2010/05/31

カナン教会 6月の予定

カナン教会の6月の予定は以下の通りです。

6 分かち合い 
13 メッセージ ひねくれ者のための聖書講座⑯
20 メッセージ 「アイの戦い」(約束の地カナン⑥)
27 分かち合い 聖餐式

先日5/31のメッセージ「エリコのたたかい」(約束の地カナン⑤)がアップされています。

2010/05/29

辺野古のジュゴンも泣いている

たぶん通知票にはいっぱい5が並んでいるんだろうけど、友達にはなりたくないタイプの同級生がいたと思う。ちびまるこちゃんで言えば丸尾君タイプか?

鳩氏と福島氏はともに美辞麗句を並べるのは得意だが、彼らのことばに心を打たれることはない。そんなふたりの確執はまさに学級委員長ふたりの喧嘩みたいな薄っぺらさで、実にうんざりさせられる。

「空気読めない」「思いやりがない」「立場はあっても権威がない」
そういう肝腎な部分が欠落しながら、そうまでして何のためにリーダーでいたいのか、普通の感覚ではほとんど意味不明である。お金はたんまりあっても、プライドや信念はないのか。

福島氏は辞任せず罷免された。鳩氏が福島氏を別室に呼んで1対1で説得した末の結論だと言う。いずれにしてもみっともない話だが、この上「閣外協力」などに決着したら社民党自体もうおしまいだ。どうでもいいけど、福島氏にはちょっとはマシなスタイリストをつけてあげたい。

いったいこの国の未来はどうなるのか?確かに一国の舵取りは、門外漢が口先で論じるほど簡単ではない。責任与党は大変なのだ。しかし、首相たる者が口を開くたびに支離滅裂なことを発言していてはどうしようもない。

鳩氏の発言を聞いていると、とにかく未だに基地問題をゴミ処理場感覚でとらえていることに大きな違和感がある。ここまでこじれたのだから、今回の混乱を国防に関する根本的な議論の機会にすればいいではないか。

いっそのこと「本土の人間にとって他人事だった国防問題を自分事だと考える転換点にするために、私はピエロになったのだ」と、開き直ればいいのに。

アメリカの高官たちは、基地問題の決着を鳩氏ほど簡単にはとらえていない。数人の要人の発言を聞いていると、そういう印象を受ける。

辺野古のジュゴンも泣いているだろう。

2010/05/26

「風のメロジア」アフリカの大地に静かに響く

いよいよ週末に「なにわのブラジリアンな夜」が近づいて来た。今回はパーカションのイタミーニョ氏を迎えてのトリオでの演奏になる。

二人の時は違うグルーブが生まれるので、ただパーカッションが入って音に厚みが出るとかいうのとはひと味違う感じになるだろう。

29日の夜は、大阪周辺の方は是非カイピリーニャへ。

今日は、そのパーカッショニスト・イターミニョ氏のHPのご紹介。前回の練習後に夕食を食べながらたっぷりコンゴ紀行を聞かせてもらったのだが、これがなかなかツボにはまってしまった。

とにかくマニアックな嗜好とクールな執念が「ハンパねえ感じ」で実にイイ。教員なんてのは、言い訳ばっかりのハンパな奴が多くてちっとも面白くないので、針がレッドゾーンまで振りきってる人は実に心地よい。

HPには、彼のフェイバリットであるリンガラ・ポップスの情報やコンゴ紀行の写真もあるというので開いてみると、何とS&Uのアルバム「風のメロジア」のことを論じてくれていた。

イタミーニョ氏は、コンゴの奥地で私たちがこのアルバムに込めた思いを確かに受け止めてくださったようだ。

興味のある方は是非ご一読を。

http://homepage.mac.com/jakiswede/index/contents_fr.html
(イタミーニョ氏のHP)

2010/05/23

基地より機知

ついに移設先は「辺野古周辺しかあり得ない」と言明した鳩さま。

もはや一国のリーダーというよりは、食品偽装か何かで追いつめられたせこい弱小企業の社長みたいで見ていてあわれである。

「最低でも県外」とあれほど威勢良かったのに、「あれは個人の発言で党とは関係がない」という支離滅裂な言い訳をしてしまったのだから、どうせこの後、何を語っても何の説得力もない。

これまで、とにかく「基地をどこに移すか」という前提で話を進めてきたわけだが、いっそのことそこから見直せばいいのだ。

「日本には平和憲法があります!これがあれば米軍の核の傘などいりません。最低でも県外と言ったのは、もう少しがんばって国外ということを視野に入れての控えめな発言だったのです!」

こんな風に所信表明の時の元気さで堂々と語れば、少数ではあっても熱烈な支持者は得られそうだが・・・・

日米関係は大切だが、そんなにビビる必要はない。持っていき方によってはいくらでも相手を譲歩させるカードは切れる。

こっちは提供する方なのだから、「もうお前らには守っていらん」と言えば、一番強いのである。

はい、日本国民の皆さんに質問です。いったいアメリカにどんな具体的な危険から守っていただいているのでしょうか?

