2010/03/30

奇跡より軌跡

ゆばるさんのご子息の大学が、これからわが息子がラストチャレンジしようとしている学校だとわかって、私は本当に驚いた。主がゆばるさんのご家族を遣わしてくださったのだ。それは気持ちがキレかけていた息子にとっても大きな励ましになった。

「もしかしたら、これはイケルかも・・・」と思った。

「奇跡は鈍い奴のためにあるんです」「エジプトであれだけ奇跡がなければ民は出て来れなかったでしょう」と電気やさん。確かにそのとおりだと思った。

電気やさんのことばを聞いて、「私は鈍い奴なので、きっと今回は奇跡がおこるぞ」と、妙な自信も得たのだが・・・

どっこい、そうはいかなかった。

今回、息子は「合格するよりもさらに良い結果」となったわけだが、なかなか生身のSaltファミリーにとっては、それはかなり厳しいものである。

単なる合否ではなく、息子なりにこれまでいろいろと辛い思い(勉強のことではなく)をしてきたので、今回ばかりは最後の最後に逆転劇があるのではないかと期待していた。何とかちょっといい思いをさせてやりたかった・・・・というのは浅はかな親心。

しかし、さらに深い愛と知恵は、息子を奈落の底へ突き落とす。

私たちの信じる神には、御利益などまるでない。

なぜなら、イエス御自身が祝福の中心であるから。

私たちはこの御方に触れることなしに他の何を得ても無意味である。逆に、この御方に捉えられていれば、私たちはすべてを得ているのである。

ここ数年の間に、大きな喪失や、思うままにならないことをいくつも続けて体験する中で、改めて「私たちにとって主はどなたであってどんな方なのか」をしみじみと味わっている。

しかし、一連の決して望んではいない厳しい現実の中で味わっているのは、「見放された」という失望感ではない。むしろ「私たちは覚えられている」という甘美な喜びである。私たちは「祝福を失った」のではなく「祝福のただ中にある」ということだ。 御自身の掌に刻まれ、ひとみのように守られているということなのだ。

そんな「あたたかいしるし」が、私の落胆や失望をはねのけて、私の心の奥底から溢れ出てくるのを経験している。これはとても不思議な体験で感覚だ。それは辛くて悲しくて、押さえきれないほどの感情を伴いながらも、なぜかその傷口からキリストの香りがするのである。

電気やさんからいただいた手作りのスパークリングワインを飲みながら、交わりの中で「葡萄はつぶされて発酵することで腐らない(永遠のものになる)」と話していたことを思い出した。

私は未だ些細なことに一喜一憂する小さき者にすぎないが、神が真実な御方であることはちゃんと心得ている。

クリスチャンにとっては、奇跡よりも主に従った軌跡が大事。見ずに信じる者は幸いである。


【追記】
家族のために祈っていただいて本当にありがとうございました。多くの励ましのことばに心から感謝します。

2010/03/28

マジ、ワリィってカンジ?!

今日は教会としての礼拝はなかったが、長野県戸隠から電気やさん御夫妻が訪ねてくださったので、半日ご一緒させていただいた。教会でともに礼拝することもすばらしいが、こういうプライベートなゆるーい交わりは、また違った味わいがあって良いものだ。

電気やさんはブログでのイメージどおり実に面白い方で、黙っていれば一体何屋さんだかわからない正体不明なところや、コメントにも見え隠れしていたしっかり者の保護者的な奥様がおられるところ、そして紆余曲折の信仰の経歴・・・等々、私ともいくつかの共通点があって話も非常に盛り上がった。

「引き出しはいっぱいあるが中身は空っぽ」などとトボケながら、豊富な経験の中から次から次へといろんな話をしてくださったので、あっという間に時間が過ぎた。こうして与太話を繰り広げつつ、リアルでコアな交わりが出来るのは実に楽しい。私からは大して実のある話は出来なかったので、せっかく来てもらったのに、マジ、ワリィってカンジ?!  

さて、今回電気やさん夫妻が宿泊を予約されたのは、室生唯一のB&Bで、奇しくも私の古い知人でもある西峯さんのところ。実は彼女と私は農水省の役人らとともに、ドイツとイギリスにグリーンツーリズムの勉強に行かせてもらったことがあるのだ。西峯さんは「黙ると死んでしまう」とご自分で言われるほどエネルギッシュな方で電気やさんをも時々沈黙させるほどのパワー。

ここでちょっと「B&Bにしみね」のご紹介を・・・

B&Bとはbed&breakefastのこと。
宿泊は里帰り感覚で泊まれるどこか懐かしい和室。ロケーションも抜群でまるでおとぎ話の風情。くつろげるリビングにはカリンの壁面にテーブル、アップライト・ピアノ。最近は殆ど目にすることもなくなったタンノイの巨大スピーカーでクラシックが堪能できる。

http://www.pref.nara.jp/miryoku/nouka/tomaru/nishimine.html

http://web1.kcn.jp/bb_nishimine/


そしてもうひとつ。

今日は、ゆばるさんのところへリチャードさんたちが行かれたようだ。これも何だか嬉しいニュース。

http://aohiko.seesaa.net/

私も、西へ東へあちこち飛び回りたいところだが、4月からはさらに忙しくなってしまいそう。う~ん、悩ましい。

2010/03/27

桜咲く日

私はあまり自分の弱みを吐露しないこともあって、鉄の心で何でも受け流して、何もかも上手くやっているように思われがちだが、それは事実ではないので、ちょっとだけ告白しよう。

たかだか学校の合否になんでこんなにヤキモキするのだろう。

学生時代にはテストにも入試にも全く無関心だった私が、子どものことを必死になって心配している。あるいは、「学歴」や「学力」という物差しをとことん嘲り続けた罰であろうか。

子育ての中では、「自分の中にこんな感情が眠っていたなんて・・・」と自分でも驚くような心の動きを経験する。私は自分に関する悩みや心配が殆どないので、家族のことで悩み心配させられているわけだ。

私は一人ひとりの子どもたちに対する神の最善のお取り扱いを信じている。しかし、こうした感情は、霊的な平安とは別の次元で絶えず動いている。実はこれはとても幸せなことだ。家族がいるからこそ、ドキドキワクワクできる。こうしたちょっとマイナスに思える感情が信仰によって消え失せるとしたら、何と味気ないことよ。だから、同じような悩みを抱えるみなさん。強がることはないのですよ。おおいに主の前にありのままの不安や不満をぶつければいい。

正直、子どもをどんな風に祝福してくださるのかわからないことには不安がある。そしてそれは本人にとって喜ばしくない受け入れがたい事実であることも少なくないということを経験的に知るようになると、よけいにあれこれと考えてしまう。すべてが明らかになるには時間がかかる。生きている間には誰にも意味がわからないことさえあると思う。

アブラハムが約束の子イサクを得るまでにどれだけ待っただろうか。周りの女たちにはどんどん子どもが生まれているというのに、約束をもらったはずの自分のところには、その成就がない。これは絶えず今を生きるしかない生身の人間にとってはキツイ試練である。

だからこそ、待たされることには意味があるのだろう。また、目の前の事実が望みや約束を打ち消しているかのように見える最中に主に対する信頼を告白することは、確かにすばらしい生贄であろう。この期間に誰が主であり、祝福の本質とは何であるのかを問われ続ける。そして、約束のものを得てもなお、その祝福をいつでも手放せる自由を持っていることが求められるのである。理屈は簡単。教訓は具体的な苦しみや痛みには何の力もない。

