

子どもに「申し訳ない顔」をさせている私の愚にもつかぬ発問はどこから生まれたものか。

それは、目の前にいる子どもをしっかり見つめないで、実際に存在しない「架空の平均的児童」を想定して準備したものだからだ。

私が嫌ってきたさまざまな指導のマニュアルは、「架空の平均的児童」のために作られたものである。そう感じて、1年目からマニュアルには一切頼らず、自分なりにその都度つくりあげたもので勝負してきたつもりだったが、何のことはない、自分自身もしっかり個々の子どもを見切れていなかったのである。

これまでは40人という集団の力を借りていただけだ。私のリーダーシップでグループダイナミズムを利用していただけであって、大きな流れを作って調和させるために、目立つ子どもたちの際立った個性は随所に生かしてはいたものの、それは本当の意味で一人ひとりをしっかり見つめて個別のニーズに応えていたわけではない。

私はこの山の学校の経験で多くのことを学んだ。全く違う能力や個性の一人ひとりが集まって、2人や10人や40人になるのだということに気づいた。

どうしてこんな当たり前のことに気づかなかったのだろうと自らを恥じたが、本当に気づかなかったのである。

偉そうなことを書いてはいても、私にはまだまだ気づいていないことがまだまだたくさんあるだろう。

日々勉強である。今日出逢う子どもたちが新しいこと気づかせてくれる。それが教育の醍醐味である。これまで私が子どもに教えてきたこと以上に、子どもから教えられたことが大きい。別に恰好つけてるわけではなく、本当にそう思い、出逢ってきた子どもたちに感謝している。

教室が騒がしいとき、すぐに「静かにしなさい」「うるさい」と怒鳴る先生がいる。でも、40人いても本当にそのとき、声を出していたのは数人で、喜んでそれを聞いていた者を同罪としても10人もいないことが多い。場合によっては2~3人がさわがしいだけなのに、全員に罵声を浴びせるのはどうかと思う。

私は徘徊しながら新人教育を担当しているのだが、子どもがさわがしいとき、「次のことを指示せず、子どもが静まるまで何事も発するな」と教えている。間違っても子どもに負けないような大きな声で指示を与えてはいけない。

「それでも静かにならなかったらどうしますか」という質問には、「子どもの気づきに時間がかかるときは、うるさい子どもたちを叱るより、静かにしている子どもたちをほめる」ことを勧めている。

子どもは、先生が何となく全体を見ているだけなのか、自分を意識して見つめてくれているのかを見分ける臭覚を持っている。

子どもは、先生が自分のやるべきことをやっているだけなのか、自分にとって有益な価値を与えてくれようとしているのかにも、やがて気づくものである。

2010/02/11

コミュニケーション絶縁の時代を生きる②

最近、自分の所属校で「コミュニケーションが絶縁される場面」に出くわすことがある。直接関わりのない親御さんたちにこちらから挨拶しても、挨拶が返ってこないことが珍しくないのだ。無視されることもあれば、無視以前に存在に気づかずに通り過ぎられることさえある。これにはけっこう傷つく。少なくとも奈良の田舎では10年前にはなかった現象である。勤め始めた頃の旧都祁村の集落では、私が子どもたちを連れて校区を歩くと、道行く人や農作業をしている人が、子どもが小学校にいるいないに関わらず、挨拶をしてくれたものだ。

ところが、今の親たちはそうではない。自分の子どもが学校に通っていても、担任や関わりの深い先生以外には挨拶をしないのが普通になりつつある。こうした親たちの日常的風景やなかま意識の中に組み込まれない限り、彼らは目も会わさず挨拶もしないのだ。だから、不作法を嘆いていても関係は良くはならない。むしろ、彼らの習性やルールを学ぶ必要があるのだ。

彼らもその子どもたちも、普通に考えてあり得ないような行動をとっていたとしても、ちゃんと周囲の目は気にしている。つまり、挨拶もしてもらえず、迷惑を被る位置にいる人たちは、彼らの周囲のさらに外側に存在するものと見なされているのである。

まず、日常的風景に溶けこみ、「なかまなんだ」と認知してもらわなければ、価値のある情報は一切伝わることはない。ちょっと気にいらないが、こういう技術も職能のひとつとして身につけておくのがプロフェッショナルである。

私は批評家ではなく、今日も現場の教員である。コミュニケーション絶縁時代を教員として生きるストレスは決して小さくはない。

2010/02/10

コミュニケーション絶縁の時代を生きる①

私の職業は教員である。

音楽も教会での役割も職業ではない。職業とは、その職能が社会的に益するものと評価され、それによって家族を養っているということである。私にはそうした職業があるので、作品やメッセージが成り立っていると自負しており、そのすべてにおいて祝福をいただいている。

それぞれの活動はバラバラではなく、どこからどこまでと切り分けられるものではない。だから、私の発信にはそういうものがごちゃ混ぜになっている。とりあえずは「これでいいのだ」と思っている。今はこれ以外仕方ない。

学校では、担任職を離れて5年。この間に、学年や越えて、時には学校を越えて、いろんな保護者の方々と話をしてきた。そういう方々とは年月を経ても親しくことばを交わす関係にある。勿論、それ以前の約20年、担任を持たせてもらったご家族とは、その任を離れてもずっといい関係が持続できている。既に初期の教え子の子どもたちが入学し保護者は祖父母になっている。こうなると親子三代と付き合っていることになるわけだ。

「教育の危機」「学校崩壊」などと言われながら、私はいつも「右肩上がり」で仕事を楽しんでいる。

・・・と言っても、「それは何もかも華やかにうまくいって、周囲からあまねく評価されている」という意味ではない。実際には言いたいことも言えず、思うようにならないことが多いし、日々努力を重ねてもどうにもならないこともある。

しかし、そんな私が見ているものは、「私の仕事」や「仕事をしている私」ではない。ここに信仰の鍵がある。こういうスタンスでいるとき、私はドン底でも楽しく、気がつけば、自分自身の作品やスキル、そして満足度も右肩上がりをキープしているというわけだ。断片的な状況の評価とは別として、「あの頃は良かった」と思うことはない。イエスはいつも変わらない。主とともにあゆむ時間の密度が日々豊かになるのは当たり前。間違っても私が偉いのではない。

そして、しんどいことは事実として明らかにしんどい。それは誰でも同じだ。信仰があればしんどいことがしんどくないのではない。むしろ、明晰であればあるだけ苦痛も増す。逆に、だからこそ作品やメッセージが宙に浮くことはないのだと思っている。私の音楽やメッセージが誰かを慰める力があるとすれば、それは私が慰められているからだ。これもまたみことばどおり。
慰められる状況になんて、本当は身を置きたくはない。正直な気持ちを言えば、すぐにでも役割を終えたい。

それでも、困難な現場に身を置く私である。子どもとのコミュニケーションが難しい。ことばが届かない。今日もキツイ一日だった。週末はライブ。コミュニケーション絶縁の時代に、音楽を通して大切な何かを共有したい。

2010/02/09

これでいいのだ

「天才バカボン」のストーリーは、バカボンとパパとの馬鹿馬鹿しい日常のやりとりが軸になって話が展開していく。

私は、このシュールな世界がバカボンの日常の客観的な写生ではなく、すべて「小学5年生のバカボン」の視点で書かれていると読む。

つまり、「小学5年生のバカボン」が、自分を取り巻く世界と自分と関わりの深い人物、周辺で起こる出来事を見つめ体験したように描かれているのだ。だから、パパはいつもバカボンと遊んでいて、おまわりさんはピストルを撃っていて、レレレのおじさんは街を掃除しているのだ。それがバカボンとの接点だからだとすればすんなり理解できる。著しい誇張や急な展開もバカボンの心象や記憶の再生時の脚色であるという見方も出来る。

バカボンは常にパパと絡みながら悪ノリをエスカレートさせていくが、いつもどこかでヘマをする。このある種の軽快さと愚鈍さ、そしてパパのツッコミに対するボケの上手さとタフさが、パパと同じようにバカをやるがどこか「素」の部分があり、バカそうなのにどこまでもバカじゃなく、穏やかでニュートラルである。そういうキャラクターがパパの奇妙さを浮き立たせているのだが、これも赤塚がバカボンを視点としたからだと見れば理解しやすい。

バカボンには、「一般的な天才」であるはじめちゃんという弟と、「綺麗で常識的な」ママがいる。バカボン一家の半分は極めてフツーでマトモなのである。この時々、登場するふたりが、物語のリアリティーを深める。しかも、ママや弟がとんでもないふたりを自然に受容している描き方なのが凄い。

この漫画のタイトル「天才バカボン」であり、決して「バカボンのパパ」ではない。パパは「バカボンのパパ」として登場し、読者も「バカボンにとってのパパ像」を見ているのである。パパ本人も「ワシはバカボンのパパなのだ」とバカボンの前で語るわけだ。「本当の天才」はパパでもなく、はじめちゃんでもなく、凡庸に見えるバカボンのバランス感覚に宿っている。

