2009/10/31

岬めぐり

ちょっと理由(わけ)があって海へ。

奈良は海がないので、波の音を聞くだけで嬉しくなる。私の歌には「風」や「波」や「光」が「土」(大地)が頻繁に出てくる。人というのは、そういう神様が無償で与えてくれる恵みに浴して生かされているのだ。

昔から、海岸線を走るのが好きで、地図の輪郭をなぞるように時々に走り回ったものだ。

今回は伊勢志摩のふたつの岬をめぐる。安乗崎燈台、大王崎燈台は、外から眺めるだけでなく、中に入って上まで上れる。「東大」にはなかなか入れないが、こちらの「燈台」は誰でも200円出せば入れるので行ってみよう。

陸地の端っこで、暗い海を照らして、航海の安全を守る燈台は格好いい。まさに人知れず輝く「世の光」である。

安乗崎燈台は、映画「喜びも悲しみも幾年月」のロケにも使われた燈台で、通常の円筒形ではなく、四角いそのデザインが面白い。大王崎燈台は、絵描きの町「波切」に突き出た地球の丸さを体感できる絶景ポイントにある。いずれも、ひなびた感じが何とも哀愁漂って旅心をくすぐってくれる。

私も燈台みたいに、風と波の音を聴きながら、端っこでまっすぐ立っていよう。

2009/10/30

北からのさわやかな風

北見の姉妹たちがブログを開始された。

たかちゃん  http://blog.goo.ne.jp/momiji1948

のりちゃん  http://blog.goo.ne.jp/senachan_2009

日常の何でもない発信の中にキラっと信仰が光る。これが大事。

勿論ネット上で証をすることだけがすべてではないが、自分の体験(受けた恵み)を言語化すること、また、誰かと分かち合うことはすばらしいことだ。

未だ受け身のみの方は、彼女たちに刺激されて、是非自らも情報の発信者となろう。

2009/10/28

飽くなきギターサウンドの探求

高価なギターだからいい音が鳴るわけじゃない。勿論高価なギターは材も良く、作りの精度も高い場合が多い。しかし、値段と音色は必ずしも比例しないし、同じギターでも弾き方や音づくりによって、実際ギターから出てくる音はずいぶん変わる。そこに面白みがあり、資金不足のSalt&Uribossaが入り込む余地が生まれる。

ギターは年月を経て、弾き手や環境によって変化していく。トップが杉材(シダー)のものは作られた時が最も良い音で、年を重ねるごとに響きは鈍くなるが、松材(スプルース)のものは数十年の年月を経て一番良い音になると言う。もともとギターの材にするために選ばれ、それを何十年も乾燥させたものが、ギターのかたちになって数十年。

しかし、ただ放っておけばいいというわけではなく、楽器として演奏されることでボディが振動し、長年の間にヤニなどの不純物が少しずつ抜けていくのである。こうして、名器はギター制作家だけではなく、演奏家との共同作業によって息が吹き込まれるのである。

ネックのかたちや厚みや木の質感などの触った感じ、音の立ち上がりや残響の長さといった音色の細かいニュアンス、低音と高音のバランス、楽器全体の重さ、全体的な弾きやすさや心地よさそしてデザインは、1本1本すべて違うということになる。

特にボサノヴァに適したギターは、本格的なクラシックギターのように、必ずしも音の響きが深いものである必要はない。響きすぎるよりは、音の立ち上がりが早く、残響は短めの「キレ」のあるもの方が良いのだ。だから、稀少材を使った総単板でないと駄目というようえわけではない。むしろ、渇ききった合板などが響く何とも言えない音色が、妙な味わいを醸し出したりするのである。

私が最近よく使っているのは、S.Yairiの矢入貞夫氏の手工品で1967年製のもの。これに剥き出しのピックアップをテープで貼り付けている。

そして、何より大切なことは、その楽器から産み出される音楽の質である。良い音でくだらない音楽を奏でることは一番情けない。まず作りたい音楽があって、それから楽器の品定めという順番が正しい。そして出会ったギターと遊びながら、自分の音を作っていく。

ただのギターコレクターとすぐれたミュージシャンは違う。そんなプライドをもって、ミュージシャンとしてのギター選びと音づくりにこだわりたい。自分にジャストフィットする1本と出会うまで、まだまだ飽くなき探求は続きそうだ。