しかし、息子のことで悩んでいるのは私だけじゃない。妻もそして子どもたちもそれぞれの立場で苦しみをともにしている。この一体感を作っているものこそ合否よりも遥かに尊いものだと思っている。

妻を得たとき、私は実存として安定した気がした。平たく言えば、ずっと片方しかなかった靴が両足そろった感じがした。

そして、3人の子どもを得たとき、その靴があるのは、「約束の場所」を目指して家族そろって歩いていくからなんだとわかった。

子どもたちの成長は家族の成長である。すべての家族の源である天の父がすべてをご存じで、必ず良くしてくださる。

霙まじりの冷たい雨が降っている。曇り空の下の桜の木は二度と花など咲かないかのようにも見える。でも、そんなことはない。桜は己が咲く日をじっと待っている。

明日わが長男は今年度のラストチャンスに賭ける旅に出る。結果はどうあっても、私は主を賛美しよう。合格なら良し。不合格なら合格よりさらに良し。これが現在の私の信仰告白である。

いずれにせよ、今年の桜は今まで見た中で一番美しいものになるだろう。

息子の面接の為に英語の特訓を引き受けてくれたMomoちゃん、もし読んでたら、ホントにありがとう!

2010/03/26

ココロのビョーキ・ジンカクのショーガイ

ただわがままで身勝手なために周囲と折り合いがつかなくなって、落ち込んだり居場所を失ったりすることによって、心の中が何だかモヤモヤする・・・なんてことはどこにでもある話。こうした自業自得の不快や不具合をココロのビョーキやジンカクのショーガイのせいにしてしまうのは、「ズルい」と言うか何と言うべきか、とにかく私はあまり好きではない。

適当な診断名をつけてもらうと、「こうなったのは、私ではなくてビョーキやショーガイのせい」という納得が出来る。こうしてビョーキやショーガイの周辺の人たちは自分のビョーキやショーガイに依存し続ける傾向を生む。それほど「よくなりたい」とは思わない心理が働くのである。むしろちょっとかわいそうな自分でいたいのだ。

ビョーキやショーガイを利用するのは当人だけではない。通常の因果関係を超えた理解不能の事件が起こると、悪いのはその人ではなくビョーキやショーガイがそうさせたのだということになり、ひどい場合は、人を傷つけたり、殺したりしてもお咎めなしということさえある。

学校においても、自分では手に負えない子どもたちにショーガイのレッテルを貼って、「ショーガイだからショーガナイ」と納得する教師も少なくない。

人というのは、「物事を自分の認知の枠にはめてその因果関係を納得したい」という物凄い欲望を持っているのだなあとつくづく思う。

しかし、それが間違った納得であることは簡単にわかる。特に殺人事件などは、「ビョーキやショーガイの人が犯して放免された罪の始末はいったいどうなるのか?」という被害者の心の切実な叫びがお手軽な納得を覆す。

「少年がどこまで少年なのか」が曖昧である以上に、病原菌も見つからず、レントゲンにも映らないココロのビョーキやジンカクのショーガイは非常にデタラメなカテゴリーなのだ。

「専門家でも詐病はなかなか見抜けない」と専門家が語っていた。診断は時にデタラメであっても、その証言は本当だと思う。自分はビョーキじゃないと意識してビョーキを装う病的セイカク。不幸なことに私はこういう人を何人も知っている。

さらに、教会には本物のビョーキの人もやってくる。私もいろんなツワモノを相手にしてきたが、良い結果が出たことほとんどない。それは私のせいかも知れないが、その可能性はあまり高くはない。主がご存じだ。

ビョーキの人は簡単に悔い改めない。強情でいつまでも意地を張るからビョーキになり、ビョーキであり続ける。

どこまでが自業自得で、どこからがお気の毒で、何が主の恵みなのかは簡単に他人がとやかく言うべきことではない。私も謙遜を装って口をつぐんでいるわけではないが、正直、私はわけがわからない。こんな狂った世の中で、どこまでも正常で健常であり続けることは難しいことだと思う。

正常って何?健常者って誰?と問いたい気分だ。本当に健康な人なんて宇宙飛行士の数より少ないのではないか。本当に健康な人を義人と定義するなら、「それは存在しない」と聖書は言う。

信仰がなければ、私は確実に死と狂気と背徳の世界に仲間入りしていたはずだが、己のズレや欠けを感じるのは、どこかにマトモがあるからだと思った。神は疑ったが辛うじて「マトモの存在」はココロのどこかで信じていた。

「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく病人です」というイエスのことばが胸に沁みる。これはマトモなコトバだと思えた。装うのではく、「あなたの患者です」と言うことが出来た。

2010/03/25

神のまなざし

今週のメッセージ『ヨルダン川を渡る』の中に出て来た「自分ではない自分を演じることによって、心が空洞化してしまう」「よい子が引きこもる」という部分に反応があったことが後の交わりの中で少しずつわかってきた。

それぞれに自分の経験や現状に当てはめて振り返ってくださったからだと思う。複数の兄弟姉妹からそうしたお話を聴いて、私になりにいろいろ思うことがあったので簡単にまとめてみたい。

人はなぜ「よい子(人)」でありたいと願うのか。

それは他者からの承認を得るためである。
「なかま」や「権威筋」からの承認を得るためなら、自分では納得のいかないことや、やりたくないことまで、人はやり続けるものなのだ。

「よい子(人)」であろうと志向するエネルギーや環境が整っている人はその方向で努力するし、逆に、それとは反対の環境にいる人は、あえて「悪い子(人)」であろうとする傾向を持ちやすい。

それは、人は本来別に「よく」も「悪く」もなく、ただ善悪の木の周辺へと解き放たれているという証拠なのだと思っている。いずれも承認を得るための行動であると見ると理解しやすい。承認を得ることによって得るものは、「善」でも「悪」でもなく「快」なのだ。

「よい子でいよう」「周囲に期待される自分でいたい」と思うことが悪いことなのかと言えば、そうではない。「快」を得るための道筋としては、「悪」よりも「善」を志向することの方が正しい。それは「快」はそれ自体が悪いものではなくよいものだから。

人間の成長や人格形成には、そうした「養育係」は必要なのだ。ここでは詳しい説明を省くが、聖書をよくご存じの方は「養育係」ということばが「律法」に対して使われていることを思い出されたと思う。「善」を目指しても「快」は得られないことを知ることにのみ、それを希求する価値があるというのがパウロの論である。

果たして「自分らしい自分」はどうしたら獲得できるのか。「自分探しの終わり」はどこにあるのかという問題につきあたる。

「あるべきクリスチャンの姿」などを目指すと、とんでもなく醜悪な偽善者を生む。そんなものが「自分らしい自分」ではないことは明らかだ。

クリスチャンは、「自分らしさ」など決して求めないことだ。何者にもならず、何事も成し遂げようとはしないほうがいい。ただ主に愛されている私を単純に受け入れれば、「私らしさ」が見えてくるはずだ。それは、教会の組織をまわすための役割とイコールであろうはずがない。そんなものに生き甲斐ややり甲斐を感じてはいけない。

ポイントがひとつあるとしたら、「人のまなざし」ではなく、「神のまなざし」を意識することだろう。

こう書くと、神は「私が~であれば、・・・なまなざしを向けられるのでは」と考えがちだが、それは違う。神はいつも変わらない。心の空洞はこの御方以外の何かによっては埋めようがない。

