2010/01/25

空気の研究①

私が室生に居を構えて間もない頃、すぐそばにゴミ焼却施設が出来るという話になり、自治会でもそれに向けていろいろな話し合いが進められていた。ある程度の方向性が決まった段階で住民への説明会があった。そこに私も参加した。

自治会の人たちの説明の後、意見交流があり、私は住民としての最低限のことを確認したところ、役員が怒りと不満をぶちまけて私に反論し始めたのである。私は「こいつは正気か」と思いながら、驚き呆れてその馬鹿話を聞いていた。

要するに彼らは「忌憚なきご意見をお願いします」と言いながら、自分たちの提案をすんなり受け入れ、その労をねぎらって欲しかっただけなのだ。

この自治会に関わらず、一応かたちだけの民主的手続きをとりつつも、結局執行部が好き勝手にやって利権を独占したり、小数の事にあたる人間だけが意味不明のやり甲斐を感じて自己完結している例はそこかしこにあるのだ。

よどんだ空気は、彼らの汗くささや体臭とひとつになり生臭い風となる。そのような風には決していい音楽はのっからないものだ。

好き勝手にやってくれている分には何でも結構だが、周囲にそれを押しつけるような空気を感じると辟易とさせられる。

「良いことをやっているんだ」という自己満足はいい。「自分が良いことをしていることを認めてほしい」という気持ちもわからないでもないし、ある程度は我慢できる。しかし、「みんなも自分と同じ価値観を共有し、同じようにするのが正しいのだ」と、押しつけがましく上から目線で近づいて来ると、逃げ出したくなる。

組織や共同体が大きくなると、当然のことながら公約数は少なくなり、それぞれの群れに特有の窮屈さを押しつける空気が漂うようになる。

仕事をする上で割り切った大人の協力が出来ない連中に限って、親睦を深めて酒を飲んだり、旅行に行ったりすることを妙に重んじるものだ。それ自体は悪いことだとは思わないし、私も幹事がまわってくればきちんと責任は全うするが、オフタイムの交流の中でオンタイムの空気感を確認しようなどとはさらさら思っていない。

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