2009/10/27

SAORIマルシェ

SAORIマルシェ2009に参加。ここ数年のあいだにいろんなかたちで物凄い数の方々と関わって来て、本当にいい出逢いをさせてもらったんだなあ・・・としみじみ。正直、私は演奏のこと以外はあんまり頭になかったのだが、改めて音楽以外、音楽以上の感動をたくさんいただいた気がする。

気がつけば、さをり織の関係者や八尾市の福祉施設の関係者、そして何より障害のあるなかまたちと顔なじみになって、みんなが笑顔で親しみをこめて声をかけてくれる。「ひまわり作業所」のみなさんとは2年ぶりの再会だったが、「ひまわりのうた」はもちろん、私のこともよく覚えていてくれて、リハーサルの時から、雰囲気はものすごく良かった。声の出にくい方も、ぴょんぴょん飛び跳ねたり、ことばの出にくい方も、声を出してメロディを追ってくださっていた。何より一人ひとりの歌う表情がとてもすばらしかった。

今日の為に準備したMomoちゃんのピアノアレンジも最高、そして、全体の進行や、音響も良かったので、かなり満足度の高いイベントとなった。

今日はどうせ切りっぱなしになるので、携帯を持たずに出かけたのだが、帰宅して携帯をチェックすると、Y.B.M氏から第2子誕生の知らせが入っていた。3560グラムの女の子!おめでとう!!

2009/10/26

図書館で考えた

最近はほとんど時間がないのでとんと回数が減ったが、図書館大好き人間の私は、しばしば桜井、天理、田原本、橿原、そして名張などの図書館に出没する。

昨日も閉館ギリギリの時間に滑り込んで10冊の本とCDを返却。あらたにCDを2枚借りた。

貸し出し手続きをしながら、私が図書館を好む理由を考えてみた。

まず、図書館は静かなのがいい。私はBGMを聴き流せない体質なので、気に入らない音がかかっているとかなり気が散り、気分が悪くなるのだ。そして、全く人の話を聞かなくてもいいし、喋らなくていい。私の仕事の大部分は人の話を聞いたり、意味のあることをきちんと喋ったりすることなので、コミュニケーションが完全に絶縁させる時間を保つことは、健康のために絶対いいのだ。

さらに、図書館はお金がかからない。もちろん交通費はかかるが、その方面についでのある時以外は絶対寄らないので、余計な経費は一切かかっていない。地球にもちょっとやさしい。正確に言えばお金がかからないというのは間違いで、図書館は私も税金というかたちで資金協力している。税金を使って建てられた施設は、ちゃんと利用してその内容をチェックしなければ。源泉徴収されている者としては、最大限利用して権利を行使しようと思うのだ。

ついでに本がある。当たり前だ。しかし、あんなたくさん本があるのに、私の借りたい本はないときが多い。それでも、ほとんど自分には興味のない分野の本があふれているのも悪くない。私はいつも一番読みたい本とともに、どうでもよさそうな大して読みたくない本を借りる。私の場合は公私ともにアウトプットが激しいので、本に限らず、常に一定以上のインプットは必要だ。現代は、本なんか一切読まなくても、グーグルで何でも検索できる世の中だが、本から得る情報はまた質が異なる気がする。私は本という媒体が好きなのだ。装幀や紙の質や色合い、フォントやレイアウトなど、本には細かい意匠が詰まっている。料理が栄養の固まりではないように、良い本は、単なる情報の固まりではない。情報を得たくなるように巧みに皿に盛りつけているのだ。

私は単純に読書を勧めはしない。「書を捨て町に出よう!」というタイプだ。さらに「読書なんて他人の頭でモノを考えてもらうことだ」とも言えなくもない。

それでもなお本を読むことによって得られるものは、失うものより遥かに多い。たくさん読むことより、良書を選んで深く読むことが大事だ。内容を記憶することより、その本をきっかけに自分で考えることが大事だ。情報をどのように束ね、繋ぎ、自分の中へ落とし込むか。そこに鍵がある。

そして、最も重要な本はバイブルである。聖書は世界中のあらゆる本にある情報にまさる情報である。図書館にも聖書は置いてあるが、本当は聖書の中に、世界中の図書館も世界さえもが収まってしまう。多くの良書を本当に読みこなす力があれば、聖書がそれらとは全く別次元のものであることは必ずわかる。「信じるか、信じないか」という崖っぷちに立つ程度までは行き着くことになっている。

2009/10/25

Next one is my best!