私たちはこの御方(われわれ=三位一体の神)に似るように(そのイメージで)造られたと書かれている。

いつも最高の愛で愛されている私の姿を信仰によって見ることだ。生き甲斐とは何かをすることではなく、キリストのうちにあることだと知ることだ。私がやることはすべてやり甲斐に溢れすばらしい価値がある。つまり、自分の何気ない行為も主にあっては誰かの役に立っているのだとわかるからだ。

2010/03/23

出会い系サイト

自分を棚に上げて申し訳ないが、正直クリスチャンを名乗る連中とは誰とも会いたくないし、新たな出会いにも何ら期待もしていない時期もあった。

「あなたはクリスチャンですか」と問われたら、「あなたが考えているようなそれではない」という言い方しか出来ない時期があった。どう答えても誤解されるのなら、間違って理解した気になられるよりは、理解されない方がマシだと思っていたからだ。

私は心の中でずっと主に訴えて続けていた。「みことばが約束している『傷なきしみなきキリストの花嫁』なんていったいどこにいるのですか?キリストのフィアンセを自称する女は、結婚式に備えるどころか、まるで、バラバラ死体遺棄事件みたいになってるじゃないですか、各地で肉片の朽ちる腐臭が立ち上っています」と・・・・

そんな渇きを、主は私が思ってもみなかった方法で満たしてくださっている。それはインターネットという10年前には見向きもしなかった手段を通じてである。主は真実であり、主のなさることは、私の想像をいつも遥かに越えている。

とは言え、私はネット社会を単純に肯定しないし、未だにネットには懐疑的で、一定の心の距離を置いている。不愉快な要素も危険も不安もいっぱいある。「好きか嫌いか」と二者択一を迫られるとしたら迷わず「嫌いだ」と答える。しかし、これほど素晴らしいことが続くと、私の心もだんだん緩んできた。

ネットでの配信をしなければあり得なかった交わりが現在ある以上、飛行機は嫌いでも外国に行きたければ空港へ向かうようにPCの前に座るようになった。「大嫌い」が「それほど好きじゃない」くらいになった。

私のHPがまさに「出会い系サイト」となって、リアルな兄弟姉妹たちが次々に私の前に現れるのだ。いわゆる「教会」をエクソダスした人もいれば、中には一回も「教会」に行ったことがないという人までいる。家族そろってお付き合い出来る方や、そうした出会いがもとで本当に結ばれたカップルまで登場した。

ここ数年、ネットを通して働かれる主のわざを見続けている。それは、私の渇きと叫びに対する思いがけない答えであったことが、また嬉しい。

ただ私が知らなかっただけで、主は各地に御自身のしもべを育てて守っておられるのだ。私は主の前に思い上がった渇きを訴えたことを恥じることが出来るまで、いろいろな出逢いを与えてくださった。

各地の人手によらぬ交わりが、この世では決してひとつのかたちを持つことなくても、やがてひとつの大きな喜びにつながっていくことだろうと思う。

2010/03/19

Saltが考えるプロフェッショナルな教師②

本来、小中学校の教員こそprofessionalなライセンスでないといけないと思うが、残念ながら、その養成課程も採用もその職責の重さにふさわしい人材を育成し登用するシステムにはなっていない。公立の小中学校の教員レベルでは、大学教授が持っているような学問的にも時間的にも自律性が保証された身分ではない。

社会的地位も低いが、それには教職員組合の卑屈な価値観と主張がいっそう自分たちの立場を悪くしている。教師が己を労働者と規定したことは、自らその職責を軽んじた宣言だと受け取られかねない。

高い職能を必要とするシステムが、すぐれた資質をスポイルするような連帯を内部に作りあげるのは大きな問題を孕んでいるが、本質的な改善を望むのは不可能だと見ている。

子どもと関わっている時間に自分の権利を主張すること自体がすでに敗北である。

出る杭は必ず打たれる。
打たれる前に引っ込む器用さは私にはない。
「飛んでいる杭は打たれない」と言うが、飛ぶと組織からはみ出てしまう。
これはいただけない。

残された道はふたつ。
打とうと思っても打てぬくらいに深く食い込むか、頭を突き出すかしかないのだ。

学校の外側が変わらない限り、学校の内側は変わらない。システムを攻撃してもほとんど意味はないし、徒労に終わる。エネルギーはもっと効率よく、かつ楽しく消費するべきである。なかまで攻撃し合うのは愚の骨頂である。

私は誰をも否定しないが、自分の立場や主義主張に凝り固まって感情的になるのはド素人の証だとだけ宣言しておこう。

それほど、教師という人種は「われわれことば」で語る傾向が強い。

なぜ私は親のご機嫌など一切とらないにも関わらず、親は私を信頼しやすい傾向にあるのか。これからも、私は許される範囲で私自身のことばを語り続けよう。全部本当のことなんて決して言えるはずはないが、自覚している嘘は言わずにいよう。それは私自身の健康の為でもある。

現場で人として当たり前に感じることをありのまま自分のことばで話すだけで、まず間違いなく親御さんは信頼してくれるものだ。それは簡単な理屈だ。親は自分のいのちより大事な子どもをあずけているのである。だから親というものは、基本的に「自分の子どもに深くかかわる教師は信頼に足る人だ」と思いたいのだ。

こうした心理を理解して、ただ率直に丁寧に話せばいい。自分が納得していないようなことばで相手を説得できるわけでもないので、私はまず自分を説得し納得してからしか、話し始めることはない。「こっちの立場もわかって欲しい」というようなレベルのお願いに耳を傾ける親は少ない。

「われわれことば」で語ると、いざというときに責任を回避するための保険をかけているような印象を与える。しかし、「その子が自分の子だったら、どんなことが心配で、何をしてやりたいか」を自分のことばで伝えれば、必ず落ち着きどころは見つかり、「先生、よろしくお願いします」となる。

だから、文句を言いに来た親にも、たいてい御礼を言って帰ってもらうことになる。だって親も私も子どもがかわいいんだから、そういう結論になるのは当たり前なのだ。

Professionalな教師は、「われわれことば」の本質が何であるかをわかっていて、「われわれことば」を使わない。「われわれことばの本質が何であるかをわかっていて」という断り書きは何かというと、単に組織の一員であることをわきまえず、秩序を乱す「自分のことば」を使う者も時々いるからだ。こういう教師が学校の信用を著しく失墜させる。

Professionalな教師は、相手にわかる自分のことばで語る。そして、自分の発言に責任を負う態度で子ども向き合う。だから出来ないことは言わない。

何か事件が起きても、「こんなことは二度と繰り返しません」「問題は即急に必ず解決します」などとは絶対言わない。

私はいつもこんな風に言う。
「私たちがどんなにがんばっても明日もっとひどいことが起こる可能性があります。学校というのは基本的にそういうところです。私に約束できることは限られていますが、約束は必ず守ります。起こったことは隠さず事実どおりに伝えます。そして、なるべく似たようなことが今後起こらないように時間をかけて取り組みます。お怒りはごもっともです。悲しみはよくわかりますが、なぜこうしたことが起こってしまったのかを正しく理解し、それを解決するには時間がいるのです。私は子どもの心や世の中を変える力はありませんが、考えられる限りのことは試してみます。どうかもう少し一緒に見守っていただけませんか」と。

年度末にあたり、一年間の反省と自戒をこめて簡単にまとめてみた。

2010/03/17

卒業

そつぎょう

①学校の全教科または学科の課程を終了すること
②ある状態・段階を通過すること

末っ子の卒業式に出た。

懐かしい昭和の匂いのする田舎の中学校の卒業式。

息子が答辞を読んだ。
「○○中学校 ありがとう 桜の木の下でまた逢いましょう」
そういう内容だった。

末っ子なのでわがままで甘えん坊で、ずっと幼いイメージしかなかった彼だが、いつしか私の身長を追い越し、野太い声で生意気なことも言うようになった。そんな息子も9年間の義務教育を今日で終える。