バカボンがパパから学んだ人生哲学について、Salt流に解説しよう。

混沌とした不条理な世界を「これでいいのだ」と受け入れるパパの哲学は深い。「これでいいのだ」は、「あれでいいのだ」でも「それでいいのだ」でもない。パパの世界観には自分自身もちゃんと含まれて相対化されているというわけだ。そんな自分自身の有り様も含めて否定しつつ、全てを引き受けるという決意の表明である。それ故、パパは鋭い人間洞察と深い厭世感を持ちながらも、自尊心を失わず、エネルギッシュである。「反対の賛成」とは、相対する立場も結局は同じなのだということ、「忘れようとしても思い出せない」は、結局人間は歴史から何も学ばず、その本質は変わらないということを意味している。こうした哲学をバカボンはパパと遊びながら、楽しく身につけていくわけだ。辛く、悲しい、どうにもならない現実は、とりあえず笑い飛ばすしかない。哲学書が漫画より高級だとは思わない。私は常々、赤塚をサルトルやニーチェに並ぶ知性だと言っている。 バカボンのパパは、自由の刑を楽しむ真のツァラトゥストラである。

バカボンファンの方も、そうではない方も、赤塚がバカボンの視点で描いた世界として再読されると新たな発見があるはずだ。「おそ松くん」で名声と表現上の自由を得た赤塚は、かなり実験的にこの作品の連載を続けることが許されたようだ。

後付け可能な理屈はいろいろあるだろうが、すべてはそれほど意識的なものではないかも知れない。おおそらく「遊び感覚」の中でキャラクターがいきいきと動きだしたものなのだろう。要するにパパとバカボンはふたりとも赤塚の分身なのである。

2010/02/08

Tetra 改め

さをり織りの手ほどき人にしてケーナ奏者のSue。フリースタイルで貪欲に新しい音楽に挑戦する若きピアニストMomo。そして、作曲・ギター担当のSalt によるトリオで2回目のライブを控えて練習中だが、急きょTetraという名前を変更することにした。

先日、マリンバ奏者であり、奈良県の教育委員長でもある松本真理子氏(実はSueちゃんとも親しい)にお会いした際、彼女のマリンバアンサンブルもTetraという名前であることが発覚したからだ。「こっちはもうウン十年もやってるんだから、そっちが名前を変えて欲しい」とバッサリ。「そりゃ、そうやなあ」とアッサリ。

悩みに悩んだ末、Pruneとした。イタリアで織りを始めたSueちゃんはイタリア語の名前をいろいろ考えてくれたが、私の意見で押し切ってしまった。

SueとMomoでスモモ。こんなんばっかりか。そう、こんなんばっかりである。このグループは、やはりSueちゃんのケーナとキャラクターがメインだと思っている。そして、私とSueちゃんにとっては娘みたいなフレッシュなMomoちゃん。さてSaltは?大丈夫、ちゃんと、裏に「まぬけ」「ばか」という意味がある。動詞の意味もなかなか含蓄がある。

Prune
1 干しスモモ,プルーン
2 まぬけ,ばか.
━━ vt. (木を)刈込む ((back)); (枝を)おろす ((away, off, down)); (余分なものを)取り除く ((from, off)); 切詰める, (文章を)簡潔にする ((away, down))

2010/02/07

花嫁の手紙

従兄弟の娘の結婚式があり出席した。

「この人、大丈夫かな?」と皆に心配されていた花婿だが、花嫁が読む両親への感謝の手紙に感動して、ケロッとした花嫁の隣でボロボロ泣いていた。それを見て「大丈夫だ」と思った。

泣き虫の花婿は整形外科医の卵。花嫁は看護師。「整形外科は崩れかけたものを修復する仕事なので離婚は少ない」と上司の挨拶にあった。なるほど。

さすが私の血筋だけあって(冗談)、花嫁はかなりの美形だが(これは本当)、明るい笑顔がいっそう彩りを添えて眩しく輝いていた。去年一足先に結婚した姉もまた美人(これも本当)。お色直しの時には、花嫁の希望で姉がエスコート。美人姉妹が手をとりあって退場した。なかなか絵になるなあ。

「お姉ちゃんは自分のことよりも大切に思っている。自分にとって幸せだったのはお父さんとお母さんがとても仲が良かったこと・・・」

飾らない普段のことばで読まれた花嫁の手紙は、花婿だけでなく娘を持つ私の胸にも迫るものがあった。しかし、あんな手紙と引き替えに、花婿にくれてやるにまだまだ心の準備が出来ていない。

2010/02/06

大相撲の品格

朝青龍問題についてコメントする気はなかったが、「引退表明しなければ解雇する」という脅しをかけられていたことを知って頭に来た。これが新しくなった理事会の決定である。

まずはじめに、「大相撲は国技であり横綱には品格が求められる」という幻想についてだが、「大相撲は国技である」とする正式な規定はない。従って「国技だからどうのこうの・・・」という理屈を成り立たせるのはそもそも難しい。昔から大相撲は「興業」であって武道と言うよりは本質的に見せ物なのである。だから、八百長でさえそれが見せ物として高級であれば十分許容できる。そもそもNHKの放映時間枠におさまるように、時間いっぱいで無理に呼吸を合わせているのではないか。もう一度言うが、「見せ物」なのだ。

この興業という点において「朝青龍」が果たした役割は極めて大きいと思っている。朝青龍が問題を起こして相撲協会が騒ぐというのも、誰かの演出かなと思っていたほどだが、そんなに懐が深いわけではなかったのだ。

仮に大相撲が国技だとすれば、「品格」は、モンゴル出身の一力士に期待するよりは、国技たる大相撲の伝統と格式からにじみ出てくるものでなくてはならない。ものの順序から言っても、朝青龍は横綱審議委員会から推挙され、「謹んでお受けして」横綱になったのであって、任命責任も同等かそれ以上に問われてよい。さらに他人事のような態度の高砂親方の指導力にこそ最大の問題がある。朝青龍に品格が欠けているのは、大相撲全体に品格がないからだ。

暴力沙汰にしても、朝青龍がマジで素人をなぐっていたとしたら、素人は下手をすれば死ぬほどのダメージを受ける。要するに大したことはないのだ。トラブル処理にしくじって情報がもれただけだ。

今回の報道で唯一リアリティを感じたのは、同郷のライバル白鳳の涙である。

2010/02/04

「アバター」のエクボ

「アバター」をご覧になれば、「風の谷のナウシカ」や「もののけ姫」に通じるものを感じられると思うが、ジェームズ・キャメロン監督は、どうやら宮崎アニメの崇拝者らしい。このあたりも見どころのひとつになっている。

そして、宮崎作品同様、「自然」対「人間」や「異文化」対「アメリカ」を単純に善悪に描きわけているところが、この作品が大ヒットの秘密であり、底の浅いところでもある。

ベトナム戦争の反省からオリバー・ストーンの一連の作品やキューブリックのフルメタル・ジャケットが生まれたが、この映画もイラク・アフガン攻撃に対するキャメロンの思いが反映されており、現在のアメリカの政治的精神的背景が見て取れる。

バーチャルのリアル化が進み、リアルのバーチャル化が深まる中、一人ひとりの日々のあり方が問われていると感じる。

特にバーチャルを支える動機は「逃避」であり、逃げるために使う能力は主に「視覚」である。だから、動機を正すこと、つまり勇気を出してリアルと向き合い、そこから逃げないこと、そして視覚以外の感覚をとぎすますことに鍵があるのではないかと私は思っている。

現代人は何でも簡単に諦め逃げ出す傾向が強い。そして、一般に視覚以外の感覚が弱い。視覚とてそれが優れているというのではなく、強い刺激に慣れきっているだけのことであり、それ以外の身体感覚を使い研ぎ澄ます機会が著しく損なわれているという都市生活の現実がある。

「アバター」の中でも、主人公が「パンドラの森」の中で、部族の一員として受け入れるためにいのちの感覚を総動員して「生きもの」としての充実感を味わう場面がある。

パンドラの人たちにとってのリアルは、リアルなアメリカ人のリアルな息苦しさの反動として創造されたバーチャル世界であるとういうこと。

バーチャルな世界で尊ばれるものが、いかにリアルな世界に欠けているかがわかるという読み方が出来る。

リアルな世界でリアルに良いものをゲット出来れば、誰もバーチャルへは逃げ込まない。キリスト教がバーチャルな教えで脳みそをバーチャル化させるのは、リアルなイエスを知らないからに他ならない。リアルなイエスとつながっていれば、おかしな教会もヘンテコ牧師もいらない。

2010/02/03

「アバター」のリアリティー

最近なぜか仕事上のストレスがけっこう大きい。何やかんや言いつつ、やはり私は真面目なところがあるようだ。「いつも遊び半分」は前にも書いたが、つまり思いっきり遊んでいるのと同じくらいはいつも真面目だということ。

仕事に慣れて余裕が出て来ると、いろいろ考えて手を打ってしまう。そして、問題が起こると、気がつけばギアをローからセカンド、セカンドからサードへとチェンジして加速してしまう傾向にある。ここに来て、仕事に慣れて余裕が広がったのと、相次いで現場でいろんなことがおこるのでちょっと熱くなってしまった。私自身の納得や手応えを求めると、逆に周囲を混乱させることもある。クールダウンが必要だ。真面目が増して来た分だけ、遊びを増やさないと「半分半分」という私のとっての正しいバランスが壊れてしまうではないか。