27日(火)は、イトーヨーカドーの「SAORIマルシェ」というイベントにOz-May名義で出演する。本来は平日の参加はあり得ないのだが、徘徊先が社会見学のため私は一日失業。(規定では、指導内容や旅費の関係で指導教官は同行しないことになっている)

最初に出演オファーが来て、念のためスケジュールを確認していると、見事にその日がバッチリ空いていた。そんなわけで、誰にも迷惑をかけず仕事を休める条件が整っている。それも土曜日の代休日にも私は他校で仕事をしていたので、年休ではなく振休扱いでの休暇。名目は疲労回復なのだが、私は全然疲れていないので、楽しく元気に演奏しようと思う。

リコーダー講座から生まれた音楽実験ユニットOz-Mayも、この半年の間にいろんなチャンスを与えてもらっている。これは、Momoちゃんも私も予想外のこと。

すーちゃんとのユニットSalt&Vinegarが先にあったが、お月見ライブの依頼が来たので、合体コラボTetraを正式に結成。(5月には、奈良県庁前でも3人での演奏もあったが、あの時はまだ今のようなかたちではなかった)

「こんなに面白くていいのかな」と思うくらい、「これでもか」とチャンスがやってくる。10月は3回のライブ。しかも全部違うかたち、違うプログラムでの演奏だ。ただその日に出演するだけでなく、その為に練習したり、曲を準備したりするモチベーションになるのがいい。

生きていることは、基本的に面白い。毎日が面白いので創作のネタは尽きない。あの事もこの事も音にならないかなと思う。技術を維持し高めるためには努力も必要。活動を続けるためには時間が必要。時間は工夫して産み出すもの。「忙しい」と「しんどい」は禁句。

ひたすら楽しく、さらに良いものを目指そう。Next one is my best !・・・と常に言えたらいいなあ。

とき 10月27日(火) 10:30~19:00
ところ アリオ八尾・イトーヨーカドー1Fレッドコート(近鉄大阪線八尾駅近く徒歩5分)
内容 音楽、さをり織体験、作品展示・販売 
Oz-Mayの出演は、13:00~ (40分程度)

音楽の力

土曜は出演者、日曜日は参加者として、ふたつのイベントと関わった。ふたつともしっかりしたテーマで熱意をもって運営されていた。いずれも音楽のみのイベントではないが、音楽がメイン。

土曜日のイベントでは、自分の現時点での力量と今後の可能性を再認識し、改めて「音楽の持っている限りない力」を感じた。

「音楽の力」が正しく共有されるためには4つの要素がある。

①楽曲がすぐれていること。
②演奏者が楽曲の良さを十分引き出して演奏すること。
③PAが楽曲と演奏にふさわしいセッティングで音を作ること。
④聴き手が期待と静けさをもって演奏される楽曲を受け止めてくれること。

この4つがすべてそろって最高に気持ちのいい時間が流れるということは、実はそれほど多くはない。

2009/10/23

明日、明後日のイベント案内

明日は名古屋で演奏する。名古屋を拠点に活躍するバンド「プライナス」の川名君が参画する「芸術・福祉・食育」をテーマにしたイベントへの出演。

名称  あいうえオノマトペ
テーマ 芸術・福祉・食育
とき  10月24日(土) 11:00~17:00
ところ 日本聖公会マタイ教会(名古屋市北区平安1-7-20)
費用  前売1500円 当日2000円(500円分の食券付)

一人での演奏は久しぶり。プライナスや彼らのなかまと会うのも楽しみだ。

http://onomatopee.jp/【あいうえオノマトペ広報サイト】
http://prinus.net/【プライナスオフィシャルサイト】

♪   ♪   ♪   ♪   ♪   ♪   ♪   ♪ 

明後日は、仕事で「沢知恵(さわともえ)さんのピアノ弾き語りコンサート」が楽しみだ。以前、同イベントでの姜尚中氏の記念講演についてはご紹介したが、毎年ゲストの講演やパフォーマンスは非常に内容が濃い。

