2010/09/30

実りの秋


ひと雨ごとに涼しくなってきた。教室前の廊下に心地よい風が吹き込み、「麦」の文字が揺れていた。

春から蒔いた種は教室でも実りつつある。

うまくいかないこともたくさんあるが、そんなものは別にうまくいかなくてもいいのだ。

ただいのちは育つ。

4月と9月に身体測定があるが、子どもの背丈はたった5ヶ月の間に平均3cmも伸びている。

私が引っ張って伸ばしたんじゃない。

2010/09/28

写真家・内堀タケシによるフォト・ディスカッション


 写真家の内堀氏とは、なにわのブラジル「カイピリーニャ」というブラジル音楽を聴かせるレストランで出会った。Salt&Uribossaの「ひと味チャウダージ」のときだ。ライブが終わってから、ちょっとことばを交わすうちに話が盛り上がり、お互いに正体を明かした。
 写真家と小学校の先生の何処に接点があったかというと、彼がアフガニスタンの子どもたちの写真を撮ってること、そして私が担任している4年生は、2学期にアフガニスタンを舞台にした国語の教材を学習する予定であること。そして彼は日本から使用済みランドセルをアフガニスタンに届ける仕事をしていることでもつながった。
 あれこれ話しているうちに、「先生の学校に行きましょうか?」という話になり、東京在住の彼が、私の学校の子どもたちの為だけに来てくれたのだ。昨日は夜間中学の生徒さんに、今日は4年生2クラスにそれぞれ2時間ずつ、午後は希望のあったクラスに+αの特別レクチャーもしてくれた。
 このところ写真について考えることが多くなったが、今回も写真の持っている圧倒的なメッセージの力に驚かされた。お年寄りにも子どもにも確かに伝わった何かがあった。神さまがくれる出逢いは、いつも不思議だ。これぞ半分遊びで半分真面目のSaltな仕事ぶり。





2010/09/27

水魚の交わり




長野戸隠から電気屋さん御夫妻が奈良に来られた。長旅でお疲れのはずなのに、玄関で靴を脱ぐ前に屋根に上がってしまった電気屋さん。実は今回は交わりのオプションとして日曜日のメッセージとともに、築17年のわが家の雨漏りや水漏れ補修もお願いしていたのだ。しかし、このスピードとパワーにはいつも驚かされる。
私の側でもてなせることはあんまりないのだが、許される時間とその日の天候によって、柔軟に対応できるように何種類かの観光コースを考えていた。しかし、選べるのはひとつ。結局あれこれ悩んだ末、大宇陀を案内することにした。大宇陀は私にとっても妻にとっても、けっこう思いのある町である。
長野も奈良もともに海がない県だが、山並みの稜線も植生も異なる。そして気候も歴史も違う。何とも言えない「まったり」「ぼんやり」した奈良の空気感を電気屋さんはどう感じられただろうか。

2010/09/25

日中関係への思慮浅き配慮

沖縄・尖閣諸島沖での漁船衝突事件で、政府は中国の圧力に屈して、船長を釈放する決定をくだした。日本は、国家として中国より「格下」の国であることを受け入れ、自ら進んで内外に示したわけだ。日中関係への配慮だそうな。

今回の異常な判断は、昨年12月の習近平国家副主席の来日時に「1カ月ルール」を破って天皇陛下との「特例会見」を実現させたことよりもなお悪い。

刑事訴訟法47条は「公益上の必要が認められる場合」は証拠書類の公開を認めている。政府は、中国漁船側がぶつかってきたことが一見して分かるビデオの公開を避けた。日本に有利になることが「公益」にかなわないと判断したわけだ。通常の感覚では理解不能である。

そんな重要な決定を政務三役が釈放決定を知らなかったと言うのだから、さらにびっくり。

大阪府の橋下知事は、「そんなことは政治家が責任を持って言わないといけない。政治家がしっかり方針を出すべきだ。司法が判断するのは違うんじゃないか。検事に(判断の)負担を押しつけている」と述べ政府を批判しているが、全くその通りである。

こんなおかしなことは世界中何処を探してもありはしない。

日本丸よ。いったいどこへ行く?