基本的に私は自分のことでは悩まないので、現場を離れてちょっと深呼吸をすれば、「他人事」をどの程度「自分事」として負うのが「他人」にとってより有益かを整理できる。
こういうバランスを取りたいときは、非創造的な消費型娯楽に限る。ちょうど使わずに残してあった文化鑑賞補助チケットがあった。はからずもmovix橿原ではなく東宝シネマで申し込んでおいたので、今話題の3D映画「アバター」を見ることが出来た。

「アバター」とは、「分身」という意味で、チャットなどのコミュニケーションツールで、自分の分身として画面上に登場するキャラクターのことだが、語源はサンスクリットで、神々や仏の化身を指す。 伝統的にネット上のコミュニケーションは文字だけで行なわれていたが、「アバター」を使うことによって実世界のコミュニケーションと同じように表情や動作による豊かな表現が可能となり、若い世代を中心に広がっている。

「アバター」(分身)にしても「サロゲート」(代理)にしても、バーチャルとリアルの錯綜と葛藤という今日的なテーマを扱っており実に興味深い。いずれも作品としての深みにはいささか物足りなさを感じるが、娯楽作品としては十分な出来である。私は現場の一教師として、バーチャルリアリティーの現実を見極め、その切り分けが明確にすることがこれからの子どもに対応する鍵だと思っているので、この2本の映画は研修教材としても内容が豊富。

いずれの映画も、主人公がふたつの世界の間で葛藤した末の選択の結果を鑑賞者が共有させられるかたちで終わるのだが、その結果が反対なのが興味深い。ネタバレさせるとつまらないので控えめの表現にとどめるが、サロゲートでは、「バーチャルからリアルへ」という方向に対して、アバターでは「リアルからバーチャルへ」というベクトルの向きである。これは、「どちらがよりリアルに感じられるか」ということが鍵になっている。さらに主人公の年齢や世界観にもポイントがある。サロゲートの主人公は中年であり、アバターの主人公は青年である。彼らの人生に対する価値観が選択に繁栄される。もうひとつ付け加えると、リアルな世界でそれぞれの主人公が負っているマイナスの要素がその価値観を左右する。サロゲートの主人公は子どもを失っており、アバターの主人公は下半身の自由を失っているという設定になっているのも見逃せないファクターである。

アバターではあえてそういう描き方を誇張しているわけだが、バーチャルな世界がリアルな世界よりも遥かにリアリティーがあるということが実に「今日的リアリティー」に満ちている。逆にリアルな世界の方があまりにも単純な力と欲望の構図で動いており、そのことがバーチャル世界を肥大させるエネルギーになっている。主人公のアバターはカッと目を見開くが、リアルな主人公はカプセルの中で目を閉じている。

しかも、とてつもない映像を3Dで見せられ、自分もパンドラという国にいる錯覚を覚える体験をする。私の感覚や認知機能が正常であればあるほどバーチャルなものをリアルに感じるのだから何とも不思議な感じである。

「アバター」のバーチャル・リアリティ―は、映画館で体験してみる価値はある。宣伝しても仕方ないけど、DVDでは味わえない。「サロゲート」と合わせて見ると、なお面白かろう。

しかし、別に無理して見なくても、似たようなもっと不気味で不思議で面白い錯綜や反転は私たちの身の回りにいくらでもある。

大事なことは、自分にとってリアリティとは何かということ。つまり、学校が、教員というアバターと生徒というアバターがすれ違うバーチャル世界になっていないか。教会が、牧師というサロゲートと信徒というサロゲートが戯れているバーチャルな世界になっていないかとういう種類の点検である。

気がつけば、「リアルで自然な私」を、「バーチャルで人工的な私」に化身させ代行させている。

私はバーチャルなセンセイにはならず、リアルなおっさんでいることを選ぼうと決意を新たにした。見事ストレス解消。

2010/02/02

無神論者にもなれない日本人

日本人が「私は無神論者だから」などと嘯いているのを聴くと、この人はあんまりマトモにものを考えたことのない人なんだなとしか思わない。なぜなら、何も信じないということは、神の前における曖昧さを保留することに他ならず、そうした態度を無神論ということばで括ってしまうということは、その自覚さえ全くないという告白だからだ。言ってみれば、それは孤児院にいながら、そこがどういう施設なのかわからず、猫の額ほどの園庭の遊具に夢中になっているようなものだからだ。

本当の無神論者というのは、近頃はやりの多神教優位論者のことではなく、ドストエフスキーが描いたイワン・カラマーゾフやスタヴローギンのような人物を指す。即ち、創造主としての神の存在とキリストの贖罪の意味を知った上で、「そんなものはないし、あっても自分には必要ない」と宣言する人のことを言うのだ。

つまり、日本人は無神論者になる前提としての知識や情報さえ持っていないというのが本当ではないだろうか。人権思想や民主主義も背教文化さえも、日本に存在しているものには全てにその基礎や土台がない。しかもそれらはまるで「書き割り」のような薄っぺらさである。

・・・んなわけで、タカ&トシの「欧米か!」というツッコミはなかなかいいポイントを突いているのだ。欧米は既にほぼ決着がついている。

逆に、日本人にはまだ望みがある。きちんと聖書に触れ、福音に向かい合ったとき、何が起こるか。そこはまだ未体験ゾーンだからだ。

キリスト教を追いかけてもキリストの面影はない。

大切なのは聖書そのものに偏見なく向かい合うこと。私の発信はそのためのささやかな道つくりであると自覚している。

2010/02/01

サロゲート

「サロゲート(代理)」という映画は実に興味深い内容を扱っている。老いを克服し災いさえ引き受けてくれる身代わり高性能ロボット「サロゲート」によって営まれる代行社会。オペレーター(持ち主=本人)は、自室にこもって自分のサロゲートを操るだけ。夫婦は一緒に住んではいてもたまに顔を合わす程度でそれぞれ自室にこもってそれぞれのサロゲートに自分の人生を託している。主人公を演じるブルース・ウイリスも本人と自分の分身のサロゲートというかつてなかった一人二役で、理想を実現するはずのサロゲートに人間性そのものを浸食されていく心の葛藤を見事に演じている。

映像は現実離れしたSFでありながら、描かれているテーマが極めてリアルなのでストーリーを離れていろいろ考えさせられる作品である。

現代の先進諸国では、サロゲートなる技術などなくても、すでにひとつの人格が場に応じた演じ分けをして、社会のそこかしこでバーチャルとリアルが反転している気がする。お互いが健全な五感を解放し素直な心を曝して触れ合う場がリアルな世界には殆どなくなっている。そうした歪んだ現実を感じ取る感性がこの映画を作らせたのだろう。だから単に「こんな技術が出来たらそんな社会になるかも」という種類の映画ではない。サロゲート・カンパニーやサロゲート・スクール、そしてサロゲート・チャーチでは事件さえおこらない。ビュンさんなんて生身の変態だったのでまだマシかもね。

私が一番印象に残ったのはサロゲートを失った主人公が生身の姿で街を歩くシーン。あれはまさに毎日の私の姿ではないか。

http://wiredvision.jp/blog/takamori/201001/201001191130.html

これを見るともはやSFではなさそうだ。ますますバーチャルとリアルが交錯し反転する世界になるだろう。

2010/01/31

無縁死

NHKで「無縁死~3万2千人の衝撃」という特集をやっていた。血縁、地縁、社縁の絆が弱くなり、無縁社会が加速化している。

生きているときも存在感がなく、死んでいることにさえ気づいてもらえない人がいる。誰にも泣いても葬ってももらえず、実の子どもが遺骨の引き取りさえ拒否するケースも少なくない。

もっとも親密であるはずの家族でさえそうであるなら、集合住宅のたまたまの隣人や利害でつながった仕事上の同僚や顧客との関係性には、身を委ねて寄りかかれるわけもなく、それが安心感を感じられる温かいものであろうはずもない。

そんな中で一人寂しく死んでいく人の周辺整理をする特殊清掃を請け負うNPOが急増していると言う。

そんな無縁死を恐れて生きているうちにそうした団体に会費を納め契約書にサインをするとき、人は何を思うのだろう。

「いのち」を連呼した首相の空転演説の挿絵としては、あまりに皮肉が効きすぎている。

こうした絆や結束が弱まった世界に人は耐えきれない。まともな家族やなかまを持たなかった人たちは、そうした疑似家族的で過度のコミットメントを要求する集団、すなわちヤクザや宗教団体などに所属して安心を得ようとする傾向が強くなるのだ。

2010/01/30

3月の予定変更について

まだ少し先ですが、3月の教会予定を少し変更しますのでお知りおきください。
皆さんのお越しをお待ちしています。

07 メッセージ ひねくれ者のための聖書講座⑬ 聖餐式
14 分かち合い
21 メッセージ 「ヨルダン川を渡る」(約束の地カナン③)
28 家庭礼拝(天理での礼拝はなし)

2010/01/29

異なる福音に物申す

私のさまざまな発信に触れて、「私だけは違うんだ」というようなメッセージを聴き取って、あわよくば自分もそうした「特別なフィールド」へと思う方もおられるだろうけれど、私のメッセージの核心部分はそんなところにはない。

簡単に言えば「私も含めてみんなゴミだ、何もかも糞だ」ということ。「どうしようもないんだから、そこを見極めてきちんと絶望しよう」ということである。

物の見方やスタイルではなく、信仰が核心にある。

極言すれば、その信仰は、教会に行ったり、祈ったり、聖書を読んだりすることでさえない。そういう習慣を積み重ねることが信じていることの証拠だと勘違いしているといつまでも自分に「信」を置くことになる。信仰とは、自分に絶望し、ただイエスに希望を見ることである。

イエスとともに十字架に架かった強盗のひとりは間違いなく、イエスとパラダイスで再会しただろう。それは紛れもなくイエスの約束であった。彼が教会に行き、祈り、聖書を一ページでも読んだか?No!

