2011/02/27

春遠カラーヂ



2月も今日でおしまい。
emiさんを送ってから一年。
今日は冗談みたいにあたたかい一日。まさに「春遠カラーヂ」
さまざまな出逢いと別れ。多くの出来事。
私は悲しみをこらえつつ、今日も笑顔で過ごせることを感謝しつつ、淡々とマイペース。

今週末3月5日は、大阪本町カイピリーニャでのライブ。しつこく再度ご案内。

練習も最終チェックに入る。いくつかの心配を何とかクリア出来そうなのでホッとしているが、花粉症もあるので安心は出来ない。

仕事も年度末にさしかかり超ハードだが、勢いでやっつけてしまうと雑になるので、ひとつひとつ丁寧に片付けて春を迎えたい。無理をして疲れすぎてもいけない。

唯一心配の種だった長男・長女の進路も来月には定まる。今年の桜は、これまでの人生の中で最も美しいものとなるだろう。

リコーダー講座でも、去年の今頃に作曲した「桜咲いたら」を演奏してもらった。

2011/02/26

栗の木のある家



「栗の木の家」は、私の大好きな田口の郷にある隠れ家的な場所。オーナーは私の活動にも理解を示し、いつも応援したくださる竹本氏。遠くからの友人をお迎えした際にはよく利用させてもらっている。

この度、HPを開設されたのでご案内。

http://web1.kcn.jp/chestnut/index.html 【栗の木の家だより】

2月のリコーダー講座より



今日は新メンバーのba.m.booさんが来られた。彼女は日本画を描く人で中学で美術を教えている。「ギターで参加していいですか?」ということだったので、「もちろん、何でもありです」と快諾。どんな楽器でも楽器なしでもいいのだ。

彼女を意識して、ギターとアンサンブルを作れる選曲にした。リコーダーもお貸ししてところどころ吹いてもらったが楽しんでくださったようだ。

講座が終わってからおもむろに生徒の作品を出された。粘土で作った自分のペンケース。それぞれに質感や使用感が出るように、間違えるほど本物っぽく作ろうと指導されたのだそうだ。

美術の基本は表現の前に観察である。なかなか面白かったので写真を撮らせてもらった。

リコーダー講座にギターと子どもの作品を持って現れた彼女。「こんなに次々たくさんの曲をやるとは思っていなかった」ということだが、さて、次回は来てくれるのかな?

2011/02/25

ガチンコより八百長


大相撲の八百長問題が大きな話題となっているが、もともと相撲は儀式的、宗教的要素の強い見せ物。近代スポーツの論理を持ち込んで大騒ぎすること自体がナンセンスだという気がする。「八百長」ということばの由来からして相撲絡みなのだから、この話は前代未聞などではないのだ。

「八百長」は興業を面白くするための工夫でもある。弱い兄を強い弟が勝たせたり、世代交代を演出したり、看板力士の連勝記録を応援したり、不調力士の勝ち越しの一勝を献上したりと、いろいろと大変なのだ。

「相撲は知的なスポーツではない」というフランスのサルコジ大統領の発言も、「八百長は許せない」という発言も私にはいずれも知的な発言とは思えない。

大体、携帯メールの履歴などという何ともショボイ証拠がなければ、親方衆も見抜けず、証明もできないほど八百長が巧妙なのだとしたら、むしろ表彰状ものではないか。「あの大一番も八百長だった」とがっかりするより、迫真のスポーツドラマに酔っていればいいのだ。

教育も半分以上は言わば八百長みたいなもので、「見て見ぬふり」や「あえて騙されてやること」がけっこう大事なのだ。子どもは教師に借りた分は、きちんと返す律儀さを備えているもの。現場で自分の立場を守ったり、正当性を主張したりしてどうするのか。

子どもや保護者と「ガチンコ対決」する教師は教育者としては3流だと思っている。子どものことを第一に考えれば、力づくで押し切るより時々負けてやることの方がずっと大事なのだ。その程度のことで自分のプライドにこだわること自体プライドが低い証である。