「3人の子どもに対する国民としての義務を果たし終えたことになるよなあ」といつものように馬鹿馬鹿しいことを言う私に「ほんまやなあ」と感慨深く相づちを打つ妻。

義務教育を終えさせても、子育てはまだまだ続く。

先日は、公立の試験が終わって帰って来るやいなや、「ケイタイ欲しい」と訴えて来た。上のふたりにケータイを持たせたのも高校からで、そういう約束になっていたからだ。

ところが、妻のケータイと妻を使って職場に訴えてくるその横着さが、私の首をすぐには縦に振らせなかった。

ちょっとかわいそうだが、私は「まだ中学生だろう。部屋を片付けなさい」という主旨の返信をした。

末っ子はケータイ欲しさに2日かけて必死に部屋を片付けていた。

私もそれを見て、自分の部屋を少し片付けた。

卒業・・・・・

悪くない響きだ。

Saltが考えるプロフェッショナルな教師①

日々成長し変化していく子どもたちを個々の性格や発達段階に応じて効果的な指導をするのは、それほど簡単なことではない。さらに今日学校現場でおこる様々な事象には、さらに複合的な社会の事情が織り込まれてくる。これらのひとつひとつを解きほぐし、問題に関わる様々な立場の人たちをひとつの落ち着き所へと導くのは至難の業であり、極めて高い専門性が要求される。

私は私自身が納得出来るレベルのprofessionalな教師でいたいと思うが、残念ながらそれは現場ではあまり必要とされない職能でもあり、そうしたこだわりや価値観は、周囲にとってはかなり迷惑なものなのだということも身に沁みてわかっている。

子どもの利益を最優先して、自分のこだわりを殺さなければならないことは、1日のうちに2度も3度もある。私はこれを妥協であり敗北であるというイメージで自己評価していたので、ずいぶん苦しい時期もあった。わけのわからないしがらみの中で思ったようにやれないことをシステムのせいにするのは恥ずべきこと、単に自分の力量不足なのだと思っていた。

しかし、子どもの現実をサポートするために最適の落としどころを見つけることは、妥協でも敗北でもなく、正しい手順なのだと思えるようになってきた。

私の力は小さく、私に出来ることはほんのわずかでしかない。子どもの現在は過去からも、そして未来へもつながっているのだと思うと、ほんのわずかな期間の今にしかかかわれない私が気負いすぎるのはよくない。かと言って、出来ることに手をこまねいてはいられない。どこまでやれるか、やるべきなのかは、常に一期一会の真剣勝負である。

中途半端な気持ちでは出来ないことを遊び半分でやっているSaltである。だから、半分の真剣さは半端じゃないのだ。

立場や考え方がまるで違う人たちと協調し、わけのわからん親たちと気持ちが重ならなければ、その子にとっての幸せは見えてこない。

どんな時でも目の前にいる子どもの利益を最優先できること。

それが何であり、どうすればいいのかを見極め、その為に素早く動ける教師はprofessionalだ。

2010/03/16

お知らせ(3月21日の礼拝について)

来週3月21日の礼拝に、横浜から4名の兄弟姉妹が来られることになっている。

HN「ゆばるさん」とそのなかまたち。

ゆばるさんは、作曲や編曲をお仕事にされているので、「竪琴や笛を奏する者の先祖」と言われているユバルからHNをつけられたのだろう。横浜で集まりを持っておられる方で、メッセージも聴かせてもらったが、私なんかよりずっと落ち着いた感じで品格がある。

奈良へ来られるお話があった時点で、礼拝をどんなプログラムにしようかと皆に相談した。「時間も限られているので交わり中心にしたら」という私の提案に対し、「そりゃ、アンタのメッセージを聴きに来はんねんから、ちゃんと喋らんなあかんで」ということになってしまい、「ひねくれ者」よりは「約束の地カナン」のシリーズの方が良かろうということで予定を組み替えた次第。

今回はカナンのレギュラーメンバーに加えて、西からは神戸のMeekさんや桑名のKoji君もともに交わりに加わる。これも楽しみ。Meekさんは7日にも単身参加されたが、21日はファミリーで来てくださるそうなので楽しみだ。

毎週、一期一会の新鮮な喜びと感動があるカナンの礼拝ではあるが、さらにエキサイティング。興味のある方はどなたでもどうぞ。

ゆばるさん関連のページ
http://homechapel.sblo.jp/ 【十弦の琴~音たちの賛歌~】
http://home.r05.itscom.net/kanon/ 【音楽工房 Kanon Und Gigue】
http://homechapel.sakura.ne.jp/ 【横浜フェローシップホームチャペル】
(メッセージは無駄が少なく聖書的、スッキリしていて聴きやすい!)

プロフェッショナルとは・・・

「職業人」や「専門職」を表すprofessionalは、「信仰告白」を意味するprofessということばに由来している。大学教授のprofessorにも「信仰告白者」という意味がある。

professには「神の託宣」の意味があり、元来professionalは「神の託宣を受けた者」なのである。つまりspecialistというのとはちょっと違う。

professionalは、神の承認とパブリックなミッションをおびた職能を有する者であるということだ。

有名なイギリスのオックスフォードやケンブリッジ、アメリカのハーバードは牧師を養成する為の学校であった。18世紀までは殆どの学生は牧師になったのである。従って医者や弁護士よりも先にprofessionalと呼ばれたのは、実は牧師だったわけだ。

私はこうした欧米のスタイルに賛成しているわけではない。professionalということばが一般的にも、そういう理解の上に成り立って分化していったものだということを言いたいのである。

つまり、職業的専門性は、自分以外の人の為に役立てる義務を内包しているわけである。それゆえにprofessionalと呼べるにふさわしい職能を有する方々は尊敬を受けて当然なのである。

職人はオーダーがあれば要求どおりにそれに応えるかも知れない。しかし、professionalは、オーダーに対して単純にその通りに応えない。自分の出した応えを相手に納得させ、喜んでもらえるようにと導くだろう。

2010/03/15

聖書から見た仕事

「あなたは、顔に汗して糧を得、ついにあなたは土に帰る」(創世記3:19)
「そして彼らに・・・すべてのものを支配させよう」(創世記1:26)

仕事には、「罪ゆえの苦役」という面と「神から委託されたものを管理する」という面がある。仕事で流す汗は、苦しみの証であるだけではない喜びの印でもある。

イエスは家業の大工の仕事をなさっただろうし、パウロも天幕を作って暮らしを立てていた。この職業選択は決して無意味ではない。

仕事の中で学ぶことは少なくない。

仕事を日々の糧を得るために時間を売ることだと考えてはいけない。

職業とは、社会との関わりの中で個人の能力を生かすことであり、その価値の代償として報酬を得る。これは聖書の中でも神の恵みとは明確に区別されている。

ローマの百人隊長は異邦人の軍隊という一見信仰とはかけ離れたような組織にあって、秩序や権威というものの本質を経験によって理解しイスラエルにさえ見られない信仰を学んでいたではないか。

なぜ、みことば三昧のイスラエルの教師たちにも見られない信仰が、ローマの兵士の中で育っていたのか?

