2010/01/31

無縁死

NHKで「無縁死~3万2千人の衝撃」という特集をやっていた。血縁、地縁、社縁の絆が弱くなり、無縁社会が加速化している。

生きているときも存在感がなく、死んでいることにさえ気づいてもらえない人がいる。誰にも泣いても葬ってももらえず、実の子どもが遺骨の引き取りさえ拒否するケースも少なくない。

もっとも親密であるはずの家族でさえそうであるなら、集合住宅のたまたまの隣人や利害でつながった仕事上の同僚や顧客との関係性には、身を委ねて寄りかかれるわけもなく、それが安心感を感じられる温かいものであろうはずもない。

そんな中で一人寂しく死んでいく人の周辺整理をする特殊清掃を請け負うNPOが急増していると言う。

そんな無縁死を恐れて生きているうちにそうした団体に会費を納め契約書にサインをするとき、人は何を思うのだろう。

「いのち」を連呼した首相の空転演説の挿絵としては、あまりに皮肉が効きすぎている。

こうした絆や結束が弱まった世界に人は耐えきれない。まともな家族やなかまを持たなかった人たちは、そうした疑似家族的で過度のコミットメントを要求する集団、すなわちヤクザや宗教団体などに所属して安心を得ようとする傾向が強くなるのだ。

2010/01/30

3月の予定変更について

まだ少し先ですが、3月の教会予定を少し変更しますのでお知りおきください。
皆さんのお越しをお待ちしています。

07 メッセージ ひねくれ者のための聖書講座⑬ 聖餐式
14 分かち合い
21 メッセージ 「ヨルダン川を渡る」(約束の地カナン③)
28 家庭礼拝(天理での礼拝はなし)

2010/01/29

異なる福音に物申す

私のさまざまな発信に触れて、「私だけは違うんだ」というようなメッセージを聴き取って、あわよくば自分もそうした「特別なフィールド」へと思う方もおられるだろうけれど、私のメッセージの核心部分はそんなところにはない。

簡単に言えば「私も含めてみんなゴミだ、何もかも糞だ」ということ。「どうしようもないんだから、そこを見極めてきちんと絶望しよう」ということである。

物の見方やスタイルではなく、信仰が核心にある。

極言すれば、その信仰は、教会に行ったり、祈ったり、聖書を読んだりすることでさえない。そういう習慣を積み重ねることが信じていることの証拠だと勘違いしているといつまでも自分に「信」を置くことになる。信仰とは、自分に絶望し、ただイエスに希望を見ることである。

イエスとともに十字架に架かった強盗のひとりは間違いなく、イエスとパラダイスで再会しただろう。それは紛れもなくイエスの約束であった。彼が教会に行き、祈り、聖書を一ページでも読んだか?No!

彼は自分に絶望し、イエスに希望を見出したのである。彼はただ自分の罪の故にこの世に断罪され、ただひとりイエスがよみがえったのである。福音のメッセージはたったそれだけではないか。

どこをどんな風に読み違えてくだらない付け足しや誤魔化しをするのか。キリスト教徒の謎の読解力と脚色には驚かされる。「異なる福音を語る者は呪われよ」とパウロが断罪したのは当然だ。

イエスの十字架が無効で復活がなかったとしたら、私は仕事なんかしないし、聖書など電話帳以下の読み物になる。家族も邪魔だしギターもつぶす。 私にとっては、それくらい十字架と復活が土台なのだ。

私が生きていることの意味は何もかもそこにあり、そこにしかない。

2010/01/27

思い出のすれ違い②

公立小中学校の教員というのは、子どもというかけがえのない存在を媒介にして、世の中のすべての階層の家族と、利害抜きに長期的につきあえる希有な職業である。

ひとつの教室の中には、商売人の子どももいれば、税理士の子どももいる。職人の子どももいれば、弁護士の子どももいる。警官の子どもと泥棒の子どもが机を並べ、消しゴムを貸したり借りたりして毎日を過ごしている。

従って、公立小中学校の教員の目の前には人間や社会に関する様々な情報が広がっているわけで、教室で出会う子どもたちというのは、そうした多種多様な情報のサンプリングなのである。

こんな「ごった煮状態」の面白い職場は他にはあまりない。特に小学校などは、人格剥き出しの子どもたちと、朝から夕方まで、勉強して遊んで飯食って掃除して、四六時中接していられるのだ。実にドラマチックかつエキサイティングな現場である。

だから、「普通」に過ごしてさえいれば、教員は最も世間知に長け、人間通になっているはずである。ところが、「教師は世間知らずだ」と言われることが多い。なぜだろうか。

それは、「学校」というところは、人間どうしが「普通に」出会うことを妨げる装置だからだ。ここに大きな問題がある。

学校が求める最大公約数的な価値への擦り合わせによって、本来もっと多様で豊かなはずの出逢いが均質化され、「のっぺらぼう」なものになる。過去の思い出による立ち位置やコミットメントの深さの違いで、「すれ違い」や「ねじれ」が起こり、互いに深く心が通じ合うということが難しい。

私はそうした「学校的価値」と、己の「良き思い出」を容易に重ねることが出来るおめでたい幼稚さがどうにも我慢ならない。そういう連中はうわべだけの付き合いでもうわべ程度しか深さのない人にとっては十分な付き合いだったりするのだ。

私はこうした装置の欠陥を観察と経験から学び取って、その隙間をぬって生きてきた。私には信仰と相当過酷な状況でも生き抜くスキルがある。最悪なときに笑い飛ばせるもっと深い絶望とユーモアがある。だから、しょーもない弱音は吐かない。

鍵は「相手の思い出」の中に入り込むこと。そのドラマを擬似的に追想することである。彼らとことばを交わすためには、最大公約的な価値は捨てないと駄目だ。彼らは素数みたいなもの。1とその数以外では割り切れないのだ。彼らは彼ら自身で割るしかない。