彼は自分に絶望し、イエスに希望を見出したのである。彼はただ自分の罪の故にこの世に断罪され、ただひとりイエスがよみがえったのである。福音のメッセージはたったそれだけではないか。

どこをどんな風に読み違えてくだらない付け足しや誤魔化しをするのか。キリスト教徒の謎の読解力と脚色には驚かされる。「異なる福音を語る者は呪われよ」とパウロが断罪したのは当然だ。

イエスの十字架が無効で復活がなかったとしたら、私は仕事なんかしないし、聖書など電話帳以下の読み物になる。家族も邪魔だしギターもつぶす。 私にとっては、それくらい十字架と復活が土台なのだ。

私が生きていることの意味は何もかもそこにあり、そこにしかない。

2010/01/27

思い出のすれ違い②

公立小中学校の教員というのは、子どもというかけがえのない存在を媒介にして、世の中のすべての階層の家族と、利害抜きに長期的につきあえる希有な職業である。

ひとつの教室の中には、商売人の子どももいれば、税理士の子どももいる。職人の子どももいれば、弁護士の子どももいる。警官の子どもと泥棒の子どもが机を並べ、消しゴムを貸したり借りたりして毎日を過ごしている。

従って、公立小中学校の教員の目の前には人間や社会に関する様々な情報が広がっているわけで、教室で出会う子どもたちというのは、そうした多種多様な情報のサンプリングなのである。

こんな「ごった煮状態」の面白い職場は他にはあまりない。特に小学校などは、人格剥き出しの子どもたちと、朝から夕方まで、勉強して遊んで飯食って掃除して、四六時中接していられるのだ。実にドラマチックかつエキサイティングな現場である。

だから、「普通」に過ごしてさえいれば、教員は最も世間知に長け、人間通になっているはずである。ところが、「教師は世間知らずだ」と言われることが多い。なぜだろうか。

それは、「学校」というところは、人間どうしが「普通に」出会うことを妨げる装置だからだ。ここに大きな問題がある。

学校が求める最大公約数的な価値への擦り合わせによって、本来もっと多様で豊かなはずの出逢いが均質化され、「のっぺらぼう」なものになる。過去の思い出による立ち位置やコミットメントの深さの違いで、「すれ違い」や「ねじれ」が起こり、互いに深く心が通じ合うということが難しい。

私はそうした「学校的価値」と、己の「良き思い出」を容易に重ねることが出来るおめでたい幼稚さがどうにも我慢ならない。そういう連中はうわべだけの付き合いでもうわべ程度しか深さのない人にとっては十分な付き合いだったりするのだ。

私はこうした装置の欠陥を観察と経験から学び取って、その隙間をぬって生きてきた。私には信仰と相当過酷な状況でも生き抜くスキルがある。最悪なときに笑い飛ばせるもっと深い絶望とユーモアがある。だから、しょーもない弱音は吐かない。

鍵は「相手の思い出」の中に入り込むこと。そのドラマを擬似的に追想することである。彼らとことばを交わすためには、最大公約的な価値は捨てないと駄目だ。彼らは素数みたいなもの。1とその数以外では割り切れないのだ。彼らは彼ら自身で割るしかない。

相手に「よくなりたい」と言わせることだ。人はボロボロの相手のドラマを知り抜いた上で「よくなりたいか」となかなか問えないものである。

機嫌をとったり、安易に手助けしたりするのは、かえって相手を駄目にする。それがわかっていないうちは本質的なことは何も変わらない。

思い出のすれ違い①

今日の日本においては、ほぼすべての大人が学校という場所を通過している。その大半は戦後の9年間の義務教育をほぼ共通体験として持っている。しかし、その間に紡ぐ思い出はさまざまである。

現在、公立学校の教員になっている人たちは、学校に「良き思い出」を持っていることが多い。それに反して、荒れる子どもの親たちは、学校に「悪しき思い出」を持っていることが多い。

そういう親は懇談にも残らず、奉仕作業に参加せず、教師と見れば不信の態度をとったり、何かと言えば学校を批判したりする。そして、場合によってはモンスター化する。

現場で起こっている問題は、一昔前では想像もつかなかったほど深刻である。

教師たちが自分の「良き思い出」の中へ、そんな親子を取り込もうとしている以上、すれ違いはやむを得ない。問題を起こす親子の多くは、平常時の学校にさえ「悪しき思い出」のイメージを投影しているのだから。

学校という場所がそもそもどのような装置であり、それぞれがどのような立ち位置で学校を通過していくのかということを相対化して整理する能力がなければ、今日的な学校の課題に適切に対応することは不可能である。

せめてもう少し感性が鋭く頭がいいのを採用しないと現場はもたない。

2010/01/26

飛ばないでスフォッフォ

これ、オモロイ。

http://vids.myspace.com/index.cfm?fuseaction=vids.individual&videoid=46919544

昨年、最も印象に残ったタンゴのライブで会田桃子さんのバックで演奏していたベースとピアノのふたりにドラムスが加わったスフォッフォというグループ。

レコードの音トビをジャズにしているのだが、これが見事。遊び心あふれる演奏がお洒落。

ベースの鳥越氏と話したとき、「まんまりタンゴはやりません。自分のバンドではいろんなことやってるんですが、こんなことやってるとは口では説明できないんです」と言ってたが、これを聴いて、なるほどと納得した。

空気の研究②

最近はあまり聞かなくなったが、若い世代を中心に「空気読めない」を意味する「KY」ということばが流行っていた。

この「空気」は大きな組織ではなく、もっと小さな同質グループにおける「空気」を指している。

「KY」は、仲間内の調和を乱すメンバーに反省を促す記号である。ある人に「KY」というレッテルを貼り付けるとき、その場の雰囲気や話題の流れや落ち着きどころを無視した言動に対する批判が込められている。逆にその空気を読み、その範囲の中で言動を治めていれば「浮く」ことも「はみ出す」こともなく、居場所を確保できるというわけだ。

実に嘆かわしいことだが、彼らはこうして誰かと一緒に「よどんだ空気」に包まれていることによって取りあえずの身の置き所を確認しているのである。そこにしか居場所のない脆弱な若者はその群れに属し続けるストレスをKYな弱者を攻撃することで発散する。

空気を読まないメンバーを排斥することによって、グループ内の空気をより均質で強いものにしようという力が働くのである。

私が「風」にこだわるのは、こういう「空気」を嫌悪するからなのだ。風を感じるには、外に出ること、少なくとも大きく窓を開けることが必要だ。

2010/01/25

空気の研究①

私が室生に居を構えて間もない頃、すぐそばにゴミ焼却施設が出来るという話になり、自治会でもそれに向けていろいろな話し合いが進められていた。ある程度の方向性が決まった段階で住民への説明会があった。そこに私も参加した。

自治会の人たちの説明の後、意見交流があり、私は住民としての最低限のことを確認したところ、役員が怒りと不満をぶちまけて私に反論し始めたのである。私は「こいつは正気か」と思いながら、驚き呆れてその馬鹿話を聞いていた。

要するに彼らは「忌憚なきご意見をお願いします」と言いながら、自分たちの提案をすんなり受け入れ、その労をねぎらって欲しかっただけなのだ。

この自治会に関わらず、一応かたちだけの民主的手続きをとりつつも、結局執行部が好き勝手にやって利権を独占したり、小数の事にあたる人間だけが意味不明のやり甲斐を感じて自己完結している例はそこかしこにあるのだ。

よどんだ空気は、彼らの汗くささや体臭とひとつになり生臭い風となる。そのような風には決していい音楽はのっからないものだ。

好き勝手にやってくれている分には何でも結構だが、周囲にそれを押しつけるような空気を感じると辟易とさせられる。

「良いことをやっているんだ」という自己満足はいい。「自分が良いことをしていることを認めてほしい」という気持ちもわからないでもないし、ある程度は我慢できる。しかし、「みんなも自分と同じ価値観を共有し、同じようにするのが正しいのだ」と、押しつけがましく上から目線で近づいて来ると、逃げ出したくなる。

組織や共同体が大きくなると、当然のことながら公約数は少なくなり、それぞれの群れに特有の窮屈さを押しつける空気が漂うようになる。

仕事をする上で割り切った大人の協力が出来ない連中に限って、親睦を深めて酒を飲んだり、旅行に行ったりすることを妙に重んじるものだ。それ自体は悪いことだとは思わないし、私も幹事がまわってくればきちんと責任は全うするが、オフタイムの交流の中でオンタイムの空気感を確認しようなどとはさらさら思っていない。

2010/01/24

朝聞夕死

今朝の産経抄は、私が書いた「朝三暮四」と同じテーマを扱っていた。

http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100124/plc1001240304001-n1.htm