百人隊長はみことばと生活が結びついていたのである。自分の仕事も信仰の中でとらえていたと言える。一方で現実の生活を軽く見て、ことばや観念の世界で神をとらえていた人たちの心は虚しく、その信仰は全く死んだものでしかなかったのだ。

というわけで、私はこうしたことをふまえて今の仕事にあたっている。

仕事は私にとっては訓練の意味合いが強いので、はっきり言うと、とても辛い。そして出来れば一日も早く辞めたい。でも続ける以上はプロフェッショナルでありたい。

2010/03/14

青い文脈

先週の日曜日は「ひねくれ者のための聖書講座」として、聖書を読む文脈について語った。

今日の午後からの分かち合いの中で、少しだけ続きの話をした。

聖書を文脈で読むためには、一定の長さと深さの人生経験が必要だ。人生の文脈がなければ、みことばを文脈に添って読むことは出来ないということ。

「誰でも自分の人生の中では自分が主人公」である。あれ、さだまさしがそんなこと歌ってたっけ。言ってみれば、それが「私が主であるところの」自分の人生の文脈。

どんなに気配りの出来る思いやり深い人でも「他人を主」にして生きている人などいない。人間自己チューが当たり前。ただしこれを露骨に出すと嫌われる。そういう人たちは性格が悪いというより処世術が下手なのである。

私たちは生きていく中でいろんな人と出逢いさまざまな出来事を経験し、その文脈を豊かにしていく。人生経験豊かな人のお話は実に面白いし、豊かな経験を重ねた人は魅力的でもある。そして、そういう人は自分の経験に基づいた人生観や人生論を持っているものだ。

しかし、聖書をいくら読んでも、心に響いたみことばを自分の人生の文脈に織り込むだけでは、それはただの読書であり、熱心に織り込んでも宗教の域を出ない。おそらく彼らが反応するのは、自分の人生観や人生論を後押しするようなみことばに限られている。遠藤周作や曾野綾子なんかは頻繁に聖書を引用するが、己の文脈で語るだけである。

私が聖書を正しい文脈によって読むべきだと繰り返すのは、みことばの断片ではなく、みことばの全体性こそが重要だからだ。

聖書の文脈と自分の文脈を擦り合わせ、聖書の文脈の中に自分自身を織り込んでいくこと、つまり、「自分の人生における主は自分ではなくイエスである」という読み方をしていくことが「信仰によってみことばを聴く」という態度なのである。

子どもの頃からみことばに親しみ、疑うことなく繰り返し、学校を卒業したら職業牧師になるような人がキリスト教界にはたくさんおられるが、聖書と擦り合わせる文脈が貧しいという問題がある。

天秤の分銅と釣り合わせせる具体物を見たことがないようでは、分銅のめもりが読めても実際の重さの実感が乏しい。

縦糸はたっぷりあるが横糸がちょろちょろでは、まともな織物が織れないのである。

別に、放蕩の経験が必要不可欠だと言っているわけではない。額に汗して働くという一定の経験や、神を知らない人の絶望の底を少しは知っておいても良いと言っているのだ。

かと言って、元ヤクザや元シャブチューが新しい組長や名医代わりのイエスを語るのは、やはり己の文脈を越えたとは言えないのである。

こういうことをふまえておかないと、「蔦の絡まるチャペル」ではなく、「舌の絡まるチャペル」になってしまう。お子様ランチみたいなメッセージは、舌の肥えた客にはジャンクフード以下なのだ。「青い山脈」的青春では、語り手の中には「青い文脈」しか残らない。

なぜ、モーセやヨセフはエジプトで苦労させられたのか。なぜ、ダニエルやネヘミヤはバビロンで仕えたのか。パウロは初めからイエスの弟子ではなかったのか。それは己の文脈を得るためである。

なぜ、イエスのまわりに人生の落伍者と見える与太者ばかりが集まったのか、しかし、与太者すべてが信じたわけではないという事実。ここに信仰がある。

「小犬にやるパンなどない」と言われた女は、「犬でもこぼれたパンくずを拾う」と応えてイエスにその信仰を認められた。自分自身の存在をイエスの文脈に見事にはめ込んだのだ。

一方で「永遠のいのちを得るにはどうしたらいいでしょう」と言ってやって来た金持ちの青年は、「持ち物を施せ」と言われて、悲しみながら去って行った。自分の文脈の延長にイエスの存在をはめ込もうとしてしくじったのだ。

この違いがおわかりだろうか。

正しい文脈で聖書を読むというのは、意外にというか相当難しい。

難しいだけでは結論にならないので、私が大事にしているポイントを3点挙げておく。

まずは霊的ではない読解力。聖書は非論理的な本ではない。ルカが福音者や使徒行伝を書くにあたって丹念に文献にあたったり、調査をしたように冷静で客観的な態度で聖書に向き合うことが大事だ。

もう一つはベタニヤのマリヤがイエスのひざもとに座って聴いたように、「人となられた神イエス」にひざまずいて聴くことである。

最後に母マリヤのように、「自分に語られたと感じるみことばを常に思いめぐらすこと」、そして「おことばどおりにこの身になるようにと願うこと」である。

2010/03/12

ケーキのおいしい食べ方

卒業を前に、大人はなぜか子どもたちに夢を語らせる。そして夢はなぜか職業と結びつく。

高校を卒業してもなお、何の具体的な夢も持てなかった私は、デタラメであってもとりあえず自分のことばで夢を語る小学生がある意味凄いなと思う。何で夢がいとも簡単に職業に結びつくのだろう?

あの頃に未来に生きる今の私がそれを果たせているのかどうかさえ、夢を語ることを避けてきた私にはわからない。

式の練習を聴いていると、子どもの夢の中に「有名な○○になって・・・」というフレーズがけっこう出て来るのが気になった。子どもながらに「有名っていいことだ」と思ってるんだなと改めて驚いた。

「無名でいいから・・・」という夢など確かに成り立たない。でも、「無名」と言っても名前がないわけじゃないないか。

そう言えば、私はバーチャルでもリアルでもSaltと名乗っている。ネット上のHNだけではない。まるで、主からいただいたように、本名以上にしっくりくる。そんないい名前は有るのだけれど大して「有名」ではない。でも、全く知られていないわけでもない。何とも微妙である。

不特定多数の人に一方的に知られることは、あまり愉快なことではない。「有名になること」など私にとって少しもありがたいことではないのだ。主がご存じであればそれで十分ではないか。ずっとそう思っている。

私はどうやら「有名であること」自体がどこか偽物である感じているらしい。「有名であること」に嘘っぽさが漂うのはなぜだろう。それは、大勢の人が一人の人に知られることはあっても、一人の人が大勢の人を知ることは出来ないからではないだろうか。人は一生の間にそんなに大勢の人には出逢えない。挨拶程度や一過性の関係なら当たり障り無く過ぎていくだろうが、一定以上の双方向コミュニケーションを維持するためには相当なエネルギーが必要だ。

だから、有名な人の発信はどうしても一方的な垂れ流しになってしまう。それは悪意ではなく量的な限界を超えているからだ。

長くいろんなことをやっていると様々な出逢いもある。私はおせっかいを焼くのも焼かれるのも嫌いだし、全く八方美人ではないので、「Saltはとんでもなく変な奴だ」と了解した人としかつながりを持たない。

近づいて来られてもうっとうしい人からは付いて来れないくらいの早足で逃げるようにしているし、固定したイメージを持たれるのが嫌なのではぐらかす。それがちょうどいいやっかい払いになって、大体いつも自分の身の丈にあったサイズの人間関係を維持できていると思う。

