2010/02/14

遊女ラハブの信仰

ラハブの家にイスラエルの斥候が身を寄せたのは、ラハブの信仰を見抜いていたからではなく、ラハブが遊女であったからだ。他の遊女の家でも良かったという点では、言わば偶然である。

しかし、神にとってそれは必然であった。神は、町ごと全滅させられるべきエリコに住む憂いと渇きをもったひとりの遊女を覚えておられた。ちょうどイエスがスカルの女に出逢うためにサマリヤを通っていかなければならかったように、ふたりの斥候をラハブの家に送られたのである。

「私はこのふたりの斥候のひとりが、『サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ』(マタイ1:5)のラハブの夫サルモンであった」という言い伝えを支持する。聖書の中に根拠はないが、何とも美しい話ではないか。

神の救い、神の配剤とはそういうものだ。神の恵みに信仰をもって応答するとき、神は驚くべき贖いの大作の中に私たちの思い出を織り込んでくださる。

どうしようもない町のどうしようもない遊女が、アブラハムのとなりに信仰列伝に名を連ね、ダビデとキリストの系図に名を残している事実を軽く見てはいけない。

キリストにあって望みがない人はいない。いつだって遅すぎるということはなく、不可能は可能になる。

詳しくは、音声メッセージをどうぞ!

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