しかし、どうにもユーモアと品格に欠ける文章が鼻につく。何より憂いが感じられない。その代わりに表現の端々にマスメディアの奢りを感じる。何より文章が下手だ。今は論説委員が輪番で書いているらしいが、前任の石井英夫氏がずいぶんマシだ。

最後に似たような語呂の「朝聞夕死」という論語のことば(朝、道の教えを受ければ、晩には死んでもいい)を引いて、「そのくらいの気持ちで政治の道を学んでほしい」と結んでいる。

やれやれ。何様のつもりか。

「お前こそ、朝刊に良い記事書いたら、夕刊に自分の訃報が載ってもいいぐらいの気合いでペンをとれ」と言ってやりたい。

私は何か発信するときには、少なくとも十分傷ついている。

2010/01/23

秘密のテキスト公開

徘徊指導生活も残りわずか。木曜日の学校は担当する方が産休に入ったのですでに終了。どの学校もあと5回程度で今年度の仕事はおしまい。

私のことをいつでも何処でも、かなりやりたい放題、言いたい放題にふるまっているように思われているかも知れないが、実際はそうではない。特に仕事ではずいぶん遠慮して、言いたいことは百のうちせいぜいひとつかふたつしか口にはしないのが、現時点での私の方法である。 我慢して自分を押さえているわけではない。

自分が正しいと思い込んでいることが常に益になるとは限らず、言いたいことは言うべきことでないことが多い。そういうことはたっぷり学習してきた。とにかく聴き手の姿勢とキャパでずいぶん内容は制限され精選される。最終的に子どものマイナスになるようなことや、相手や自分が不愉快になることは注意深く避けているのだ。

・・・・とは言うものの、内容はほぼ全面的に私個人の裁量に委ねられているので、この自由を全く無駄にするのはもったいない。せっかくだから他で絶対聴けない話もしてやろうと思い結構面白いネタを準備している。とりあえず、少しは楽しみたい。

指導内容の8割は、その日その時の授業や子どもの事実に基づいた振り返りや考察で、抽象的な価値を押しつけるような話はいっさいしないようにしている。ただ残りに2割は、私の経験に基づいた私にしか言えないこと伝える。その為にこの1年ゆっくり記憶を整理し、資料は常に集めてきた。

今回は、金曜日に指導に使ったテキストを特別に公開しよう。

私の20年余りの現場観察によれば、「プロレスの醍醐味を本当に知っている教師は例外なく学級経営に秀でた手腕を持っている」と言う仮説を立てることが出来る。それがなぜなのかということを、私が実力を認める3人のレスラーの証言をもとに私の教育との関連を示す簡潔なコメントによって構成したテキストを作成した。

なぜプロレスなのかというと、上記の理由の他に、金曜日に勤務する学校(毎朝おはボンがかかる)の校長先生も教頭先生も、そろってプロレスに深い理解と愛情をもっておられるからなのだ。今回も事前にこのテキストをおふたりに見せたところ、「あきれるほどに素晴らしい」と絶賛をいただき、私もずいぶん気をよくしたと言うわけ。

興味のない方には非常にくだらない内容だと思うが・・・・


では、どうぞ。




八百長批判に対するレスラー語録に学ぶ

A
「(バックドロップの際)相手の選手レベルに合わせて角度を調節する…以前そのように話したら、  “本 気でやっていない”と批判されたことがある。もちろん私はいつも本気だ。“プロレスは殺し合いではない”と思っているだけなのだ」(ジャンボ鶴田)

B
「最近は投げっぱなしジャーマンや投げっぱなしパワーボムがはやりだが、私個人の意見では、どんなに首を鍛えたレスラー相手でも避けるべきだと思う(首は鍛えられない)」(ジャンボ鶴田)

C
「反則は基本的には不器用なレスラーが、自分のペースを取り戻すためにやることであってね。いきなり目つぶしとかされたら、作戦を持ってたレスラーも瞬間的に考えが飛んじゃうでしょ。そういう効果を狙うもの」(三沢光晴)

D
「総合格闘技は勝敗だけが焦点になる世界。いい選手がいなくなったら飽きがくると思う。プロレスには勝ち負け以外にも見るところがたくさんあるし、飽きられることはない」(三沢光晴)

E
「プロレスはロープを使って上下左右に動けるから、体格差のある相手とも闘えるんだよ」(三沢光晴)

F
「受け身を取るのは、相手の攻撃がキツイからじゃない。体をぶつけられたり蹴られたりした力を後ろに逃がしているだけであってね。受け身をたくさん練習するから、プロレスはやらせだなんて思われても困るんですよ。ロープに飛ばないようにすることは、もちろんできますよ。ただ走らないようにすると、相手に片腕を取られた状態になる。片腕を取られてロープに行かない場合は、相手にそのまま肩とか肘を抜かれちゃう場合もある。人間の関節って外れちゃうものなんですよ」(三沢光晴)

G
「ドロップキックの自爆程度なら、ただ痛いだけですよ。でも精神的なダメージがありますよね。“ああ、スカされちゃった。カッコわりぃ”っていうね。プロレスの試合っていうのは、ひとつの技をマスターするまでにかけてきた時間や、努力の結果を出す場でもあるわけですよ。それは相手も解ってますから、相手のフィニッシュホールド(決めワザ)は何度も受けられないけど、ドロップキックぐらいは受けてやるわけです」(三沢光晴)

H
「技をやった時に、そのつもりはないのに、モロに急所が入っちゃう時がある。膝蹴りって基本的には膝を鋭角に入れちゃいけない。エルボーでも肘の骨は当てないつもりでも、当たっちゃう時がある。そういう時には、分からないように相手に大丈夫かと聞くことがありますよ。お客さんに知られちゃマズイけどね。あるいはロープに飛ばしたりして、相手に軽い技を出す。でも技を出すのも受けるのも上手じゃない選手がいる。例えばドロップキックを打っても、体が上がりきらないで相手の腹に入るような奴ですね。まぁこれは若手を相手にしたときの試合の話ですけど、ああこいつは俺の技はまだ受けられないな、と感じたときは実は(技を)事前に教えてやることがあります。まあそれは相手が未熟な場合のみですよ」(三沢光晴)

I
「相手の技をいかに美しく受けてみせるか、それが“受けの美学”。それはもう愛ですよ。こんなに素晴らしいスポーツ、ないじゃないですか」(武藤敬司)

J
「総合格闘技を柔道のように競技として追求するものとして見ている。プロレスはまったく違う。プロレスラーは芸術家であり、職人でもある。試合は技術を見せる作品だと思っている」(武藤敬司)


教育現場に適用すると・・・
学校不信に対する信頼回復の心得として

A
子どもに課題を与えるときは、発達や能力にあわせて内容を調節する。

B
あわただしさの中、教えっぱなし、やらせっぱなしになることが多いが、どんな子ども相手でも避けるべきだろう。

C
授業の中で、ハメをはずす子どものぺースに乗せられてしまうことが多い。不器用を自覚するなら、自分のペースを取り戻す効果を狙った手練手管が必要だ。

D
「大きい・小さい」「はやい・遅い」「強い・弱い」「出来る・出来ない」で勝ち負けを競ってはいけない。世の中には見るべき多様な価値がたくさんあるんだと伝えよう。そうしないと、度重なる負けは、子どもにとってダメージが大きすぎる。教室にいることを、学ぶことに飽きさせてはいけない。

E
学校や教室という枠(制限)をうまく利用することで、さまざまな違いを豊かさに変えて、共に互いを生かし、また実りを分かち合うことが出来る。窮屈かつ滑稽と思える教育のフレームをいたずらに批判するだけでなく生かす発想が大事なのだ。

F
教師からの指示命令は攻撃であり、聴くことは受け身である。子どもの無駄な力も上手に受け、後ろに逃がしながら、一人ひとりの子どもの持っている一番良いものを出させたい。

G
授業には、その単元におけるねらいの実現にむけて、準備にかけてきた時間や努力の結果を出す場である。子どもたちにもそのことを理解させ、教室をともに磨いた技を出し合えるリングにするのだ。

H
配慮を要する子どもには、大丈夫かと声をかけたり、つまずきが予想されるときには、事前にヒントを与えてやったりすることも必要だ。

I
子どもの発信するものをいかに美しく受けてみせるか、それが“受けの美学”。それが教育における愛。授業づくりも、学級経営も、児童理解も、すべてそこにつきる。

J
塾や予備校は利益を追求するものとして見ている。公立学校は塾や予備校ではない。商売ではないのだ。教師は芸術家であり、職人でもある。授業は技術を見せる作品だ。

2010/01/22

朝令暮改

鳩山首相が、午前中の衆院予算委員会で、「朝三暮四の意味を知っているか」と尋ねられ、「よく知ってます」と前置きした上で「朝令暮改」の意味を説明、とんだ赤っ恥をかいた・・・というニュースが昼休みには早速流れていた。これは、自民党の茂木幹事長代理が、麻生前政権が昨年4月に成立させた平成21年度第1次補正予算の一部を鳩山政権が執行停止した一方で、第2次補正予算案に停止した事業を盛り込んだと批判する狙いで、朝三暮四の意味をただしたもの。ところが、首相は「知っている。朝決めたことと夜決めたことがすぐ変わるという意味で、あっさりと物事を変えてしまうことだ」と自信満々に語ったと言う。