分母が大きくなると当然のことながら、関係は薄くなる。ケーキを焼いたら、食べるのにちょうどいい人数というのがある。分母はそんなもんでいいのだ。ケーキは家族や気心の知れた仲間と食べるから旨い。

2010/03/10

成長させてくださるのは神②

基本的に、私は子どもが元気で楽しそうに生きていればそれでいい。そうした「子どもの快適さ」を守るためにだけ時々登場するという役割だ。間違った手段で快適さを求めることをしないように、たまにチェックすりゃ十分。ちょっとだけその舞台裏を紹介しよう。

私は基本的に細かいことは嫁さんに任せるかたちをとっているが、丸投げしているわけではない。役割分担である。嫁さんのほうがその手の能力は私よりずっと高い。でも、ポイントはちゃんと押さえているつもりでいる。子どもたちが小さい頃は、「お父さんは頭にうつるテレビで自分たちのことを見ている」と大まじめに信じていたほどだ。種を明かせば、嫁さんから得た情報をあたかもその現場を見ていたかのように子どもたちに話して、褒めたり叱ったりしていたからだ。こういう夫婦の連携プレーが意外にモノを言う。

テストや成績には一切口を出さないが、受験に際しては足りない力を何とか補ってやろうと、必要に応じて家庭内で講義を行うこともある。4月から志望校に通っているという状況が子どもたちにとって落ちるより少しだけ快適だと思うからである。大学そのものや学歴という評価に価値を求めてはいない。教育オヤジのスタンスとは基本的に違うのだ。

昨年度は娘の高校受験前に英語を教えたが、今年度は長男・次男が大学と高校のW受験なので小論文対策の講座を続けている。もちろん目前の入試の科目にあるからこそやっているわけだが、それだけでは私が一定以上の力を注ぐ動機付けとしてあまりにも弱いので、中長期的には「暮らしを見つめる感性」を養い、「情報を取捨選択し整理する技能」を身につけ、「論理的な思考力」を磨くことにつながるのだと本人たちにも意識させているし、実際にそのような教え方をしている。

私の子どもたちは、この世にあって飛び抜けて優秀というわけではない。あえて断るほどのことでもないごく普通の子だ。しかし、私は彼らが今の世にあって、それぞれに宝石のような輝きを秘めているいるのを見出す。それは私にとっては大きな誇りであり喜びでもある。人がどう評価するかではなく、父親としてわが子をそう思えることが大事ではないだろうか。

思いっきり普通に育ってきた。当然、生まれ育った時代や地域や学校の影響はあるが、子どもはもっとたくさん家庭の空気を吸って生きているのだ。それに、何しろ「成長させるのは神」なのだから、そういう意識をもった親がおかしなコントロールをなるたけ避けて養育すれば、「それなりに育つ」のは当たり前なのだ。

実際3人の子どもたちはどう思っているだろう。「私が父親」という環境で存在し、DNAを受け継いでいるとういうだけでも、相当なリスクというかハンディキャップというか・・・・
出生を呪わずとも、うっとうしいと感じる時期があるのは当たり前だろう。いろんなことを乗り越えて自分らしさを見つけていくには、まだまだ時間がかかる。

両親は出来る最高のことは、神を信じることが「正しく」かつ「楽しい」ということを示すことだ。ろくでもないこの世界で人生を肯定する姿を見せることだ。

私は子どもを育てることによって育てられ、成長を見守ることで成長していると思う。成長させてくださるのは神なのだ。子育てを楽しもう。

私は常に神が私の思惑を越えた最善を備えてくださっていると信じている。私たちに信仰の備えがあれば、神の祝福の備えを味わえる。

ちなみに、未だ受験の思わしい結果が出ず、悶々と苦しい時期に書いている記事であることを追記したい。今年の桜はさぞ美しかろう。

成長させてくださるのは神①

偉大な教育書(だと思われている)「エミール」を著したルソーは、自分の子どもたちを施設にあずけっぱなしだったと伝えられている。

Saltもあれだけ好き勝手に生きていたら、子どもと触れ合う時間なんてないのでは。偉そうなことは言っても自分の子どもは放ったらかしだったり・・・と思っておられる方もおられるかも知れないが、意外にそうではない。

「自分の子どもをキチンと育ててナンボ」と思っている。肝腎要で手は抜いては一生の不覚。取り返しがつかないばかりか、老後の自分に跳ね返ってくる。まあ、それは冗談だが、自分の所有物やペットではなく、「尊重すべき人格」として接している。つまり、自分が大事だと思うことは選択肢として伝えようとは思うが、決して押しつけない姿勢を貫いている。つまずく可能性があっても先回りして、障害物を除いたりはしない。選択肢を狭めて、良いものだけで取り囲むと結局子どもはダメになる。

「天からの留学生を預かっている」という感覚をもって養育することが大事だと思う。つまり、関わり自体を面白がっている部分があるということ。そして、最終的な養育責任者は私ではなく神だということ。彼らは神の配剤によって私のところへやってきた人たちなのだ。それゆえ、やがて父と母を離れる日がやってくる。それぞれが結ばれる相手を見つけて一つになる事実はキリストと教会のモデルであり、神との一体が親との関係よりも大切だということのしるしでもある。「成長させてくださるのは神」なのだ。

教師や牧師の子どもに問題児が多いのは、親の肩に力が入りすぎて子どもをコントロールしようとするからだ。親の期待に過剰に応えようとすることも、烈しく抵抗することも同じ原因による裏表の反応である。親と子どもは別もの。自意識過剰な親たちを私は飽きるほど見てきた。

「親は親」「子どもは子ども」私とは全く違う人格なので、私が好きなことを同じように追いかけることはないのだ。子どもが全然異なる分野に興味をもったなら、自分もそれを面白がればいいのだ。子どものことに必死にならず、親は親で自分の人生をきちんと生きてさえいれば、子どもも自分の人生を大切に生きようとする。それだけのことだ。それぞれの人生をプラニングするのが神であり、それに応答するのは本人以外の誰でもない。誰かに求められた生き方をなぞって誰でもない自分を演じることに意味を見いだせないと、自殺するか、宗教にはまるかである。それがたまたま人から評価されたり、うまくいったりすると、仕事人間になるか、ほとんど何も考えない馬鹿になるかである。信仰を選ぶ自由を与えなければ、たとえ信仰が正しくても意味はないとさえ思う。自分で選ばない人生には意味などない。

2010/03/09

徘徊終了

今日をもって1年間の徘徊は終了。
1日7時間×30日×4校を終えたことになる。ふぅ。

ほとんど干渉せずただ見守るという立場で、教室を後ろから観察するというのは、今まで経験したことのない不思議な感覚を私にもたらした。教育という営みや子どもの成長というものを軸にいろいろなことを思いめぐらした一年であった。

新人たちに対して、そうして得た情報を整理して提示し、自らの指導のあり方を丁寧に振り返らせる。一日の事実は教育をめぐる抽象論より大切だ。

教育というのは、「今日種を蒔けば今日のうちに花が咲いて明日実を結ぶ」というようなものではない。誰がどこでどうしたからこうなったというような即効性のあるものでも、そのことによって特定の誰かに手柄をもたらすものでもない。教育というのは、「子どもの成長といういのちの営みに寄り添うこと」以上ではない。しかし、寄り添う大人たちが、「どこで」「何をしたか」ということの蓄積が確実に子どもを変えていくことは間違いない。だからこそ、教育は尊い。

