2010/01/14

徘徊ネタ

今年は毎日違う学校に出勤している。「大変でしょう」「落ち着かないでしょう」と行く先々でよく言われる。これまで(事務局長時代)はもっと大変だったので、それに比べれば大したことはないし、元々あまり落ち着かないタイプなので、落ち着かない状況には余裕で対応できる。いつもそうだが、何をやらされてもそれなりに楽しませてもらっている。つまらないようなことがけっこう面白く、面白そうなことが案外つまらない。

月曜日は4年生、火曜日は5年生、木曜日は3年生のクラスだが、子どもにとって、この1~2年の生活年齢の違いは大きい。今日は木曜日。元気いっぱいの3年生。ギャングエイジなどと言われるように、3年生くらいのテンションは一番高い。

今日も、教室へ入って一番後ろにある席に座ると、数人の子たちが近寄って来て「今日は給食一緒に食べてや」と声をかけてくれる。皆ににこにこしてうなずいているとエライことになる。「去年から予約してんで」「さっき先生、私のとこ来るって言ったやんか」となる。一応予約を最優先するのが筋なので、そう説明すると納得してくれた。そんなやりとりの間、私のひざの上ではひとりの子が座って本を読んでいる。何人かは20分遊びにも「鬼ごっこをしよう」と職員室までやって来る。

週に1回しか来ない変なおっさんを何でこれほど慕ってくれるのかよくわからないが、私にとっても、子どもと遊んでいるのは、大人の相手をするよりはいくらか健やかなのだ。子どもは他の先生とは違うオーラを出しているおっさんを面白がっているだけだが、私もキチンと相手をしてやらないと、子どももすぐに飽きてしまう。そういうものだ。

誰もが4年生になり、5年生になり、6年生になり、中学生になり、高校生になり、大学生になり、大人になっていく。

それぞれの発達段階でやっておかないといけない経験というのはある。

先日5年生のクラスで、給食の時間に聞いてみた。
正月に、たこあげをした人、こままわしをした人、福笑いをした人、はねつきをした人、すごろくをした人、かるたをした人、がそれぞれ何人いるかということで挙手してもらった。

「たこあげ」と「こままわし」が1で、残りはゼロ。ちなみに「たこあげ」をした子と「こままわし」をした子は同じだった。

そして、すべての子どもがお年玉をもらっており、ほとんどの子どもが初詣に行っていた。

別に昔の正月の遊びをすることが素晴らしいというわけではないが、今、たこあげをしない子どもは、人生で一度もたこあげをしたことがない人間になる可能性があるということだ。どうでもよさそうだが、こういうことが決定的に大きいのだ。

小学校では、そういう子どもの当たり前の体験のすそ野を広げてやる働きかけが必要だと考えている。

マトモな大人にキチンと関わってもらえなかった子どもは、動物園生まれの獣のように、野生の本能を奪われ、自立する力を失ってしまう。餌の採り方もわからず、檻の不自然さにも気づかずに育つのだろう。

私は子どもと関わるとき、「生きものとしてのヒト」にとっての「快」や「不快」を大切にする。「気持ちいいこと」と「楽しいこと」を正しく追求すれば、良心を羅針盤にした正常な反応が出来る。かけひきのマニュアルとしてではなく、人に迷惑をかけたら「ごめんなさい」よくしてもらったら「ありがとう」と自然に言えるようになる。

私は学校という檻の中で子どもの「野生」を育みたい。虚勢された犬みたいなガキやファーストフード店の店員みたいな小娘は増やしたくない。

2 件のコメント:

  1. 今日は研修で私の大好きな老Drが来てくださった。
    「構造化だ、視覚化だ、と目先の効果をねらってやるのは教育ではないでしょう。人を育てているのだから。もちろん、構造化や視覚化が全て間違いと全否定しているのではないですよ。」
    と話してくださった。要するに「生きものとしてのヒト」として向き合わずして、子どもに何をやろうとするのか、と問いかけてくださったわけだ。
    そう考えると、いろいろ楽しくなってくる。

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  2. 今日はクソ寒い中、外で七輪を使って餅を焼きました。

    私の働きかけじゃないですよ。餅ろん(勿論)銀じ郎さんのブログを読んだわけでもない。

    3年生の昔のくらしの学習の発展だそうです。

    誰も「寒い」と文句を言う子はいませんでした。

    帰りの会のとき、教室には子どもたちのからだに染みついた炭の香りが漂っていました。

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