茂木氏が得意気に正すまでもなく、朝三暮四とは、「朝と夕で数を変えることでごまかす」ということ。「猿にトチの実を朝に3つ、暮れに4つ与えると言ったら文句を言ったので、じゃあ朝に4つ、暮れに3つやると言ったら喜んだ」という中国の故事に習ったもの。

「麻生さんは漢字が読めなかったが、鳩山さんは諺も知らないのか!」と、自民党は嬉々として揚げ足を撮ったようだが、これは麻生さんの漢字間違いとはちょっと意味が違う。鳩山さんには、自分のやっていることはまさに「朝令暮改」であるという後ろめたさがあるので、似たような故事成語で責められたときに、思わずその意味を自分の態度の説明として、ある意味開き直って喋ってしまったのだろう。自分が突っ込まれるならそこだと思っているわけだ。そりゃあ、どれだけ鈍感でも思うわなあ。

だから厳密に言うと、「朝三暮四」というのとはちょっとニュアンスは違うのだ。鳩山氏の勘違いを責め、「似ているが違う」とつっこむ茂木氏に。私がツッコんでおこう。

朝三暮四とは、「目先の違いに気をとられて、実際は同じであるのに気がつかないこと。また、うまい言葉や方法で人をだますこと」の両面の意味がある。つまり、飼い主サイドに立てば、文句を言う猿を誤魔化すための狡猾な交渉だったわけだし、そこには一貫性画ある。残念ながら鳩山氏にはこの知恵も計算もない。誰が見てももっと苦し紛れの結果なのだ。又、この場面でこの諺を出すのは、「国民を騙される猿呼ばわりしている」わけで、意味を取り違えた鳩山氏よりも、むしろわざわざこの諺を引用した茂木氏の良識と知性を問いたいところだ。

勿論、マスコミの騒ぎどころもピントがずれている。

そう言えば、去年の今頃も同じ参院予算委員会の質問で同じようなことをやっていた。当時の民主党の石井副代表が麻生さんに「漢字テスト」をして物議をかもしていたのをご記憶だろうか。石井氏は、麻生さんが月刊誌に寄せたとされる手記からわざわざ12の漢字や熟語を抜粋して「あなたの漢字力からして誰か(別の人間)が書いたと思わざるを得ない」などとネチネチ責めたのである。何という根性悪だろう。

この後、苦情が殺到し、結果的には揚げ足をとった民主党のイメージダウンになった。「国会でまともなことを話せ」「国会をバラエティー番組か」という「2ちゃんねる」にも書き込みの方がむしろマトモだったくらいだ。

1年たっての仕返しが、今日の諺事件。まさに「目くそ鼻くそを笑う」である。

相も変わらず、国会で何をやっているのか。国情が危機に瀕しているのに、クイズやお笑いをやってもらっては困る。自民党も、民主党も、いくら何でももうちょっとしっかりしてもらわないと・・・・

                    

2010/01/20

ルーレットはいつか止まる

人は騙す者であり、騙される者であり、そして騙されていたい者である。

様々な「陰謀論」が蔓延している。信憑性の高いものからトンデモ話まで・・・

宗教は糞喰らえ。科学では割り切れぬ。

つまるところ、真偽のほどはわからないのだ。何につけ、万人を納得させる証明は難しい。

「わかろうとする」と人は混乱する。「自分のわかる」筋書きにしようとすると、これがホントだという嘘が生まれる。手の届かぬ巨悪をでっちあげ、これに責任を押しつける。

そもそも、この世界そのものが巨大なフェイクである。「真相はこうなんだ」ということが明らかになったとしても、特に驚くには足らない。だから、私は何をするのかが問われることはあまりない。

陰謀論者には、他人のふんどしで相撲を取りながら、異常にハイテンションで調子に乗る馬鹿が多い。「猿沢の池に龍が出るとデマを流して、野次馬が大勢集まるや、自分もその気になって見物に出かけた」というあの古いお話に似たようなことになる。(多分、出典は宇治拾遺物語)自業自得だが、烏合の衆の興味を煽るためにガセネタを垂れ流すと後に恥を見る。

インターネットの普及は、情報というものの質と量を劇的に変えた。椅子に座って指先を数回動かしただけで、誰もがかつては絶対知ることのなかった内容に簡単にふれることが出来る。裏と表がところどころで反転し、秘めておきたい情報も最早隠しきれなくなってしまった。

「これが本当だ」と口々に皆が違うことを言い出し、その中に本当も嘘もないまぜになっているというのが本当だ。

その情報の量はあまりに多く、その質は細かく、発信元も多様であり、発信者の動機もさまざまである。

だから人は、最終的に自分の信じたい情報を選びとるしかないのだ。

それは多くの場合、自分にとって都合の良い情報であることが多い。同じ嘘ならマシな嘘をつきたいし、同じ見るならいい夢を見たい。誰だってそう願う。すべての事柄について、100%の真実をつきつけられたら、私たちはそれに耐えられないに違いない。

最終的に、人は何を信じたかによって自分を値踏みするのである。何を信じようが自由だ。しかし何を信じたかによって、生き方や最期、そしてその先は大いに異なる。

畢竟、私の信じていることも、ただ私が信じているだけのこと。その確かさを裏付けるものは何もない。自分に騙されても、他人には騙されまいとそう思う。

イエスに騙されるなら私は本望である。それは賭けだ。

ルーレットはいつか止まる。

2010/01/19

違いと同じは違うが同じ

某研究会の事務局長時代、そして現在の徘徊生活の中で、たくさんの学校をいろんなかたちで見て来た。どの学校も全く違うと言えば違うし、全く同じだと言えば同じだ。どこの学校の校歌や校訓も、別のどこかの学校と交換しても気づかない程度に似ているのである。それは、徳や真理の普遍性ということとは別の次元での共通項であるから誇りが持ちにくい。

確かに「組織は人」だと思うが、個人がどれだけ頑張ろうがどうにもならない面も否めない。個人は組織という「からだ」にとっては、新陳代謝によって入れ替わる「細胞」のようなもので、局所的に見れば、その実体を担っていると言えば言えなくもないが、何かもっと別の価値を負わされていると言えばそうも言えそうだ。

個人の資質を上手く生かす組織もあれば、殺す組織もある。自分の資質を生かせる組織に人は所属しようとするのだろうが、反面「良い組織」「強い組織」は、パーツの交換可能性が高い。個人がシステムにどこまでどんな風にコミットメントするか、そこが問題だ。

つまるところ、学校と言うところは、さらに大きなシステムを支えるさまざまな組織のパーツとなりうる均質性を追求させるところのものであるから、違うと言えば違う程度の均質性の中で、統一規格の誤差程度の個性しか認めないのだ。

初めから認められないことを前提とした「浮き」や「はみ出し」を覚悟した者だけが、お仕着せの価値を少し押し広げて、「違い」がわかる奴に育っていくのだと思う。

2010/01/18

リコーダー講座とライブのご案内

物凄く暇な方、好奇心旺盛な方はRealSaltと遊びに来てください。

ふるさと元気村リコーダー講座 
と き  1月23日(土)・2月20日(土)・3月20日(土)
【午前の部】 10:00~12:00
【午後の部】 13:30~15:30  参加費1500円
ところ   室生ふるさと元気村 創作実験工房「童」  
宇陀市室生区下田口1112番地
http://www.bunkajnara.pref.nara.jp/cgi-bin/top_kuukan.as
※リコーダー講座、今年も続けます。ますますパワーアップ。毎回楽しいですよ。午前午後は別メニュー、ゆっくり遊びに来てください。ワンコインでうどんやカレーが食べられます。

Salt&Uribossa Valentine Live ~ラブソングなんて歌わないで~
と き  2月13日(土)18:00開場 18:30開演 チャージ1000円 
ところ  アルコ・カフェ
     磯城郡田原本町阪手208-3 0744-33-5899
(24号線auがある阪手北交差点東へ 田原本生涯学習センター近く)
※レコ発ライブが好評を得て、早くもアルコで2回目。バレンタインデーにちなんで、身も心もとろけるようなラブソングを、おじさんふたりでお届けします。 6:00に開場します。食事も出来ます。

Tetra at Café terrace NZ
と き  2月27日(土)15:00~ チャージ1500円(ドリンク代別)
ところ  カフェテラスNZ 
奈良市法蓮町1330番地の1  0742-42-7115  
※ Tetra (ケーナ/すーちゃん ピアノ/ももちゃん ギター/Salt)
ハーブクラブでのお月見ライブを見てくれた店長真絹さんから直後にオファーをいただき、ずいぶん先の話だと思っていたら、もう目の前です。
      

2010/01/17

Remember 1.17

ハイチが大変なことになっている。未曾有の大地震である。生き埋めなどで救出を待つ場合の「生存の限界」とされる発生後72時間を過ぎた。救援活動は遅々として進まず、治安も悪化している。

そんな中、日本では神戸の震災15周年を迎え、かなり複雑な気持ちだ。ハイチは遠く私は無力である。

あれからもう15年か。

10年目の時にはJR神戸駅で大きなライブやイベントもやった。

神戸の被災者が中心になって中越の被災者を励ましに行くことに、当時は大きな意義も感じていた。中越の震源地で行ったいくつかのライブは今も忘れられない。仮設住宅に荷物を運んだり、剥がれたクロスを張り直したりした。でも、自分に出来たささやかなことよりも、出来なかった多くのことを思う。

何もしないことの言い訳なんて、探さなくても何処にでもある。キチンと仕事をしているまともな大人に赤の他人に関わる時間なんて、無理して作らなきゃ無いに決まっている。そして、たとえ時間を作ってからだを動かしても、一個人に出来ることなんて限られている。そんなことは初めからわかっていた。それでも、何もしないよりは少しはマシだということを示したかったのだ。そうしたことを踏まえた上で、焼け石に水を打ちに行ったわけだ。

「神戸の記憶を風化させない」とは、一体何を指してそう言っているのか?

