オリンピックもなかなかゆっくり見る時間はないが、垣間見て驚かされるのは、トップアスリートの鍛え抜かれた身体能力の高さである。とにかく凄い。
メダルを競う人たちの差は、0コンマ何秒とか、数センチとかいう単位であることも珍しくない。彼らは精密な機械で測定したり、録画を再生しなければわからないほどの僅差の中で戦っているのだ。肉体や技を鍛え上げ、板やシューズやユニフォームも限界まで合理化されている。
その道にすべてを注がなければ、参加できない高みである。だからこそメダルには価値があるのだ。「ナンバーワンにならなくてもいい、誰でもはじめからオンリーワン」というようなヘタレな歌を口ずさんでいる者は、スタートラインに立つ資格もない。「あなたは主の前に高価で尊い?」贖われることのない厚かましさは間違っても尊くはない。
しかし一方では、年がら年中冬のスポーツをやっているというのも妙な話で、そんな0コンマ何秒とか、数センチのために人生を賭けるより、他に大事なこともありそうな気もする。「正しい人生のバランス」というのがあるとしたら、何かが偏っているのだと、国母選手の物凄い技術を見て改めて思う。
私は教会の中で「罪」だとか、「肉」だとかいって一括りにして否定しているものの重さや中身をずっと見つめ続けている。なぜ神はそれらをすべてキリストにあって十字架につけてしまわれたのかを静かに考える。
「聖霊」を口にしても、それが「肉の劣等感や不全感のすり替え」である人たちの浅ましさには嘔吐が出る。私は国母選手のハーフパイプの演技にむしろリアリティ―を感じるのである。
「肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。このことばは真実であり、そのまま受け入れるに値することばです」(Ⅰテモテ4:8~9)
おお、この微妙な言い回し。見せかけの敬虔は無益ってことさ。
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