2010/09/24

無駄

もうずいぶん前の記憶だが、娘の小学校の卒業式の日、教室での最後の場面でなぜか私が保護者代表ではなむけのことばを言うようにたのまれたことがある。

不意のことだったので、それらしいことも言えず、だいたいこんな話をした。

「これから君たちがやらなければならないことはいろいろある。しかし、やらなくてはならないことじゃなく、やってもやらなくてもどうでもいいようなこと、人が無駄だからやめろと言うようなことこそ進んでやろう。貧乏人には無駄遣いなんてしたくても出来ない。だから、無駄をたくさん抱えているというのは豊かさのしるしなんだ。やるべきことをやってからしか本当に無駄なことは出来ない」

このことばにあるように、私は「無駄」ということばをかなり肯定的に使っているが、私の仕事には私の楽しめない「無駄」が多すぎる。

自分で覚悟して引き受ける「無駄」はいいが、他人から押しつけられる「無駄」は耐え難い。ここに厳密な境界線がある。

自分で引き受ける無駄というのは、意味や価値がないということではなく、私がそのことを「やりたいからやる」以上、効果や見返りを求めないということだが、押しつけられる無駄には、そもそも意味や価値を感じないので、効果や見返りがあっても不愉快なのだ。だから、やりたくない。

とは言え、そういうことも仕事として給料の中に含まれているので、拒否するわけにもいかず、仕方なくかなり柔軟に対応出来るようになって来たけれど、最近、妻に「そんなことをそこまで嫌がるのはアンタだけや」と言われ、「そうなのか?!」と愕然とした次第。

私は誰もが多少苦痛に耐えて乗り越えているものと思っていたが、私の感じている無駄は私以外の大多数にとっては「必要」の範囲に入るという思いもかけない答を出され、確かに周りの状況を説明するには、そう考えた方がわかりやすいということがやっとわかった。

このように私の考えることにも、いちいち無駄な遠回りが多いのだが、それが私なので仕方がない。私は巧く噛み合う歯車になる気はないので、違う動力にて単独で回転するだけ。

たまに噛み合ってちょっとだけ他の歯車と連動する。その程度の協調関係がちょうどいい。空回り万歳!

2010/09/23

河野甲レザーワークの世界




さまざまな分野から、毎回見応えのある作家を呼んで来るオーナーはなかなかの目利きだなといつも感心させられている。

今回の河野甲さんも、繊細かつ大胆な発想と技術で、ちょっと見たことのない質感の作品を作っておられた。

息子を駅まで送ったついでのわずか30分ほどの滞在だったが、とてもいい時間だった。

http://www.39moon.com/blog/ 【ギャラリー夢雲】

カナン教会のスケジュール

9.26 特別集会  メッセンジャー 電気屋さん

10.03 「コンプレックス」(ひねくれ者のための聖書講座⑳)
  10  家庭礼拝
  17 「逃れの町」(約束の地カナン)
  24  分かち合い
  31  家庭礼拝

9月最後の週は、私のブログにもユニークかつ濃厚なコメントをくださっている「電気屋さん」がメッセージをいてくださいます。講壇を離れれば無口な私と違って、電気屋さんは、日常の会話が全部メッセージみたいな方です。彼のブログにも頻繁に登場する素敵な奥様も同伴で来られます。お楽しみに。

10月も、Saltによるメッセージは3日と17日の2回です。

10日、31日は私は基本的にフリーにしています。もし、お招きがあれば2~3人以上のキリストの御名に集う交わりであれば何処でも参上しますので、気軽にご連絡ください。

2010/09/22

コンプレックスについて その②

せっかくの休日だというのに、あれやこれやと役場の地域振興課に顔を出したり、地元の中学校や小学校に行ったり・・・・・と、けっこう大まじめに仕事をしてしまった。

まあ、いいや。仕事しながら、半分遊んでるから。

以下は昨日のつづき。

さて、肝心の聖書はどう言っているのか?