明日はリコーダー講座




2月のリコーダー講座のご案内

2月26日(土)pm 2:00~4:00
参加費1500円

Momoちゃんのスケジュールが多忙の為、ピアノ伴奏はしばらくお休みですが、逆にギターの持ち味を生かした選曲にしております。また、これまで雑談の延長だったレクチャーも、多少ですが充実させております。

前回はケーナのSueちゃんがゲストで来てくれました。世界の民族笛を自在に操る野田さんや、フルート奏者の菅野くんも突然現れるかも知れません。

当初は急場しのぎで苦し紛れにスタートしたのですが、いろんな方に支えられつつ、毎回、一期一会の楽しさで、ついに3年目に突入しました。

本当にありがたいことです。

メッセージに関するお知らせ

最近くださっている新しいコメントがことごとく反映されていないようです。

Chikaさん、みゆきさん、Oliveさん、ピンポンパンさん、すみません。

おたずねのメッセージブログは下記のアドレスです。

ものすご~く気がむいたら聴いてください。

http://saltcanaan.exblog.jp/

ちなみにSaltのメッセージ配信は、昨年2月21日に召天された富士宮のemiさんのご奉仕と、KFCのDr.Lukeのご厚意によってスタートしたものです。

emiさんの亡き後は、桑名のkoji君がその遺志を引き継いでその労を担ってくれています。

私は、このブログのおかげで、全国各地のたくさんの方々との信じられないよような素晴らしい出逢いと交わりを経験させてもらっています。

本当にみなさん、ありがとうございます。

もう、私の経験や力量の範囲ではすでに語り尽くした感もあるので、いつ終わるかわかりませんが・・・・・・

2011/02/24

Uribossa氏のお膝元でバンドフェス



私のライフワークとなったボサノヴァ・ユニットの相方Uribossa氏は、私の実家の隣町でデザイナーをしている。一応名誉のためにくどい説明をすると、この超ダサいフライヤーはUribossa氏の手によるものではない。しかし、それはそれなりに場所や内容には相応しい気もしている。まあ、そんなことも全部承知で面白がって出てしまおうというわけなのだ。

2~3年前だったか、天理市役所のロビーコンサートにも、当時の学校教育課長(現在勤務校の校長)命令で出演したことがある。その時は確か時間は20分だった。今度は持ち時間が15分らしいので、最短出演時間更新である。

病院やら、学校やら、ホールやら、公民館やら、レストランやら、被災地やら、山の中やら、ダムやら、役所やら、ビルの上やら、寺やら、教会やら・・・・・本当にいろんなところで演奏させてもらっているが、15分をまとめるのは、けっこう難しい。

その前に3月5日のカイピリーニャに向けて、もうちょっと練習しないと。

2011/02/22

黒インクの朝顔



今年は1年間スーパー・サイエンスというコースを担当した。年間13回の特設の時間を設け、手を変え品を変えて、子どもたちが喜びそうな面白実験をやってきた。今日は毛細管現象を利用した色遊び。

理科嫌い、理科離れが進んでいるというが、やはり教え方の問題だと思う。4年生でもすでにいろんな実験をするが、私は理科室に入るときにノートに書かせたりしない。テーブルの上には実験にいるものだけ。記録をとったり最小限のメモをとったりするだけで、その必要もないときは筆記用具も持たせない。

あれこれ勉強っぽいことをやると、五感が鈍ってしまう。忘れてもいいから、「その時いっぱい感じること」の方が遥かに大事なのだ。

「楽しいな」「また、やりないな」「なんでこうなるのかな」そう思えばじゅうぶん。後は子どもが考えればいい。

何もかもこちらから教えて、覚えさせて、正しい答え書かかせて、はい、よくできました。これじゃあ、楽しいものも楽しくなくなる。

2011/02/21

ミイラごっこ



わがクラスの男子数名が、休み時間に長細い段ボール箱に友だちを入れて封印して盛り上がっている。

入っている子は隣のクラス。何でその子なのかをたずねたら、「ちょうどぴったりやから・・・」と即答。

その子も嬉しそうに入れてもらっていたので「まあええか」と見逃していると、御輿のようにかついで騒ぎだし、女子便所へ運びこもうとするので、「それはやめろ!」と言うと、今度は階段を下りて外へ連れ出しそうなので、さすがに落下の危険を説明して何とか阻止。そして、「教室だけだったら大目に見てやる」とわけのわからない許可を出してしまった。

