2010/12/27

冬眠宣言


2010年のラストウイーク。

昨日は八木でUribossa氏とふたりの打ち上げ。静かに酒を酌み交わした。その中で、来年は美術関連の企画展でもやって、そのオープニングかエンディングで演奏しようかという話も出た。何かテーマを決めて作品を製作するのは面白いかも・・・・・。

今日は金融機関をまわり、あれこれと用事を済ませ、さらに年末年始のお買い物。

そろそろやるべきことも尽きて来たので、しばらく冬眠します。

2010/12/25

雪の中の来客



異様に寒いと思っていたら、明け方に雪が降った。

雪景色は美しい。出勤しなくてよいので、よけい綺麗に見える。

午後からY.B.M氏が訪ねて来てくれた。来月15日に開かれる銀じ郎氏主催の写真茶話会in神戸に使う私の写真を選ぶためだ。

Y.B.M氏は奈良盆地を挟んで反対側の山裾に住んでいるが、室生の雪を見て驚いていた。

受講者である神戸の先生たちと共有できる情報が多いと思われる写真を数点ピックアップされた。彼が選んだ写真を見て「なるほど」と思った。

「写真を撮る」という行為を通して、自分の子どもへのまなざしを感じることが出来た。写真には私が思っていた以上にいろんなものが写る。目に見えるものしか写らないはずなのに、目に見えない情報が伝わる。これは凄い発見だった。それは写真の外側にあるものなのだ。写真は面白い。

写真は、娘が作った雪だるまとケーキ

「ノルウェイの森」にノラないウェイ


映画「ノルウェイの森」を観た。

村上春樹による原作は、売り上げ累計1000万部という驚異的ベストセラーである。

カフカ賞やエルサレム賞を受賞し、次はノーベル文学賞をとの呼び声も高い人気作家の代表作を、ベトナム系フランス人監督トラン・アン・ユンが映画化した。

主人公ワタナベは青森出身の今風俳優松山ケンイチが、心病むヒロイン直子は国際的女優となった菊池凛子が、奔放な緑はモデルの水原季子が演じている。「なるほどね」というキャスティング。

たまたまだが、菊池凛子の「バベル」も観たし、松山ケンイチの「デスノート」も観たし、水原季子の出た「情熱大陸」も観たので、予備知識も少しあった。

以下は、Saltの感想。(別に客観的評価というわけではない)

全体の雰囲気はそれほど特別悪くはない。しかし、何か違和感は残る。その違和感を分析してみる。

小説を映画にする場合、どうしてもディテールはカットせざるを得ないが、原作を知らなければどうしても意味がわからないことだってある。なぜ準ヒロインの緑がワタナベを信頼するようになるのかはほとんど映画の情報だけでは見えてこない。

また、先輩の永沢や療養所で直子と生活をともにするレイコの人間性がほとんど描かれていないので、下手すると、ただのキザ兄さんとエロおばさんの域を出ないキャラに堕ちてしまう。要するに登場人物のキャラクター設定が安直すぎて漫画っぽいのだ。

台詞回しも、原作に忠実にしゃべっているのだが、あんな不自然な会話はないよなあ・・・という気がする。あくまでも、原作は活字だから、それなりに読み手が咀嚼して、何気に読めちゃうだけだ。それをそのままシナリオにして棒読みでは、あまりにストレートすぎる。

まあ、細部まで忠実に描かれていたとしても、それでどうということもないが。

元々プロットは単純で、あだち充の「タッチ」の南ちゃんは、実は死んじゃった和也がスキ!みたいな話だ。残った達也とハッピイエンドじゃない分、ちょっとだけややこしくなるだけ。

村上自身の分身であるワタナベという主人公の経験が、実際の作者の喪失体験とどれだけ重なっているかは知らない。

心の病んだ恋人がいたのか、よく恋人に手や口で慰めてもらったのか、友人知人が何人も自殺したのか、そんなことは別に知りたくもないが、精神病患者のルポとしても、ポルノ小説としても、どこか半端な感じする。

もし、作者にいずれの経験もないとしたら、映像にすると、イメージが固定される分、いっそう印象が半端なものになるのは納得できる。自分の悲しみにリアルさを出すために、周りの人間に排気ガスを吸わせたり、手首を切らせたり、首をつらせたりしているだけだとしたら、まあ、最低な奴だなと思うわけ。元々、小説なんて個室の妄想だけど。