「人の心は何よりも陰険でそれは直らない。だれがそれを知ることが出来よう」(エレミヤ17:9)

人の心は良くはならない。しかも、その陰険さの質も程度も本人では捉えきれない。

「しかし、イエスはご自身を彼ら(エルサレムで御名を信じた人たち)にお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてのだれの証言も必要とされなかったからである」(ヨハネ2:23~25)

イエスは信じた者を信用しない。イエスの信頼を得ようとがんばるのは不信仰なのだ。イエスに知られていることを知ることが唯一の安息なのである。 信用に足りない私を愛してくださっている。だから、安心。

コンプレックスは、神から離れた後ろめたさと取り繕いの間におこる葛藤であり、神を抜きにしているから、それ以外の本来無関係な事実が原因であるかのような症状が発症するのだと私は考えている。

聖書は小説ではないので、世の小説家が本来最も紙面をさくであろう登場人物の内面の葛藤などは描かれない。また心理学の本でもないので、ある行為に関する分析も解説もない。
ただ人間の意志決定や行為に関する事実が淡々と描かれるばかりだ。

偉大な葛藤の記録を残してピストルで自分の頭を撃ったり、奥深い人間のドラマを描いて女と心中したりというのはよくある話だ。人は残された作品に共感するかも知れないが、神はただ自殺を評価する。要するに、神の前に取り繕う能力の優越など競っても仕方がないのだ。

全うなクリスチャンであっても、信仰があるにも関わらずコンプレックスを引きずって生きているかも知れない。それは、私たちが肉の弱さの中にある以上、やむえないことなので、そのこと自体を責めても悔いてもどうにもならない。

しかし、断言出来ることがふたつある。ひとつは、コンプレックスは信仰からは生まれはしないということ。そして信仰はあらゆるコンプレックスを乗り越えるということ。

とりあえずは、こんなところで・・・

コンプレックスについて その①

運動会の代休で、少しのんびりさせてもらっている。ありがたいことだ。このゆとりを、たまっている仕事の片づけや諸々のリクエストへの応答に当てようと思う。

最近あちらこちらでコンプレックスに関する話題を目や耳にする。少し前に、友人からの依頼もあったので、この機会に簡単に私見を述べる。

コンプレックスを「劣等感」と結びつけて考える人が多いけれど、学問的に言えば、それは正解ではない。(学問が一般的理解より優位とは全然思ってはいないが・・・・)本来、コンプレックスとは「ある事柄と本来無関係である感情との結びつき」のこと。つまり事柄と感情の複合体である。

コンプレックスの意味は、スクリーンがたくさんある巨大な映画館をシネマ・コンプレックス(いわゆるシネコン)と言うけれど、そのコンプレックスと同じ。数学では、複素数をコンプレックスナンバーと言う。また、文学では、複文のことをコンプレックスセンテンスと言う。いずれも「劣等感」とは関係ない。いずれもただ「引っ付いている」という意味。心理学で使う場合は、「心的複合体」というちょっとわかったような、わからないような訳語がつく。「劣等感」は「劣等複合」といってコンプレックスのひとつの表れのひとつに過ぎない。

コンプレックスが劣等感の同義語として広く受け入れられた背景には、アドラー心理学の流行がある。「劣等複合の克服が人格の成長につながる」とした彼の理論をそのままコンプレックスの説明として無批判に飲み込んだからだ。欧米コンプレックスを克服しながら、高度成長を目指した戦後の日本人の事情にマッチしただけのこと。

コンプレックスは感情の複合。人の感情は「劣等感」だけではない。嫌悪、憎悪、敵意、恐怖、そして、愛着や葛藤など、あらゆる感情がある種の事柄と結びついて人間の深層に潜み、その人の価値観や行動に少なからぬ影響を与える。例えば、ファザコンやマザコンは父母への過度の愛着、エディプス・コンプレックスは息子の父親に対する敵意、ダフネ・コンプレックスは処女の男性嫌悪・・・etc

