2010/03/10

成長させてくださるのは神①

偉大な教育書(だと思われている)「エミール」を著したルソーは、自分の子どもたちを施設にあずけっぱなしだったと伝えられている。

Saltもあれだけ好き勝手に生きていたら、子どもと触れ合う時間なんてないのでは。偉そうなことは言っても自分の子どもは放ったらかしだったり・・・と思っておられる方もおられるかも知れないが、意外にそうではない。

「自分の子どもをキチンと育ててナンボ」と思っている。肝腎要で手は抜いては一生の不覚。取り返しがつかないばかりか、老後の自分に跳ね返ってくる。まあ、それは冗談だが、自分の所有物やペットではなく、「尊重すべき人格」として接している。つまり、自分が大事だと思うことは選択肢として伝えようとは思うが、決して押しつけない姿勢を貫いている。つまずく可能性があっても先回りして、障害物を除いたりはしない。選択肢を狭めて、良いものだけで取り囲むと結局子どもはダメになる。

「天からの留学生を預かっている」という感覚をもって養育することが大事だと思う。つまり、関わり自体を面白がっている部分があるということ。そして、最終的な養育責任者は私ではなく神だということ。彼らは神の配剤によって私のところへやってきた人たちなのだ。それゆえ、やがて父と母を離れる日がやってくる。それぞれが結ばれる相手を見つけて一つになる事実はキリストと教会のモデルであり、神との一体が親との関係よりも大切だということのしるしでもある。「成長させてくださるのは神」なのだ。

教師や牧師の子どもに問題児が多いのは、親の肩に力が入りすぎて子どもをコントロールしようとするからだ。親の期待に過剰に応えようとすることも、烈しく抵抗することも同じ原因による裏表の反応である。親と子どもは別もの。自意識過剰な親たちを私は飽きるほど見てきた。

「親は親」「子どもは子ども」私とは全く違う人格なので、私が好きなことを同じように追いかけることはないのだ。子どもが全然異なる分野に興味をもったなら、自分もそれを面白がればいいのだ。子どものことに必死にならず、親は親で自分の人生をきちんと生きてさえいれば、子どもも自分の人生を大切に生きようとする。それだけのことだ。それぞれの人生をプラニングするのが神であり、それに応答するのは本人以外の誰でもない。誰かに求められた生き方をなぞって誰でもない自分を演じることに意味を見いだせないと、自殺するか、宗教にはまるかである。それがたまたま人から評価されたり、うまくいったりすると、仕事人間になるか、ほとんど何も考えない馬鹿になるかである。信仰を選ぶ自由を与えなければ、たとえ信仰が正しくても意味はないとさえ思う。自分で選ばない人生には意味などない。

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