それにしても、よくもまあ、次から次からへとくだらないことを思いつくものだ。

それでも私のアホさにはまだまだ及ぶまい。

2011/02/20

冬の音

今日は大阪JR玉造駅前のMagatamaというお店でケーナのSueちゃんとのライブ。さをり織りとベンガラ染めのイベントである。 草木染めをする人たちはけっこう知り合いに多いが、ベンガラ染めに触れるのは初めてのこと。Sueちゃんが染めたシャツを着て演奏したけど、やっぱり手作りのオンリーワンのものはいいなと思った。前半は織りと染めに関するトーク。後半はSueちゃんの笛と私のギターによるライブ。タイトルは「冬の音」1週間前だとピッタリのタイトルだったけど、にわかに温かくなってちょっとピンぼけた感じになってしまった。しかし、こういうイベントには、面白い人ばかりが集まるので新しい出逢いが楽しい。 歌がメインのライブが多いので、自分が1曲も歌わないのは、逆に新鮮で面白い。セッションのコーナーもあり、リコーダーの二重奏やパーカッション、ディジュリドゥー、ダンサーとの共演も盛り上がった。アイリッシュ・ナンバーの即興演奏は冷や冷やものだったが、予想していたよりはまとまったものになってホッとした。昨日は9時から5時まで3月5日のボサノヴァ・ライブの練習をして、今日も半日Sueちゃんとのリハーサルと本番。音楽三昧の贅沢な2日間を過ごせたが、なかなか満足のいく演奏には至らない。もう少し時間が欲しいなあ。

2011/02/19

口はひとつ、耳はふたつ



教えることはたやすい。自分の知識や技術などの専門性をひけらかせばすむ。間違いや失敗を指摘するのはもっと簡単。これもマニュアルさえあれば素人でもできる。

しかし、話をきちんと聴くことはそれほど楽ではない。特に話し手が語彙や経験が乏しい子どもであればなおのこと。さらに、その子が興奮していたり、落ち込んでいたり、複雑な人間関係のしがらみの中で苦しんでいたりしたら、正確な情報を得ることは難しい。発達障害などで認知や表現力に偏りやつまずきがあればさらにややこしい。

それらを正しく聴き取り、正解を押しつけずに、問題点を整理し、子どもたちが自らの力と意思でそこへ辿り着けるような手がかりを与えることが望まれる。

まずは、時間をかけて丁寧に話を聴くことから始まる。口はひとつ耳はふたつ。せめて喋る2倍は聴きなさいという創造主のメッセージである。耳をふさいで大声で自分のことばかり叫ぶ者が多いのは嘆かわしい。

写真は隣の教室前の廊下。担任は若い女の先生。長身の彼女はいつもからだを小さくして子どもの話をよく聴いている。こういう姿をみると、ついつい嬉しくなる。もめていた子どもたちも素直に心を開き始める。

2011/02/16

Golden Ball Blues


先週から今週にわたって5時間計画で性教育の授業を行い、そのうち2回を公開した。1回目は2クラスの男子ばかりを集めて、2回目は男女合同でクラスごとに見てもらうことにした。

せっかく男子ばっかり集まるんだから、普通にやっては面白くない。そこでGolden Ball Bluesという男の子の為に2次性徴の歌を作って歌った。母親たちの前でこれを歌うのはさすがにちょっとだけためらったが、白衣を着て大まじめに授業をはじめ、「今日勉強する大切なことは全部この歌の中に入っています」と言って歌詞を書き取らせて、発表させ解説した。