「○○式」とか「~メソッド」などと、個人のくだらない思いつきに子どもをはめ込んでしまうことに対して私は否定的だ。そんなものは教育と呼ぶに値しない。その発案者も追従者も、子ども一人ひとりをしっかり見てはいないからだ。簡単にいうとただの「横着」である。「子どもの尊厳」を嘗めきっている。「子どもの成長」という崇高ないのちの営みを侮っている。

だから、Salt式やSaltメソッドなどはない。そんなものをまとめたりもしない。もしそこに無理にでもことばを当てはめるとするなら、指導者ではなく一人ひとりの子どもの名前を入れるべきだと私は考えている。

「私が植えてアポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。それでたいせつなのは植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです」(Ⅰコリント3:6~7)

明日から終業式までは所属校勤務で残務整理をしながらスローダウン。事務や片付けは超苦手なのでちょっと憂鬱。それが終われば少し休める。

2010/03/07

ユアサる

最近のUribossa氏からのメールの中に、友人のミュージシャンのライブ・フライヤーのオファーを受け、超お友達価格なのに通常の5倍ぐらいのパワーを注いで作ったという内容が書かれていた。経済苦の中でこの余裕というか心意気が凄い。また、Uribossa氏のコメントがいい。「ユアサってしまった。。。アホです。でも喜んでもらえたからよしとせねば」

私はUribossa氏の「ユアサってしまった」ということばに、Y.B.M氏への敬意と、己へのやや屈折した自嘲と自尊を感じ、痛く共感してしまったのである。(注:ユアサというのが、Y.B.M氏の本名)

そこでUribossa氏への返信メールの中で〔ユアサる〕を、「この世の殆どの人にはどうでもいいようなことが、絶対どうでもよくなく、人知れず必要以上に力を注ぎ、密かに満足を得ること。全く割りにあわない効率の悪さにも関わらず、なぜか連鎖反応が起こったりする」と定義した。

私はY.B.M氏の人や物への関わり方が好きだ。家具も写真も、全く興味がなかったわけではないが、Y.B.M氏と出逢ったことで、その世界の奥行きが見えてきた。

Y.B.M氏が木工家に転身するにあたって封印した写真への情熱のくすぶりを誰よりも強く感じ取り、煽る風を送ってきた者として、彼が自身の家具工房で開催する写真茶話会はすごく気になっていながら、なかなか参加する時間がとれなかった。前回は終了後に合流、今回(昨日)は少し遅刻して顔を出せた。

私の工房での連続講座で見せてくれた彼の指導法は、通常の写真講座のイメージとはかけ離れたもので、あえて技術にこだわらず、撮り手の情報の集積である「写真」という記号の本質に迫っていく。

「写真は逆証である」という仮説に基づいたY.B.M氏の写真の読解力は卓越したものがある。写真を媒介とした撮り手との対話の中で、撮り手自身が気づいていない無意識さえ言語化してあぶり出す。このような手法であの梅佳代や浅田政志という優れた才能を育ててきたのだなと納得した。

この世のほとんどの人がどうでもいいと思っているY.B.M氏のこだわりについて、野暮ったいことばで抽象化したくない。それは具体的なひとつひとつの作品としてしか表し得ないものだから。

この世のほとんどの人がどうでもいいと思っていることは、本当はとても大切なことなのだ。

http://www.norioyuasa.com/%e6%95%99%e5%ae%a4%e3%81%ae%e3%81%94%e6%a1%88%e5%86%85/(SiGNの写真茶話会案内ページ)

2010/03/06

信仰と群れ②

「信仰と群れ」の問題は「教会と私」の問題に単純に置き換えることは出来ない。

ことばの定義の問題にもなるが、群れを作っているのは個人であり、そもそも私自身が教会だからだ。教会は「行くところ」ではなく、その名を呼ばれ召し出された一人一人が教会そのものなのだから。

群れを構成するのは、「私」という個人である。群れ全体の責任なんてない。責任はいつも個人に帰す。

モーセはイスラエルという群れの為に立てられ、同時に群れの一部として行動した。アロンは群れの関係性を優先して金の子牛を拝んだ。モーセは群れ全体の合意による偶像礼拝にとりこまれることはなかった。神との関係性を優先し、たった一人で群れに立ち向かったのである。ここにモーセとアロンの決定的な差がある。

群れはみな同じようにエジプトを出て来たのだが、主を見ていたのではなく、モーセという指導者を見、前後左右の隣人に合わせ、祝福にあずかって何となく流されてきただけだった。イスラエルという「ムラ共同体」の過ぎ越しという行事に参加していただけだったのである。

その結果、エジプトを出て来た世代で約束の地カナンに入ったのは、ヨシュアとカレブのたったふたりだけ。

「群れをなすこと」には、天にも似た祝福と地獄のような醜悪さというふたつの両極に至る可能性を秘めている。

グチャグチャいう奴はいつも誰かを引き合いにする。これもお約束。マリアを引き合いにしたマルタ然り。取税人を引き合いにしたパリサイ人然り。

主の前にひとり出ること。これに尽きる。

2010/03/05

信仰と群れ①

日本の伝統的なムラ共同体には「世間体」という不文律の覆いがかかっている。

「世間」は、覚醒した自立的な自己主張を敬遠し、程度が一定の容認を越えるとそうした「自己」は孤立させる。そのような環境では意識的に「世間」に立ち向かう「自己」は育ちにくい。「自己」を圧迫する「世間」は「自己」の集合体ではないので、「世間」の仕業に対して誰も責任をとらない。ムラ人であるという資格は、自由を売り渡して責任を放棄することによって得られる。

「村八分」ということばに表される阻害を合理化する空気は、あらゆる社会の小集団においてはいじめを生み出す素地を作っている。根本的には日和見主義でエゴイスティックでありながら核になるエゴが育ってないのがムラ共同体的日本人である。

それ故、ムラ共同体的日本人がキリスト教徒になっても、単なるお引っ越しに過ぎない。所属するムラを変えるだけなので、相変わらず「自己」はない。だから、「どちらの教団ですか、○○先生の教会ですね」などという自己紹介と認識の仕方になるのだ。「○○ムラの××べえ」でいることに安息するのである。

彼らは年貢を払うように献金を納め、田んぼを耕すように割り当ての奉仕をこなす。領主が横暴になると騒ぎ出すのである。

そして、彼らの美徳であるムラ共同体的な仲むつまじさも、実は「世間」という実体を持たない己の影法師に対する強烈な信仰と怖れが支えているものだ。

本質的な意味合いにおいて、「自己」がないところに愛は芽生えない。互いに寄りかかって支え合うことは信頼ではない。聖霊は、イエスとともに十字架に付けられてともに死に生まれ変わった「自己」がキリストのかたちへと変えてゆくのを助ける。ちょうどヤコブがイスラエルになっていくように。

聖霊の働きをムラ祭りに利用しようとする動きには驚き呆れる他ない。

神の前のひとりを自覚した個人が各々神から託された分を果たすような交わりにしか、兄弟愛などというのは存在しないのだということを念押ししておきたい。

友達の友達はみな友達だ

Uribossa氏のお友達のお友達、LA在住のボサノヴァ・ファンが「風のメロジア」を御自身のブログで取り上げてくださっている。

会ったこともないのに、実に丁寧かつ好意的なコメントを書いてくださっているのが嬉しい。

紹介してもらっているのを紹介するのも妙な感じだけど、ニューアルバム制作の為には、「風のメロジア」をもっと売らないといけないので・・・・

興味のある方、また、販売に協力してCDを預かってやろうという方はご連絡を。

http://riocato.exblog.jp/12977668/ 【空と雲と原っぱ、そしてボサノバriocatoさんのブログ】

2010/03/04

小さき者あるいは一羽の雀

「燕雀安んぞ 鴻鵠の志を知らんや」(史記)