相手に「よくなりたい」と言わせることだ。人はボロボロの相手のドラマを知り抜いた上で「よくなりたいか」となかなか問えないものである。

機嫌をとったり、安易に手助けしたりするのは、かえって相手を駄目にする。それがわかっていないうちは本質的なことは何も変わらない。

思い出のすれ違い①

今日の日本においては、ほぼすべての大人が学校という場所を通過している。その大半は戦後の9年間の義務教育をほぼ共通体験として持っている。しかし、その間に紡ぐ思い出はさまざまである。

現在、公立学校の教員になっている人たちは、学校に「良き思い出」を持っていることが多い。それに反して、荒れる子どもの親たちは、学校に「悪しき思い出」を持っていることが多い。

そういう親は懇談にも残らず、奉仕作業に参加せず、教師と見れば不信の態度をとったり、何かと言えば学校を批判したりする。そして、場合によってはモンスター化する。

現場で起こっている問題は、一昔前では想像もつかなかったほど深刻である。

教師たちが自分の「良き思い出」の中へ、そんな親子を取り込もうとしている以上、すれ違いはやむを得ない。問題を起こす親子の多くは、平常時の学校にさえ「悪しき思い出」のイメージを投影しているのだから。

学校という場所がそもそもどのような装置であり、それぞれがどのような立ち位置で学校を通過していくのかということを相対化して整理する能力がなければ、今日的な学校の課題に適切に対応することは不可能である。

せめてもう少し感性が鋭く頭がいいのを採用しないと現場はもたない。

2010/01/26

飛ばないでスフォッフォ

これ、オモロイ。

http://vids.myspace.com/index.cfm?fuseaction=vids.individual&videoid=46919544

昨年、最も印象に残ったタンゴのライブで会田桃子さんのバックで演奏していたベースとピアノのふたりにドラムスが加わったスフォッフォというグループ。

レコードの音トビをジャズにしているのだが、これが見事。遊び心あふれる演奏がお洒落。

ベースの鳥越氏と話したとき、「まんまりタンゴはやりません。自分のバンドではいろんなことやってるんですが、こんなことやってるとは口では説明できないんです」と言ってたが、これを聴いて、なるほどと納得した。

空気の研究②

最近はあまり聞かなくなったが、若い世代を中心に「空気読めない」を意味する「KY」ということばが流行っていた。

この「空気」は大きな組織ではなく、もっと小さな同質グループにおける「空気」を指している。

「KY」は、仲間内の調和を乱すメンバーに反省を促す記号である。ある人に「KY」というレッテルを貼り付けるとき、その場の雰囲気や話題の流れや落ち着きどころを無視した言動に対する批判が込められている。逆にその空気を読み、その範囲の中で言動を治めていれば「浮く」ことも「はみ出す」こともなく、居場所を確保できるというわけだ。

実に嘆かわしいことだが、彼らはこうして誰かと一緒に「よどんだ空気」に包まれていることによって取りあえずの身の置き所を確認しているのである。そこにしか居場所のない脆弱な若者はその群れに属し続けるストレスをKYな弱者を攻撃することで発散する。

空気を読まないメンバーを排斥することによって、グループ内の空気をより均質で強いものにしようという力が働くのである。

私が「風」にこだわるのは、こういう「空気」を嫌悪するからなのだ。風を感じるには、外に出ること、少なくとも大きく窓を開けることが必要だ。

2010/01/25

空気の研究①

私が室生に居を構えて間もない頃、すぐそばにゴミ焼却施設が出来るという話になり、自治会でもそれに向けていろいろな話し合いが進められていた。ある程度の方向性が決まった段階で住民への説明会があった。そこに私も参加した。

自治会の人たちの説明の後、意見交流があり、私は住民としての最低限のことを確認したところ、役員が怒りと不満をぶちまけて私に反論し始めたのである。私は「こいつは正気か」と思いながら、驚き呆れてその馬鹿話を聞いていた。

要するに彼らは「忌憚なきご意見をお願いします」と言いながら、自分たちの提案をすんなり受け入れ、その労をねぎらって欲しかっただけなのだ。

この自治会に関わらず、一応かたちだけの民主的手続きをとりつつも、結局執行部が好き勝手にやって利権を独占したり、小数の事にあたる人間だけが意味不明のやり甲斐を感じて自己完結している例はそこかしこにあるのだ。

よどんだ空気は、彼らの汗くささや体臭とひとつになり生臭い風となる。そのような風には決していい音楽はのっからないものだ。

好き勝手にやってくれている分には何でも結構だが、周囲にそれを押しつけるような空気を感じると辟易とさせられる。

「良いことをやっているんだ」という自己満足はいい。「自分が良いことをしていることを認めてほしい」という気持ちもわからないでもないし、ある程度は我慢できる。しかし、「みんなも自分と同じ価値観を共有し、同じようにするのが正しいのだ」と、押しつけがましく上から目線で近づいて来ると、逃げ出したくなる。

組織や共同体が大きくなると、当然のことながら公約数は少なくなり、それぞれの群れに特有の窮屈さを押しつける空気が漂うようになる。

仕事をする上で割り切った大人の協力が出来ない連中に限って、親睦を深めて酒を飲んだり、旅行に行ったりすることを妙に重んじるものだ。それ自体は悪いことだとは思わないし、私も幹事がまわってくればきちんと責任は全うするが、オフタイムの交流の中でオンタイムの空気感を確認しようなどとはさらさら思っていない。

2010/01/24

朝聞夕死

今朝の産経抄は、私が書いた「朝三暮四」と同じテーマを扱っていた。

http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100124/plc1001240304001-n1.htm