直子がワタナベに対して最も精神的なつながりを求めているときに、○○しゃぶらせて、「なかなかうまいね」などと言える無神経さを、私はこの小説と映画の核に観る。いくら「してあげる」と彼女が提案したのだとしても、それは違うだろうと私は強く思うのだ。

じゃあ、なぜこの無神経で半端な物語が、かくもウケるかという話だが、それは時代感覚と実にフィットしているからだと思う。

私はそれを「カラオケ・エコー効果」であると読む。音程がはずれてようが、リズムが狂っていようが、とにかくカラオケ・エコーはそれをごまかす。多少上手けりゃ、かなり上手く聴こえる。

村上小説は、そのエコーがいい具合にかかるカラオケルームみたいなもの。生活感の漂わないサブカルチャーの小道具による演出が時代にフィットしている。だからウケる。

夏目漱石のこころの先生の喪失感と、ワタナベのそれと比べてみれば、その死や苦悩はずっと薄っぺらな気がする。

軽くて記号的な喪失感だからこそ、何となく共有できて、より多くの人たちが自分の中途半端なわがままにもエコーをかけて、安っぽい部屋で何となく綺麗な反響を楽しめる。

そして、一番肝腎のポイントだが、小説の雰囲気も映画の雰囲気も、私の「ノルウェイの森」のイメージとは全く違う。

ジョン・レノンの感想が聴きたい。ポールやリンゴは生きているから、もしこの映画を観たら、また原作を読んだらどう言うだろう。

とにかく、タイトルが「鎮守の森」だと村上小説は成り立たない。

2010/12/24

振り返り(信仰編)


最後になったが、私の仕事をはじめ音楽その他のあらゆる活動のベースであるところの信仰に関する振り返り。

2010年に配信されたメッセージ

約束の地カナン(全11回)

1.10 ヨシュアの登場
2.14 ラハブの信仰
3.21 ヨルダン川をわたる
4.25 主の軍の将
5.30 エリコの戦い
6.20 アイの戦い
7.25 日は動かず太陽はとどまる
8.22 約束の地の相続
10.17 逃れの町
11.06 祭司のつとめ
12.12 私と私の家は主に仕える

ひねくれ者のための聖書講座(vol.11~21)

1.24 愛の寛容と不寛容
2.21 はじめにことばありき(その1)
3.07 贖いの文脈
4.11 イエスの相対性と絶対性
5.09 神のまなざしと人のまなざし
6.13 聖書における結婚と奥義
7.04 メタモルフォーゼ
8.08 聖書から見た自然の不自然
9.05 はじめにことばあり(その2)
10.03 コンプレックス
11.28 自殺について

その他

3.14 分かち合いより ショートメッセージ
10.31 ルカ15章(ろばの子キリスト教会にて)
12.19 クリスマスメッセージ

メッセージは、ほぼ月2回のペースで肩を壊さずに登板できた。これなら、そう厳しくはない。自分にとっても非常にいい。

昨年は何と言っても、北海道の兄弟姉妹との交わりがスペシャルトピックだったが、今年はemiさんの昇天があり、深い喪失感に沈む中、戸隠の電気屋さんや横浜のゆばるさんとのお付き合いが始まった。これは私にとって大きな慰めになり励ましになった。また、大阪の姉妹たちも何度も教会やライブにも来てくださった。

30年来の友である銀じ郎さんや、桑名のKojiくん&Mayumiちゃん、そして神戸のmeekさんファミリーとの交わりもさらに深まった。

そして、かのDr.Lukeとのつながりから吉祥寺デビューも果たし、全国に「奈良のSalt」の悪名もとどろいた。

滋賀の「ろばの子キリスト教会」へ出向いての出張メッセージと交わりは本当に楽しかった。これからはオファーがあれば、こういう仕事もどんどんやっていきたい。

そうそう、今年はブライダルの司式もやってみた。これも意外に面白いし、やり甲斐もある。

2年後には、今借りている建物の契約も切れるので、「天理の集まり」は終わりにする可能性も高い。まだ何とも言えないが導きに委ねるだけ。私は集まりを大きくしようと思っていないし、いつまでも続けて誰かに継いでもらおうと考えたこともない。