今日は2回目、男女別に半分に分けて向かい合って座らせ、お互いに学んだことを伝え合うところからはじめた。成長に個人差もあるし、理解の差もあるし、向かい合っているからちょっと照れくさいし、いつもとは違う雰囲気だった。

参観してくれたお母さんたちに発言を求めると、それぞれに実に率直に御自身の体験を伝えてくださったので、子どもたちもずいぶん安心したようだった。

授業の最後に感想をや疑問を書かせたが、自分のことでもまだちょっと他人事なのに異性の話まで聞いて何が何だかとよくわからずとまどっている様子がモロに出ていたので、出て来た意見や質問に答える時間を別枠でとった。すでに当初の予定より1時間オーバーしたが、さらにもう1時間使って最後のまとめをしようと思う。

4年生の性教育をするのは、私自身も初めてのことである。隣のクラスの若い女の先生との綿密な打ち合わせ情報交換も必要なので、これも実際の授業より気を使うが、せっかくやるんだから何となく流すのは嫌で、毎回子どもの反応を伝えあったりして出来るだけ丁寧に時間をかけた。Golden Ball BLuesのCDを渡しておくと、今日の参観で使ってくれていた。

性教育はからだのメカニズムだけを切り離して教えてはいけない。それにともなう心の変化や成長の大切さと、奇跡の確率で誕生したいのちのかけがえのなさ、個人差を理解すること、男女が互いをよ知りいたわり合い協力することなどをきちんと伝えないと、子どもは混乱するし、氾濫する情報を整理する手がかりを失ってしまう。

2011/02/15

N君、おめでとう

6年前に小学3年生で担任した子どもたちも、気がつけば中学3年生。そのうちの一人N君が挨拶にやって来た。

N君はしばしば暴言を吐き、物を投げ、教室を飛び出し、「ベランダから飛び降りる」と言っては騒いだりして、私を手こずらせたものだ。集団で行う目当てに向かっては、なかなかスイッチが入らず、いったんスイッチが入ると他のチャンネルに切り替えるのが難しいというタイプだった。

その彼がペコリとお辞儀をして、正しく敬語を使って、「おかげさまで志望校に合格できました。あのとき先生と出逢っていなければ僕はどうなっていたかわかりません」と語ったものだから本当にびっくりした。思いがけない訪問に熱いものがこみ上げてきた。彼のことばのとおり、ひとつ間違っていたら、本当にどうなっていたことか。私もそう思う。

「君のことは忘れないよ。忘れたことがない」そう言って、私は机の2段目の引き出しの奧から、彼との思い出の品を取り出した。「これ、覚えてる?」「はい、覚えてます」それは、留め金のとれたハサミと引き裂かれたスチールの筆箱だ。彼が3年生になりたての4月当初にストレスをぶつけて破壊した物だ。スチールの筆箱は十文字に引き裂かれている。小学校3年生のどこにそんな激しいマイナスの情動と力があるのに驚かされた。私はこれをどうしても捨てられずに大事にしている。「こんなもの、まだ持っててくれたんですか」と彼は涙目になって私を見つめた。

詳しい事情はここには書けないが、彼にはそれだけの怒りと悲しみがあって、その自尊心はボロボロに傷ついていた。その壊れたハサミと筆箱は、いつも私の引き出しの中で叫んでいるように思えるのだ。「先生、ボクを助けてくれ」と。

多くの人は大きくはみ出たこの子を集団の枠の中に引き戻そうとするだろう。でも、私はそれは違うと思う。子どもがはみ出したときは、自分がそのはみ出た子の分だけ大きくなればいいのだ。だから、私は彼が何をやっても、教室のルールに引き戻そうとはしなかった。

「お前ははみ出てなんかいない。お前がベランダに出たら、ベランダまで教室だ。だから、いたずらに追いかけない。連れ戻さない」「お前が大事なように他の子も大事だ。みんなのいるところにいる。お前も自分で戻って来い」多分、そんな意味のことを何度も繰り返し彼に伝えた。