しかし、どうにもユーモアと品格に欠ける文章が鼻につく。何より憂いが感じられない。その代わりに表現の端々にマスメディアの奢りを感じる。何より文章が下手だ。今は論説委員が輪番で書いているらしいが、前任の石井英夫氏がずいぶんマシだ。

最後に似たような語呂の「朝聞夕死」という論語のことば(朝、道の教えを受ければ、晩には死んでもいい)を引いて、「そのくらいの気持ちで政治の道を学んでほしい」と結んでいる。

やれやれ。何様のつもりか。

「お前こそ、朝刊に良い記事書いたら、夕刊に自分の訃報が載ってもいいぐらいの気合いでペンをとれ」と言ってやりたい。

私は何か発信するときには、少なくとも十分傷ついている。

2010/01/23

秘密のテキスト公開

徘徊指導生活も残りわずか。木曜日の学校は担当する方が産休に入ったのですでに終了。どの学校もあと5回程度で今年度の仕事はおしまい。

私のことをいつでも何処でも、かなりやりたい放題、言いたい放題にふるまっているように思われているかも知れないが、実際はそうではない。特に仕事ではずいぶん遠慮して、言いたいことは百のうちせいぜいひとつかふたつしか口にはしないのが、現時点での私の方法である。 我慢して自分を押さえているわけではない。

自分が正しいと思い込んでいることが常に益になるとは限らず、言いたいことは言うべきことでないことが多い。そういうことはたっぷり学習してきた。とにかく聴き手の姿勢とキャパでずいぶん内容は制限され精選される。最終的に子どものマイナスになるようなことや、相手や自分が不愉快になることは注意深く避けているのだ。

・・・・とは言うものの、内容はほぼ全面的に私個人の裁量に委ねられているので、この自由を全く無駄にするのはもったいない。せっかくだから他で絶対聴けない話もしてやろうと思い結構面白いネタを準備している。とりあえず、少しは楽しみたい。

指導内容の8割は、その日その時の授業や子どもの事実に基づいた振り返りや考察で、抽象的な価値を押しつけるような話はいっさいしないようにしている。ただ残りに2割は、私の経験に基づいた私にしか言えないこと伝える。その為にこの1年ゆっくり記憶を整理し、資料は常に集めてきた。

今回は、金曜日に指導に使ったテキストを特別に公開しよう。

私の20年余りの現場観察によれば、「プロレスの醍醐味を本当に知っている教師は例外なく学級経営に秀でた手腕を持っている」と言う仮説を立てることが出来る。それがなぜなのかということを、私が実力を認める3人のレスラーの証言をもとに私の教育との関連を示す簡潔なコメントによって構成したテキストを作成した。

なぜプロレスなのかというと、上記の理由の他に、金曜日に勤務する学校(毎朝おはボンがかかる)の校長先生も教頭先生も、そろってプロレスに深い理解と愛情をもっておられるからなのだ。今回も事前にこのテキストをおふたりに見せたところ、「あきれるほどに素晴らしい」と絶賛をいただき、私もずいぶん気をよくしたと言うわけ。

興味のない方には非常にくだらない内容だと思うが・・・・


では、どうぞ。




八百長批判に対するレスラー語録に学ぶ

A
「(バックドロップの際)相手の選手レベルに合わせて角度を調節する…以前そのように話したら、  “本 気でやっていない”と批判されたことがある。もちろん私はいつも本気だ。“プロレスは殺し合いではない”と思っているだけなのだ」(ジャンボ鶴田)

B
「最近は投げっぱなしジャーマンや投げっぱなしパワーボムがはやりだが、私個人の意見では、どんなに首を鍛えたレスラー相手でも避けるべきだと思う(首は鍛えられない)」(ジャンボ鶴田)

C
「反則は基本的には不器用なレスラーが、自分のペースを取り戻すためにやることであってね。いきなり目つぶしとかされたら、作戦を持ってたレスラーも瞬間的に考えが飛んじゃうでしょ。そういう効果を狙うもの」(三沢光晴)

D
「総合格闘技は勝敗だけが焦点になる世界。いい選手がいなくなったら飽きがくると思う。プロレスには勝ち負け以外にも見るところがたくさんあるし、飽きられることはない」(三沢光晴)

E
「プロレスはロープを使って上下左右に動けるから、体格差のある相手とも闘えるんだよ」(三沢光晴)

F
「受け身を取るのは、相手の攻撃がキツイからじゃない。体をぶつけられたり蹴られたりした力を後ろに逃がしているだけであってね。受け身をたくさん練習するから、プロレスはやらせだなんて思われても困るんですよ。ロープに飛ばないようにすることは、もちろんできますよ。ただ走らないようにすると、相手に片腕を取られた状態になる。片腕を取られてロープに行かない場合は、相手にそのまま肩とか肘を抜かれちゃう場合もある。人間の関節って外れちゃうものなんですよ」(三沢光晴)

G
「ドロップキックの自爆程度なら、ただ痛いだけですよ。でも精神的なダメージがありますよね。“ああ、スカされちゃった。カッコわりぃ”っていうね。プロレスの試合っていうのは、ひとつの技をマスターするまでにかけてきた時間や、努力の結果を出す場でもあるわけですよ。それは相手も解ってますから、相手のフィニッシュホールド(決めワザ)は何度も受けられないけど、ドロップキックぐらいは受けてやるわけです」(三沢光晴)

H
「技をやった時に、そのつもりはないのに、モロに急所が入っちゃう時がある。膝蹴りって基本的には膝を鋭角に入れちゃいけない。エルボーでも肘の骨は当てないつもりでも、当たっちゃう時がある。そういう時には、分からないように相手に大丈夫かと聞くことがありますよ。お客さんに知られちゃマズイけどね。あるいはロープに飛ばしたりして、相手に軽い技を出す。でも技を出すのも受けるのも上手じゃない選手がいる。例えばドロップキックを打っても、体が上がりきらないで相手の腹に入るような奴ですね。まぁこれは若手を相手にしたときの試合の話ですけど、ああこいつは俺の技はまだ受けられないな、と感じたときは実は(技を)事前に教えてやることがあります。まあそれは相手が未熟な場合のみですよ」(三沢光晴)

