映画「ノルウェイの森」を観た。
村上春樹による原作は、売り上げ累計1000万部という驚異的ベストセラーである。
カフカ賞やエルサレム賞を受賞し、次はノーベル文学賞をとの呼び声も高い人気作家の代表作を、ベトナム系フランス人監督トラン・アン・ユンが映画化した。
主人公ワタナベは青森出身の今風俳優松山ケンイチが、心病むヒロイン直子は国際的女優となった菊池凛子が、奔放な緑はモデルの水原季子が演じている。「なるほどね」というキャスティング。
たまたまだが、菊池凛子の「バベル」も観たし、松山ケンイチの「デスノート」も観たし、水原季子の出た「情熱大陸」も観たので、予備知識も少しあった。
以下は、Saltの感想。(別に客観的評価というわけではない)
全体の雰囲気はそれほど特別悪くはない。しかし、何か違和感は残る。その違和感を分析してみる。
小説を映画にする場合、どうしてもディテールはカットせざるを得ないが、原作を知らなければどうしても意味がわからないことだってある。なぜ準ヒロインの緑がワタナベを信頼するようになるのかはほとんど映画の情報だけでは見えてこない。
また、先輩の永沢や療養所で直子と生活をともにするレイコの人間性がほとんど描かれていないので、下手すると、ただのキザ兄さんとエロおばさんの域を出ないキャラに堕ちてしまう。要するに登場人物のキャラクター設定が安直すぎて漫画っぽいのだ。
台詞回しも、原作に忠実にしゃべっているのだが、あんな不自然な会話はないよなあ・・・という気がする。あくまでも、原作は活字だから、それなりに読み手が咀嚼して、何気に読めちゃうだけだ。それをそのままシナリオにして棒読みでは、あまりにストレートすぎる。
まあ、細部まで忠実に描かれていたとしても、それでどうということもないが。
元々プロットは単純で、あだち充の「タッチ」の南ちゃんは、実は死んじゃった和也がスキ!みたいな話だ。残った達也とハッピイエンドじゃない分、ちょっとだけややこしくなるだけ。
村上自身の分身であるワタナベという主人公の経験が、実際の作者の喪失体験とどれだけ重なっているかは知らない。
心の病んだ恋人がいたのか、よく恋人に手や口で慰めてもらったのか、友人知人が何人も自殺したのか、そんなことは別に知りたくもないが、精神病患者のルポとしても、ポルノ小説としても、どこか半端な感じする。
もし、作者にいずれの経験もないとしたら、映像にすると、イメージが固定される分、いっそう印象が半端なものになるのは納得できる。自分の悲しみにリアルさを出すために、周りの人間に排気ガスを吸わせたり、手首を切らせたり、首をつらせたりしているだけだとしたら、まあ、最低な奴だなと思うわけ。元々、小説なんて個室の妄想だけど。
直子がワタナベに対して最も精神的なつながりを求めているときに、○○しゃぶらせて、「なかなかうまいね」などと言える無神経さを、私はこの小説と映画の核に観る。いくら「してあげる」と彼女が提案したのだとしても、それは違うだろうと私は強く思うのだ。
じゃあ、なぜこの無神経で半端な物語が、かくもウケるかという話だが、それは時代感覚と実にフィットしているからだと思う。
私はそれを「カラオケ・エコー効果」であると読む。音程がはずれてようが、リズムが狂っていようが、とにかくカラオケ・エコーはそれをごまかす。多少上手けりゃ、かなり上手く聴こえる。
村上小説は、そのエコーがいい具合にかかるカラオケルームみたいなもの。生活感の漂わないサブカルチャーの小道具による演出が時代にフィットしている。だからウケる。
夏目漱石のこころの先生の喪失感と、ワタナベのそれと比べてみれば、その死や苦悩はずっと薄っぺらな気がする。
軽くて記号的な喪失感だからこそ、何となく共有できて、より多くの人たちが自分の中途半端なわがままにもエコーをかけて、安っぽい部屋で何となく綺麗な反響を楽しめる。
そして、一番肝腎のポイントだが、小説の雰囲気も映画の雰囲気も、私の「ノルウェイの森」のイメージとは全く違う。
ジョン・レノンの感想が聴きたい。ポールやリンゴは生きているから、もしこの映画を観たら、また原作を読んだらどう言うだろう。
とにかく、タイトルが「鎮守の森」だと村上小説は成り立たない。