隣のクラスの先生も、私のクラスに入り込んでいる先生も、「Saltは冷たい。なぜ、彼にもっと寄り添わないのか」と批判した。彼女らには私の想いが伝わるはずもないが、彼にはちゃんと私のメッセージは届いていたのだ。

他の子どもを放ったらかして、しんどい子どもを追う姿をよく見るが、私は全然感心しない。「あの子はいつもおこられている」「みんなに迷惑をかけている」という印象を強くするだけだ。個別に話を聞くときは、他の子どもたちが知らないところでゆっくり時間をとればいいのだ。A君を中心にしたなかまづくりとか言って、教師がするべきことを子どもたちの集団に押しつけてどうするのか。そういう学級づくりに夢中の先生は手のかかるA君の他に、あんまり手のかからないB君や目立たないC君の願いをほとんど気にもとめないようになるものだ。

例えばクラスに30人いれば、30通りのドラマがある。全ての学園ドラマは、個性的な先生が主人公である。しかし、子どもは先生のドラマの助演者や脇役ではない。子どもが主人公であって、教師はその背景でなければならない。

私が彼をもった後、3人の先生が彼を担任した。6年で彼を担任したのは「おはボン」ジャケットのKenさんだ。Kenさんも彼のかしこまった挨拶に照れながら、「君からそんなことばを聞けるなんて夢にも思わなかった」と返していた。中学校で3年続けて彼を担任してくれた先生も、本当に彼をよく理解してくれたそうだ。その話を聞いて私は本当に嬉しい気持ちになった。

卒業


2足の草鞋どころかムカデ並みにあれこれやってきたが、一番大事なのは「仕事人」や「趣味人」として以上に「家庭人」としての姿であろう。「父親」としての役割をきちんと果たしておかないと、何をやっても無意味である。もちろん、物理的に出来ないことは出来ないが、出来る可能性のあることはしてやりたいと思う。

今日は年休をいただいて、娘の高校の卒業式に出席することが出来た。入学式、懇談、体育祭、文化祭、そして今日と、たった5回だけではあるが、娘の学校に保護者として出向いたことになる。平素の関わりがより大切であるとは言うまでもないが、父親が節目に姿を見せるのは悪くない。この程度が限界だったのはちょっと寂しい気もするが、まあこんなものだ。

時々現れる「ワイルドなお父さん」はちょっとした話題でもあったようだ。女の子を持たなければ、女子校なんて足を踏み入れることのない世界だ。クラスを覗き込むのも、若干気かひける。年頃のお嬢さんばかりを見つめながら、女の子の父親というのは、なかなか複雑なものだなあとしみじみしてしまった。

わが家にはあと2人、私より図体も態度もデカイ息子が2人いるが、この3人の子どもたちのおかげで、思いもかけない経験をいろいろとさせてもらっている。自分のことではハラハラドキドキなんてそうあるものではないが、子どもたちのおかげで毎日が実にスリリングだ。娘は高校を卒業したが、私はいつ子育てから卒業できるのだろう・・・

2011/02/13

織部の須弥(十文字)


本日のメッセージはエペソ2章から。

「私たちは神の作品であって、良い行いさえもそなえられている」ということばにこだわって興味ある一例をご紹介した。「贖い」という新創造に含まれるニュアンスがよくわかると思う。

徳川2代将軍秀忠にも茶の湯を指南した古田織部という茶人がおりました。
織部は利休に師事していますが、師匠が追求した「わび茶」を離れ、利休が打ち立てた茶の湯の定型を次々に破壊しながら、独自の美の世界を発展させます。歪みや焼けぞこないの茶器を尊んだり、床の幅に合わないからといって掛け軸をふたつに切ってしまったりしています。
そんな織部に、私が絶句した、驚くような作品があります。
それは、大ぶりの茶碗を故意に十文字に割って、小ぶりの形に仕立てたものです。井戸茶碗で銘は「須弥(十文字)」と言います。須弥(しゅみ)とは古代インドの世界の中心を表すことばです。
一度出来上がっているものを、わざわざ壊して、壊したものを素材にしつつ、全く新しいものを作り直すところに美を見出すという画期的なものです。私はこの茶器を見たとき本当に感動しました。一部には、血をイメージするような朱があしらってあるのも驚きです。