しかし、「ゲスト呼んでおしまい」ではなく、夜間中学が発信の主体となって、きちんとテーマをもって運営されているのがすばらしい。是非、夜間中学生による作文発表や詩の朗読を聴き、展示に触れていただきたい。

名称  てんりのやかんちゅうがく・第13回文化祭
テーマ  ~わかい人らにはつたえたい~せんそうはぜったいにいらんよ
とき  10月25日(日)13:30~16:00
ところ 天理市立丹波市小学校体育館
費用  入場無料 

いずれも、興味のある方はSaltまでご連絡を。24日は200名、25日は500名程度のキャパがあるので、いきなり参加もたぶん大丈夫。

http://www.comoesta.co.jp/【沢知恵オフィシャルサイト】
http://listen.jp/store/artist_1006086.htm【沢知恵ダウンロードサイト】

「おはよう・ボンジュール・ハロー」で始まる朝

金曜日の行き先は、私が講師時代に勤め始めた懐かしい学校。校長先生は元空手家で、全く管理する気のない管理職。常に子どもをおもしろがり、教育を楽しんでいる人。他にも馴染みの先生たちもたくさんいて、現場は大変なんだけど、その大変さのわりには、なぜかそんなに辛さを感じない不思議な学校。

実は、この学校では、毎朝Salt作の「おはよう・ボンジュール・ハロー」が流れる。子どもたちの明るいざわめきが混じって、校舎や運動場に音楽が響く。なんだかとってもいい感じ。「おはボン」をBGMに、「おはよう」の挨拶を交わす。自分が作ったとは思えないほど爽やかな曲に思える。

現在いろんなところで使ってもらっているこの「おはボン」CDは、最初に録音したの丸山祐一郎プロデュースのものではなく、4年前に再録音したMamu&Salt名義のものだが、さらに2テイクはレコーディングしたいと思っている。ひとつは、Salt&Uribossaのボサノヴァ・バージョンで・・・・これはUribossa氏とのユニット結成のきっかけになった記念のアレンジでもある。もうひとつは、子どもたちの歌声で・・・・笛吹きの野田さんがくれた「この曲は子どもたちの声で歌わさなあかん」というアドバイスは、そんな気持ちを後押ししている。

「おはボン」が出来て今年で9年になるが、本当にこの曲のおかげでいろんな出逢いがあり、数々の忘れられない思い出をもらった。

この曲を公に初披露した子どもたちのステージでは、ゲストで「ウルル」を迎えた。そう言えばあの日、助っ人で押尾コータローが参加していた。彼もその頃は全く無名だった。

私の場合は今後も有名になる予定も意欲もないが、この「おはボン」に関しては、もっと多くの人たちに届けたいと密かに願っている。作った当初はそんなに愛着もなかったが、最近改めて、この曲が紡いでくれたドラマの豊かさに感動している。常にNext OneこそNo1だと信じている私は、演歌歌手の十八番のように歌い続けるなんてことはないが、ずっと大事にしていきたい曲ではある。子どもたちの歌声で、NHKの「みんなのうた」に取り上げてもらいたい。

「おはボン」は出逢いの曲。私と見知らぬあなたとの間の合い言葉なのだ。

甦ったイエスが、最初に語られたことば、それが「おはよう」だ。そう。「おはよう」は復活のあいさつ。でも、あえてヘブル語のシャロームは使っていない。このあたりがSaltの塩加減。私はいわゆる聖歌、賛美歌は苦手なのだ。

2009/10/22

45分のドラマ

小学校では、頻度や程度の差はあっても、毎年、教科やテーマを決めて授業研究を行っている。代表の教師が授業を提供し、それについて全職員が感想を述べ合ったり、専門家の指導を受けたりするのである。

一般的には外部に非公開で校内だけで行われるが、市町村、都府県の教育委員会や文部科学省の指定を受けて、公開される場合もある。公開の規模が大きくなると、余計な雑務も増えるが、そこそこの予算がつき、学校の教育環境全体を嫌でも見直さざるを得ないので、カンフル剤的な刺激にはなる。