赤い紐

このところ、年金生活者を食い物にしたビジネスが次々に告発されている。病院とヤクザが結託し、弱者から搾取して腐った組織を維持する。まるで何やらとそっくりではないか。

「どこも悪くない」と言いながら、「路上生活よりマシだ」と言って入院を続け、無駄な検査や悪くもない部位の手術までしている被害者も、被害者面できるような偉そうな立場ではない。いずれも加害者みたいなものだ。弱いからエライともカワイソウとも全然思わない。ただ哀れである。

ちゃんと受容と供給が成り立っているから、告発は第三者のおせっかいとなる。こうして互いに騙し騙されつつ悲しいシステムを維持するのである。

一方で、口蹄疫にかかった家畜たちは次々に処分されていく。これらは時代の生贄だろうか。2000年前、デカポリス地方で豚が大量死した原因は、イエスが追い出された悪霊が乗り移ったからであった。

神の存在や贖いを示唆する様々な雛型は、人の欲望によって激しく歪められどん底まで貶められている。この世界の癒しがたい罪をとりなすことばが見つからない。

崩れ去るエリコの城壁を修復する努力は無駄である。神のみこころに添ったエリコの再建などは愚かな空想話である。肉の要塞はすべて破壊されなければならない。

この世界でただひとつの価値は、窓辺に結ぶ赤い紐の印だけだ。

2010/05/22

?!

思うようにいかないことばかりだが、
思うようにはいかないからいいのであって、
だからまあすべてこれでいいのだけれど、
時々、からだが疲れ果てることもあって、
ちょっと休みたくても休むことも出来ず、
とにかく働き続けるうちに、
誰かに力を注ぐ必要にかられてなぜか不思議と元気が出て来るのであって、
「もうどうでもいいや」と思っていたことの細部にさえ、
再びこだわり始めたりもする。

そして、
結局「利己主義」というのが一番脆くて、
でも、
「誰かのために」とふんばるのであれば、
あと少し強くなれる余裕が生まれるんだ・・・・と気づく。

それが、私が何度も経験してきた天の法則だ。

いろいろあったここ数日間のことを伝えるのは難しいが、
とにかく、少し元気にはなった。

それほど無理をしたつもりはないのだが、
2日前はとうとう疲労困憊のせいか脂汗が出て職場で動けなくなった。(たぶん誰にも気づかれてはいないが・・・)
昨日は半分朦朧としながら大阪まで社会見学の引率。
その後、キャンセルしたいほど苦しかった家庭訪問に出かけ、2時間ほど話し込む中で「補助エンジンが始動する感覚」を覚えた。それで体調は未だイマイチだが、驚くような力が湧いてきて、今日はほぼ普通かそれ以上の感じで乗り切れた。

明日は一日音楽。「なにわのブラジル」に向けて「室生でブラジル」
かなり心配したが、どうやら最高の週末を過ごせそうだ。

100才の詩人まど・みちお氏が、世の中に疑問符と感嘆符さえあれば「ことば」なんていらないんじゃないかと言っていたが、これは至言だ。

主よ?アーメン!

これでいいのだ。

2010/05/17

「故意の誤訳」より「恋の媚薬」を!

