2010/02/25

emiさんとのお別れ

emiさんと最後のお別れをした。

国道沿いのコンビニ葬儀館には、emiさんがはっきり切り分けけじめをつけたかったはずの安っぽいキリスト教的な空気が立ちこめていた。カシオポータサウンドの玩具的音色の伴奏にねぼけたような賛美が響く。私が出来ることなら、いろんなことをもう少し何とかしてあげれば良かったと思ったが、そんなことは全く意味のないことなのだともわかっていた。この世における人の最期とは、まあこんなものなのだ。

考えてみれば、「キリスト教」という大騒ぎも、イエスの死の本質を忘れたイエスの死に関するイベントである。いずれの混沌にも、その核に何を見ているかは各人の霊の中に答えがある。どんな風にかたちにしても、いかに演出しても、「どこか違う感じ」は地上では拭えないものだろう。しかし、この違和感の中にイエスがおられるのだと私は思う。

私は喪服の参列者の黒に溶けこんで、五感に染み込んでくる不愉快な要素を可能な限りシャットダウンしつつ、emiさんのことを静かに思っていた。

emiさんはとても繊細で静かな方だった。そして、心の奥深くに熱く燃えるキリストへの熱を秘めておられた。

私との出逢いでボサノヴァにも興味を持ち、中止になったジョアン・ジルベルトの来日公演にも一緒に行くはずだった。

私の作る音楽にも深い理解を示して応援してくださっていた。阿武隈の山小屋で、奈良市のカフェで、室生の工房でライブを聴いてくださった。

オリジナルの賛美を共作しようというプランもあり、1曲だけしか出来なかったけど、KFCでも歌ってくださった。第2弾、3弾も作りたかったのに。

奈良では、「山の辺の道」や「明日香」を歩いた。体力的にもキツかったと思うが頑張って歩かれた。Sugarさんの阿武隈の山小屋でも何とも楽しい時間を過ごした。山の上から一緒に輝く太陽を見た。

「もう一度奈良を歩こう」「今度は一緒に北海道やイギリスにも行こう」そんな話をしていた。気休めや慰めではなく、本当にそんな日が来ることを願っていた。

私の音声メッセージの配信も、彼女がその気にさせてくれたようなものだ。それまでもリクエストに対しては個別にはダビングして対応していたが、不特定多数の方々に向かってネット上で発信しようという気持ちはそもそも私には全くなかったし、物理的にもむりだった。当時はISDN環境だったので、毎回CDに焼いてemiさんのところに送っていた。それを毎回emiさんがデータを変換して更新してくださっていた。その回数は100回を超えた。データCDと一緒にemiさんが好きそうな音楽CDを選んで送るのも私の楽しみのひとつになっていた。

彼女と共有した時間や経験は簡単にことばに出来ないほどとても貴重なものだ。そして、これらの交わりはすべてイエスという御方によって共に結び合わされているという幸せと希望がベースにあった。

訃報に触れたとき、何とも言えない気持ちになった。Lukeさんが送ってくださった液晶画面の文字が淡々と事実を告げていた。去年の暮れから、emiさんのことを想うと心が重くて辛かったが、その時なぜか悲しみとは別の不思議な平安が訪れた。

これは、なかなかことばではうまく表現できない。心の持ちようとか、気分ではない。未だに感情はブロックされていて涙も出ない。

「祝福に満ちた唯一の主権者・・・・」義父が急死したときに、その枕辺の祈りの中で与えられたみことばが再び心に甦る。ただそのことばによりかかっている。これは祝福であり、残されたご遺族にとっても最善であったのだと・・・・

そんなことを、私ごときの脳みそが簡単に理解できるはずがない。ただそのことばが真実であり、主は間違いないということを信じるしかない。

emiさんの悲しみも喜びも、死も復活も、そして私たちの希望もすべてはイエスにかかっている。そんなことはわかりきったことのはずだが、「本当にアーメンする」には、私はまだまだ頑なで強情なのだと思う。

いつもemiさんが気にかけておられた御主人とふたりの娘さんにお会いできてよかった。3人のしっかりとした表情から、それぞれに心の準備をされて、emiさんとお別れされたんだなと伝わってきた。

ご遺族のこれからのために私が出来ることなんてたぶん何もないが、もし何か出来ることがあれば、何でもさせていただきたいと思う。

関係の皆様の上に慰めと平安がありますように。

emiさん、おやすみなさい。いずれ、そのうち。

emiさんの証

私たちの愛する姉妹emiさんこと三宅恵美さんからのメッセージです。
ご遺族からのお礼のことばとともに、参列者に配布されたものをご紹介します。

     
            †        †        † 



証詞(2005年4月27日)

私は、がんと闘い治療する日々の中で、クリスチャンとしてのあり方の変化を経験しました。
以前は、自分の努力で自分を変えようと一生懸命であり、そこに喜びを感じられず、考えられるすべてのことを試し、癒しを求め、しかし何もおきず、どうして良いかわからない状態でした。

放射線治療の影響で、礼拝も聖書を読むこともできない中、ただ「主よ」、「主よ、助けてください」と祈ることしかできませんでした。そのような状態においても、主は私を受け入れてくださることはわかっていつつも、喜びを感じることができずにいました。

しかし、ある小さな出来事を通して、主の恵みは行いの結果ではないのだと理解しました。何よりも大切なことは、私がどうであるかでも、何ができるかでもなく、ただ主がすばらしいということ。私の目線は私自身から主へと変わり、解放と喜びを経験しています。

私の内での変化は、周囲の人々にも影響しはじめました。キリストのいのちは私の中で大きく育ち、周囲と広がっていきます。私はただ主のうちにとどまり、楽しむだけです。主は真実な方、与え、十分に満たしてくださります。

そのために主は十字架につけられ、よみがえりました。それは特別な誰かのためだけではなく、求めるすべての人に与えられます。

キリストにあって私はもうすべてを満たされました。最もすばらしいお方が、最も近くにおられます。なんという幸いでしょう。

「なぜなら、私にとって生きることはキリストであり」(聖書 ピリピ人への手紙1章21節)