コンプレックスは、時としてその人の主体性をおびやかすこともある。流行の不登校の原因とされる「学校恐怖症」などもその一例だ。 特に本人が自覚する理由がないのに、どうしても学校へ行けなくなるのである。本人でさえ原因がわからないから問題なのである。学校へ行こうとすると、本当におなかや頭が痛くなったりする。

似非カウンセラーや素人教員は、「このようになったからには何かの理由があるはず」と考えて、子供を問いつめ、「どうして」「なぜ」に当てはまる理由を求める。そうすると、事態はますます混乱するのである。そして、ありもしない「いじめ」を告白させて、ますます親や子どもを袋小路に追いつめる例もある。本人さえほとんど意識出来ない、言語化出来ない原因をさぐり当てるのは、実は至難の業なのだ。

主体性をおびやかすもう一人の自分、それがコンプレックスの正体なのだが、このような分裂的な無意識の中の自己内対話をモデル化したのが、先ほど述べた劣等感コンプレックスの重要性を強調しアドラーである。 アドラーは、フロイトの「性欲」説に対して、人間にとって根元的な欲望は「権力欲」であると主張した。

アドラーによると、人間は誰でも劣等感をもっているが、その劣等感を補償しようとして、「権力への意志」が働くと考えたわけ。 アドラーがこの劣等感を補償する働きに気がついたのは、人が何か特定の器官に何らかの欠損や故障などの劣等性があるとき、それを補償する働きがその人の体にあることを知ったからだそうだ。意外に単純な気づきなので、何だかなあという感じ・・・「性欲」や「権力欲」はいずれも人間の中にプログラムされている要素であるが、それらを極端に浮かび上がらせてモデル化することには、いささか乱暴さを感じる。

患者には、よくわからないモヤモヤに○○コンプレックスという名前を付けてもらって安心したい欲望があり、学者には、自分のモデルの中に人を押し込めて標本化したいという欲望がある。Salt流に皮肉ってやれば、そんな共依存はまさにSMクラブ的なのだ。

2010/09/21

congratulations! vol.2


「第27回全国都市緑化ならフェア」にて、つっちゃん&もりっちの作品が金賞に輝いた!
みんながんばってるなあ。
彼らが主催する蚤の市「Pokket Marche」もどんどん規模も大きくなって、全国から出店希望者が押し寄せ、抽選で40店舗は落とされると聞いた。
「次回pokket Marcheには、是非ギター持って来てください」と誘ってくれたので、ちょっとその気になっているが、後はスケジュールの調整がうまく行くかどうか?
つっちゃん、もりっち、おめでとう!!

2010/09/20

congratulations!

18日に行われた大阪府障がい者芸術コンテスト(音楽部門)本選にて、Sueちゃんのキンキ雑楽団がパフォーマンス知事賞を受賞。


決勝進出の8組に残っていたのは聞いていたが、本当におめでとう。


リコーダー講座の受講生でもあるさっちゃんや、真絹ちゃんの活躍も大きい。


世間の評価なんてどうだっていいが、良い評価を拒む理由はない。


橋下知事も見る目あるなあ。


審査員は嘉門達夫他。自らの盗塁の数だけ車いすを贈っていた元阪神の赤星選手も来ていたようだ。


http://www.daisyokyo.or.jp/new/22_tomoiki.html

赤とんぼ

久しぶりに近くを散歩した。

娘が指さした先に赤とんぼがいた。

いつの間に季節は移ろい、風もやさしくなった。

時の流れは私を待ってはくれない。

飛び立つ一瞬前の「静」の中にある緊張感がいい。

2010/09/19

運動会







秋空の下での運動会。 9月の残暑の中、練習してきた成果を存分に発揮した子どもたちに拍手。
ホンマ、疲れましたわ。










2010/09/18

昭和フォークメドレー

運動会前日の為、授業+準備。仕事を終えてからカフェテラスNZへ。今日は、相方uribossa氏がサポートする同級生バンドのフォークライブがあったのだ。

いつもPAでお世話になっている阿南さんは、その昔、関西ではちょっと名の知れた「主人公」というバンドでベースを弾いていた。そのバンドのギター・ヴォーカルの今村さんは、Uribossa氏の高校時代のクラスメートでもある。そんなご縁で、NZのパパさんや、真絹さんも巻き込んでのひと味違うイベントになった。