とりあえず、主のみこころであれば、明日生きていて語るべきことがあれば語るだけ。なければいつでも沈黙して幕を引く予定。
  

2010/12/23

振り返り(音楽活動編)


仕事に続いて、音楽活動を振り返ってみる。


まず、2010年のライブ

2.13 ボサノバレンタイン Salt&Uribossa①  田原本町 カフェアルコ
2.27 Prune at Café NZ Prune① 奈良市 カフェNZ
4.18 earth day ならsouth Salt&Uribossa② 橿原文化会館前広場
5.29 ひと味チャウダーヂ Salt&Uribossa③  大阪 かいぴりーにゃ
6.19 蛍と出会う夜 Prune③ 奈良市ハーブクラブ
6.26 風草木 Live Salt&Uribossa④  橿原市 風草木
7.31 真夏の夜のボサノヴァ Salt&Uribossa⑤ 田原本町 カフェアルコ
8.01 チャイルド・サマーフェスタ Prune④ 天理市 丹波市幼稚園
8.15 平和の鐘を鳴らそう Salt怒りの鉄弦ライブ 天理市長岳寺
8.28 Salt & Vinegar スカイフロアー・ライブ 大阪市某所
10.11 Prune Live 2010 秋  Prune⑤  豊中市 菜食カフェ&織り工房リジョイス  
12.11 冬めくボサノヴァ Salt&Uribossa⑥  田原本町 カフェアルコ

今年は、メインのSalt&Uribossaの活動に加え、今年はPruneでのオファーもかなりあった。すーちゃんとのユニットで1回とソロも1回。ソロでは久しぶりにスチール弦のマーチンを弾いた。


しかし、さすがに学級担任になった今年は、平日のオファーは全部断った。ちょうどいいインターバルで次の予定は入るのでそこそこ準備も出来るし、良い目標にもなり、刺激にもなる。

大したことは出来てはいないが、自慢は一度も同じ演目では演奏していないこと。

来年はどんなペースになるかはわからないが、すでに6本は出演が決まっている。さらにグレードアップしたいなあ。

上記のライブ活動に加え、毎月のリコーダー講座も休みなく12回。4月以降はぬく森の郷に拠点を移して続けている。Momoちゃんのいない回もあったが、その分、レクチャーにポイントを置いたり、そのポイントと結びつけた楽曲を準備したりして乗り切った。

そして、リコーダー講座のための曲や、ニューアルバムのための曲を数曲書いた。緩やかではあるが、まだまだ右肩上がりは続いているという自負はある。





振り返り(仕事編)


ちょっとした仕事の振り返りを・・・・

現場の仕事にどれだけのエネルギーを注ぐ価値があるのかを自問自答しつつ、常に「行き過ぎ」「やり過ぎ」がないようにセーブしている。

「目の前の子どもの為」を思って先走っても、誰にもありがたがられないことも多い。それが現実というもの。ここで怒っても焦っても仕方がない。「憂い」から「優しさ」が育つ。

しかし、いろんなことが見えていて手をこまねいているようでは、私が関わっている意味がないではないか。

とは言え、システム上の問題や物理的な限界から、私が関われる範囲はきわめて限られている。ピンポイントで効率の良いアプローチを計算する。

そこで、私が自らに課しているのは、「ニーズがあったときに、ニーズ以上の答えを出すこと」である。その為には心と力に「十分なゆとり」が必要だ。

正直、久々の担任復帰でそういう「十分なゆとり」はなかった。満足のいくような結果が出せたわけではない。

ただ「子どもと触れ合う感覚」は戻って来た。そんな感覚が戻ってくるにしたがって、やたら子どもたちが引っ付いてくるようになった。そういうことが好きなタイプではない。うっとおしいが、ことばではない五感で通じ合えた瞬間には、独特の醍醐味はある。そういう子どもは牙をむいて逆らったり、狡い隠し事はしなくなる。

子どもの成長のためには、細かい条件や注文をつけずに、自分を丸ごと受け止めてくれるような存在が必要なのだ。

別に切羽詰ったり悩んだりはしないが、まだまだこの程度の「ささやかなゆとり」と「対応力」では情けない。さまざまなニーズに対して、「思っていた以上の」また「思いもよらぬ」答えを出せるように、元気と勇気をたくわえる冬休みにしたい。

2010/12/19

クリスマスっていったい?