「なぜなら、命の御霊の法則が、キリスト・イエスの中で、罪と死の法則から、私を解放したからです」(同 ローマ人への手紙8章2節)

                                    三宅恵美

(原文は英語だったものを、牧師及び家族で翻訳しました)

2010/02/23

やさしさ

「やさしさ」ということばに不快感を持つ人は少ない。しかし私は、多くの人たちがためらうことなく使っている「人にやさしい」「地球にやさしい」という表現にも、「やさしさ」ということばで一括りされるものの本質的な欺瞞を感じずにはおれない。

これらの表現において明らかなように、やさしくされる人は弱者であり、やさしくされる地球は壊れかけだという前提じゃないか。つまり、「やさしさ」とはやさしくする側に立つ者が自分のうしろめたさを誤魔化してはいい気になるための宗教的価値観に過ぎない。

弱者の側に立つことをためらうことなく宣言する人々は、自分の立ち位置からの距離感で人を簡単に値踏みし、自分から遠い場所で生きる者を烈しく攻撃する。総括したり糾弾したりする人たちがそうだ。彼らはある種の同族への強烈な「やさしさ」を強要する。シー・シェパードだって鯨にはやさしい。

私はよくよく考えて言い分がどっちもどっちの時には弱者の応援をしたいが、弱者に非がある場合だっていくらでも存在する。

だから、私は人の吹聴する「やさしさ」を取りあえずは警戒するのである。

思いやり

「思いやり」ということばにマイナスのイメージを持つ人は少ないだろう。しかし、「思いやり」というのはエゴイズムの変形であるという見方も成り立つ。「情けは人のためならず」という諺のように、「思いやり」は自分を防衛し、露骨に人に気づかれずに自分に利益を誘導するための保険なのだ。それぞれに「思いやり」を持ち合うことで相互扶助する。

「Saltはまたひねくれたことを言うなあ」と思われるだろうが、「思いやり予算」ということばの意味を考えるなら、「思いやり」の中に潜むエゴイズムが浮かび上がる。鬼畜生よばわりしていたアメリカの前にひざまずいて、その薄汚れた靴を嘗めているのが日本の示す「思いやり」だ。

何という御都合主義、何というエゴイズムであろう。それでも、そうすることが少しだけ得なのだ。

そんなわけで、私は人の吹聴する「思いやり」をまず疑ってかかるのである。

2010/02/22

教員のメンタルヘルス

教員のメンタルヘルスの問題がクローズアップされることが多くなった。文科省の委託プログラムの調査結果を見ても、かなり厳しいものがある。

質問項目に対するマイナス解答のパーセンテージの高さより、一般企業との比較の中で語った方がはっきりする。教員は「気がめいる」「イライラする」「いろんなことに頭がまわらない」では約2倍、「気持ちがしずんで憂鬱」では約3倍、「ぼんやりして、作業に集中できない」という項目では5倍近い人たちが自覚症状を訴えているのだ。健やかな子どもたちを育てるはずの先生たちが病んでいたのでは話にならない。なぜ、こういう結果が出るのか。

物凄く簡単にまとめてしまうと、社会的な尊敬が失われたのに、要求は多様化して件数も増え、授業の他にもいくつもの校務をこなし、運動会や遠足や学芸会などの数々の行事をこなし、どうでもいいような書類を山ほど書き、さらに様々な研修に参加し、その上で過剰な要求に応え、勤務時間を超えて家庭訪問を繰り返したり、電話をかけたり、学校で個別に対応したりしているのである。しかも、肝腎の子どもはなかなか落ち着かず、言うことを聞かない。そりゃあ、おかしくもなるわ・・・とこういうことだ。

民間企業での経験を経てから、教員に転職された銀じ郎さんや隆嗣さんたちがコメントしてくれれば、私が言うよりも説得力があると思うが、確かに教員の仕事は忙しすぎるのだ。しかも、報いを感じることは少ない。「ハイリスク・ローリターン」が続くと元気がなくなってくるのは当然だ。

子どもは商品ではないし、教育はサービスではない。だからこそ「聖職」と言われるのである。昔は社会全体に教育を神聖視する空気があった。しかし、歪んだ人権思想が自他の権利意識を増長させ、教師が自らを「労働者」として規定して、「教育」を工場労働の類と同質なものにした。

「私は立派ではなくても、私の仕事は立派だ。」
そういう誇りと責任を捨てた結果が、現状を招いた学校サイドの要因であると私は考えている。

そんなわけで、私は教職員の組合運動とは常に一線を置いてきた。
「教職は聖職である」と規定する以上は、何があろうと現場から逃げたり、目をそむけたりは出来ないということでもある。

とは言え、「そんなことどうだっていいからとっとと逃げたい」と思うことはたまにある。

2010/02/21

訃報

癌で療養中であったemiさんが、その闘いを終え、21日午後3時頃天に召されたという知らせが届いた。 今はただ静かに喪に服したい。 ご家族や関係の皆様の上に深い慰めがありますように。

2010/02/19

再度ご案内

2月20日(土) 10:00~  13:30~ 参加費 1500円

創作実験工房「童」 ワークショップ
「リコーダー・アンサンブルを楽しもう」  講師 Salt / ピアノ伴奏 Momo

講座も2年目突入。毎回一期一会の面白さ。フルーティー菅野は現れるのか?
午後には銀じ郎さんに逢える。

  
ふるさと元気村 宇陀市室生区下田口1112番地 0745-92-2001  
  

 ☆  ☆  ☆


2月27日(土) 15:30~  チャージ 1500円

PRUNE LIVE

さをり織りの手ほどき人にしてケーナ奏者のSue。フリースタイルで貪欲に新しい音楽に挑戦する若きピアニストMomo。そして、作曲・ギター担当のSalt によるトリオ。 どこか懐かしくて、不思議に新しい無国籍な癒しのサウンドをどうぞ。

カフェテラスNZ 奈良市法蓮町1330番地の1  0742-42-7115 

アスリートの鍛え抜かれた肉

オリンピックもなかなかゆっくり見る時間はないが、垣間見て驚かされるのは、トップアスリートの鍛え抜かれた身体能力の高さである。とにかく凄い。

メダルを競う人たちの差は、0コンマ何秒とか、数センチとかいう単位であることも珍しくない。彼らは精密な機械で測定したり、録画を再生しなければわからないほどの僅差の中で戦っているのだ。肉体や技を鍛え上げ、板やシューズやユニフォームも限界まで合理化されている。