日本語には独特の情緒や深い味わいがあるが、聖書の表現に関する限り、そんな日本語の良さはほとんど感じられない。それは原点の主意を守るためにことばとしてのリズムや流れを仕方なく犠牲にしたものだと思い込んでいたが、実はそうではなく、ただ訳が不味いだけだと言うことがわかってきた。

日本語をこよなく愛する私は、聖書の日本語は最低だと思っている。

でも、聖書は文学ではない。聖書は霊的な書であるから、私は日本語としての意味を越えて「霊」や「いのち」に直接触れている。

だから、おかしいものは何処かおかしいとわかる。そして、封じられているものは解けはしない。神が私に語るのであって、私が正しく読み解くのでない。

改訂と言っても、より原語の発音に近い片仮名表記であったり、人権に配慮したために取って付けたような不自然なことばへのすげ替えたりと、どうにもすっきりする話ではない。

聖書の翻訳に関して、「故意の誤訳」があると言うことは、随分以前から言われている。私も知らないわけではないが、「これが正しい翻訳だ」と言っても、そう主張する人たちに大して正しさやホンモノを感じないので、気になることばや表現はとにかく自分で調べて、他の聖句との整合性を確認しつつ納得できたことだけを発信してきた。

「日本語に立って思考する」から問題があるのであって、「正しい訳に立って思考する」というプロセスにも同様の落とし穴はあると考えている。「信仰に立って思考する」ことが大切だ。

「聖書読みの聖書知らず」ではいけない。

「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか」(ヨハネ3;10)

あらゆる言語は「ことばなる御方」の影であって、何がどう投影されているかがわからなければ、正しい訳も何もないような気がする。

ギリシャ語やヘブル語がすんなり理解できる人は少ない。それなら、せめて英語で読む必要があるだろうか。原語の意味を逐一調べなければ信仰は歪むだろうか。

神は常に無学で普通の人の味方である。キリストを直接知ることには、ことばの妨げはあるはずがない。

2010/05/16

家族のリアリティー

「家族とは何か?」というのは簡単そうで難しいテーマである。

それは実のところ、信仰なしには解けない問題だからだ。

イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちです」(ルカ8:19)とおっしゃっている。

「『神のことばを聞いて行う』という条件を満たさなければ、イエスはご自分の家族でさえ家族とは見なさない」とイエスは語られたわけだ。

このような厳格さが家族の前提である。

神のことばを聞かず行わず、人の言い伝えの中で馴れ合って「兄弟だ」「姉妹だ」と呼ぶのは間違っている。私はこの安っぽく嘘っぽい人間関係に耐えられるほど鈍感に出来ていない。

ヤクザの世界だって、兄弟の杯を交わしたらもう少し厳格だ。

少年時代の都上りの際に、イエスを見失った両親に語れたことばは、「どうして私をお捜しになったのですか。私は必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか」(ルカ2:49)であった。

カナの婚礼の際にぶどう酒がなくなったことを訴えた母に対してイエスが語られたことばは、「そのことで、わたしとあなたは何の関係があるでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません」(ヨハネ2:4)であった。

ユダヤ人たちは、自分たちはアブラハムの子孫だという誇りを持っていたが、正しくは、「アブラハムの信仰を継承する者」を指すことは、聖書を見れば明らかである。

つまり、この世においては、信仰がなければたちまち実体のリアリティーが薄れ、影が全てであると思い込んだり、実体と影が逆転したりするということだ。

信仰の家族のリアリティーは極めて希薄である。偽の家族ゲームは、欺瞞と裏切りと失望に満ちている。

2010/05/15

浅田政志写真展



Y.B.M氏の写真専門学校時代の教え子であり、2009年度の木村伊兵写真賞を受賞した写真家浅田政志の個展に行ってきた。

浅田氏を囲んでのランチを含むスペシャルな企画は、恩師であるY.B.M氏の写真茶話会の春の遠足である。

茶話会のレギュラーメンバーの硬派銀じ郎氏をはじめ、プライナスのふたりや、Koji君夫妻も参加され、何とも楽しい時間になった。私は最近写真に興味を持ちだした息子を連れて行ったのだが、彼にも伝わるものが大いにあったようだ。

私も数多くの展覧会を見てきたが、美術館で声を出して笑ったのは初めてのこと。いろんな意味で型破りの個展だった。館内で放映されている映像作品を見て大爆笑したのだが、ご両親のコスプレによる「なりきりぶり」が半端じゃないのだ。

お兄さんが結婚されて、子どもが生まれて、浅田家のDNAが力強くバトンタッチされ増殖していくさまを見事に視覚化しているのは、あっぱれとしか言いようがない。

作品は被写体である自分を含む家族の言わば「究極のヤラセ写真」なわけだが、その「あまりにも自然なヤラセぶり」に心をくすぐられる。

「写真で何を表現したいのか」という根本的な師であるY.B.M氏の問いかけにきちんと答え続けている浅田氏のカメラは、「自分の家族」から、「いろいろな家族」へと向けられるようになった。