クリスマスメッセージとして、全然クリスマスっぽくないメッセージをした。今の私自身に妥協のない話になったと思う。周囲と妥協しているように見られても別に気にしないが、自分に妥協するのはけっこう難しい。自分の中で燃えるように熱くなることば以外は語っても虚しい。そういう点では言いたいことだけ言えたという満足はある。クリスマスの空騒ぎを尻目に、ずっと抱えてきた違和感の塊を今日はすっきり摘出できた気がする。

これでカナン教会を通して発信する2010年のメッセージをすべて語り終えた。ヨシュア記をテキストにしたシリーズ「約束の地カナン」はおしまい。新シリーズは全く白紙。語りたいことも語るべきことも自分の中に、今はない。

2010/12/18

浩の会


もう何回目になるだろう。何度となく彼女たちの語りの会を企画してきた。

毎回、彼女たちの朗読を聞かせていただくと、あついものがこみ上げてくる。

日本語の美しい響きや本来そのことばが持っていた力を感じさせてくれる。

朗読劇団泉座の座長泉浩子さんと、副座長福原浩代さんのふたり会が「浩の会」である。

演目ごとに衣装を替え、役柄ごとに声色を変えて、そのまま物語を伝える。

今回のメインの演目だった浅田次郎の「ラブレター」は知的な障害のあるお客さんには少し理解は難しかったと思うが、ことばの調子や抑揚から感情の機微が伝わっていると思えた。

店長真絹さんのMCも会を重ねる毎に流暢になり、周囲に配慮した臨機応変なものに変わって来た。毎回、これが楽しみでお手伝いしているようなものだ。

年4回のカフェNZのイベントも終了。カフェも明日から冬休み。2010年も少しずつ暮れてゆく。

2010/12/14

Saltの「アホ」リズムな箴言⑩


(46)もし真理というものがどこかにあるとしたら、それは特別な少数の人間だけが理解できるようなことではなく、誰でもわかるようなものでないといけない。

(47)私だけしか知らないことばなんて、ことばとして存在出来ない。私だけがこっそり味わっている楽しみがあるとしたら、それは夢や妄想の類いである。私の知っていることや味わっていることを、誰も知らず、またこの先誰にも伝えることが出来ないとしたら、そんな知識や体験に何の意味があるだろう。

(48)歓びは分かち合うことの中にあり、価値は共有することの中にこそ生まれる。独り占めするのは、何も持っていないよりさらに貧しい。

(49)子どもに何かを伝えるときには、子どもがわかる子どものことばで話す必要がある。それゆえに、神は人の姿をとられたのだ。イエスは私たちに理解できる神のことばである。

(50)私たちが思い浮かべることが出来る範囲のものは、具体的にかたちになる可能性がある。しかし、かの約束の住まいには、私たちの想像力の限界を超えたものが備えられると約束されている。

2010/12/12

約束の場所へ

「ヨシュア記」をテキストにした2010年のシリーズ「約束の地カナン」を本日終了した。「約束の場所へ」というのは、いろんな意味で向こう数年間の私のテーマでもある。

私が話した内容は、「ヨシュア記」という大河のわずかな滴りにすぎない。興味のある方は御自身で聖書をひもとき、本当に私が語ったようなことが書いてあるのかどうかを詳細に吟味していただきたい。

私のメッセージにはそうするだけの価値は十分にある。それは聖書のことばを少しも薄めず、他のものを混ぜずに語っているからだ。

聖書からのメッセージを語り終えるとものすごく疲れる。決して悪い疲れではない。しかし、全然楽なことではない。

みだりの神の名を語ることは許されず、神のことばを借りて好き勝手な身の上話や自己主張をすれば己を滅ぼすことになる。こんなリスクを誰が好きこのんで負うものか。

私は別にクリスチャンになりたかったわけではなく、教会に行きたかったこともなく、牧師なんてこの世のクズだと思っていたのに、なぜか「似たようなこと」をやるはめになった。