詳しくは、メッセージブログでお聴きください。

2011/02/12

職人芸


久々にフルーティ菅野氏から連絡があった。ある結婚式の為に作曲を頼まれ、メロディを作ったがコードをつけて欲しいという依頼。それくらいなら何でもないとふたつ返事。ところが会ってみると、何と曲は未完成。それもそのはず、歌詞を見せてもらうと、意味不明のラップみたいな歌詞のところどころにNGワードが散りばめられた散文だ。事情を聞いてみると、これにそのまま忠実に音符をつけていこうとしていたから行き詰まったようだ。私に頼めば何とかなると思っていたようだが、果たして何とかなるのだろうか。 私も自分の職人的技量に挑戦する気持ちが湧いて面白くなってきた。

フレーズの素材は、しっかり菅野氏が作ってくれていたので、部品はしっかりしているし、まとまりのつかない全体を最終的にはこうしたいという理想もだいたいわかった。主になるテーマのメロディははっきりしているので、まず、それをフルートで吹いてもらって、コード展開を考える。そして、ことばを整理する。元の詩の思いをくみ取りつつ、本当に言いたかったことをよりすっきりしたことばに置き換えて文字数を整える。そして、楽曲としての構成を組み直す。ブリッジからサビへの展開が思ったよりうまくはまったので見通しがたった。そして、それぞれのことばやメロディが一番生きる譜割りを見つけて出来上がり・・のはずだった。

ところが、まだ続きがあった。最初はコードさえわかれば、当日ピアノの女性が伴奏する予定だったが、その方は式には出席しないと言うのだ。それで、出来れば音源も作ってほしいとの展開に。おいおい待てよ。ここで頼りになる助っ人Uribossa氏登場。本当は遊びに来ただけだったのだが、ギター2台のでのアレンジで音源製作という展開に。Uribossa氏は到着するなり、セカンドギターの転調作業に取りかかる。コード付けも、楽曲の把握もアッという間。さすが、わが相方。依頼者に曲を伝えるために、作曲者のフルーティ菅野氏が自らヴォーカル。甘いマスクに、甘いヴォイス。この編成もなかなかいいかも・・・・と思いつつ、楽しく録音した。 3テイクで完成。まあ、こんなもんかな。

これまでにも、さまざまな依頼を受けてニーズに合わせて職人的に作曲や編曲をしてきたが、今回はちょっと特殊なケースだった。

「これは喜んでくれるんとちゃう?」というUribossa氏のコメントにホッとした。ホンマにお手伝いありがとうございました。

つい最近は、性教育の為にGolden Ball Bluesというのも作ったが、こういうイレギュラーなものも含むと相当いろんなものを作ってきたなあと思う。

いっそのこと、結婚式に特化して「思い出の一曲を作りませんか?お手伝いします」というようなサイトでも立ち上げるかと話して盛り上がった。今日の3人の職人芸を会わせれば、予想されるかなりのニーズには応えられそうだ。

2011/02/11

雪見コーラ

春はもう近いのに、久しぶりにまとまった雪が降った。いつもリコーダー教室をやっている「ぬく森の郷」で雪景色を見ながらお風呂に入り、湯上がりにコーラを飲んで和室でごろり。

単純に休もうと思っただけなのだが、ここではいつも音楽にスイッチが入るせいか、前回も今回もお風呂で新曲のアイデアが浮かんだ。前回は学校の授業で使えたし、今回はすーちゃんとのライブに使えるかも知れない。 一石二鳥で疲労も回復。ここが天然温泉なら言うことなしなのだが。でも、天然温泉だと混んじゃうしなあ。私にはちょうどいいかも・・・・

2011/02/10

「おはボン」の学校で研究授業

私が作った「おはよう・ボンジュール・ハロー」はいろんなところで使っていただいているが、毎朝、3年以上にも校わって校内放送で流していただいているのは、山の辺小学校しかないだろう。