これから浅田氏が家族の肖像に何を見出し、何を映し出すのか楽しみである。「見えるもののかたちを写すこと」は簡単だが、「見えないものにかたちを与える」のは難しい。

それにしても、どこか学園祭のような地域のお祭りのような楽しさが会場に漂い、堅苦しい県立美樹館の空気を浅田カラーで圧倒していた。

販売コーナーも作家の絵はがきやアクセサリーなどが主ではなく、地域の物産展みたいになっていたのが面白かった。

いろんな小道具を使って浅田家みたいに自由に写真をとることが出来る体験コーナーも愉快だった。「誰でも簡単に真似できそうだけど、なかなか難しいでしょう」という浅田氏の笑い声が聞こえてきそうだった。

今週のハードワークで相当疲れていたのだが、かなり元気が出た。

http://www.pref.mie.jp/BIJUTSU/HP/jp/home.htm 
【三重県立美術館HP】

http://www.asadamasashi.com/
【浅田政志HP】

2010/05/12

基地より吉

今、鳩さまを馬鹿にするのは簡単だ。

しかし、「じゃあ、どうすりゃいいのか・・・」は、実際極めて難しい。

具体的に皆を納得させる提案が出来る人がいたら、とっとと発表して欲しいものだ。

クリスチャンは基本的に「鳩」っぽいので「蛇」っぽい狡猾さは欠けやすい。

善人ぶってアジアの国々にペコペコ誤る奴はいても、アメリカ人に「おまえ謝れ!」と言える奴はそういない。

さて、あり得ない想像だが、もし私が総理大臣のブレインのひとりなら・・・・

政権交代を機に、まず原爆投下の謝罪、地位協定の改定あたりを問題にするようにサジェションするかなあ。大波紋を巻き起こしてつぶされて終わりかも知れないが・・・

相手はこっちを見下してるんだから、まず目線を正すことから始めないとまともな交渉なんて出来っこない。

こんなのはどうだ?

「私の主張は友愛なんだ。これは公約の実行だ。とにかく県外と言ったら県外だ。沖縄に新しい基地など作らせない。愛は平等だ。沖縄を除く全ての都道府県知事にクジ引きして移設先を決める。 裏取引なしだ。だから、文句など言わせない。決断するのが政治家の務めだが、決断出来ないからクジで決める。石原氏が引いたらどうするって?知らんよ、そんなことは。」

あるいは、

「友愛を具現化するために、ここは憲法を改正して核武装する。そして在日米軍基地はすべて撤退してもらう。核を所有して何が友愛かって?これは、戦(いくさ)をせずに攘夷を実現しようとした坂本龍馬の理想と同じ。国民に大人気の大河ドラマにヒントを得たのだから立派な民意の反映だ。友愛はまず同胞に示してこそ他国への思いやりも生まれるというもの。妻の占いでもそれが吉と出ている。基地より吉だよ。」

馬鹿馬鹿しいとは思うが、現状の馬鹿馬鹿しさよりはちょっとマシだ。

2010/05/11

さっちゃんはね・・・・

先日のリコーダー講座のひとこま。

「音楽にとって大事なことは何だと思いますか」という私からの問いかけに対して、参加者のみなさんに思いつくことばを出してもらった。

「リズム、メロディ―、ハーモニー」というような学校的な答えだけでなく、「癒し」「豊かさ」「コミュニケーション」「協調性」「充実」など・・・・ホワイトボードに書ききれないほどの多様な答えが出た。

ひとつひとつのことばが意味するところの背景やそのつながりを私なりに解説しつつ、「人にとって音楽とはいったい何なのか」を出来るだけ丁寧に言語化してみた。

それにしても、それほど深く考えずにパッと発したことばが、各自のこれまでの音楽との関わり方や現状を見事に映した表現だったのには驚いた。

中でも、さっちゃんが答えてくれた「楽しさ」や「和み」といったことばは、他の参加者の心を大きく揺り動かしたと思う。と言うのは、まさに彼女自身がそれを見事に体現しているからだった。

今回の参加者は、たまたまさっちゃん以外は全員教師だった。中には音楽の専科や、銀じ郎さんのように障害児教育のスペシャリストもいた。そして、さっちゃんはダウン症だ。「でも」や「だから」は関係ない。彼女は音楽がただ好きで、音楽を心から楽しんでいて、その姿が周囲を和ませている。