I
「相手の技をいかに美しく受けてみせるか、それが“受けの美学”。それはもう愛ですよ。こんなに素晴らしいスポーツ、ないじゃないですか」(武藤敬司)

J
「総合格闘技を柔道のように競技として追求するものとして見ている。プロレスはまったく違う。プロレスラーは芸術家であり、職人でもある。試合は技術を見せる作品だと思っている」(武藤敬司)


教育現場に適用すると・・・
学校不信に対する信頼回復の心得として

A
子どもに課題を与えるときは、発達や能力にあわせて内容を調節する。

B
あわただしさの中、教えっぱなし、やらせっぱなしになることが多いが、どんな子ども相手でも避けるべきだろう。

C
授業の中で、ハメをはずす子どものぺースに乗せられてしまうことが多い。不器用を自覚するなら、自分のペースを取り戻す効果を狙った手練手管が必要だ。

D
「大きい・小さい」「はやい・遅い」「強い・弱い」「出来る・出来ない」で勝ち負けを競ってはいけない。世の中には見るべき多様な価値がたくさんあるんだと伝えよう。そうしないと、度重なる負けは、子どもにとってダメージが大きすぎる。教室にいることを、学ぶことに飽きさせてはいけない。

E
学校や教室という枠(制限)をうまく利用することで、さまざまな違いを豊かさに変えて、共に互いを生かし、また実りを分かち合うことが出来る。窮屈かつ滑稽と思える教育のフレームをいたずらに批判するだけでなく生かす発想が大事なのだ。

F
教師からの指示命令は攻撃であり、聴くことは受け身である。子どもの無駄な力も上手に受け、後ろに逃がしながら、一人ひとりの子どもの持っている一番良いものを出させたい。

G
授業には、その単元におけるねらいの実現にむけて、準備にかけてきた時間や努力の結果を出す場である。子どもたちにもそのことを理解させ、教室をともに磨いた技を出し合えるリングにするのだ。

H
配慮を要する子どもには、大丈夫かと声をかけたり、つまずきが予想されるときには、事前にヒントを与えてやったりすることも必要だ。

I
子どもの発信するものをいかに美しく受けてみせるか、それが“受けの美学”。それが教育における愛。授業づくりも、学級経営も、児童理解も、すべてそこにつきる。

J
塾や予備校は利益を追求するものとして見ている。公立学校は塾や予備校ではない。商売ではないのだ。教師は芸術家であり、職人でもある。授業は技術を見せる作品だ。

2010/01/22

朝令暮改

鳩山首相が、午前中の衆院予算委員会で、「朝三暮四の意味を知っているか」と尋ねられ、「よく知ってます」と前置きした上で「朝令暮改」の意味を説明、とんだ赤っ恥をかいた・・・というニュースが昼休みには早速流れていた。これは、自民党の茂木幹事長代理が、麻生前政権が昨年4月に成立させた平成21年度第1次補正予算の一部を鳩山政権が執行停止した一方で、第2次補正予算案に停止した事業を盛り込んだと批判する狙いで、朝三暮四の意味をただしたもの。ところが、首相は「知っている。朝決めたことと夜決めたことがすぐ変わるという意味で、あっさりと物事を変えてしまうことだ」と自信満々に語ったと言う。

茂木氏が得意気に正すまでもなく、朝三暮四とは、「朝と夕で数を変えることでごまかす」ということ。「猿にトチの実を朝に3つ、暮れに4つ与えると言ったら文句を言ったので、じゃあ朝に4つ、暮れに3つやると言ったら喜んだ」という中国の故事に習ったもの。

「麻生さんは漢字が読めなかったが、鳩山さんは諺も知らないのか!」と、自民党は嬉々として揚げ足を撮ったようだが、これは麻生さんの漢字間違いとはちょっと意味が違う。鳩山さんには、自分のやっていることはまさに「朝令暮改」であるという後ろめたさがあるので、似たような故事成語で責められたときに、思わずその意味を自分の態度の説明として、ある意味開き直って喋ってしまったのだろう。自分が突っ込まれるならそこだと思っているわけだ。そりゃあ、どれだけ鈍感でも思うわなあ。

だから厳密に言うと、「朝三暮四」というのとはちょっとニュアンスは違うのだ。鳩山氏の勘違いを責め、「似ているが違う」とつっこむ茂木氏に。私がツッコんでおこう。

朝三暮四とは、「目先の違いに気をとられて、実際は同じであるのに気がつかないこと。また、うまい言葉や方法で人をだますこと」の両面の意味がある。つまり、飼い主サイドに立てば、文句を言う猿を誤魔化すための狡猾な交渉だったわけだし、そこには一貫性画ある。残念ながら鳩山氏にはこの知恵も計算もない。誰が見てももっと苦し紛れの結果なのだ。又、この場面でこの諺を出すのは、「国民を騙される猿呼ばわりしている」わけで、意味を取り違えた鳩山氏よりも、むしろわざわざこの諺を引用した茂木氏の良識と知性を問いたいところだ。

勿論、マスコミの騒ぎどころもピントがずれている。

そう言えば、去年の今頃も同じ参院予算委員会の質問で同じようなことをやっていた。当時の民主党の石井副代表が麻生さんに「漢字テスト」をして物議をかもしていたのをご記憶だろうか。石井氏は、麻生さんが月刊誌に寄せたとされる手記からわざわざ12の漢字や熟語を抜粋して「あなたの漢字力からして誰か(別の人間)が書いたと思わざるを得ない」などとネチネチ責めたのである。何という根性悪だろう。