その道にすべてを注がなければ、参加できない高みである。だからこそメダルには価値があるのだ。「ナンバーワンにならなくてもいい、誰でもはじめからオンリーワン」というようなヘタレな歌を口ずさんでいる者は、スタートラインに立つ資格もない。「あなたは主の前に高価で尊い?」贖われることのない厚かましさは間違っても尊くはない。

しかし一方では、年がら年中冬のスポーツをやっているというのも妙な話で、そんな0コンマ何秒とか、数センチのために人生を賭けるより、他に大事なこともありそうな気もする。「正しい人生のバランス」というのがあるとしたら、何かが偏っているのだと、国母選手の物凄い技術を見て改めて思う。

私は教会の中で「罪」だとか、「肉」だとかいって一括りにして否定しているものの重さや中身をずっと見つめ続けている。なぜ神はそれらをすべてキリストにあって十字架につけてしまわれたのかを静かに考える。

「聖霊」を口にしても、それが「肉の劣等感や不全感のすり替え」である人たちの浅ましさには嘔吐が出る。私は国母選手のハーフパイプの演技にむしろリアリティ―を感じるのである。

「肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。このことばは真実であり、そのまま受け入れるに値することばです」(Ⅰテモテ4:8~9)

おお、この微妙な言い回し。見せかけの敬虔は無益ってことさ。

2010/02/18

教室と教会の「教」の歪み

「義務教育」というシステムの功罪については、誰もが平等に語る権利や義務を有していると思う。現代社会は驚くほど学校化されている。そのフラクタルな構造の中に、いずれをも読み解くヒントが隠されている。

学校外の力学が学校内のいじめを生んだり、学校で培われた価値観が学校後の選択に大きな影響を与えるからだ。教育について考えることは、社会について考えることであり、教育を語ることは人間を語ることだ。そして、目に見える世界には目に見えない世界を鮮やかに映している。

公立小学校の教室には、様々な背景をもった多種多様な個性をもった子どもたちがいる。興味も能力もバラバラである。そこに面白さがある。

この互いの違いがすりあわされ、意味や価値が構成されることの中に教育の醍醐味がある。ポイントは、子どもが潜在的に持っている力や、集団が有機的に機能したときの可能性を信じられる教師がいったいどれだけいるかということだ。

小学校の授業というのは、いわゆる講義ではない。子どもが学びの主体であって、教室は学び合いのリングである。知らないことを知ることの喜びや出来ないことが出来る嬉しさ以上に、価値あるものを友達と分かち合うことや友達の存在そのものを感じる楽しさが溢れるものなのだ。教師の感性や力量によって、学びの質は大きく変わる。

物凄く前向きなことを書いたが、こうしたことがもう夢物語なのではないかと思える現実が目の前にある。

久しぶりに国語の授業をした。新任に見せる師範授業というやつだ。一番荒れているやりにくいクラスだ。教師に先輩も後輩もない。子どもの学びや成長の支援者でしかない。

価値を教え込むのは簡単だ。そうではなく教えずに感じさせることが大事なのだ。子どもたち自身の探求の果てに「約束の場所」へ行き着いてくれるような地図を示すことだ。

これらは霊的な原則とも完全に一致する。成長させてくださるのは神である。種を蒔き、水を蒔く時と場所と程度をわきまえていればいいのだ。後は慎むことに尽きる。

神は不思議な助言者であり、イエスだけが偉大な教師である。牧師なる存在が価値を教え込むのは、福音の妨害であろう。

エクレシアを教会と訳したことにも、その本質の歪みが明らかである。神は聖書と聖霊をお与えになった。聖霊はあくまでも助け手あり、この方はただイエスという御人格と御業を明らかにする。

2010/02/15

母なる国の代表選手

国母選手の服装が問題になっている。私も「ラシクナイ」ことにかけては国母選手の上をゆくので、この手の話にはかなり大らかほうだが、記者会見の映像をYouTubeで見て、さすがに「ちょっとなあ・・・」と思った。

反省している人間がふんぞりかえって座ったり、歯を見せて笑ったりしない。そして、間違っても「反省してま~す」とは言わない。

ある分野の能力が少し秀でていただけで周囲がチヤホヤするから、こういう増長する若者が出て来るのだ。「メダルを穫れば名誉挽回」という町の声もあるが、それは全く別の次元の話ではなかろうか。

「お国のためにメダルを獲得」という雰囲気は私も好きではない。自分のスタイルを大切にしたって構わない。しかし、礼儀に反する自己流は大人の世界では通用しない。「税金を使って国の代表として国際試合に参加するのだ」という自覚に著しく欠ける言動は慎むべきである。バッシングはやむなし。甘受して反省すべし。

ただし、ボクシングの亀田にしてもこの国母にしても、その道では世界で競えるだけの結果を出すために、相当な努力をしてきているのだということも事実である。そのことは世間も十分認め、目くじら立てている人たちも自分の道で精進するべきだろう。そこは彼らの努力に習うべきである。一方で、彼ら自身は「その道から一歩出れば全く世間に通用しないただのガキなんだ」ということも思い知らねばならず、また、思い知らさねばなるまい。こうした一番大事なことを伝えないことが、落ちぶれてゴミクズのようになっていく芸能人やスポーツ選手を生む。

あんなガキに当たり前の世間のルールを教えられない指導者たちには、さらに大きな問題もあると思うのだ。

職場の後輩に元国体選手がいる。彼に意見を聴いてみた。彼も県の代表団として出場するとき、同じように服装のチェックを受けた経験を持っている。若き日の自分と重なるところもあり、いろいろ考えさせられたという。

彼の意見もやはり、「あれは、いかんでしょう」とのこと。でも、世代や価値観も近い彼の感性に触れるのは面白かった。彼は、「国母選手のスタイルが格好いいと思うタイプの若者たちがこの騒動をどう受け止めているのか興味がある」と言っていた。また、このプレッシャーの中で、自分らしい競技が出来るのかを気遣ってもいた。