パパさんや真絹さんの歌が、なかなか味わい深くて、本当に胸に染みた。プロの歌でもこんなにいいなと思ったことは最近ない。

音楽は奥が深い。うまけりゃいいってもんじゃない。

「オレにも出来そうだ」と誰もがギターを手にした時代があった。確かにほとんど音楽的素養が無くてもそれなりに楽しめてしまうフォークソングって、ある意味すごい。

Salt&Uribissaのコーナーもあって、「海岸通り」と「昭和フォークメドレー」を演奏させてもらった。

2010/09/17

雨に歌えば



雨がそんなに嬉しいのだろうか?

カメラもまわっていないのに、ジーン・ケリーよりも楽しげに踊っていた彼もまた無敵少年。

敵を意識し始めると、子どもは小さな大人になってしまう。

敵が出来るのは仕方ないが、敵を敵と思わぬ自由があれば、大人も無敵になれる。

偉大な子どもたちよ。私も3分後のことを忘れて、雨の中を走りたい気分だった。

2010/09/16

ムテキ


「ムテキ」と言っても、「霧笛」ではない。「無敵」である。「無敵」と言っても強いわけではない。敵が存在しないのである。話題の写真家「梅佳代」は、男子は「馬鹿で、無敵で、かっこいい」と言っていた。小学校のある層、あるタイプ、ある期間の子どもたちは、この梅佳代評がけっこうピッタリくる。


物凄い雨で運動場は水浸し。雨があがれば、無敵少年たちの遊び場に。どこから持ってきたのかわからぬ板きれも登場し、全身泥だらけで遊んでいる。こういう体でとびついて来たりするのだ。まさに「無敵」である。


2010/09/12

夜回り先生



夜回り先生こと、水谷修氏の講演を聴いた。

自身も悪性リンパ腫と闘いながら、今も金・土は夜11時から明け方まで夜回りを続けている言うから驚きだ。

今日もからだの左半分が痺れていたそうだが、2時間弱の講演を力強く全うされた。やはり、この人ハンパじゃない。

「子どもに罪はない。大人が全部悪い」という彼のベーシックな論点には批判もあり、私もいささか意見はあるのだが、今日ばかりは言うまい。書くまい。彼と夜の世界に生きる子どもたちが紡いできた圧倒的な事実は、誰も簡単に批判出来るものではない。

「私をちやほやする暇があったら、それぞれ自分の場所でやるべきこと、気がついたことをやれ!」と言うのが、彼のメッセージの核心である。これには大いに共感できる。私は昼の世界の子どもたちの幸せのために自分のやるべきことを淡々と続けるだけ・・・・ そう思った。

水谷氏を突き動かす原動力は、回復して生きる力を取り戻す子どもたちの笑顔と、それ以上に大きなものは、救いきれず失った子どもたちのいのちの償いの想いである。

水谷氏は「その子たちは私が殺したのだ」と言う。これは方便ではない。本気のことばだと私は受け取った。キリスト教風の臭い表現を使うなら、水谷氏はそれを自分の十字架として背負いつつ、今日も夜回りや講演を続けておられるというわけだ。

まるで再現ドラマを見せられるように、リアルに子どもとのやりとりを語る水谷氏。事実だけに圧倒的に力があり、彼の無念の思いも伝わってくる。会場のあちこちからすすり泣きが聞こえる。

ここで、「感動した」「いい話だった」で終わるわけにはいかない。

翻って、私たちが殺した御方はイエスである。クリスチャンはこの御方の十字架を背負いつつ語るのだ。いかに水谷氏が人間ばなれして立派だろうが、福音のメッセージが彼の講演よりもショボイようでは話にならんと思った。これが最も強く心に刻んで自戒したことである。





2010/09/11

「さくらんぼ」続報

http://www.blogger.com/post-create.g?blogID=1863342222266185847
【地元紙による「さくらんぼ」続報】