この後、苦情が殺到し、結果的には揚げ足をとった民主党のイメージダウンになった。「国会でまともなことを話せ」「国会をバラエティー番組か」という「2ちゃんねる」にも書き込みの方がむしろマトモだったくらいだ。

1年たっての仕返しが、今日の諺事件。まさに「目くそ鼻くそを笑う」である。

相も変わらず、国会で何をやっているのか。国情が危機に瀕しているのに、クイズやお笑いをやってもらっては困る。自民党も、民主党も、いくら何でももうちょっとしっかりしてもらわないと・・・・

                    

2010/01/20

ルーレットはいつか止まる

人は騙す者であり、騙される者であり、そして騙されていたい者である。

様々な「陰謀論」が蔓延している。信憑性の高いものからトンデモ話まで・・・

宗教は糞喰らえ。科学では割り切れぬ。

つまるところ、真偽のほどはわからないのだ。何につけ、万人を納得させる証明は難しい。

「わかろうとする」と人は混乱する。「自分のわかる」筋書きにしようとすると、これがホントだという嘘が生まれる。手の届かぬ巨悪をでっちあげ、これに責任を押しつける。

そもそも、この世界そのものが巨大なフェイクである。「真相はこうなんだ」ということが明らかになったとしても、特に驚くには足らない。だから、私は何をするのかが問われることはあまりない。

陰謀論者には、他人のふんどしで相撲を取りながら、異常にハイテンションで調子に乗る馬鹿が多い。「猿沢の池に龍が出るとデマを流して、野次馬が大勢集まるや、自分もその気になって見物に出かけた」というあの古いお話に似たようなことになる。(多分、出典は宇治拾遺物語)自業自得だが、烏合の衆の興味を煽るためにガセネタを垂れ流すと後に恥を見る。

インターネットの普及は、情報というものの質と量を劇的に変えた。椅子に座って指先を数回動かしただけで、誰もがかつては絶対知ることのなかった内容に簡単にふれることが出来る。裏と表がところどころで反転し、秘めておきたい情報も最早隠しきれなくなってしまった。

「これが本当だ」と口々に皆が違うことを言い出し、その中に本当も嘘もないまぜになっているというのが本当だ。

その情報の量はあまりに多く、その質は細かく、発信元も多様であり、発信者の動機もさまざまである。

だから人は、最終的に自分の信じたい情報を選びとるしかないのだ。

それは多くの場合、自分にとって都合の良い情報であることが多い。同じ嘘ならマシな嘘をつきたいし、同じ見るならいい夢を見たい。誰だってそう願う。すべての事柄について、100%の真実をつきつけられたら、私たちはそれに耐えられないに違いない。

最終的に、人は何を信じたかによって自分を値踏みするのである。何を信じようが自由だ。しかし何を信じたかによって、生き方や最期、そしてその先は大いに異なる。

畢竟、私の信じていることも、ただ私が信じているだけのこと。その確かさを裏付けるものは何もない。自分に騙されても、他人には騙されまいとそう思う。

イエスに騙されるなら私は本望である。それは賭けだ。

ルーレットはいつか止まる。

2010/01/19

違いと同じは違うが同じ

某研究会の事務局長時代、そして現在の徘徊生活の中で、たくさんの学校をいろんなかたちで見て来た。どの学校も全く違うと言えば違うし、全く同じだと言えば同じだ。どこの学校の校歌や校訓も、別のどこかの学校と交換しても気づかない程度に似ているのである。それは、徳や真理の普遍性ということとは別の次元での共通項であるから誇りが持ちにくい。

確かに「組織は人」だと思うが、個人がどれだけ頑張ろうがどうにもならない面も否めない。個人は組織という「からだ」にとっては、新陳代謝によって入れ替わる「細胞」のようなもので、局所的に見れば、その実体を担っていると言えば言えなくもないが、何かもっと別の価値を負わされていると言えばそうも言えそうだ。

個人の資質を上手く生かす組織もあれば、殺す組織もある。自分の資質を生かせる組織に人は所属しようとするのだろうが、反面「良い組織」「強い組織」は、パーツの交換可能性が高い。個人がシステムにどこまでどんな風にコミットメントするか、そこが問題だ。

つまるところ、学校と言うところは、さらに大きなシステムを支えるさまざまな組織のパーツとなりうる均質性を追求させるところのものであるから、違うと言えば違う程度の均質性の中で、統一規格の誤差程度の個性しか認めないのだ。

初めから認められないことを前提とした「浮き」や「はみ出し」を覚悟した者だけが、お仕着せの価値を少し押し広げて、「違い」がわかる奴に育っていくのだと思う。

2010/01/18

リコーダー講座とライブのご案内

物凄く暇な方、好奇心旺盛な方はRealSaltと遊びに来てください。

ふるさと元気村リコーダー講座 
と き  1月23日(土)・2月20日(土)・3月20日(土)
【午前の部】 10:00~12:00
【午後の部】 13:30~15:30  参加費1500円
ところ   室生ふるさと元気村 創作実験工房「童」  
宇陀市室生区下田口1112番地
http://www.bunkajnara.pref.nara.jp/cgi-bin/top_kuukan.as
※リコーダー講座、今年も続けます。ますますパワーアップ。毎回楽しいですよ。午前午後は別メニュー、ゆっくり遊びに来てください。ワンコインでうどんやカレーが食べられます。

Salt&Uribossa Valentine Live ~ラブソングなんて歌わないで~
と き  2月13日(土)18:00開場 18:30開演 チャージ1000円 
ところ  アルコ・カフェ
     磯城郡田原本町阪手208-3 0744-33-5899
(24号線auがある阪手北交差点東へ 田原本生涯学習センター近く)
※レコ発ライブが好評を得て、早くもアルコで2回目。バレンタインデーにちなんで、身も心もとろけるようなラブソングを、おじさんふたりでお届けします。 6:00に開場します。食事も出来ます。