おもしろいのでさらに彼に聞いてみた。「もし君が同じナショナルチームの先輩だったら、彼に注意するか?」と問うと、「しないでしょう」とのこと。「じゃあ、もしコーチだったら」と問い直すと「注意します」と即答した。どうやら、このあたりに彼の社会人としての境界線があるようだ。妙に納得。

「愛は礼儀に反することをせず」(Ⅰコリント13:)
礼儀は単なる処世術ではなく、愛の領域にあるとパウロは言う。これが真理である。今回のことに懲りて、変にかしこまって大人しくなって欲しいとは思わない。トンガッタままで、多少は周囲を察する愛が欲しい。

歪んだナショナリズムと一緒にパトリオシズム(自然な郷土愛や同胞愛)さえも、捨ててしまったこの国の代表チームに、こうした若者がいるのは当たり前と言えば、当たり前であって、国母選手個人に責任を追及するのは、いささか厳しすぎるし、気の毒であると思う。

名字が「国母」だなんて、何とも・・・笑えないギャグだ。

2010/02/14

遊女ラハブの信仰

ラハブの家にイスラエルの斥候が身を寄せたのは、ラハブの信仰を見抜いていたからではなく、ラハブが遊女であったからだ。他の遊女の家でも良かったという点では、言わば偶然である。

しかし、神にとってそれは必然であった。神は、町ごと全滅させられるべきエリコに住む憂いと渇きをもったひとりの遊女を覚えておられた。ちょうどイエスがスカルの女に出逢うためにサマリヤを通っていかなければならかったように、ふたりの斥候をラハブの家に送られたのである。

「私はこのふたりの斥候のひとりが、『サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ』(マタイ1:5)のラハブの夫サルモンであった」という言い伝えを支持する。聖書の中に根拠はないが、何とも美しい話ではないか。

神の救い、神の配剤とはそういうものだ。神の恵みに信仰をもって応答するとき、神は驚くべき贖いの大作の中に私たちの思い出を織り込んでくださる。

どうしようもない町のどうしようもない遊女が、アブラハムのとなりに信仰列伝に名を連ね、ダビデとキリストの系図に名を残している事実を軽く見てはいけない。

キリストにあって望みがない人はいない。いつだって遅すぎるということはなく、不可能は可能になる。

詳しくは、音声メッセージをどうぞ!

2010/02/13

ボサノバレンタイン

奈良盆地のど真ん中、田原本は私が育った町。そしてカフェ・アルコはY.B.M氏の工房SIGNの跡地。周辺にも多くの友人知人が住んでいる。昨年の11月に行ったカフェ・アルコでの1回目のライブは、Y.B.M氏とカフェ・アルコのオーナー夫妻へのメッセージでもあり、自分の気持ちにけじめをつけるためでもあった。今回2回目のカフェ・アルコは1回目とは少し感覚が違い、1回目には感じなかったアット・ホーム感が強まった。

今回はアレンジにもいっそう力が入り、新しい挑戦もあった。すごく楽しいライブだった。体調も良く事前のリハも絶好調。しかし、調子に乗って声を出しすぎ、本番でハスキーボイスに。トホホ・・・

それで全体としてはまずまずいいパフォーマンスが出来たと思う。演奏後においしい食事をいただき大満足。今日は朝から絶食してガムしか噛んでなかったので、胃袋も喜んでいた。

これでS&Uの活動は約1ヶ月の休養に入る。Uribossa氏とさらなる飛躍を誓って握手。ご来場くださった皆さん、本当にありがとう。

2010/02/12

気づくこと・気づくかないこと・気づかれること

私は教員3年目に、1クラス40人程度の町の学校から、1クラス10人未満の山の学校に転勤した。そのときに受けたショックは忘れることが出来ないほど強烈なものだった。

最初の2年も、子ども一人ひとりを意識して見ているつもりだったが、いかにそれがアバウトでデタラメなものであったかということを思い知らされた。

私は何となく全体を見ていただけだった。

4月の早い段階にそれはやってきた。いつもはテンポよく進むはずの授業が、なぜか急にリズムが崩れ、空気がよどむのだ。

原因は明白。それは、私が時折まずい発問をするので、虚しい沈黙が生まれてしまうからだ。教室に40人もいれば、どこに投げても誰かが投げたボールを受けてくれるのだが、10人未満だとそうはいかない。投げたボールが誰にも届かずに教室の床に転がる。こうした経験で私は初めて目が覚めた。

40人もいれば沈黙も気にならず、黙っている子どもたちも、答えられない自分を責めたりしないが、10人だと子どもたちが沈黙に気を使いはじめて申し訳ない表情を浮かべたりする。

思考が深まる沈黙は大歓迎だ。しかし、発問が子どもの現実のそぐわない不適切なものであるために生まれた沈黙は授業にとって大きな妨げとなる。

子どもに「申し訳ない顔」をさせている私の愚にもつかぬ発問はどこから生まれたものか。

それは、目の前にいる子どもをしっかり見つめないで、実際に存在しない「架空の平均的児童」を想定して準備したものだからだ。

私が嫌ってきたさまざまな指導のマニュアルは、「架空の平均的児童」のために作られたものである。そう感じて、1年目からマニュアルには一切頼らず、自分なりにその都度つくりあげたもので勝負してきたつもりだったが、何のことはない、自分自身もしっかり個々の子どもを見切れていなかったのである。

これまでは40人という集団の力を借りていただけだ。私のリーダーシップでグループダイナミズムを利用していただけであって、大きな流れを作って調和させるために、目立つ子どもたちの際立った個性は随所に生かしてはいたものの、それは本当の意味で一人ひとりをしっかり見つめて個別のニーズに応えていたわけではない。

私はこの山の学校の経験で多くのことを学んだ。全く違う能力や個性の一人ひとりが集まって、2人や10人や40人になるのだということに気づいた。

どうしてこんな当たり前のことに気づかなかったのだろうと自らを恥じたが、本当に気づかなかったのである。

偉そうなことを書いてはいても、私にはまだまだ気づいていないことがまだまだたくさんあるだろう。

日々勉強である。今日出逢う子どもたちが新しいこと気づかせてくれる。それが教育の醍醐味である。これまで私が子どもに教えてきたこと以上に、子どもから教えられたことが大きい。別に恰好つけてるわけではなく、本当にそう思い、出逢ってきた子どもたちに感謝している。