聖書を読む限り、自分から立候補した預言者はいない。神が一方的な主権で導かれたことにのみ、拠り所がある。神が責任をとってくださる。

取りあえず、内側から突き動かすものがある限り語り続けなければならない。来年以降のことはまだわからない。明日のことは明日が考えるだろう。

とりあえず、ホッと一息。

内遊外歓


内憂外患のニュースばかりだが、私は遊び心をもって、周囲に歓びを伝えよう。
あれこれ分析したってどうせ当たりもせず、何においても「私だけが特別」ということはない。(イザヤ47:8,10)オツムが弱い無責任な連中が騒いで、今日の味わいが薄まるだけ。
バビロン滅亡の預言。現代のバビロンも同じ運命を辿るだろう。それさえわかっていればいい。
それよりも神の恵みを数えよう。光である御方を見つめ続けよう。どんな闇の中でも主の光は輝いている。(ミカ7:8)

「冬めくボサノヴァ」

「冬めくボサノヴァ」が無事終了。 田原本は、私が少年期を過ごした町。そこで演奏できることは単純に嬉しい。

今日は、ちょっとアンプのセッティングを変えてみたのだが、いくつか発見があった。まずまず音の抜けは良かった。モニターなしで手持ちのアンプ2台だけであれだけ出せば合格とせねば。

しかし、今使っているギターには限界があるなと感じた。ギターの本体でボリューム操作が出来ないのはどうもまずい。ピックアップの特性とエフェクターの相性も最初に思っていたほどはよくないようだ。

選曲と演奏はそう悪くなかった。私としては今年最後のライブをまずまず楽しむことが出来た。

忙しい中、来てくださった皆さん、どうもありがとうございました。

2010/12/10

裏付けと裏技と裏話


「師走に走らず」などと恰好をつけてみたものの、それは「追い立てられても急がないぞ」という私の意地にすぎず、実際にはやるべきことの物量や厄介さがハンパではなく、最近は柄にもなく仕事漬けになってしまっていた。これは「半分は遊び」というような本来のバランスではないぞ。ヤバイ。

土曜日のライブ、日曜日のメッセージも、絶対に付け焼き刃では出来ない。平素の「裏付け」が必要なので、いつになく総力をフル稼働して辛うじて対応した。

メッセージは水曜日の夜中に準備して、土曜日に日曜日の心配をしなくてすむように調整。今日は一応仕事ではあるが、「裏技」を使って五時間目から出張。「おくりびと」の原作である納棺夫日記の著者、青木新門氏の講演を聴きに行った。場所は、明日ライブを行うカフェ・アルコのすぐ横のホールである。

無理をしてでも聴いてみたいと思わせる「何か」をあの映画には感じていた。単純に感動したからではないある種のおさまりの悪さが私の心に残っていた。

青木氏は、主演した本木雅弘の熱意や人柄を誉め、作品の完成度を評価し、成功を祝福するも、映画は原作とは別物であることを強調された。具体的な「裏話」をあれこれ聞いてなるほどと思った。

青木氏は、送られてきたシナリオを読んで10箇条に及ぶ内容の変更を要求したが、プロデューサーは全く耳を貸さなかったと言う。

「親を思ったり、家族を思ったり、人間の死の尊厳について描かれているのは伝わってきて、それなりにすばらしいとは思う。しかし、あれは私の原作とは違う。最後がヒューマニズム、人間中心主義で終わっている。私が強調した宗教とか永遠が描かれていない」というのが、青木氏の感想だ。

結果として、タイトルの変更と映画には自分の名前を出さないようにと要求する。

なかなか私好みのひねくれぶりではないか。

講演の中で、御自身の人生の転機となった経験を著書を朗読するかたちで紹介されたところは、非常に力があった。

青木新門「納棺夫日記」より

久しぶりに、湯灌・納棺の仕事が入った。今日の家は、行き先の略図を手渡された時は気づかなかったのだが、玄関の前まで来てはっと思った。

東京から富山へ戻り最初につき合っていた恋人の家であった。 10年経っていた。瞳の澄んだ娘だった。 コンサートや美術展など一緒によく行った。 父がうるさいからと午後10時には、この家まで度々送ってきたものだった。別れ際に車の中でキスしようとすると、父に会ってくれたら、と言って拒絶した。それからも父に会ってくれと何回か誘われたが、結局会う事なく終わってしまった。 しかし、醜い別れ方ではなかった。