この「授業研究」の質が、実はその学校の「子どもたちの学びの質」と見事にリンクしている。もちろん、授業を作るのは各クラスの子どもたちと指導する担任教師だが、学校全体でレベルアップしていくということは事実としてある。

努力や探求がなくても、授業は時間割とともに流れてはいくが、気合いを入れ、魂をこめれば、授業の45分は驚くべきドラマを生む。優れた授業実践によって子どもは磨けば、教室は宝石箱のように輝くが、放っておけば瓦礫の山と化す。私自身も、子どもたちとともに学ぶ45分の中で大いに磨かれた気がする。

私の所属校の校内研修が変わりつつある。これは非常に画期的なことだと喜んでいる。私自身これまで相当退屈していた時間がけっこう面白いものになってきた。その方法を紹介したいと思う。

授業の参観者は、自分が担当する子ども2人だけを45分間集中して観察し続ける。その子が挙手して発表したことを記録するだけではなく、細かい表情の変化やつぶやきを、事実に基づいて時系列でメモしていく。その子がどんな様子だったのか、どんな気持ちだったのか、どこで学びが成立し、どこで途切れたのか。自分の考えをどんな風に伝え、友達の考えをどんな風に聴いたのか。どんな情報のやりもらいをし、すりあわせをして、何をつかみ、45分の中でどのように変容したのか。その事実を元に、参観者全員が必ず発言するというものだ。

こうすると、指導者の授業の上手下手という技術に関連したことが、議論の中心になることはなくなる。勿論、指導者の動きや発問、具体的な支援の方法についても述べられるが、あくまでも「子どもの学び」が中心に語られるので、たとえ失敗が明らかになっても、指導者が無駄に傷つけられるということがなくてすむ。

これまでの一般的な研究協議では、発言力のある人がその授業について一定の評価をしてしまうと、それと大きくはずれた意見は言いにくくなってしまうものだ。職員同士が互いの過去の経験や人間関係に気を使いながら発言するということが多い。そんなわけで、一言も発言しない人もいれば、何度も長く喋る人もいる。これは、どんな職場の会議でも同じだろう。

一般に教員というのは、それぞれにそこそこプライドも高く、まずまずの気遣いの出来る人たちなので、あからさまにどぎつい発言することはほとんどない。特に身内でやる研修会ではそうである。その代わり、失敗や問題点の原因を探求するとなると、不必要な遠慮やねぎらいで本質がぶれてしまうことが多い。

しかし、一人が子どもふたりについての45分を語り出すと、そこにあふれるのは、子どもについての事実である。話が途切れることはなく、自分以外の全ての発言が自分の気づけなかった細かい情報になるので、ものすごい情報の質と量になる。個人に向けられた教師のまなざしは、概ね善意とやさしさに支えられているので、同じ事実でも肯定的な表現で授業のドラマの細部が浮かびあがってくるのである。

良い授業を経験し、子どもの笑顔が輝くと、小学校に勤められて本当に良かったと思う。

少し前に、NHKが取り上げた「10歳の壁」という教育問題に触れた。もう少し前に村上春樹氏の「壁と卵」のメタファーについてもコメントした。

壁というのは、壁の両側にある「世界」を隔てるものである。両側に「世界」が無ければ壁の存在に意味はない。

壁の両側の「世界」は本来一続きであるべきものが何らかに理由によって隔てられているのか。それぞれの「世界」の異質さのゆえに、そこに壁という境界線を作らざるを得ないのか。

壁の向こう側に何があり、壁のこちら側に何があるのか。また、壁を構成する要素は何なのか。壁を構成するのは硬くて四角いブロックではなく、もろくて丸い卵ではないのかという問題にも、もう少し踏み込んで考える必要がある。

「10歳の壁」という場合、その壁は誰が何のために作り、その向こう側とこちら側に何があるのか。また壁の存在を語る大人は、壁のどちら側にいて、それをどう見ているのか。そういうことをこそ真摯に追求し、明らかにする必要があるのではないか。