小さな鳥には大きな鳥の心はわからない。度量の小さな人物には大きな人物の志がわかるはずがないという意味。後に英雄となる陳勝がまだ日雇い百姓をしていたとき、仲間に将来の夢を語り嘲笑された。その態度を悲しんで語ったものだと言われている。

イエスは弟子たちに御自身が十字架にかかられることを折に触れて語り続けられたが、弟子たちには全くわからない。しかし、イエスは即座に理解されることを期待して語られたわけではなかった。

イエスが語られたのは、弟子たちが後に理解するためであった。つまり「その時は理解されないこと」「理解できないこと」が重要だったのだと言える。

後になって聖霊を与えられた弟子たちがすべてを理解したとき、その時はどんなにがんばっても誰も意味がわからなかったことを理解することが重要なのである。

神の家にも、大きな器もあれば小さな器もあるだろう。しかし、大事なのはその器が神から注がれる恵みで溢れていることだ。

大小というのは比較の概念であって、意味はあっても価値はない。大きな神の前には人はみな小さい。だから、イエスに出逢ったサウロはパウロ(小さき者)と名乗ったのだ。みこころはいつも人の計り知れぬところにある。ゆえに、私たちはただ「自分の願うところではなく、みこころがなるように」と祈るのである。

2010/03/03

伸縮する時間

学校にチャイムが鳴るのは、一定時間内に作業や課題を仕上げるということに価値が与えられるようになったからである。それは産業構造の変化と大きな関連がある。

それ以前の暮らしのチャイムは、長いスパンで言えば、季節の変化、天候程度のものだ。産業構造の変化ということで言えば、農事ごよみとの関連である。

漁師には漁師の時間、牧人には牧人の時間、商人には商人の時間があるだろう。そして、大多数の人が寝たり遊んだりする時間に働いている人たちもいる。

時代の需要や技術の進歩によって、同じ職業の人たちでも、長い歴史の中でその時間感覚は大きく変化を遂げている。

いずれにせよ、現代の社会で生きる私たちは管理された時間を配分され、その中で成果をあげることを半ば義務づけられ、そして値踏みされるようになった。

そうした価値観に飼い慣らされた結果、管理された時間の外へ解き放たれると、何をしていいやらわからなくなり、休日は寝て過ごしたり、ありきたりの娯楽に身を投じたりすることになる。

しかし、こうした「変化の始まり」を遡れば、せいぜい100年程度の過去まで戻れば十分だ。

200年、300年前は、これほどせかせかした時代ではなかっただろう。便利になった筈なのに、大したことをしているわけでもない人まで、「忙しい」「疲れた」を連発するような時代ではなかった筈だ。

私はいろんな人から「よくそんなことしてる時間ありますね」と言われるが、これには「忙しいはずなのに、そんなどっちでもいいような面倒くさいことをよくやってるよなあ」という軽蔑と「それだけの質と量の内容をこなしているのは、ある意味驚異的だよ」という驚きが入り混じっているものとして、当人は受け止めている。

誰がどう思っているかは私にとってはどうでもいいことだ。私はどちみち私のことなど親身に考えてくれそうもないような人たちの評価など初めから全く気にとめない。

私は他者に配分された時間よりも、自分で創造する時間に重きを置いているので、私の中でその時間は、感覚的にはある程度伸縮の効くものなのだ。アインシュタインも物理学の観点から、その可能性について言及しているし、何より聖書はもっとスケールがでかいことを言っている。主の前では千年は一日のようであり、一日は千年のようなのである。

私のいのちの砂時計の砂はいつかなくなるのだから、他人に値踏みされ振り回されて空っぽになるのだけは御免だと思っている。他人のプログラムにのっかって時間を消費するような娯楽を避ける傾向が強いのもそのためだ。

2010/03/02

教訓もお面もいらない②

いつの頃からか小学校の卒業式では、優等生が送辞や答辞を読む代わりに「呼びかけ」という全員参加の形式に代わった。おそらく全国的にもこの傾向が強いと思う。それが、新しい学校の教育観が生んだ「優等生な結論」である。それはそれで悪くないが、大して良くもない。

私見ではあるが、内容的には、送辞・答辞よりも呼びかけに軍配があがる。しかし、それにかける労力を考えるとどっちもどっち。むしろ呼びかけに費やす時間に無駄を感じる。優等生に任せておけばよかったものを、誰かがその予定調和的なシナリオを書き、失敗しないように寒い体育館で何回も練習しなければならない。

某小学校で、まさに「呼びかけ」の核心部分である「お父さん、お母さん」という文言を「家族のみなさん」に変えようと提案があった。母子家庭や父子家庭への配慮だそうだ。なるほど立派に教訓めいてはいるが、鉄面皮なお面の笑顔である。

「家族のみなさん」などという不自然な日本語を、この呼びかけ以外に一生に一度でも使う日本人がいるだろうか?

当事者であるお父さんやお母さんがいない子どもにとっては、「かわいそう?」な自分に妙な気を使っておかしな日本語を使っていることの方がよほど不愉快だと思う。たとえそうでなくても、この種のおせっかいな配慮は、そうした背景を持つ子どもたちにとって教育的かというと私は断じて違うと思うのだ。

しかし、こういう提案を良いことであり、当然の配慮だと信じて疑わない感性の持ち主にとっては、私のような者は「やさしさ」や「思いやり」に欠ける無神経な人間に見えるのだろう。まあ、それもやむなしだが、無理に波風立てず黙っていることにしよう。

2010/03/01

教訓もお面もいらない①

すごく悲しいとき、とびきりしんどい時に、教訓はただムカツク。ヨブの友達みたいにいつも優等生みたいなことを言う奴はシバキたくなる。みことばに簡単にアーメン出来る人は、みことばが何を言っているか本当に理解できているのかと心配になる。きっと優等生だから大丈夫なんだろうが、少なくとも私はそんなにラクには信じられない。一つひとつみことばを受け入れるには、いつも烈しい葛藤がある。

丸ごと鵜呑みにしてしまった人(あえて「信じている」とは言わない)は、いつもかなり無理して柔和な表情を作っているが、私には妙なお面でもかぶっているようにしか見えない。表情が嘘っぽく目が笑っちゃいないのである。聖書を良く読めば、ちゃんと「目が大事」と書いてあるのだ。

私は時々「役割」として神のことばを取り次いでいるが、間違っても「善人」ではないし、ちっとも「立派」ではない。若い頃よりは幾分落ち着いてはきたものの、まだまだ「品性」に欠けているので、いろいろなことに「忍耐」しつつ、日常を何とかこなしている。

この日曜日にも分かち合いの中で「クルクル○―」ということばを使っていたそうで、帰りの車の中で妻に指摘された。納得のいなかない私は、「そんな連中(この世の学校へ通わせると汚れるので自分でホームスクールをやっているような人々)はクルクル○―でもまだ言い足りない」と反論したが、当然妻の言い分の方が正しいので渋々黙りこんだ。

「みことばは真実だなあ」と身に沁みないとわからないようなかなりの馬鹿者であるが、それだけにメッセージでは自分が身に沁みて味わってきたことを中心にお話することにしているので、教会と牧師館を往復して献金で食っている人の話よりはさすがに多少の説得力はあるのだそうだ。

今月も勇気ある兄弟たちが私に会いに来てくださる。とても楽しみだ。

みなさん、是非リアルSaltに親しく出会ってがっかりしよう!