教室が騒がしいとき、すぐに「静かにしなさい」「うるさい」と怒鳴る先生がいる。でも、40人いても本当にそのとき、声を出していたのは数人で、喜んでそれを聞いていた者を同罪としても10人もいないことが多い。場合によっては2~3人がさわがしいだけなのに、全員に罵声を浴びせるのはどうかと思う。

私は徘徊しながら新人教育を担当しているのだが、子どもがさわがしいとき、「次のことを指示せず、子どもが静まるまで何事も発するな」と教えている。間違っても子どもに負けないような大きな声で指示を与えてはいけない。

「それでも静かにならなかったらどうしますか」という質問には、「子どもの気づきに時間がかかるときは、うるさい子どもたちを叱るより、静かにしている子どもたちをほめる」ことを勧めている。

子どもは、先生が何となく全体を見ているだけなのか、自分を意識して見つめてくれているのかを見分ける臭覚を持っている。

子どもは、先生が自分のやるべきことをやっているだけなのか、自分にとって有益な価値を与えてくれようとしているのかにも、やがて気づくものである。

2010/02/11

コミュニケーション絶縁の時代を生きる②

最近、自分の所属校で「コミュニケーションが絶縁される場面」に出くわすことがある。直接関わりのない親御さんたちにこちらから挨拶しても、挨拶が返ってこないことが珍しくないのだ。無視されることもあれば、無視以前に存在に気づかずに通り過ぎられることさえある。これにはけっこう傷つく。少なくとも奈良の田舎では10年前にはなかった現象である。勤め始めた頃の旧都祁村の集落では、私が子どもたちを連れて校区を歩くと、道行く人や農作業をしている人が、子どもが小学校にいるいないに関わらず、挨拶をしてくれたものだ。

ところが、今の親たちはそうではない。自分の子どもが学校に通っていても、担任や関わりの深い先生以外には挨拶をしないのが普通になりつつある。こうした親たちの日常的風景やなかま意識の中に組み込まれない限り、彼らは目も会わさず挨拶もしないのだ。だから、不作法を嘆いていても関係は良くはならない。むしろ、彼らの習性やルールを学ぶ必要があるのだ。

彼らもその子どもたちも、普通に考えてあり得ないような行動をとっていたとしても、ちゃんと周囲の目は気にしている。つまり、挨拶もしてもらえず、迷惑を被る位置にいる人たちは、彼らの周囲のさらに外側に存在するものと見なされているのである。

まず、日常的風景に溶けこみ、「なかまなんだ」と認知してもらわなければ、価値のある情報は一切伝わることはない。ちょっと気にいらないが、こういう技術も職能のひとつとして身につけておくのがプロフェッショナルである。

私は批評家ではなく、今日も現場の教員である。コミュニケーション絶縁時代を教員として生きるストレスは決して小さくはない。

2010/02/10

コミュニケーション絶縁の時代を生きる①

私の職業は教員である。

音楽も教会での役割も職業ではない。職業とは、その職能が社会的に益するものと評価され、それによって家族を養っているということである。私にはそうした職業があるので、作品やメッセージが成り立っていると自負しており、そのすべてにおいて祝福をいただいている。

それぞれの活動はバラバラではなく、どこからどこまでと切り分けられるものではない。だから、私の発信にはそういうものがごちゃ混ぜになっている。とりあえずは「これでいいのだ」と思っている。今はこれ以外仕方ない。

学校では、担任職を離れて5年。この間に、学年や越えて、時には学校を越えて、いろんな保護者の方々と話をしてきた。そういう方々とは年月を経ても親しくことばを交わす関係にある。勿論、それ以前の約20年、担任を持たせてもらったご家族とは、その任を離れてもずっといい関係が持続できている。既に初期の教え子の子どもたちが入学し保護者は祖父母になっている。こうなると親子三代と付き合っていることになるわけだ。

「教育の危機」「学校崩壊」などと言われながら、私はいつも「右肩上がり」で仕事を楽しんでいる。

・・・と言っても、「それは何もかも華やかにうまくいって、周囲からあまねく評価されている」という意味ではない。実際には言いたいことも言えず、思うようにならないことが多いし、日々努力を重ねてもどうにもならないこともある。

しかし、そんな私が見ているものは、「私の仕事」や「仕事をしている私」ではない。ここに信仰の鍵がある。こういうスタンスでいるとき、私はドン底でも楽しく、気がつけば、自分自身の作品やスキル、そして満足度も右肩上がりをキープしているというわけだ。断片的な状況の評価とは別として、「あの頃は良かった」と思うことはない。イエスはいつも変わらない。主とともにあゆむ時間の密度が日々豊かになるのは当たり前。間違っても私が偉いのではない。

そして、しんどいことは事実として明らかにしんどい。それは誰でも同じだ。信仰があればしんどいことがしんどくないのではない。むしろ、明晰であればあるだけ苦痛も増す。逆に、だからこそ作品やメッセージが宙に浮くことはないのだと思っている。私の音楽やメッセージが誰かを慰める力があるとすれば、それは私が慰められているからだ。これもまたみことばどおり。
慰められる状況になんて、本当は身を置きたくはない。正直な気持ちを言えば、すぐにでも役割を終えたい。

それでも、困難な現場に身を置く私である。子どもとのコミュニケーションが難しい。ことばが届かない。今日もキツイ一日だった。週末はライブ。コミュニケーション絶縁の時代に、音楽を通して大切な何かを共有したい。

2010/02/09

これでいいのだ

「天才バカボン」のストーリーは、バカボンとパパとの馬鹿馬鹿しい日常のやりとりが軸になって話が展開していく。

私は、このシュールな世界がバカボンの日常の客観的な写生ではなく、すべて「小学5年生のバカボン」の視点で書かれていると読む。

つまり、「小学5年生のバカボン」が、自分を取り巻く世界と自分と関わりの深い人物、周辺で起こる出来事を見つめ体験したように描かれているのだ。だから、パパはいつもバカボンと遊んでいて、おまわりさんはピストルを撃っていて、レレレのおじさんは街を掃除しているのだ。それがバカボンとの接点だからだとすればすんなり理解できる。著しい誇張や急な展開もバカボンの心象や記憶の再生時の脚色であるという見方も出来る。