Tetra at Café terrace NZ
と き  2月27日(土)15:00~ チャージ1500円(ドリンク代別)
ところ  カフェテラスNZ 
奈良市法蓮町1330番地の1  0742-42-7115  
※ Tetra (ケーナ/すーちゃん ピアノ/ももちゃん ギター/Salt)
ハーブクラブでのお月見ライブを見てくれた店長真絹さんから直後にオファーをいただき、ずいぶん先の話だと思っていたら、もう目の前です。
      

2010/01/17

Remember 1.17

ハイチが大変なことになっている。未曾有の大地震である。生き埋めなどで救出を待つ場合の「生存の限界」とされる発生後72時間を過ぎた。救援活動は遅々として進まず、治安も悪化している。

そんな中、日本では神戸の震災15周年を迎え、かなり複雑な気持ちだ。ハイチは遠く私は無力である。

あれからもう15年か。

10年目の時にはJR神戸駅で大きなライブやイベントもやった。

神戸の被災者が中心になって中越の被災者を励ましに行くことに、当時は大きな意義も感じていた。中越の震源地で行ったいくつかのライブは今も忘れられない。仮設住宅に荷物を運んだり、剥がれたクロスを張り直したりした。でも、自分に出来たささやかなことよりも、出来なかった多くのことを思う。

何もしないことの言い訳なんて、探さなくても何処にでもある。キチンと仕事をしているまともな大人に赤の他人に関わる時間なんて、無理して作らなきゃ無いに決まっている。そして、たとえ時間を作ってからだを動かしても、一個人に出来ることなんて限られている。そんなことは初めからわかっていた。それでも、何もしないよりは少しはマシだということを示したかったのだ。そうしたことを踏まえた上で、焼け石に水を打ちに行ったわけだ。

「神戸の記憶を風化させない」とは、一体何を指してそう言っているのか?

被災者のエゴだってある。ボランティアの自己満足もある。自治体の運営や防災の仕組みの問題もある。揺れたのは地面だけではなく崩れたのは建物だけじゃない。神戸は復興の中で反省をかたちに出来たのだろうか?大いに疑問が残る。

2010/01/16

Salt's Bible Messages podcast

Lukeさんが、メッセージをpod castingしてくださいました。過去のメッセージもともにダウンロード出来ます。どうぞご利用下さい。

http://www.kingdomfellowship.com/Salt/dircaster.php


私の知らない間の出来事でした。

Lukeさん、ありがとうございました。

Dois Mapas on You Tube

「風のメロジア」の中の1曲、Dois MapasのスライドショーをYou Tubeにupしました。

http://www.youtube.com/watch?v=X2eoNErmAM0


かなり恥ずかしい画像の嵐ですが、いつの時代、どの場面をとって「私」は「私」なのかと不思議な気分になります。いつの頃からか、楽器は私の一番の友となり、音楽に浸って生きてきました。

「今いる此処と そして目指すべきところ 僕の心とからだは何処にある?」(Dois Mapas)

約束の場所は、此処でもあり遥か彼方でもあり・・・

僕らは信仰によって永遠につながる今を生きているのです。心の中にある宝の地図、そこにはみことばの暗号が隠されています。

2010/01/14

徘徊ネタ

今年は毎日違う学校に出勤している。「大変でしょう」「落ち着かないでしょう」と行く先々でよく言われる。これまで(事務局長時代)はもっと大変だったので、それに比べれば大したことはないし、元々あまり落ち着かないタイプなので、落ち着かない状況には余裕で対応できる。いつもそうだが、何をやらされてもそれなりに楽しませてもらっている。つまらないようなことがけっこう面白く、面白そうなことが案外つまらない。

月曜日は4年生、火曜日は5年生、木曜日は3年生のクラスだが、子どもにとって、この1~2年の生活年齢の違いは大きい。今日は木曜日。元気いっぱいの3年生。ギャングエイジなどと言われるように、3年生くらいのテンションは一番高い。

今日も、教室へ入って一番後ろにある席に座ると、数人の子たちが近寄って来て「今日は給食一緒に食べてや」と声をかけてくれる。皆ににこにこしてうなずいているとエライことになる。「去年から予約してんで」「さっき先生、私のとこ来るって言ったやんか」となる。一応予約を最優先するのが筋なので、そう説明すると納得してくれた。そんなやりとりの間、私のひざの上ではひとりの子が座って本を読んでいる。何人かは20分遊びにも「鬼ごっこをしよう」と職員室までやって来る。

週に1回しか来ない変なおっさんを何でこれほど慕ってくれるのかよくわからないが、私にとっても、子どもと遊んでいるのは、大人の相手をするよりはいくらか健やかなのだ。子どもは他の先生とは違うオーラを出しているおっさんを面白がっているだけだが、私もキチンと相手をしてやらないと、子どももすぐに飽きてしまう。そういうものだ。

誰もが4年生になり、5年生になり、6年生になり、中学生になり、高校生になり、大学生になり、大人になっていく。

それぞれの発達段階でやっておかないといけない経験というのはある。

先日5年生のクラスで、給食の時間に聞いてみた。
正月に、たこあげをした人、こままわしをした人、福笑いをした人、はねつきをした人、すごろくをした人、かるたをした人、がそれぞれ何人いるかということで挙手してもらった。

「たこあげ」と「こままわし」が1で、残りはゼロ。ちなみに「たこあげ」をした子と「こままわし」をした子は同じだった。

そして、すべての子どもがお年玉をもらっており、ほとんどの子どもが初詣に行っていた。

別に昔の正月の遊びをすることが素晴らしいというわけではないが、今、たこあげをしない子どもは、人生で一度もたこあげをしたことがない人間になる可能性があるということだ。どうでもよさそうだが、こういうことが決定的に大きいのだ。