地元紙の報道によると、会見の最後に土田市長は「同名のアダルトサイトがあるとは夢にも思わなかった」と話し、「交通事故に例えるなら、(向こうから)ぶつかって来たような感じだ」と渋い表情を浮かべたということだが、何とも道理のわからんお人である。

そんな名前の学校が「後から」出来るとも思わなかったのは、私立さくらんぼ小学校の側である。交通事故にたとえるなら、ぶつかって行ったのは明らかに「向こう」ではなくて、「こっち」である。どうして、これほど簡単な理屈が、市の行政のリーダーたる者に理解出来ないのか首をかしげたくなる。

公式サイトで、学校側の意向に配慮して名前の変更の可能性を示唆した私立さくらんぼ小学校のコメントは実にスマートである。土田市長は、大いに恥じるべきだ。

良識のあるコメント画面が出て来たので、いったいどんな作品を作っているのかあちこち検索してみたが、サンプル画像を数枚見ることが出来ただけだった。それは私の価値観からすれば受け入れがたい内容のものだ。しかし、こういうものが世の中に存在することを私は全く否定しない。あくまでも表現の自由である。

こういうものは嗜好やバランスの問題で、攻撃して世の中から閉め出すのは馬鹿げている。再建主義やクリスチャン・ホームスクールをやっている人たちの無菌文化の中では、はてさてどんなお子様が育つやら。

こうした異文化衝突が起こったときに、自分の不注意を他人のせいにするような人間では困る。

物事をあまりにも単純のモデル化して考えると、大事なディテールを垂れ流してしまうことになる。

さくらんぼ問題・・・・実にいろいろ考えさせてくれるなあ。ちょっとゆっくり時間をとって、山形に行きたくなって来た。

リメンバー911~コーランで混乱させよ


コーランなんか燃やしてどうするのかと思うが、アメリカという国には、そういうことをわざわざ公に宣言する牧師がいるそうで、それを中止したとか、保留したとかで騒いでいる。しかも、この分かり易いタイミング。そんなことを一度言い出したら、それを実行してもしなくても反発を買うだけだ。

あとの展開は子どもでも簡単に予想出来そうなのに、それを「あえて」やるのは、もともと反発を買うことがねらいだとしか思えない。自作自演の911をネタにして、さらにキリスト教の正義とイスラムの大義を対立させておきたい影の力とリンクしているのだろう。

さらにこれを思いつく牧師は、聖書がコーランと同列に置かれ、尚かつそれを侮辱されても気にならないのだとわかる。つまり、信仰なんてありもしないキリスト教徒である。こうしたパフォーマンスでコーランを燃やす行為は、コーラン以上に聖書を冒涜していることに気づくべきだ。

イスラムの人たちもそんなパフォーマンスなんか無視すりゃいいのだが、そういうわけにもいかないのだろう。

アメリカのおめでたき身勝手な人々は、ビートルズのレコードもトヨタの車も、そしもヒロシマやナガサキの街までも何だって平気で燃やしてしまうのだ。そして、挙げ句の果てに自国のビルまで自作自演のテロ攻撃で破壊してしまう。「罪より先に恥を知れ」と叫びたい。

そんな狂気の扇動で己の正当化する茶番を少しも報道しない日本のジャーナリズムもまた糞みたいなものだ。したり顔で偉そうな批評を垂れる電波芸者コメンテーターや茶坊主学者どもには嘔吐が出る。

2010/09/10

そげですね

「・・・であります」という軍隊用語は、指示伝達のニュアンスを単純化して誤解を無くすため、「・・・でありんす」という遊郭用語は、訛りが出ないようにして出身地を隠すために用いられた。

ともに不自然なことばの破壊である。これではことばに「こころ」や「いのち」はこもらない。

ペテロは「そんな人は知らない」と言って嘘をついて主であるイエスを拒んだとき、ことばの訛りでその正体がばれてしまう。

ペテロのことばにはガリラヤ訛りがあった。これは実に興味深い事実である。「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばの訛りではっきりわかる」(マタイ26:73)と書かれている。