バカボンは常にパパと絡みながら悪ノリをエスカレートさせていくが、いつもどこかでヘマをする。このある種の軽快さと愚鈍さ、そしてパパのツッコミに対するボケの上手さとタフさが、パパと同じようにバカをやるがどこか「素」の部分があり、バカそうなのにどこまでもバカじゃなく、穏やかでニュートラルである。そういうキャラクターがパパの奇妙さを浮き立たせているのだが、これも赤塚がバカボンを視点としたからだと見れば理解しやすい。

バカボンには、「一般的な天才」であるはじめちゃんという弟と、「綺麗で常識的な」ママがいる。バカボン一家の半分は極めてフツーでマトモなのである。この時々、登場するふたりが、物語のリアリティーを深める。しかも、ママや弟がとんでもないふたりを自然に受容している描き方なのが凄い。

この漫画のタイトル「天才バカボン」であり、決して「バカボンのパパ」ではない。パパは「バカボンのパパ」として登場し、読者も「バカボンにとってのパパ像」を見ているのである。パパ本人も「ワシはバカボンのパパなのだ」とバカボンの前で語るわけだ。「本当の天才」はパパでもなく、はじめちゃんでもなく、凡庸に見えるバカボンのバランス感覚に宿っている。

バカボンがパパから学んだ人生哲学について、Salt流に解説しよう。

混沌とした不条理な世界を「これでいいのだ」と受け入れるパパの哲学は深い。「これでいいのだ」は、「あれでいいのだ」でも「それでいいのだ」でもない。パパの世界観には自分自身もちゃんと含まれて相対化されているというわけだ。そんな自分自身の有り様も含めて否定しつつ、全てを引き受けるという決意の表明である。それ故、パパは鋭い人間洞察と深い厭世感を持ちながらも、自尊心を失わず、エネルギッシュである。「反対の賛成」とは、相対する立場も結局は同じなのだということ、「忘れようとしても思い出せない」は、結局人間は歴史から何も学ばず、その本質は変わらないということを意味している。こうした哲学をバカボンはパパと遊びながら、楽しく身につけていくわけだ。辛く、悲しい、どうにもならない現実は、とりあえず笑い飛ばすしかない。哲学書が漫画より高級だとは思わない。私は常々、赤塚をサルトルやニーチェに並ぶ知性だと言っている。 バカボンのパパは、自由の刑を楽しむ真のツァラトゥストラである。

バカボンファンの方も、そうではない方も、赤塚がバカボンの視点で描いた世界として再読されると新たな発見があるはずだ。「おそ松くん」で名声と表現上の自由を得た赤塚は、かなり実験的にこの作品の連載を続けることが許されたようだ。

後付け可能な理屈はいろいろあるだろうが、すべてはそれほど意識的なものではないかも知れない。おおそらく「遊び感覚」の中でキャラクターがいきいきと動きだしたものなのだろう。要するにパパとバカボンはふたりとも赤塚の分身なのである。

2010/02/08

Tetra 改め

さをり織りの手ほどき人にしてケーナ奏者のSue。フリースタイルで貪欲に新しい音楽に挑戦する若きピアニストMomo。そして、作曲・ギター担当のSalt によるトリオで2回目のライブを控えて練習中だが、急きょTetraという名前を変更することにした。

先日、マリンバ奏者であり、奈良県の教育委員長でもある松本真理子氏(実はSueちゃんとも親しい)にお会いした際、彼女のマリンバアンサンブルもTetraという名前であることが発覚したからだ。「こっちはもうウン十年もやってるんだから、そっちが名前を変えて欲しい」とバッサリ。「そりゃ、そうやなあ」とアッサリ。

悩みに悩んだ末、Pruneとした。イタリアで織りを始めたSueちゃんはイタリア語の名前をいろいろ考えてくれたが、私の意見で押し切ってしまった。

SueとMomoでスモモ。こんなんばっかりか。そう、こんなんばっかりである。このグループは、やはりSueちゃんのケーナとキャラクターがメインだと思っている。そして、私とSueちゃんにとっては娘みたいなフレッシュなMomoちゃん。さてSaltは?大丈夫、ちゃんと、裏に「まぬけ」「ばか」という意味がある。動詞の意味もなかなか含蓄がある。

Prune
1 干しスモモ,プルーン
2 まぬけ,ばか.
━━ vt. (木を)刈込む ((back)); (枝を)おろす ((away, off, down)); (余分なものを)取り除く ((from, off)); 切詰める, (文章を)簡潔にする ((away, down))

2010/02/07

花嫁の手紙

従兄弟の娘の結婚式があり出席した。

「この人、大丈夫かな?」と皆に心配されていた花婿だが、花嫁が読む両親への感謝の手紙に感動して、ケロッとした花嫁の隣でボロボロ泣いていた。それを見て「大丈夫だ」と思った。

泣き虫の花婿は整形外科医の卵。花嫁は看護師。「整形外科は崩れかけたものを修復する仕事なので離婚は少ない」と上司の挨拶にあった。なるほど。

さすが私の血筋だけあって(冗談)、花嫁はかなりの美形だが(これは本当)、明るい笑顔がいっそう彩りを添えて眩しく輝いていた。去年一足先に結婚した姉もまた美人(これも本当)。お色直しの時には、花嫁の希望で姉がエスコート。美人姉妹が手をとりあって退場した。なかなか絵になるなあ。

「お姉ちゃんは自分のことよりも大切に思っている。自分にとって幸せだったのはお父さんとお母さんがとても仲が良かったこと・・・」

飾らない普段のことばで読まれた花嫁の手紙は、花婿だけでなく娘を持つ私の胸にも迫るものがあった。しかし、あんな手紙と引き替えに、花婿にくれてやるにまだまだ心の準備が出来ていない。

