敗戦によって精神的支柱を失った日本人は、国を挙げて過去の歴史の全否定を行い、GHQが敷いたレールの上をひた走り、その徹底ぶりと勤勉さのゆえに諸国が驚くほどの脅威の発展と回復を成し遂げはした。しかし、それがいかに虚しくくだらないことであったか、65年経った今、さすがに多くの国民は気づき始めている。
高度成長時代に生を受けた私は、「今をがまんすれば明日はきっとよくなる」という冗談みたいな神話を叩き込まれて育ったが、幸い私はひねくれていたので、そんなくだらない嘘は十五で見破った。
誰かが描いた絵の中のピースになるのは御免だ。予定調和的な言動をして同調してたまるか。墨を塗られた教科書より、初めから墨を塗る必要もない教科書なんて、もっと怪しいと思った。
受験戦争の規律を守って従軍するなんて、ゼロ戦や回転に乗って敵につっこむほどアホらしいことだと思った。
高学歴にも優良企業にも興味がなかった。そんなもんに飛びつくのは、ジープからまかれるチョコレートを我先にと欲しがるガキじゃねえか。
何もかもが嘘っぽかった。
「モダンタイムス」や「独裁者」なんていう映画を撮ったチャップリンや、「人類に進歩も調和もない」と言ってテーマとは正反対のオブジェを建てた岡本太郎や、「イマジン」を歌って子育てのために引きこもったジョン・レノンは、他の連中より、ちょっとだけ本当に近いことを求めているんだと思った。アートの中には自分が正直になれる居場所があると感じていた。
表現を突き詰めることは私の人生の大きなテーマとなったが、「信仰」は表現の必要感と質を一変させた。
私はこともあろうに、激しく忌み嫌った「学校」という現場に置かれるという予想だにしない展開を受け入れ実に25年。無作為にサンプリングされた母集団としての子どもたちやその家族と出会うことになる。
この現場での数々の出逢いが、私の価値観を整理し、感受性を研磨することとなる。自分の表現世界にひきこもっていては得られなかった生きた情報を得ることが出来た。
戦争を知らない子どもたちは、もっと深刻な敗戦のダメージの中で育ったのだ。「平和ボケ」ということばがあるが、自分たちが享受しているものが、何なのかわからず、やりたいことが何もない・・・・なんていう若者の現実は、確かに、朝飯食ったかどうか忘れて徘徊するボケ老人と変わらない。
今、子どもたちは、かつてどの世代もが経験したことのない不安と絶望の時代を生きている。
援助交際をするのは目先のお金が欲しいからではなく、フリーターになるのは将来の夢を追っているからではない。もっと大切なものを彼らは既に失っており、その替わりを得る希望もほとんどないのである。
私はかつて、左寄りの人が多い職場で職員旅行の担当をしたとき、指宿温泉へ連れて行った。知覧の特効記念館に立ち寄る為である。10代の兵士たちは、歪んだ軍国主義教育と戦時下の様々な制限の中で、両親への感謝と家族への思いにあふれる遺書を残している。
「教え子を再び戦場へ送るな」という教職員の合い言葉は表面上間違ってはいない。それは「二度と過ちを繰り返しませんから」という原爆慰霊碑の主語なしの呪文と似ている。戦後民主主義教育は、戦場では役に立ちそうもないわがまま勝手で根性のない子どもを育てる仕事を請け負って来たに過ぎないのではないか・・・私はそんなメッセージを同僚たちに投げかけたかった。
ろくに挨拶も出来ず、不誠実で義務をはたさず、口いっぱいに自己主張ばかりする子どもたち、大半の子どもは、戦場に出ても任務に堪えることなど出来まい。どんな反対意見も押しつぶす子どもの現実を軽く見てはいけない。こんな子どもを育てたのは、戦後生まれの頭の悪い大人たちである。
直接戦争を体験した世代は、もうすぐ誰もいなくなる。今の世代が次の世代のために受け継ぐバトンの重さが大切だ。
どんな時代のどんな場面でも、人の心の自由は守られている。何を動機とし、何を見つめているか。それが問われる気がする。