校長先生とも親しくさせていただいていることもあり、又、昨年指導させてもらった新人も、友人たちもおり、彼らの自主公開の授業発表会ということもあって、喜んで参加させてもらった。ちょうど私のクラスはインフルエンザの学級閉鎖中だったので、出張にも出やすかったのだ。

山小のスタッフは勿論、授業技術では評判の高い大学の先生たちが、山小のクラスを借りて授業を公開するということもあって、TOSSの代表でもある向山洋一はじめ、全国から多くの先生方が参加されていた。


この学校には、被虐退児童が多いなどの特殊事情があり、発達障害のある子どもたちに関しては医療・教育連携の最先端の研究実績のあるTOSSの方法論を積極的に取り入れられた校長先生の強い学校改革の意思が感じられた研究会だった。今日の授業では、山小スタッフの授業でも、外部の名人の授業でも、しんどかった子どもたちがねばり強く学びに参加している姿があった。一昨年よりも、昨年よりも、格段に成長している。

私は個人的にはTOSSの方法論とは、全く相容れぬアプローチをとるタイプなので、どうしてもしっくりは来ない。教育を技術と割り切る点や、子どもの主体性や創造力ではなく、教師のシナリオにのせていくだけの予定調和的展開は好みではない。しかし、この変化は半分以上はTOSSの力でもある。TOSSの情報の集積を否定するなら、その知識や技術を越える実質がなければ話にならないとも思う。子どもを集中させ、楽しませ、わからせる。授業は自己満足ではすまされない。

何であれ、子どもが少しでも良い方向に向かっているのを見るのは喜ばしいことである。

校長先生はじめ、山小スタッフには、「本当にお疲れ様でした」とねぎらいたい気持ちでいっぱいになった。

2011/02/06

ソーダ水の中を~ 


大宇陀の「あきのの湯」に行ってきた。お湯は気持ち良かったけど、人がいっぱいだった。からだがあったまったので外気にあたって炭酸を飲む。サイコー。
向こうの方におじさんがいたので、なぜかユーミンの歌を思い出してパチリ。
「あきのの湯」が出来たときは、2日連続でクラスの男子を全員引き連れて入りに来たなあ。
ずいぶん、無茶なことをしたものだ。

2011/02/05

beautiful saturday

私はもともと結構タフで病院嫌い。それで、からだが動かなくなるまで疲れに気づかないようなところがあるのだが、ついに、からだが動かなくなったので、相当な疲れが溜まっていることにようやく気づいた。諸事情により仕事も連日遅くなる。微熱も続きダウン一歩手前までいってしまったが、参観や懇談も含め、さまざまな計画立案もあり、仕事は絶対休むわけにはいかない。何とか持ちこたえるしかない。多忙と疲労の螺旋に絡みとられていきそうになりながら、何とかそのど真ん中で背筋を伸ばして、だましだましの一週間を終えようやく脱力中。ようやく、平熱に戻り下痢がストップした。ゲンキが一番。

今日は、予定を無しにして久しぶりの休養日。わけがわからないほど混乱した数週間を振り返っている。

私はいつも問題の矢面に立たされるのではなく、情報を整理したり、分析したり、いろんな先生たちの聴き役をするだけだが、これが気づかないうちに、かなりのダメージになっていたようだ。

さすがに今回ばかりは微熱もあったし物理的にも不可能だったので、無理をして時間を作ってくれたUribossa氏には申し訳ないが、予定していた練習もキャンセル。

仕事に関しては、保護者の皆さんや子どもたちの力で、私の足りなさを補っていただいて、ギリギリ納得のいくかたちになった。まあ、自分のクラスに関しては妥協点を見いだせても、それ以外は納得のいかないことばかりで、この違和感と徒労感は日を重ねるごとに大きくなっていくはずだ。

