2010/02/10

コミュニケーション絶縁の時代を生きる①

私の職業は教員である。

音楽も教会での役割も職業ではない。職業とは、その職能が社会的に益するものと評価され、それによって家族を養っているということである。私にはそうした職業があるので、作品やメッセージが成り立っていると自負しており、そのすべてにおいて祝福をいただいている。

それぞれの活動はバラバラではなく、どこからどこまでと切り分けられるものではない。だから、私の発信にはそういうものがごちゃ混ぜになっている。とりあえずは「これでいいのだ」と思っている。今はこれ以外仕方ない。

学校では、担任職を離れて5年。この間に、学年や越えて、時には学校を越えて、いろんな保護者の方々と話をしてきた。そういう方々とは年月を経ても親しくことばを交わす関係にある。勿論、それ以前の約20年、担任を持たせてもらったご家族とは、その任を離れてもずっといい関係が持続できている。既に初期の教え子の子どもたちが入学し保護者は祖父母になっている。こうなると親子三代と付き合っていることになるわけだ。

「教育の危機」「学校崩壊」などと言われながら、私はいつも「右肩上がり」で仕事を楽しんでいる。

・・・と言っても、「それは何もかも華やかにうまくいって、周囲からあまねく評価されている」という意味ではない。実際には言いたいことも言えず、思うようにならないことが多いし、日々努力を重ねてもどうにもならないこともある。

しかし、そんな私が見ているものは、「私の仕事」や「仕事をしている私」ではない。ここに信仰の鍵がある。こういうスタンスでいるとき、私はドン底でも楽しく、気がつけば、自分自身の作品やスキル、そして満足度も右肩上がりをキープしているというわけだ。断片的な状況の評価とは別として、「あの頃は良かった」と思うことはない。イエスはいつも変わらない。主とともにあゆむ時間の密度が日々豊かになるのは当たり前。間違っても私が偉いのではない。

そして、しんどいことは事実として明らかにしんどい。それは誰でも同じだ。信仰があればしんどいことがしんどくないのではない。むしろ、明晰であればあるだけ苦痛も増す。逆に、だからこそ作品やメッセージが宙に浮くことはないのだと思っている。私の音楽やメッセージが誰かを慰める力があるとすれば、それは私が慰められているからだ。これもまたみことばどおり。
慰められる状況になんて、本当は身を置きたくはない。正直な気持ちを言えば、すぐにでも役割を終えたい。

それでも、困難な現場に身を置く私である。子どもとのコミュニケーションが難しい。ことばが届かない。今日もキツイ一日だった。週末はライブ。コミュニケーション絶縁の時代に、音楽を通して大切な何かを共有したい。

2 件のコメント:

  1. 高田渡というフォーク歌手を知ってますか?
    私は知りませんでしたが。。。
    知っていたら何かの影響はあったのでしょうか?

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  2. 知ってますが、影響はないです。

    世間に根強いファンはいると思いますよ。

    フォークは音楽としてはあまり興味を持てるジャンルではないし、詩に共感することもほとんどないです。

    全く音楽に素養のない人でも、ギター1本でなんか出来そうだという間口の広さには魅力がありますが、パッと聴いて素人臭くても、なかなか人に聴かせるレベルになるのは簡単ではないです。

    高田渡ともなると、ライフスタイルも含めてやはりそれなりなのです。

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