最初にこのことを言い出した者は、いったい何人の10歳のどんな事実を取材したのだろう。10歳の事実に関しては、私は少なからぬ情報を持っている者として問いたい。

少なくとも、「10歳の壁」は、子どもが自らの行く手を塞ぐために、自ら積み上げた壁ではない。はじめからそんな壁はあると思う人にしかないのかも知れないし、簡単な回り道や抜け穴によって回避出来るかも知れない。

ある種の偏った価値観をもったおせっかいな連中が、やれ「ゆとりが必要だ」「学力が低下した」といってはから騒ぎしているだけだという気がしてならないのである。

2009/10/21

Saltの反哲学的断章② 信仰の双方向性

日本語の「信仰」ということばは、ギリシャ語「pistis(ピスティス)」の訳語である。

日本語の「信仰」ということばには、信じる対象が何かということより、信じる「私」の心の有り様の問題としてとらえられがちなニュアンスが含まれている。

岩波国語辞典によると、信仰とは、「神・仏など、ある神聖なものを(またはあるものを絶対視して)信じたっとぶこと。そのかたく信じる心。」と書かれている。

「鰯の頭も信心から」という表現もあるが、日本の信仰の世界では、信じる対象が何かということ以上に、大いなる力や、崇高なるものに対する畏敬の念をもってへりくだる姿勢が大事だとなるのである。

ところが、ギリシャ語の「pistis(ピスティス)」は、ずいぶんニュアンスが違う。「信仰」と訳されたことばの本来的な意味には、人が神に対して抱く一方的な思いだけではなく、人間に対する思いや態度も含まれているのだ。つまり「人から神へ」だけでなく、「神から人へ」という、双方向性のある表現なのである。

私は常々、メッセージの中でも、「宗教というのは、人から神への上向きのベクトルであり、聖書が語る信仰とは、神から人への下向きのベクトル、すなわち啓示と恩寵である」という言い方をしてきた。

さらに踏み込んで言えば、まず神からの啓示と恩寵があって、それに応答することによって成立する関係性が、信仰の醍醐味であると言える。

種は上から蒔かれるが、芽は上に向かって生えて、時間をかけて成長し、やがてその時が来れば実を結ぶのである。それは「徳」を積むことにはよらない。人の修行や信心の力ではない。それは種に秘められたいのちの力であり、そのいのちが育つために注がれる雨や光は、まさしく天の恩寵であるから。

聖書全体の各章、各節の整合を追求していくときに、どうにも腑に落ちない、よくわからない箇所というのがいくつもある。私はヘブル語やギリシャ語にそれほど通じているわけではないので、当初は、その道の専門家が苦心して訳されたものに公に意見するというのは、違うように思えたのだが、深く調べるほどに翻訳上の重大な問題点に気づき始めた。

個々の原語が持つ本来的な意味を考えれば、翻訳のプロセスで、翻訳者が自分の理解の及ばぬところを、取りあえず文章としての体裁を整えるために、恣意的解釈が施された箇所が何カ所もあることがわかってきた。そのことによって、結果として、こことば本来の真意を歪め、本質を覆い隠してしまっている。そのような箇所には、神のみこころではなく、翻訳者の貧困な神学が反映されている。

今回取り上げたこの「pistis(ピスティス)」もそのひとつである。この「信仰」ということばを狭義で理解していることが、日本のキリスト者の信仰を台無しにしているのだから、問題は重大である。つまり、信仰を「神中心ではなく人中心」にし、「上から下へを下から上」にし、「いのちの関係性ではなく教条と形式に縛っている」のである。その結果、神と人との唯一の仲介者である人としてイエスを差し置いて、恥知らずの仲介者が次から次へと登場することになるのだ。

ローマ3:22、ガラテヤ2:16,20、ピリピ3:9などの箇所は、本来の原語では、「ピスティス・クリストゥ(キリストの信仰)」である。ところが、「キリストを信じる信仰」や「キリストに対する信仰」という日本語訳をつけることで、人中心の神へ向かうベクトルへとその主意を著しく歪めてしまっている。

「信仰の創始者であり、完成者は人としてのイエス」であって、この神の御子イエスの人としての信仰によって、私たちははじめて神に近づくことができるのだと疑いの余地無くはっきり示されている。

