2010/01/27

思い出のすれ違い②

公立小中学校の教員というのは、子どもというかけがえのない存在を媒介にして、世の中のすべての階層の家族と、利害抜きに長期的につきあえる希有な職業である。

ひとつの教室の中には、商売人の子どももいれば、税理士の子どももいる。職人の子どももいれば、弁護士の子どももいる。警官の子どもと泥棒の子どもが机を並べ、消しゴムを貸したり借りたりして毎日を過ごしている。

従って、公立小中学校の教員の目の前には人間や社会に関する様々な情報が広がっているわけで、教室で出会う子どもたちというのは、そうした多種多様な情報のサンプリングなのである。

こんな「ごった煮状態」の面白い職場は他にはあまりない。特に小学校などは、人格剥き出しの子どもたちと、朝から夕方まで、勉強して遊んで飯食って掃除して、四六時中接していられるのだ。実にドラマチックかつエキサイティングな現場である。

だから、「普通」に過ごしてさえいれば、教員は最も世間知に長け、人間通になっているはずである。ところが、「教師は世間知らずだ」と言われることが多い。なぜだろうか。

それは、「学校」というところは、人間どうしが「普通に」出会うことを妨げる装置だからだ。ここに大きな問題がある。

学校が求める最大公約数的な価値への擦り合わせによって、本来もっと多様で豊かなはずの出逢いが均質化され、「のっぺらぼう」なものになる。過去の思い出による立ち位置やコミットメントの深さの違いで、「すれ違い」や「ねじれ」が起こり、互いに深く心が通じ合うということが難しい。

私はそうした「学校的価値」と、己の「良き思い出」を容易に重ねることが出来るおめでたい幼稚さがどうにも我慢ならない。そういう連中はうわべだけの付き合いでもうわべ程度しか深さのない人にとっては十分な付き合いだったりするのだ。

私はこうした装置の欠陥を観察と経験から学び取って、その隙間をぬって生きてきた。私には信仰と相当過酷な状況でも生き抜くスキルがある。最悪なときに笑い飛ばせるもっと深い絶望とユーモアがある。だから、しょーもない弱音は吐かない。

鍵は「相手の思い出」の中に入り込むこと。そのドラマを擬似的に追想することである。彼らとことばを交わすためには、最大公約的な価値は捨てないと駄目だ。彼らは素数みたいなもの。1とその数以外では割り切れないのだ。彼らは彼ら自身で割るしかない。

相手に「よくなりたい」と言わせることだ。人はボロボロの相手のドラマを知り抜いた上で「よくなりたいか」となかなか問えないものである。

機嫌をとったり、安易に手助けしたりするのは、かえって相手を駄目にする。それがわかっていないうちは本質的なことは何も変わらない。

4 件のコメント:

  1. 「大切なものとはなにか?大切なものを発見するためには、大切なものとつきあわなければならない。」

    罪とは的外れのことである、とよく聞かされた。学校現場にある的外れは、さまざまな罪を犯す。私も罪だらけ…。

    熱心、情熱、教育技術は、大切だけど、的外れでこれらのことがなされては子どもがかわいそう。私自身が自己修正できるかどうか。でも、自己修正しなければ先はないな^^

    ちょっとのコメントもなくコピー資料だけ入れられた、まさに味もそっけもない封書で、ずいぶん考えさせてくださいます^^

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  2. ほんまにそっけない封書でしたね。ぎりぎり80円におさめようというねらいと、あと解釈は100%読み手に委ねたかったので。

    あの資料には、私が現場の教師たちに伝えたいことの核心部分が詰まっています。

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  3. 「『”教育”という父親か母親は、やっぱり子供の相手をしてくれないんだな』と思います。」とありましたね。

     ”学校教育”という父親か母親かは、にした方がよりピッタリ感がありますが…。批判だけするつもりはありません。私も子供の相手として不適格なこと多々してしまいましたし、真摯な取り組みで仕事をしている同僚がたくさんいることも知っています。

     現場の教師が向き合うべき、まさに核心部分ですが、正直、つらいよな~です。子どもがきちんと向き合ってもらえてないように、教師も教師としての喜びにきちんと向き合わさせてもらえてないから…、「『言いわけをせざるをえない弱い心理』を認めてもらわなかったら、それこそ子供は立つ瀬がありません。」とありましたね。それって我々にも…というのは情けなさすぎるか。

     送っていただいた資料、橋本治さんの文章について、本当に感じる部分は上記に書けていません。書くと、あの資料という前提がなくてはわけのわからないものになるので、もう止めます。勝手な書き込みですみません。

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  4. 全く父親らしいことをしていない父親が、行きがかり上、引っ込みのつかぬ状況の中で、初めて「本来あるべき関係性」を考え始めるわけです。

    そうすると、眩しい海辺でこれまた偶然出会った愛人の存在に違和感を感じ、子どもとの結びつきやあり方こそ優先すべきだと気づきます。

    そこにあの小説のリアルさと小さな希望が見えます。

    翻って、私は学校における子どもの向き合い方を振り返ることもなく、何の疑問も感じない教師たちの無神経さに憤りを覚えるわけです。

    世にあまたある文章の中から、わざわざ橋本氏の文章を選んできては見当違いの正解を準備する鉄面皮が、残念ながら学校教育をおおっています。

    そこを突き破る勇気と誠実さが不可欠だと思います。教師が言い訳を始めたら、子どもは浮かばれません。

    ただすぐに答えに辿りつけない子どもの当惑やその時の苦しさを理解できる感性は必要だと思います。

    最近、各現場で考えられないような事象がいつくかあり、私自身もかなりまいっています。私には、他の人たちがあまり見ようとしていないその事象の背景が強く感じられるからです。

    子どもが言い訳するのは押しつけられる正解がうっすら透けて見えているからです。

    最悪な場合は、その言い訳が教師の壺に入って、それが落ち着き所になる場合があります。

    そういう場面に居合わせて、立場上何も言えない、言ってもどうにもならない場面が一番苦しいところです。

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