小学校では、そういう子どもの当たり前の体験のすそ野を広げてやる働きかけが必要だと考えている。

マトモな大人にキチンと関わってもらえなかった子どもは、動物園生まれの獣のように、野生の本能を奪われ、自立する力を失ってしまう。餌の採り方もわからず、檻の不自然さにも気づかずに育つのだろう。

私は子どもと関わるとき、「生きものとしてのヒト」にとっての「快」や「不快」を大切にする。「気持ちいいこと」と「楽しいこと」を正しく追求すれば、良心を羅針盤にした正常な反応が出来る。かけひきのマニュアルとしてではなく、人に迷惑をかけたら「ごめんなさい」よくしてもらったら「ありがとう」と自然に言えるようになる。

私は学校という檻の中で子どもの「野生」を育みたい。虚勢された犬みたいなガキやファーストフード店の店員みたいな小娘は増やしたくない。

2010/01/11

メッセージの配信に関するお知らせ

新シリーズ「約束の地カナン」が始まりました。 これからおそらく1年にわたって、ヨシュア記を中心にお話していく予定です。なお「ひねくれ者のための聖書講座」は継続して行います。共に月1回のペースで行います。時折、特別なテーマやゲストのメッセージもあるかも知れません。ご期待ください。

さて、メッセージの配信についてですが、これまでは横浜KFCのサポートのもと、富士宮のemiさんが管理してくださっていました。ところが、昨年末からのemiさんの病状の悪化に伴い、2010年より桑名のkoji君が力を貸してくださることになりましたので、お知りおき下さい。

emiさんの病状に関しては既にご承知の方も多いと思いますが、極めて厳しい状態です。彼女に関わる主のみこころがなりますようにと心から祈るばかりです。

年が明けてから、Lukeさんご夫妻、Koji君ご夫妻、愛知県のさっちゃんが、emiさんのお見舞いに行ってくださっています。

誰が計画したり組織したりしているわけでもないけれど、各地の兄弟姉妹達の不思議なつながりが生まれ育ってきています。それはとても新しくまた懐かしく、やさしくて温かい、そして何よりとても自然な関係です。私はそこに既存の教団教派とは違ういのちの流れを感じています。

新たなキーステーションとしての役割を担ってくれたKoji君に対しては、感謝と期待の気持ちでいっぱいです。


☆  ☆  ☆  ☆  ☆



こちらのブログをご利用ください。メッセージごとにコメントも書き込めます。http://saltcanaan.exblog.jp/

是非、継続してメッセージを聞いて下さっている方は、ブログのコメント欄にも足跡を残し、交流を深めていただけますようにお願い致します。

2010/01/09

カナン教会聖日礼拝スケジュール1~3月

2010年1~3月のカナン教会のスケジュール

1.10  メッセージ 「ヨシュアの登場」(約束の地カナン①) 聖餐式
 17  分かち合い  
 24  メッセージ ひねくれ者のための聖書講座⑪
 31  分かち合い

2.07 家庭礼拝(天理での礼拝はなし)
 14  メッセージ 「遊女ラハブの信仰」(約束の地カナン②) 聖餐式
 21  メッセージ ひねくれ者のための聖書講座⑫
 28  分かち合い

3.07  メッセージ 「ヨルダン川を渡る」(約束の地カナン③) 聖餐式
 14  分かち合い
 21  家庭礼拝(天理での礼拝はなし)
 28  メッセージ ひねくれ者のための聖書講座⑬

礼拝に来られる方は参考にしてください。都合により予定は変更される場合があります。

いのちのままに

エシュコルさとやんが、昨日の「遊びの達人?」の記事を受けてこんなメールをくれた。彼のコメントと私の返信を少し膨らませて紹介しようと思う。

「新社会人になりたての頃に先輩に言われた事は、仕事を一生(所)懸命する人は遊びも一生(所)懸命する人だと、教えられました。その逆もしかり。Saltさんは上記と違う哲学の持ち主で、しかも奥が深いという印象ですね。私はSaltさんは勿論、Lukeさんも『遊びの達人』だと思っています」

  
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鍵は何を見何処とつながっているかということ。我々は誰もが神の栄光を何らかのかたちで反映するために作られており、キリストを味わい楽しむために生かされていると信じること。

空の鳥や野の花でさえ神の栄光を表しているのなら、キリストの花嫁は何をか言わんや。しっかり愛を受け止めて、花嫁を飾りたい御方に装っていただこう。

そもそも鳥や花に仕事も遊びもない。彼らは与えられたいのちを、そのいのちのままに生きているだけ。

Lukeさんの何を見習えばいいのか。それは彼のお勧めの映画を観ることや温泉へ行くことじゃない。学ぶべきポイントはただひとつ。その信仰のスタンスである。私はこの点において大いに共鳴している。

スタンスがしっかりしていれば、誰でも自分の持ち味や出番が自然に見えてくる。これを賜物と言ったりするのだが、妙な方向を向いていると、大混乱が起こるわけだ。

2010/01/08

遊びの達人?