イエスの信仰「pistis(ピスティス)」は、地上におけるイエスの完全な生涯、その「従順さ(ヒュパコエー)」として表現される。この「一人の従順によって、多くの人の不従順が赦される」とも書いてあるではないか。私に義が及ぶのは、「私の信仰」ではなく、「イエスの信仰」によるのだ。そのように信じることのみが「私の信仰の分」であるとわきまえるべきなのである。

パウロは「義とされる」という表現をよく使う。人を義とする主体は神であり、それは神のピスティス(真実)において、イエスのピスティス(忠実)により具現化される。その提示され完了した救いをただ受け取るのが私たちのピスティス(信仰)だと言う表現が正しい。

パウロが手紙の中で語る信仰「pistis(ピスティス)」とは、そのようなものである。もし、読み違いがあるなら、この断章の内容を踏まえてパウロの手紙を読み直せば、なるほどと納得がいくだろう。パウロの手紙を読んで、自分の信仰のいたらなさを責めることはなくなり、このようなイエスの偉大な信仰の結果を享受する者とされたことを感謝せずにはいられなくなるはずである。

2009/10/20

Saltの反哲学的断章① 違いがわかるということ

ある具体的な「もの」や「人」に関する情報は、確かにある「もの」や「人」の状態や特徴を説明している。それは表現された事実であり、すでに表現された時点で、内容は微妙に変質し、脚色されている。発信者の意図によって 割愛され、装飾されている。

例えば一つの「りんご」がある。何処で獲れたどんな品種なのか、赤いのか、青いのか、甘いのか、酸っぱいのか、その大きさは?重さは?

これらを細かく知ると、実際に「りんご」を見ていなくても、見た気分になれる。食べなくてもちょっと食べた気分になれる。かつて食べた別の「りんご」の記憶やその他の情報との比較で、その未知の「りんご」を想像する。

ある「人」についても同じ。実際にその「人」に会わなくても、その「人」の情報を通して「人」に会った気分になれる。一度や二度ばかり実際に会ってわずかに触れ合うよりは、その「人」の情報により多く触れた方が、むしろその「人」の本質に迫れるということもある。情報は真実も伝えれば、嘘もつく。

発信者の意図が受信者にそのまま受け止められることはまずない。発信者が歪めた事実は、受信者の思い込みや能力によってさらに歪められる。

一方で、情報はひとたび発信されたなら、カプセル化する。つまり事実を変質させたまま変質しないものになる。実際の「りんご」は腐るが、「りんご」の情報は腐らない。「りんご」のパンフレットは、不自然なぐらい美しく、いつも艶々した「りんご」を伝えているが、店頭の「りんご」は日に日にどんどん干からびていく。

本物の「人」は老い衰えて死んでいくが、「人」についての情報は無表情。リアルなものは時々刻々変化していく。

つまり、事実とは、不可逆な時間の中で変化していく、とらえどころの難しいものを言う。さらにその奥に真実という秘められた意味がある。「真実」とは、事実の断片を正しく整合させたときに、浮き上がるひとつの意味や価値のことである。

「真実」は、簡単には見えない。そして、事実の複雑さは、それを説明する情報を膨れあがらせる。

最近のメディアを通して発信される情報は、質はともかく、量が多すぎ、スピードが速すぎる。つまり、準備された感覚機能を麻痺させるほどの強い刺激が絶え間なく続いていくのである。こういう情報の洪水に日常的に晒されていると、知らないうちに、どうしようもなく鈍感になっていくしかない。

繊細な感覚を持つことが出来ず、物事の細かい段階や小さな違いがわきあらなくなり、良い物と悪い物を判断する正しい基準を持てなくなる。

気がつかないうちに、ただ単純に繰り返される刺激の強いものだけに反応するように条件付けられていくのである。

これを防ぐ為にはどうすればいいのだろうか。

ひとつは、バーチャルな情報の入力に制限をかける為に、何処かに意識的に防波堤を設けることだ。

もうひとつは、バーチャルな刺激を上回る、自然とのふれあいや人間関係によるリアルな体験を積むことである。

世の中には良い物と悪い物が、さまざまなレベルや有り様で混在している。だからこそ、この世界は素晴らしく、そして、面白い。

「本当に良いもの」を味わうには、時間をかけて観察し、違いを慎重に見極め、努力して獲得するからこそ、価値があるのだ。

情報を選択すること、事実そのものに出逢うこと、ともに大切なことだ。要するにバランスと見分ける力である。

この世から目障りな悪いものを消してしまえば、確かに良いものしか存在しなくなる。しかし、自分で選ばずに何を手にとっても良いものだとしたら、良いも悪いもなくなってしまう。