被災者のエゴだってある。ボランティアの自己満足もある。自治体の運営や防災の仕組みの問題もある。揺れたのは地面だけではなく崩れたのは建物だけじゃない。神戸は復興の中で反省をかたちに出来たのだろうか?大いに疑問が残る。

2010/01/16

Salt's Bible Messages podcast

Lukeさんが、メッセージをpod castingしてくださいました。過去のメッセージもともにダウンロード出来ます。どうぞご利用下さい。

http://www.kingdomfellowship.com/Salt/dircaster.php


私の知らない間の出来事でした。

Lukeさん、ありがとうございました。

Dois Mapas on You Tube

「風のメロジア」の中の1曲、Dois MapasのスライドショーをYou Tubeにupしました。

http://www.youtube.com/watch?v=X2eoNErmAM0


かなり恥ずかしい画像の嵐ですが、いつの時代、どの場面をとって「私」は「私」なのかと不思議な気分になります。いつの頃からか、楽器は私の一番の友となり、音楽に浸って生きてきました。

「今いる此処と そして目指すべきところ 僕の心とからだは何処にある?」(Dois Mapas)

約束の場所は、此処でもあり遥か彼方でもあり・・・

僕らは信仰によって永遠につながる今を生きているのです。心の中にある宝の地図、そこにはみことばの暗号が隠されています。

2010/01/14

徘徊ネタ

今年は毎日違う学校に出勤している。「大変でしょう」「落ち着かないでしょう」と行く先々でよく言われる。これまで(事務局長時代)はもっと大変だったので、それに比べれば大したことはないし、元々あまり落ち着かないタイプなので、落ち着かない状況には余裕で対応できる。いつもそうだが、何をやらされてもそれなりに楽しませてもらっている。つまらないようなことがけっこう面白く、面白そうなことが案外つまらない。

月曜日は4年生、火曜日は5年生、木曜日は3年生のクラスだが、子どもにとって、この1~2年の生活年齢の違いは大きい。今日は木曜日。元気いっぱいの3年生。ギャングエイジなどと言われるように、3年生くらいのテンションは一番高い。

今日も、教室へ入って一番後ろにある席に座ると、数人の子たちが近寄って来て「今日は給食一緒に食べてや」と声をかけてくれる。皆ににこにこしてうなずいているとエライことになる。「去年から予約してんで」「さっき先生、私のとこ来るって言ったやんか」となる。一応予約を最優先するのが筋なので、そう説明すると納得してくれた。そんなやりとりの間、私のひざの上ではひとりの子が座って本を読んでいる。何人かは20分遊びにも「鬼ごっこをしよう」と職員室までやって来る。

週に1回しか来ない変なおっさんを何でこれほど慕ってくれるのかよくわからないが、私にとっても、子どもと遊んでいるのは、大人の相手をするよりはいくらか健やかなのだ。子どもは他の先生とは違うオーラを出しているおっさんを面白がっているだけだが、私もキチンと相手をしてやらないと、子どももすぐに飽きてしまう。そういうものだ。

誰もが4年生になり、5年生になり、6年生になり、中学生になり、高校生になり、大学生になり、大人になっていく。

それぞれの発達段階でやっておかないといけない経験というのはある。

先日5年生のクラスで、給食の時間に聞いてみた。
正月に、たこあげをした人、こままわしをした人、福笑いをした人、はねつきをした人、すごろくをした人、かるたをした人、がそれぞれ何人いるかということで挙手してもらった。

「たこあげ」と「こままわし」が1で、残りはゼロ。ちなみに「たこあげ」をした子と「こままわし」をした子は同じだった。

そして、すべての子どもがお年玉をもらっており、ほとんどの子どもが初詣に行っていた。

別に昔の正月の遊びをすることが素晴らしいというわけではないが、今、たこあげをしない子どもは、人生で一度もたこあげをしたことがない人間になる可能性があるということだ。どうでもよさそうだが、こういうことが決定的に大きいのだ。

小学校では、そういう子どもの当たり前の体験のすそ野を広げてやる働きかけが必要だと考えている。

マトモな大人にキチンと関わってもらえなかった子どもは、動物園生まれの獣のように、野生の本能を奪われ、自立する力を失ってしまう。餌の採り方もわからず、檻の不自然さにも気づかずに育つのだろう。

私は子どもと関わるとき、「生きものとしてのヒト」にとっての「快」や「不快」を大切にする。「気持ちいいこと」と「楽しいこと」を正しく追求すれば、良心を羅針盤にした正常な反応が出来る。かけひきのマニュアルとしてではなく、人に迷惑をかけたら「ごめんなさい」よくしてもらったら「ありがとう」と自然に言えるようになる。

私は学校という檻の中で子どもの「野生」を育みたい。虚勢された犬みたいなガキやファーストフード店の店員みたいな小娘は増やしたくない。

2010/01/11

メッセージの配信に関するお知らせ

新シリーズ「約束の地カナン」が始まりました。 これからおそらく1年にわたって、ヨシュア記を中心にお話していく予定です。なお「ひねくれ者のための聖書講座」は継続して行います。共に月1回のペースで行います。時折、特別なテーマやゲストのメッセージもあるかも知れません。ご期待ください。

さて、メッセージの配信についてですが、これまでは横浜KFCのサポートのもと、富士宮のemiさんが管理してくださっていました。ところが、昨年末からのemiさんの病状の悪化に伴い、2010年より桑名のkoji君が力を貸してくださることになりましたので、お知りおき下さい。

emiさんの病状に関しては既にご承知の方も多いと思いますが、極めて厳しい状態です。彼女に関わる主のみこころがなりますようにと心から祈るばかりです。

年が明けてから、Lukeさんご夫妻、Koji君ご夫妻、愛知県のさっちゃんが、emiさんのお見舞いに行ってくださっています。

誰が計画したり組織したりしているわけでもないけれど、各地の兄弟姉妹達の不思議なつながりが生まれ育ってきています。それはとても新しくまた懐かしく、やさしくて温かい、そして何よりとても自然な関係です。私はそこに既存の教団教派とは違ういのちの流れを感じています。

新たなキーステーションとしての役割を担ってくれたKoji君に対しては、感謝と期待の気持ちでいっぱいです。


☆  ☆  ☆  ☆  ☆



こちらのブログをご利用ください。メッセージごとにコメントも書き込めます。http://saltcanaan.exblog.jp/

是非、継続してメッセージを聞いて下さっている方は、ブログのコメント欄にも足跡を残し、交流を深めていただけますようにお願い致します。

2010/01/09

カナン教会聖日礼拝スケジュール1~3月

2010年1~3月のカナン教会のスケジュール

1.10  メッセージ 「ヨシュアの登場」(約束の地カナン①) 聖餐式
 17  分かち合い  
 24  メッセージ ひねくれ者のための聖書講座⑪
 31  分かち合い

2.07 家庭礼拝(天理での礼拝はなし)
 14  メッセージ 「遊女ラハブの信仰」(約束の地カナン②) 聖餐式
 21  メッセージ ひねくれ者のための聖書講座⑫
 28  分かち合い

3.07  メッセージ 「ヨルダン川を渡る」(約束の地カナン③) 聖餐式
 14  分かち合い
 21  家庭礼拝(天理での礼拝はなし)
 28  メッセージ ひねくれ者のための聖書講座⑬

礼拝に来られる方は参考にしてください。都合により予定は変更される場合があります。

いのちのままに

エシュコルさとやんが、昨日の「遊びの達人?」の記事を受けてこんなメールをくれた。彼のコメントと私の返信を少し膨らませて紹介しようと思う。

「新社会人になりたての頃に先輩に言われた事は、仕事を一生(所)懸命する人は遊びも一生(所)懸命する人だと、教えられました。その逆もしかり。Saltさんは上記と違う哲学の持ち主で、しかも奥が深いという印象ですね。私はSaltさんは勿論、Lukeさんも『遊びの達人』だと思っています」

  
 ◆       ◆        ◆        ◆        ◆         


鍵は何を見何処とつながっているかということ。我々は誰もが神の栄光を何らかのかたちで反映するために作られており、キリストを味わい楽しむために生かされていると信じること。

空の鳥や野の花でさえ神の栄光を表しているのなら、キリストの花嫁は何をか言わんや。しっかり愛を受け止めて、花嫁を飾りたい御方に装っていただこう。

そもそも鳥や花に仕事も遊びもない。彼らは与えられたいのちを、そのいのちのままに生きているだけ。

Lukeさんの何を見習えばいいのか。それは彼のお勧めの映画を観ることや温泉へ行くことじゃない。学ぶべきポイントはただひとつ。その信仰のスタンスである。私はこの点において大いに共鳴している。

スタンスがしっかりしていれば、誰でも自分の持ち味や出番が自然に見えてくる。これを賜物と言ったりするのだが、妙な方向を向いていると、大混乱が起こるわけだ。

2010/01/08

遊びの達人?