これは、イエスもガリラヤのイントネーションで日常会話をされた確かな証拠である。「いのちのことば」である御方の日常会話は訛っていたのだ。

よく覚えておこう。日常の暮らしの感覚と結びついたことばは、それほどに大切なのだ。

なぜ、教会用語が宙に浮くのか。全く暮らしの血肉になっておらず、実質がほとんど共有されていないからだ。だから、気色悪いのだ。

世界中のドイツもコイツも、「アーメン」などと言うからいけん。山陰のキリスト者は「そげですね」と言おうではないか。【参考NHK朝ドラ「ゲゲゲの女房」】

こうして考えてみれば、「アーメン、素麺、冷や素麺」と揶揄されるのも、非常に納得できる話である。

2010/09/09

錯乱、某小学校

今週のメッセージで「ことば」そのものが実体に対する条件づけであること、さらに、その「ことば」に個別の体験やイメージがさらに条件づけられて、さまざまな歪みやすれ違いを生むことについて語った。

こうしたバベル以来の「ことば」の混乱は、「いのちのことば」であるイエスの実体を共有する以外にないのである。

さて、来春開校予定の山形県東根市立「さくらんぼ小学校」が校名を変更すると発表した。と言うのは、ほぼ同名のアダルトサイト(サークル私立さくらんぼ小学校)が存在しているからだ。土田正剛市長は記者会見で「児童の登下校時に不審者が現れる可能性がある」と述べたらしいが、今後の展開も興味深い。

「さくらんぼ」という地元の特産品に込めた願いやイメージがとっても微妙に食い違ってしまったわけだ。

「ことば」は難しい。そして、一度「ケチ」のついた「ことば」はどうしょうもないほど堕ちてしまうものなのだ。

もちろん、世間のジョーシキでは、「市立のさくらんぼ」が健全で、「私立のさくらんぼ」が不健全なんだろうが、大人の反応をしているのは、さすがアダルト側の私立の方、問題のサイトを開いてみると、丁寧な挨拶の中に「今後の対応といたしまして、先方様の学校のご意志が変わらぬようでございましたら、児童の安全を配慮し、サークル名の変更を視野に入れることも考慮しております。(子供や保護者の方々を不安にしてまで、名称を貫こうとは思っておりません)」と書いてあった。

意外にこの「さくらんぼ」問題は、奧が深いのだ。

2010/09/08

1リットルの汗

「これが裏だ」と言った瞬間に、それもまた表の一部になる。「これこそが真実だ」という嘘は聴き手のみならず、時に語り手さえ騙すほどよく出来ていたりもする。そして、誤解と理解を差し替えながら、複雑な物語を紡いでいくのだ。

こうして人は日常にリアルな手応えを失っていくと、自意識が肥大化した仮想世界であるインターネットという中で溺れてしまうだろう。

下手をすると日常は、驚くほどバーチャルだったりするので、現実世界では無意識で過ごし、PCに向かうと意識が覚醒するというような逆転生活者がいくらでもいる。

「食べること」「笑うこと」「汗をかくこと」が大切だ。そして、くだらないことこそ一番エライ。最近は毎日1リットル以上の汗をかいているので、そんな気がしている。

2010/09/07

インターネットを使った授業

今年になって各教室に大画面TVが設置され、いよいよPCルームへ行かなくても自在にPCのインターネット画面を教室のTVに写し出せるようになった。

PCや大型TVの導入に関しては、私は基本的には賛成ではない。内需拡大の為に学校が肥大化した供給の受け皿になることには怒りを覚えるし、図書館を利用する力も本を読む力の無い子どもがネット社会に巻き込まれていくことには不安しか感じないからだ。

私は椅子さえあれば、教科書も黒板も別にいらんと思っているくらいの人なので、最新機材の導入を特にありがたいとは思わないが、「情報検索」に関してのみを考えると価値観や方向性を転換すべき時はすでに来ているようだ。それに時代遅れな文句を言っても誤解されるだけなので、私の責任の範囲においては大いに利用しようと決めた。