返信していないメールや電話もあり、そうした処理も少しずつ。

リコーダー講座の受講者でもある音楽専科の先生からのメールにはいつも色々考えさせられる。

音楽教師たちのギョーカイでは、それなりのプライドやテリトリーがあって、その中での善し悪しの線引きからはじかれていく、そのはじかれ方にはすさまじいものがあるようだ。

まあ、「楽しい」とか「ここちよい」とかより「出来る」「出来ない」を優先して、辛抱や鍛錬の末に承認を得て来られたセンセイたちの価値観は、脱げない鎧みたいなものだから、それを解きほぐすのは大変だなと思う。

1月の講座には音楽専科経験者が3人も来られていたが、彼女たちはホントに謙虚で柔軟な心の持ち主だなと感動しつつ、前に立たせてもらっている。

私は悩めるその方への返信として、以下のようなメッセージを送った。

音楽には確かに良いものとそうではないものがあると思います。
でも、良いか悪いかを決めるのは、決して特定の先生ではありません。
商業音楽を「通俗」ということばで否定したい気持ちもわからないことはありません。

音楽専科の「りっぱそうな」先生たちの屈折したプライドは、全く音楽とはほど遠い雑音か不協和音みたいなもので私は嫌いです。

音楽は空気の振動であって、風みたいなものです。神さまの摂理にのっとっているものは美しく、そうではないものは人の心を打ちません。

それが心地好いかどうか、本物かどうかは、権威が決めるものではありません。
子どもやお年寄りや、音楽教育が必要と思われるような未熟で未発達な人たちが審査すればいいのです。私は心からそう思っています。

だから、○○先生の教えも、××先生の言うことも、私はあんまり興味がないのです。

子どもや、ライブのお客さんの反応の方が大事です。
ただ良いものに触れている人は、いつでも、心が通い合うし、友だちになれると思います。


これから、近所の温泉にでも行こうかな。来週はもっとゆったり健やかに過ごしたい。しかし、 来週は来週で、何と20年ぶりの「性教育」にもチャレンジ。時代は変わっていて、フツーの教員アタマについていけない私は、やはり私なりの切り抜け方で楽しむ予定・・・・・

メッセージの予定


立春にあわせてようやく凍てつく寒さから少し抜け出した感じです。やわらかな陽差しに春の兆しを感じます。

お知らせが遅れましたが、2月のメッセージの予定です。諸事情により、2~3月の集まりはメッセージの時のみの月2回に限定します。

2月13日 エペソ人への手紙(第2章)
  27日 ひねくれ者のための聖書講座(自殺について③)

3月 6日 エペソ人への手紙(第3章)
  20日 ひねくれ者のための聖書講座(未定)

2011/02/04

Salt&Uribossa なにわのブラジルに再登場



なにわのブラジルこと「大阪カイピリーニャ」で今年も演ります。サポートにはパーカショニストのItaminyoさんにも加わってもらってのトリオ編成。

前回は入りきれないほどのお客さんに来ていただけて本当にありがたかったが、客席におられた内堀タケシさんとも懇意になり、「あんたの学校へ行って写真展やろう!」という話が実現したのは、とびきりのサプライズだった。

さて、今年のカイピリーニャでは何か起こるのか?

http://caipirinha.jpn.org/

2011/02/03

赤鬼の顔だけ青鬼



授業を終えて職員室に戻ると、廊下に不審者が。

あまりにも不審度が度を越しているので、すぐに身内であることが判明。

今日は節分だ。

低学年担当の先生が鬼に扮して子どもを驚かすという趣向である。

これにどんな教育的効果があるのか。そんなことはどうだっていい。

彼は身長が190近いので、小さい子にとってはかなり怖い。

私「反応どう?」
鬼「泣いてたっス」
私「そりゃ怖いよなあ。完全に赤鬼やん」
鬼「顔だけデビルマンで、青鬼ッス。ガッハッハ」

校長先生が近づいて来られたので、やりすぎに注意かと思いきや「1枚写真撮らせて」だった。

とにかく学校が大変な時代だが、こういう緩さがあるのはとても良いことだと思う。

顔だけ青さめていたのは、多少暗示的でもあるが・・・・・・