Dr.Luke氏が御自身のブログで、私を「遊びの達人」と紹介してくださっていた。(7日の「冬眠生活へ・・・」の記事)この栄誉ある称号を頂いたからには、調子に乗ってもっと遊ぶしかない。

遊ぶためにはお金と時間がいるが、お金も時間もあんまりないのにかかわらず、それらがたっぷりある人以上に楽しめるのが「遊びの達人」たる所以である。

お笑いであっても、「笑われる」より「笑わせる」方がレベルが高い。「笑わせる」より「思わず笑ってしまう空気を作る」方がさらに上である。遊びにおいても、「さあ今から遊ぶぞ」と力んだり、逆に無理に力を抜いたりしなくても、自然にその場を楽しんで、周りを楽しませているのが素敵なのだ。遊ぶのに疲れ果てるのは馬鹿げている。気がついたら遊んでいたというのが正しい。しかも誘いもしないのに、みんなが自然に巻き込まれ、みんなが面白がっているのが最高だ。

基本的に「仕事」は「遊び」の反対語ではない。仕事の中に遊びの要素が含まれていなければ、いい仕事なんて出来ないし、仕事の段取りが悪い奴に遊びを企画させてもつまらない。創造的な仕事をしている人は、遊びもまた創造的である。スケールの大きい仕事をしている人は遊びのスケールも大きい。

私は遊園地とかゲームセンターの仕掛けに乗っかることは遊びだと見なしていない。遊園地の外側こそ「遊びの園」であり、他人のプログラムにはまらないことこそ「本当のゲーム」の始まりである。

さらに言えば、例えば、楽器が出来なきゃ、音楽的な遊びは出来ない。遊びには最低限の訓練やスキルも必要なのだ。そして違いがわかるセンスが不可欠だ。追いつめられても自分を笑えるユーモアがあればさらにいい。

私が出来ることはごく限られているので、さらに広範囲でレベルの高い遊びが出来るように力をつけたいものだ。挑戦したら面白いだろうなと思うことはまだまだ山ほどある。

神の憐れみという観点に立てば、絶望の大きい者には、慰めもやや大きいということかも知れない。

2010/01/07

身内に峰打ち

身内とはどこまでの範囲なのか。

戦争にボロ負けして、現人神であった天皇は人間宣言をし、天皇を中心とする「おらが国」の身内意識は崩壊した。

産業構造が大きく変わり、過疎化による若年層の都市への流出によって、地域の共同体の秩序は失われ、「おらが村」の身内意識は崩壊した。

企業における終身雇用は崩れ、生き残りをかけた相次ぐ統廃合によって、「おらが会社」の身内意識は崩壊した。

これらの崩壊した身内意識の中には、いくらか滅私奉公という要素があった。

しかし、ただ自分が身を寄せる大樹として選ぶ集合の中には、良質な意味での身内意識は生まれようがない。

そして、本当の身内である家が崩壊している。

良くも悪くも、この終わりの時代、人は剥き出しの個人として孤独に曝されている。

2010/01/05

寂しい国の龍馬伝

ちょうど12年前の寅年1月に、もうひとりのムラカミ「村上龍」が『寂しい国の殺人』という本を出版している。


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「現代を被う寂しさは、過去のどの時代にも存在しなかった。近代化以前には、近代化達成による喪失感などというものがあるわけがないから、わたしたちは、現代の問題を、過去に学ぶことが出来ないと言うことになる。今の子どもたちが抱いているような寂しさを持って生きてきた日本人はこれまで有史以来存在しない」

「それなのに、相変わらず過去に学ぼうとしているのは主に偏差値の低い中高年の男達だ。織田信長だろうが坂本龍馬だろうが吉田茂だろうが、彼らが今生きていたとしても、例えば帰国子女の悩みにも答えることができない。それなのに、信じられないことだが、織田信長に学ぶ危機管理術というような特集を組む雑誌が未だにあとを断たない」

「だがバカな中高年の男たちのことはもう放っておくしかない。自分のこれまでの人生を否定することになるので、よりよい集団に属するという価値観を彼らは死ぬまで変えないだろうし、退行と反動化の中枢を担っていくはずだ」

「排除と制裁という解決策は、正しいとは思わないが、近代化途上の国だったら有効だと思う。この国のメディアは、2年前、オウム真理教になぜあれほど高学歴の人間があれほど多数入信したのか、ほとんど問わなかった。女子高生が援助交際する理由も問わない。ブランド品が欲しいからという女子高生側のこじつけを信じているが、マクドナルドで半年アルバイトをしてプラダのバッグを買う子はいない」『寂しい国の殺人・村上龍』



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「現代を被う寂しさ」ということばが指し示すところの空気は、2010年になって、都市部だけでなく、いっそうリアリティーをもって全国に広がっている。「今の子どもたちが抱いているような寂しさを持って生きてきた日本人はこれまで有史以来存在しない」ということばは本当だと思う。

「寂しさ」はキーワードである。本当に寂しい時代だ。どこもかしこも寂しすぎる。

大河ドラマ「龍馬伝」が始まった。

ドラマは見始めると結構続けて見る。見ないと決めたら一切見ない。そんなことどっちでもいいが、そういう性格である。

とりあえず第1回目の録画を観た。好んでご覧になる方も多いと思うので、出来るだけ無粋なコメントは避けよう。そう思って村上氏の本を引用した。

大河ドラマそのものよりも、なぜ今このドラマなのか、この人物がこんなふうに描かれるのかに興味がある。

異常なまでの龍馬人気の背景には、やはり国民全体に国を憂う気持ちや、気骨のあるリーダーの到来や抜本的な改革への願いがあるのだろう。

ただ、Salt史観によると、薩長連合を画策の首謀者はおそらく西郷であり、失敗したときの為に龍馬のような脱藩藩士を人材として求めていたのだと思う。もちろん龍馬がその期待に応える魅力のある人物であったことには違いないが、あまりにも脚色が強すぎる。成り上がり話は尾ひれを付けやすいし、早死にすると英雄になってしまうのだ。

それと熱烈な龍馬ファンには、思考の柔軟性が乏しく、意思の貧弱な、龍馬とはかけ離れた奴がけっこう多いということも付け加えておきたい。

今、この国に育つ子どもから、龍馬なんて間違っても出て来るはずがないし、仮に出て来ても何の役にも立つまい。すでに、さまざまな前提は壊れ果てている。

(追記)ちなみに私は、オウム事件にこだわって大学を去った養老孟司氏と、女子高生の援助交際の背景を追求する宮台真司氏の言説は興味深くチェックしている。彼らは村上氏が指摘している多くの人が問わない問題についてキチンと自分のことばで語っているからだ。

2010/01/03

人生、洗い直し

正月からいきなり洗濯機が壊れた。17年間働き続けた働き者だったが、ついに動かなくなってしまった。何度か止まっては息を吹き返しては何とか動いていたのに・・・・

ちょっと悲しい。それはペットが死ぬ感覚にどこか似ている。猫が死んだほどの辛さはないが、金魚や虫が死んだ以上のダメージはある。

洗濯物が出ない日はないので、早速買いに行くことになった。久々の大型家電店。正月商戦にのっかって買い物客がいっぱい。

洗濯機なんて細かく内容を吟味することがないが、丁寧にサイズや機能やデザインをチェックすると面白い。容量はデカイのにコンパクトになり、しかも省エネ、節水出来るものがずらり。家電の進化にちょっとビックリ。毎日使い続けるものなので安いだけじゃ駄目だ。でも、安いにこしたことはない。内容と価格のバランスが大事。

縦型がドラム式か、乾燥機能があるかないか、容量はどれだけか。結局、妻との協議の結果、縦型、乾燥機能付、容量10キロものにした。価格にも納得。これはあらゆることを考慮に入れた上の正しい選択。

洗濯機が音響機材よりも暮らしに欠かせない重要なものであることに気づくのに、私は実に何十年も費やしたのである。

・・・というわけで、今日は洗濯機のお話。

2010/01/01

約束の場所へ

2010年始まる。

ここ数年は、元旦は妻の実家、2日は私の実家へご挨拶に行くことになっている。甥っ子や姪っ子の成長を見守るのも楽しみのひとつである。

夭折を予感していた10代には、干支を4周も生きることになるとは想像もつかなかった。思いもよらなかった人生を生きている。

今年のテーマは「約束の場所へ」

これは、さをり織りの手ほどき人で、ケーナ奏者のすーちゃんのために作った曲のタイトルだが、いろんな意味で大切な意味を持つことになった。

「約束の場所へ」Salt&Uribossaバージョンは全く違う雰囲気になったが、どちらも大切にしたい。ともに、ライブでは非常に評判が良かった。

今年の教会でのメッセージは「ヨシュア記」を見ていくことにした。まさに「約束の場所」を獲得していくストーリーである。

徘徊生活も後3ヶ月。4月にはどんな場所が私を待ってるのだろうか。