だからこそ、神はこの世にあえて醜悪な忌むべきものを蒔かれたのである。

単純に良いものを受け入れ、悪いものを拒むだけでなく、良いものを細かくかぎわけ、良いものどうしの中にある多様で微妙な違いを味わいたいものである。

そこに豊かさがあり、選別した事実のつながりの中に、時として見るべき真実を垣間見ることを許される。

2009/10/19

オラは信じちまっただ

既に報じられているように「帰って来たヨッパライ」「イムジン河」「あのすばらしい愛をもう一度」など、70年代に一世を風靡したフォーククルセダーズのメンバー加藤和彦氏が自殺。今日は葬儀が行われたようだ。ミュージシャンの自殺だけにかなりショックだったのと、様子がよくわからないので、すぐにコメントしなかったが、あれこれと、記憶が甦ってきた。

「帰って来たヨッパライ」の遊び心は、当時まだガキだった私にも十分伝わっていたし、最近も在日関連のフェスティバルでは、「イムジン河」を歌ったこともある。「イムジン河」の放送禁止に抗議してコードを逆につないで作られたという「悲しくてやりきれない」は隠れた名曲。

いろんな情報が出て来ているが、親しい仲間には「もうやりたいことがなくなった」「自分が思ったような音楽が作れなくなった」などと、似たような内容の手紙を書き送っていたという。

加藤氏くらいの功績があれば、この先何も作らなくても過去の名声に浮かんでいられたはずだが、残したことばを見ると、本気でいいものを作り続けたいと願っていたんだなと感じる。鬱もわずらっていたらしいが、その道の専門家でもあったかつての相棒、北山修氏(精神科医)も、彼の絶望を理解し、癒すことは出来なかったのだろう。

私にもし信仰がなければ、たとえ自殺しなくても、加藤氏の年齢まで生き延びることはなかったと思う。

ご冥福を祈りたい。



私は信仰をいただた分、あなたのためにも良い音楽を作ります。

2009/10/18

ハーベストタイム

収穫の秋。

カナン教会周辺の田んぼでは一斉に稲刈りが行われていた。眩しい光の中で、刈り取られた黄金色の稲穂が輝いていた。

メッセージのテーマも、ちょうど「刈り取り」のお話。前回は「ひねくれ者のための聖書講座」でヤコブの例に触れたが、今日は「ダビデの生涯と詩編」のシリーズから、バテシェバとの不倫後について。

人は蒔いた種の実を刈り取る。10月の2回のメッセージを準備しながら、私自身も改めて神の計画の深さと繊細さにおののき、また感謝した。

私たちは、自分の罪の結果を刈り取るだけでなく、私が蒔かなかった種の素晴らしい収穫を同時に得る。地に落ちた一粒の麦の収穫である。

10月のリコーダー講座を終えて

創作実験工房「童」において、10月のリコーダー講座を実施。

とにかく、「楽(らく)に楽しく」を心がけて進めて来たが、ピアノ伴奏のMomoちゃんを迎えて半年。9月には野田さん&赤星さんの登場もあって、そろそろバージョンアップしようと、これまでほとんど語らなかった技術に関することも少しレクチャーした。①音を鳴らすための息の量と圧力②くちびるのかたちとタンギング③演奏上の留意点など。ちょっと、それらしいユーロピアンな講座になった。

従来のオリジナルテキストに加え、ハイドンのセレナーデやバッハのメヌエットなどのクラックナンバーも取り入れてみたが、私も凄く新鮮で、改めてクラシックの名曲の素晴らしさを感じた。

このリコーダー講座、最初は様子を見ながら2~3回で終了するつもりだったが、好評のため既に10回を数え、これからもまだしばらくは続きそうな感じだ。

遠方から続けて来てくださる方の期待に応えられるように、さらに面白いものを準備しようと思う。