試しに「月と星の動き」をネットを使って指導してみたが、実に便利なサイトがいろいろあって、黒板に書いているよりも遥かによくわかる。しかし「下調べ」がけっこう大変だ。

近未来にはテキストやノートも紙媒体から液晶化が図られるようになるはずである。

いずれにしても、子どもに意欲がなく、教師に十分な力量がなければ、何を使ってもどうしょうもないが・・・・

2010/09/06

コウモリだけが知っている



教室のベランダにいつも大量の糞を残してはいるが、その姿は見せたことのないコウモリ君。

廊下側の窓枠のところで死んでいたのを子どもが発見して大騒ぎ。

私も手にとってじっくり見たのは初めてなので、面白がって羽を広げたり、口を開いたりして観察した。

初めからコウモリはコウモリであってどっちつかずというわけでもないのに、鳥なのか獣なのかという例のイソップ童話のために不当な扱いを受けてきたコウモリ君。

なるほどよく見ると確かに面白い生き物だ。

2010/09/05

ふたつの太陽



爽やかな夏の朝。朝顔をのぞいていると、蜂のような気分になった。

花の中がとても大きな世界に見えた。




今日も暑い一日だった。

礼拝メッセージの最中にスコールみたいな雨が降った。

雨上がりの空に雲の切れ間から太陽が出て光の線が広がった。

2010/09/04

夜の朝顔



夜の朝顔の蕾はカッコイイ。

そのまま宇宙に向かって飛んで行きそうでもある。

何という充実したトンガリ方であろうか。

それは光に反応して花開くために静かに待っているトンガリである。

こんなところに私の師匠がいたとは・・・・

under the sky



昨日は丸かったので、今日は三角。写真は「ぬく森の郷」の正面の屋根のてっぺん。

私は単純に丸とか、三角とか、四角とのかたちと色の組み合わせが面白いと思う。青い空もとんでもなく青い。窓の外の緑もファイルの赤も美しい。

恵まれた環境で、楽しくオンガク。9月は新曲を5曲準備して行ったが、実際に演奏してもらうと、譜面の段階では気づかなかったことも見えてくる。

参加してくださる方々が、可能性を引き出してくれるので、私も毎回ついつい熱が入る。いよいよ講座も、手探りの段階を終えて、ちょっと方向性が見えてきた。連続講座をずっと右肩上がり出続けていくのは難しいが甲斐がある。

最初は面倒だった譜面書きもかなり慣れて来た。さすがに、もう「楽譜は音楽の敵」と思うことはない。「楽譜ほど便利なものはない」とようやく気づいたかなり時差ボケな私。

2010/09/03

on my ground


炎天下の運動場に置き去られたボールを2階から撮影したら、ボールの影が地球に空いた穴みたいに見えた。ボールは穴に吸い込まれていくようでもあり、穴から飛び出て来たようにも見える。

今年の夏の気温は、全国平均で去年より1.64度高く、統計を取り始めた明治31年以来、過去最高の暑さだったらしい。

まだ9月は始まったばかりだと言うのに、7日ぶりの週末がやけに嬉しい。

2010/09/02

朝顔

律儀に朝はやってくる。

玄関先に咲いている朝顔が何とも美しい。

仕事へ行く朝、私はどんな顔をしているのだろう。

毎朝鏡は見ているが、深く考えることもなく、あわただしく出かけて行くことが多い。


子どもたちの前に立つときは、私の表情は少し変わっていると思う。

多分それは悪い変化ではない。

人は場面ごとに顔を変え、表情を作る。

いったい「誰に」「どんな」顔を見せるのか、あるいは隠すのか。

誰にも会う前の朝の顔が大切だと、朝顔が教えてくれた。

2010/09/01

9月のリコーダー講座


Saltと遊ぶ「楽しいリコーダー講座」

と き  9月4日(土) 14:00~16:00   ピアノ Momo
 
ところ  室生ぬく森の郷(詳細は下記HPで御確認ください)
年内は第1土曜に開催予定です。(10月2日,11月6日,12月4日)