横浜へ嫁いだと風の便りに聞いていた。来ていないかもしれないと思い、意を決して入っていった。本人は見当たらなかった。ほっとして、湯灌を始めた。もう相当の数をこなし、誰が見てもプロと思うほど手際よくなっていた。しかし汗だけは、最初の時と同様に、死体に向かって作業を始めた途端に出てくる。額の汗が落ちそうになつたので、白衣の袖で額を拭こうとした時、いつの問に座っていたのか、額を拭いてくれる女がいた。澄んだ大きな目一杯に涙を溜めた彼女であつた。作業が終わるまで横に座って、私の額の汗を拭いていた。

退去するとき、彼女の弟らしい喪主が両手をついて丁寧に礼を言った。その後ろに立ったままの彼女の目が、何かいっぱい語りかけているように思えてならなかった。 車に乗ってからも、涙を溜めた驚きの目が脳裏から離れなかった。あれだけ父に会ってくれと懇願した彼女である。きっと父を愛していたのであろうし、愛されていたのだろう。その父の死の悲しみの中で、その遺体を湯灌する私を見た驚きは、察するに余りある。しかしその驚きや涙の奥に、何かがあった。

私の横に寄り添うように座つて汗を拭き続けた行為も普通の次元の行為ではない。彼女の夫も親族もみんな見ている中での行為である。軽蔑や哀れみや同情など微塵もない。男と女の関係をも超えた、何かを感じた。

私の全存在がありのまま認められたように思えた。そう思うとうれしくなった。この仕事をこのまま続けていけそうな気がした。

2010/12/07

師走に走らず

内憂外患の日々、何ひとつ明るい兆しが見えないご時世である。
子どもたちの未来を思うと暗澹たる気分になる。

やっかいな仕事や煩わしい雑務は山のようにあるが、それなりの味わいもなくはない。
私はどん底や逆境でも気に病まない。暗闇にこそ主の光は眩しい。

師走であるが、私はトボトボ歩いていこう。
私は人とは違うレースを楽しむだけ。

言い訳はしない。
師走には走らず、焦らず。

あくまでマイペース。

とは言え、あれこれと振り返る必要に迫られる時期でもある。
結果より動機がどうであったかを問いつつも、結果もシビアに検証したい。

2010/12/04

桂浜と俺の空


「龍馬伝」の録画をやっと見終わった。

クライマックスの暗殺シーンで選挙速報のテロップが・・・

それにしても無粋なことをするものだ。さすが天下の公共放送!

福山龍馬が実際の龍馬とどの程度似ているかはわからないけれど、私には歴史上の龍馬より「俺の空」の安田一平と重なって見えた。

つまり漫画であるが、漫画としては楽しめたということ。

まあ、こんなシンプルなことしか考えていない人が、こんなシンプルな手順で、しかもたった独りで薩長同盟や大政奉還などを成し遂げたはずもないが、残された資料を乱暴につなぎ合わせて、面白く脚色したらあんな風になってしまったのだろう。

最近は、あまりにも志の低い政治家が多すぎるので、幕末維新の志士たちがものすご~く立派に見えたりもするが、同時代に生きていたら、そうでもなかったかも知れないなあと思ったりもした。

たかだか数人の人間がよほど頑張ったところで、歴史なんて動きはしない。金も暴力も陰謀も、長い時間と世界の多様性の中で薄められていくものだ。

英雄を待望する気持ちはわかるが、こういう期待がヒトラーを登場させる。ヒトラーは独裁者ではなく、我々自身の中のヒトラーが御輿をかついでコンプレックッスと野心に凝り固まった馬鹿に自分たちの運命を託しただけのこと。

誰であれ人の頭はそんなに賢くはなく、人ひとりの力はものすごく小さい。世界に君臨するには人の一生は短すぎる。

その為に神はことばを混乱させ、寿命を定められたのだから・・・・

私はくだらない陰謀論など信じないし、その類のものがあったとしてもあまねくその力が世界の隅々にまで及ぶことなどあり得ない。

「みんなが笑うて暮らせる世の中にはならんぜよ」「また世の中は少数の人間の思うとおりにもならんぜよ」
というのが私が思うところのこの世の中の定めである。

こうした法則を理解しない人たちの愚かな期待が反キリストを登場させる土壌を作るのだろう。

2010/12/02

カルシウムが足らんぜよ


骨のある奴が少なくなった。

人の前や人の上に立つものが、日和見の嘘つきでは困る。

きちんと自分のことばで語り、最後まで自分の責任で行動できる奴はおらんのか。