2010/02/06

大相撲の品格

朝青龍問題についてコメントする気はなかったが、「引退表明しなければ解雇する」という脅しをかけられていたことを知って頭に来た。これが新しくなった理事会の決定である。

まずはじめに、「大相撲は国技であり横綱には品格が求められる」という幻想についてだが、「大相撲は国技である」とする正式な規定はない。従って「国技だからどうのこうの・・・」という理屈を成り立たせるのはそもそも難しい。昔から大相撲は「興業」であって武道と言うよりは本質的に見せ物なのである。だから、八百長でさえそれが見せ物として高級であれば十分許容できる。そもそもNHKの放映時間枠におさまるように、時間いっぱいで無理に呼吸を合わせているのではないか。もう一度言うが、「見せ物」なのだ。

この興業という点において「朝青龍」が果たした役割は極めて大きいと思っている。朝青龍が問題を起こして相撲協会が騒ぐというのも、誰かの演出かなと思っていたほどだが、そんなに懐が深いわけではなかったのだ。

仮に大相撲が国技だとすれば、「品格」は、モンゴル出身の一力士に期待するよりは、国技たる大相撲の伝統と格式からにじみ出てくるものでなくてはならない。ものの順序から言っても、朝青龍は横綱審議委員会から推挙され、「謹んでお受けして」横綱になったのであって、任命責任も同等かそれ以上に問われてよい。さらに他人事のような態度の高砂親方の指導力にこそ最大の問題がある。朝青龍に品格が欠けているのは、大相撲全体に品格がないからだ。

暴力沙汰にしても、朝青龍がマジで素人をなぐっていたとしたら、素人は下手をすれば死ぬほどのダメージを受ける。要するに大したことはないのだ。トラブル処理にしくじって情報がもれただけだ。

今回の報道で唯一リアリティを感じたのは、同郷のライバル白鳳の涙である。

2010/02/04

「アバター」のエクボ

「アバター」をご覧になれば、「風の谷のナウシカ」や「もののけ姫」に通じるものを感じられると思うが、ジェームズ・キャメロン監督は、どうやら宮崎アニメの崇拝者らしい。このあたりも見どころのひとつになっている。

そして、宮崎作品同様、「自然」対「人間」や「異文化」対「アメリカ」を単純に善悪に描きわけているところが、この作品が大ヒットの秘密であり、底の浅いところでもある。

ベトナム戦争の反省からオリバー・ストーンの一連の作品やキューブリックのフルメタル・ジャケットが生まれたが、この映画もイラク・アフガン攻撃に対するキャメロンの思いが反映されており、現在のアメリカの政治的精神的背景が見て取れる。

バーチャルのリアル化が進み、リアルのバーチャル化が深まる中、一人ひとりの日々のあり方が問われていると感じる。

特にバーチャルを支える動機は「逃避」であり、逃げるために使う能力は主に「視覚」である。だから、動機を正すこと、つまり勇気を出してリアルと向き合い、そこから逃げないこと、そして視覚以外の感覚をとぎすますことに鍵があるのではないかと私は思っている。

現代人は何でも簡単に諦め逃げ出す傾向が強い。そして、一般に視覚以外の感覚が弱い。視覚とてそれが優れているというのではなく、強い刺激に慣れきっているだけのことであり、それ以外の身体感覚を使い研ぎ澄ます機会が著しく損なわれているという都市生活の現実がある。

「アバター」の中でも、主人公が「パンドラの森」の中で、部族の一員として受け入れるためにいのちの感覚を総動員して「生きもの」としての充実感を味わう場面がある。

パンドラの人たちにとってのリアルは、リアルなアメリカ人のリアルな息苦しさの反動として創造されたバーチャル世界であるとういうこと。

バーチャルな世界で尊ばれるものが、いかにリアルな世界に欠けているかがわかるという読み方が出来る。

リアルな世界でリアルに良いものをゲット出来れば、誰もバーチャルへは逃げ込まない。キリスト教がバーチャルな教えで脳みそをバーチャル化させるのは、リアルなイエスを知らないからに他ならない。リアルなイエスとつながっていれば、おかしな教会もヘンテコ牧師もいらない。

2010/02/03

「アバター」のリアリティー

最近なぜか仕事上のストレスがけっこう大きい。何やかんや言いつつ、やはり私は真面目なところがあるようだ。「いつも遊び半分」は前にも書いたが、つまり思いっきり遊んでいるのと同じくらいはいつも真面目だということ。

仕事に慣れて余裕が出て来ると、いろいろ考えて手を打ってしまう。そして、問題が起こると、気がつけばギアをローからセカンド、セカンドからサードへとチェンジして加速してしまう傾向にある。ここに来て、仕事に慣れて余裕が広がったのと、相次いで現場でいろんなことがおこるのでちょっと熱くなってしまった。私自身の納得や手応えを求めると、逆に周囲を混乱させることもある。クールダウンが必要だ。真面目が増して来た分だけ、遊びを増やさないと「半分半分」という私のとっての正しいバランスが壊れてしまうではないか。

基本的に私は自分のことでは悩まないので、現場を離れてちょっと深呼吸をすれば、「他人事」をどの程度「自分事」として負うのが「他人」にとってより有益かを整理できる。
こういうバランスを取りたいときは、非創造的な消費型娯楽に限る。ちょうど使わずに残してあった文化鑑賞補助チケットがあった。はからずもmovix橿原ではなく東宝シネマで申し込んでおいたので、今話題の3D映画「アバター」を見ることが出来た。

「アバター」とは、「分身」という意味で、チャットなどのコミュニケーションツールで、自分の分身として画面上に登場するキャラクターのことだが、語源はサンスクリットで、神々や仏の化身を指す。 伝統的にネット上のコミュニケーションは文字だけで行なわれていたが、「アバター」を使うことによって実世界のコミュニケーションと同じように表情や動作による豊かな表現が可能となり、若い世代を中心に広がっている。