さっちゃんには、幼いころから音楽に親しむ環境があり、ともに楽しむなかまがいる。だからさっちゃんは楽譜も読めるし、楽器の演奏技術も高い。

さっちゃんは、別に歯を食いしばって「でも」や「だから」を乗り越えようとしたわけではないけど、軽~くクリアしているわけだ。

教師は「ダウン症のさっちゃん」という見方をしてしまうことが多い。でも、私たちの意識の中では「さっちゃんはダウン症」なのだ。似たようなものと思われるかも知れないが、この違いは大きい。私たちは音楽を共有することで、さっちゃんの人柄や生き方に触れたので、私たちは障害のことを時々忘れてしまう。

障害のある方々と関わるとき、「福祉的」な配慮も絶対必要である。しかし、大切にしたい関係性の中で「福祉」を第一に考えている障害者なんかひとりもいない。

「楽しむは音楽の楽」「和みは和音の和」である。

まさに私が講座に名付けた「楽しいリコーダー・アンサンブル」のねらいそのものを、さっちゃんはあまりにもサラッと言ってくれた。

ありがとう。さっちゃん。

2010/05/07

5月のリコーダー講座

5月のリコーダー講座のご案内

明日 5/8(土) 14:00~
「楽しいリコーダーアンサンブル」
ぬく森の郷 学びの部屋にて

連休中に、リコーダー用の練習曲を数曲準備できた。曲はまさに演奏者の息を吹き込まれて「いのち」を得る。私は熱心な参加者の皆さんのおかげで、曲を作り続けることが出来ている。

練習曲はいろいろな練習の個別の目的のために作った曲ではあるが、単に機能的に作っているわけではない。その時々の私の想いが織り込まれている。

毎回新鮮な気持ちで楽しめるのは本当に幸せなことだ。

2010/05/05

連休の終わりはセンチメンタル

こんなにゆっくり出来たGWは久しぶりだ。細々とした用事もあったが、ほぼカレンダーどおりに休めた。それだけに連休最後の日はちょっとセンチメンタルなのだ。

この前まで立っていた建物が町から突然消えて更地になっているという光景は、郊外の町にはそれほど珍しくないが、ネット上から馴染みのブログがひとつふたつと消えていくと寂しさを感じる。

Koji君の「The Word」やムベさんの「石ころ」はよく訪れていただけに残念だ。

私は彼らとは親しい関係にあるので、ブログが閉じられてもリアルなつながりが途絶えるわけではないが、ネットを通じてしか彼らの暮らしの息づかいを感じられない方は、もっとガッカリしておられるのではないだろうか。

でも、そんなことくらい、当の御本人たちは十分考えた上で「しばらくお休み」という結論を出されたのだから、私がグダグダ言っても仕方がない。

そもそも「何の為に」という動機が一番大切だ。ブログの為に費やす時間やストレスが大きくなりすぎるとその「何の為に」がぼやけてくる。

Koji君やムベさんは真面目な方なので、「何の為に」に釣り合う中身を追い求められて、きっとあれこれ思い悩まれたのだろう。

私の場合は、半分はけっこう真面目な発信なのだが、もう半分は「こんなもん、たかがブログじゃねえか!」と遊び心でやっているので、この程度であれば、負担どころかけっこう楽しみになっている。

しかしまあ何ですなあ~(桂小枝調で)ネットの付き合いに義理も作法もないのかも知れませんけど~いろいろ考えさせられますぅ。

誰でもが簡単に書き込めるのは、表面上極めてフラット化されているようだけど、実際はそんなことはない。どんな短いコメントであっても、ことばには「その人間」が現れる。そうしたコメントを見ながらプロファイリングするのは面白い。自由と平等は共存出来ない。自由度が増すと、くだらないものは本当にくだらないということがけっこうハッキリ明らかになる。

また、私の場合はリアルなつながりの濃い人たちとのやりとりが主になるので、表現上の誤解でもめることもないし、大して気も使わないが、コメントのことばじりをとりあってもめたりするのはさびしいことである。

内容については、大いに議論していいと思う。反対意見や多様な角度からのコメントが寄せられるブログは価値が高いと思う。

でも、あんまりそういうのはないかな。

所詮、それがブログであって、それ以上でも以下でもない。

最後に、先の譬えをもう少し正確に修正して私の希望を述べれば、更地になったとしてもリニューアルオープンのための建て直し工事なのだ・・・と期待している。

2010/05/04

Salt&Uribossa なにわの「ブラジルに登場!




