2010/01/19

違いと同じは違うが同じ

某研究会の事務局長時代、そして現在の徘徊生活の中で、たくさんの学校をいろんなかたちで見て来た。どの学校も全く違うと言えば違うし、全く同じだと言えば同じだ。どこの学校の校歌や校訓も、別のどこかの学校と交換しても気づかない程度に似ているのである。それは、徳や真理の普遍性ということとは別の次元での共通項であるから誇りが持ちにくい。

確かに「組織は人」だと思うが、個人がどれだけ頑張ろうがどうにもならない面も否めない。個人は組織という「からだ」にとっては、新陳代謝によって入れ替わる「細胞」のようなもので、局所的に見れば、その実体を担っていると言えば言えなくもないが、何かもっと別の価値を負わされていると言えばそうも言えそうだ。

個人の資質を上手く生かす組織もあれば、殺す組織もある。自分の資質を生かせる組織に人は所属しようとするのだろうが、反面「良い組織」「強い組織」は、パーツの交換可能性が高い。個人がシステムにどこまでどんな風にコミットメントするか、そこが問題だ。

つまるところ、学校と言うところは、さらに大きなシステムを支えるさまざまな組織のパーツとなりうる均質性を追求させるところのものであるから、違うと言えば違う程度の均質性の中で、統一規格の誤差程度の個性しか認めないのだ。

初めから認められないことを前提とした「浮き」や「はみ出し」を覚悟した者だけが、お仕着せの価値を少し押し広げて、「違い」がわかる奴に育っていくのだと思う。

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