「アバター」(分身)にしても「サロゲート」(代理)にしても、バーチャルとリアルの錯綜と葛藤という今日的なテーマを扱っており実に興味深い。いずれも作品としての深みにはいささか物足りなさを感じるが、娯楽作品としては十分な出来である。私は現場の一教師として、バーチャルリアリティーの現実を見極め、その切り分けが明確にすることがこれからの子どもに対応する鍵だと思っているので、この2本の映画は研修教材としても内容が豊富。

いずれの映画も、主人公がふたつの世界の間で葛藤した末の選択の結果を鑑賞者が共有させられるかたちで終わるのだが、その結果が反対なのが興味深い。ネタバレさせるとつまらないので控えめの表現にとどめるが、サロゲートでは、「バーチャルからリアルへ」という方向に対して、アバターでは「リアルからバーチャルへ」というベクトルの向きである。これは、「どちらがよりリアルに感じられるか」ということが鍵になっている。さらに主人公の年齢や世界観にもポイントがある。サロゲートの主人公は中年であり、アバターの主人公は青年である。彼らの人生に対する価値観が選択に繁栄される。もうひとつ付け加えると、リアルな世界でそれぞれの主人公が負っているマイナスの要素がその価値観を左右する。サロゲートの主人公は子どもを失っており、アバターの主人公は下半身の自由を失っているという設定になっているのも見逃せないファクターである。

アバターではあえてそういう描き方を誇張しているわけだが、バーチャルな世界がリアルな世界よりも遥かにリアリティーがあるということが実に「今日的リアリティー」に満ちている。逆にリアルな世界の方があまりにも単純な力と欲望の構図で動いており、そのことがバーチャル世界を肥大させるエネルギーになっている。主人公のアバターはカッと目を見開くが、リアルな主人公はカプセルの中で目を閉じている。

しかも、とてつもない映像を3Dで見せられ、自分もパンドラという国にいる錯覚を覚える体験をする。私の感覚や認知機能が正常であればあるほどバーチャルなものをリアルに感じるのだから何とも不思議な感じである。

「アバター」のバーチャル・リアリティ―は、映画館で体験してみる価値はある。宣伝しても仕方ないけど、DVDでは味わえない。「サロゲート」と合わせて見ると、なお面白かろう。

しかし、別に無理して見なくても、似たようなもっと不気味で不思議で面白い錯綜や反転は私たちの身の回りにいくらでもある。

大事なことは、自分にとってリアリティとは何かということ。つまり、学校が、教員というアバターと生徒というアバターがすれ違うバーチャル世界になっていないか。教会が、牧師というサロゲートと信徒というサロゲートが戯れているバーチャルな世界になっていないかとういう種類の点検である。

気がつけば、「リアルで自然な私」を、「バーチャルで人工的な私」に化身させ代行させている。

私はバーチャルなセンセイにはならず、リアルなおっさんでいることを選ぼうと決意を新たにした。見事ストレス解消。

2010/02/02

無神論者にもなれない日本人

日本人が「私は無神論者だから」などと嘯いているのを聴くと、この人はあんまりマトモにものを考えたことのない人なんだなとしか思わない。なぜなら、何も信じないということは、神の前における曖昧さを保留することに他ならず、そうした態度を無神論ということばで括ってしまうということは、その自覚さえ全くないという告白だからだ。言ってみれば、それは孤児院にいながら、そこがどういう施設なのかわからず、猫の額ほどの園庭の遊具に夢中になっているようなものだからだ。

本当の無神論者というのは、近頃はやりの多神教優位論者のことではなく、ドストエフスキーが描いたイワン・カラマーゾフやスタヴローギンのような人物を指す。即ち、創造主としての神の存在とキリストの贖罪の意味を知った上で、「そんなものはないし、あっても自分には必要ない」と宣言する人のことを言うのだ。

つまり、日本人は無神論者になる前提としての知識や情報さえ持っていないというのが本当ではないだろうか。人権思想や民主主義も背教文化さえも、日本に存在しているものには全てにその基礎や土台がない。しかもそれらはまるで「書き割り」のような薄っぺらさである。

・・・んなわけで、タカ&トシの「欧米か!」というツッコミはなかなかいいポイントを突いているのだ。欧米は既にほぼ決着がついている。

逆に、日本人にはまだ望みがある。きちんと聖書に触れ、福音に向かい合ったとき、何が起こるか。そこはまだ未体験ゾーンだからだ。

キリスト教を追いかけてもキリストの面影はない。

大切なのは聖書そのものに偏見なく向かい合うこと。私の発信はそのためのささやかな道つくりであると自覚している。

2010/02/01

サロゲート

「サロゲート(代理)」という映画は実に興味深い内容を扱っている。老いを克服し災いさえ引き受けてくれる身代わり高性能ロボット「サロゲート」によって営まれる代行社会。オペレーター(持ち主=本人)は、自室にこもって自分のサロゲートを操るだけ。夫婦は一緒に住んではいてもたまに顔を合わす程度でそれぞれ自室にこもってそれぞれのサロゲートに自分の人生を託している。主人公を演じるブルース・ウイリスも本人と自分の分身のサロゲートというかつてなかった一人二役で、理想を実現するはずのサロゲートに人間性そのものを浸食されていく心の葛藤を見事に演じている。

映像は現実離れしたSFでありながら、描かれているテーマが極めてリアルなのでストーリーを離れていろいろ考えさせられる作品である。

現代の先進諸国では、サロゲートなる技術などなくても、すでにひとつの人格が場に応じた演じ分けをして、社会のそこかしこでバーチャルとリアルが反転している気がする。お互いが健全な五感を解放し素直な心を曝して触れ合う場がリアルな世界には殆どなくなっている。そうした歪んだ現実を感じ取る感性がこの映画を作らせたのだろう。だから単に「こんな技術が出来たらそんな社会になるかも」という種類の映画ではない。サロゲート・カンパニーやサロゲート・スクール、そしてサロゲート・チャーチでは事件さえおこらない。ビュンさんなんて生身の変態だったのでまだマシかもね。

私が一番印象に残ったのはサロゲートを失った主人公が生身の姿で街を歩くシーン。あれはまさに毎日の私の姿ではないか。

http://wiredvision.jp/blog/takamori/201001/201001191130.html

これを見るともはやSFではなさそうだ。ますますバーチャルとリアルが交錯し反転する世界になるだろう。