サザエさんの歌じゃないけど、「今日もいい天気~!」で気持ち良かった。

昨日は野菜を植え、ギターとピアノをポロンポロン。今日はヨシュア記6章を10回くらい読んで、ひたすら脱力、放心。そしてランニング。角笛の音ってどんな音かなあ。音色は?音域は?城壁一周すると。どれくらいの距離。速さは、タイムは・・・など、いつものようにあれこれいろいろ思いめぐらせる。

そうこうするうち、大阪西区靱本町にある「なにわのブラジル」こと「カイピリーニャ」でのライブの詳細決定!大阪周辺の方は是非。本格的なブラジル料理も楽しめる。

「カイピリーニャ」は知る人ぞ知るブラジル音楽ファンの集う店。小さなお店ながら、ちょっと奈良にはない感じの異空間。さて、耳の肥えたお客さん相手に、ひと味違う和ボッサで酔わせることが出来るだろうか。

正直、この数日間でちょっと重かったからだもリフレッシュ。ヒノキ花粉もそろそろ完全終結。次の杉花粉あたりまでは、調子よくいけそうだ。感謝。感謝。

   
     ♪      ♪      ♪


今回はゲストにブラジル・コンゴ帰りのイタミ―ニョを迎えてさらにパワーアップ。

〒550-0004 大阪市西区靱本町
1-15-4-1F06-6445-3886(サンバやろう!)


http://caipirinha.jpn.org/home/【こちらがお店のHP】

2010/05/02

ゴールデンライフ

ちまたでは、いわゆるゴールデンウイークということで、私もその恩恵にあずかって休む。

ただ「休み」が続くだけで単純にゴールデンだとは思わないが、久しぶりに「自分でスケジュールをやりくりできる時間」はまさにゴールデンだ。時間にゆとりがあるのは実にすばらしい。

「自由業」の友人が多い。私には私の与えられた分があるので羨むことはないが憧れはある。「キリストの奴隷」でなければ、「公務員」などという選択は絶対なかった。「キリスト教」の人には絶対わからないと思うが、私は「献身」したから「教員」をやっているのだ。

教員なので、ゴールデンウイークはカレンダー通りのお休みである。毎年、何処へも行かない。毎週土日は予定がないことはないくらいだが、ゴールデンウイークはあえて予定を入れない。今年は日曜も休みにした。

ゴールデンウイークに「この時」とばかりにがんばる気も遊ぶ気もない。タイトなスケジュールでも日々宴会気分を満喫できるエネルギーを温存するべく、ひたすら脱力して、静かに自分自身と日常を点検する。

黄金(ゴールド)は、乳香、没薬と三点セットである。信仰者にとってはこれが鍵である。

「イエスの栄光」「イエスの人格」「イエスの死」この三つを地上で確かめる旅こそクリスマスである。12月25日のお祭りではない。

クリスチャンは右肩上がりのゴールデンライフでないとね。

2010/05/01

憂哀

鳩さま一人をルーピー呼ばわりしてはいけない。むしろ、このイカれたボンボンは戦後の平和ボケ日本の見事なシンボルではないか。国の責任は主権者たる国民にある。

アメリカも日本も「国としての責任」を問われるときが来る。地の塩たるそれぞれの国の教会の塩加減はどうであろうか。それぞれの国に立てられた見張り人(ウオッチマン)は何を見ているだろう。憂いや哀しみのない柔和さや、痛みのない喜びは偽物の匂いがする。祭司は涙をもってとりなす心を持っているだろうか。

三島は「憂国」という短編を書き、この国の行く末を見切って腹を切った。目に見える醜悪さや滑稽さと彼の残した文学の表面的ギャップの故に評価が難しいが、彼が見ていた幻は確かに現実になっていることは疑いない。

エレミヤは「哀歌」を残した。その霊的に空洞化していく国を思う嘆きは、単なるナショナリズムではない。エレミヤの嘆きと涙は私を深く慰める。腹を切ったらおしまいだ。

「主よ。ご覧ください。私は苦しみ、私のはらわたは煮え返り、私の心は私のうちで転倒しています。私が逆らい続けたからです。外では剣が子を奪い、家の中は死のようです」(哀歌1:20)
この表現などは、「憂国」の切腹の描写よりもずっと単純だがもっと深い。

「口をちりにつけよ。もしや希望があるかもしれない」(哀歌3:29)
それでもエレミヤは絶望しない。彼は贖いを待っているからだ。

本当の合い言葉は「友愛」ではなく「憂哀」だ。