Dr.Luke氏が御自身のブログで、私を「遊びの達人」と紹介してくださっていた。(7日の「冬眠生活へ・・・」の記事)この栄誉ある称号を頂いたからには、調子に乗ってもっと遊ぶしかない。

遊ぶためにはお金と時間がいるが、お金も時間もあんまりないのにかかわらず、それらがたっぷりある人以上に楽しめるのが「遊びの達人」たる所以である。

お笑いであっても、「笑われる」より「笑わせる」方がレベルが高い。「笑わせる」より「思わず笑ってしまう空気を作る」方がさらに上である。遊びにおいても、「さあ今から遊ぶぞ」と力んだり、逆に無理に力を抜いたりしなくても、自然にその場を楽しんで、周りを楽しませているのが素敵なのだ。遊ぶのに疲れ果てるのは馬鹿げている。気がついたら遊んでいたというのが正しい。しかも誘いもしないのに、みんなが自然に巻き込まれ、みんなが面白がっているのが最高だ。

基本的に「仕事」は「遊び」の反対語ではない。仕事の中に遊びの要素が含まれていなければ、いい仕事なんて出来ないし、仕事の段取りが悪い奴に遊びを企画させてもつまらない。創造的な仕事をしている人は、遊びもまた創造的である。スケールの大きい仕事をしている人は遊びのスケールも大きい。

私は遊園地とかゲームセンターの仕掛けに乗っかることは遊びだと見なしていない。遊園地の外側こそ「遊びの園」であり、他人のプログラムにはまらないことこそ「本当のゲーム」の始まりである。

さらに言えば、例えば、楽器が出来なきゃ、音楽的な遊びは出来ない。遊びには最低限の訓練やスキルも必要なのだ。そして違いがわかるセンスが不可欠だ。追いつめられても自分を笑えるユーモアがあればさらにいい。

私が出来ることはごく限られているので、さらに広範囲でレベルの高い遊びが出来るように力をつけたいものだ。挑戦したら面白いだろうなと思うことはまだまだ山ほどある。

神の憐れみという観点に立てば、絶望の大きい者には、慰めもやや大きいということかも知れない。

2010/01/07

身内に峰打ち

身内とはどこまでの範囲なのか。

戦争にボロ負けして、現人神であった天皇は人間宣言をし、天皇を中心とする「おらが国」の身内意識は崩壊した。

産業構造が大きく変わり、過疎化による若年層の都市への流出によって、地域の共同体の秩序は失われ、「おらが村」の身内意識は崩壊した。

企業における終身雇用は崩れ、生き残りをかけた相次ぐ統廃合によって、「おらが会社」の身内意識は崩壊した。

これらの崩壊した身内意識の中には、いくらか滅私奉公という要素があった。

しかし、ただ自分が身を寄せる大樹として選ぶ集合の中には、良質な意味での身内意識は生まれようがない。

そして、本当の身内である家が崩壊している。

良くも悪くも、この終わりの時代、人は剥き出しの個人として孤独に曝されている。

2010/01/05

寂しい国の龍馬伝

ちょうど12年前の寅年1月に、もうひとりのムラカミ「村上龍」が『寂しい国の殺人』という本を出版している。


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「現代を被う寂しさは、過去のどの時代にも存在しなかった。近代化以前には、近代化達成による喪失感などというものがあるわけがないから、わたしたちは、現代の問題を、過去に学ぶことが出来ないと言うことになる。今の子どもたちが抱いているような寂しさを持って生きてきた日本人はこれまで有史以来存在しない」

「それなのに、相変わらず過去に学ぼうとしているのは主に偏差値の低い中高年の男達だ。織田信長だろうが坂本龍馬だろうが吉田茂だろうが、彼らが今生きていたとしても、例えば帰国子女の悩みにも答えることができない。それなのに、信じられないことだが、織田信長に学ぶ危機管理術というような特集を組む雑誌が未だにあとを断たない」

「だがバカな中高年の男たちのことはもう放っておくしかない。自分のこれまでの人生を否定することになるので、よりよい集団に属するという価値観を彼らは死ぬまで変えないだろうし、退行と反動化の中枢を担っていくはずだ」

「排除と制裁という解決策は、正しいとは思わないが、近代化途上の国だったら有効だと思う。この国のメディアは、2年前、オウム真理教になぜあれほど高学歴の人間があれほど多数入信したのか、ほとんど問わなかった。女子高生が援助交際する理由も問わない。ブランド品が欲しいからという女子高生側のこじつけを信じているが、マクドナルドで半年アルバイトをしてプラダのバッグを買う子はいない」『寂しい国の殺人・村上龍』



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「現代を被う寂しさ」ということばが指し示すところの空気は、2010年になって、都市部だけでなく、いっそうリアリティーをもって全国に広がっている。「今の子どもたちが抱いているような寂しさを持って生きてきた日本人はこれまで有史以来存在しない」ということばは本当だと思う。

「寂しさ」はキーワードである。本当に寂しい時代だ。どこもかしこも寂しすぎる。

大河ドラマ「龍馬伝」が始まった。

ドラマは見始めると結構続けて見る。見ないと決めたら一切見ない。そんなことどっちでもいいが、そういう性格である。

とりあえず第1回目の録画を観た。好んでご覧になる方も多いと思うので、出来るだけ無粋なコメントは避けよう。そう思って村上氏の本を引用した。

大河ドラマそのものよりも、なぜ今このドラマなのか、この人物がこんなふうに描かれるのかに興味がある。

異常なまでの龍馬人気の背景には、やはり国民全体に国を憂う気持ちや、気骨のあるリーダーの到来や抜本的な改革への願いがあるのだろう。

ただ、Salt史観によると、薩長連合を画策の首謀者はおそらく西郷であり、失敗したときの為に龍馬のような脱藩藩士を人材として求めていたのだと思う。もちろん龍馬がその期待に応える魅力のある人物であったことには違いないが、あまりにも脚色が強すぎる。成り上がり話は尾ひれを付けやすいし、早死にすると英雄になってしまうのだ。

それと熱烈な龍馬ファンには、思考の柔軟性が乏しく、意思の貧弱な、龍馬とはかけ離れた奴がけっこう多いということも付け加えておきたい。

今、この国に育つ子どもから、龍馬なんて間違っても出て来るはずがないし、仮に出て来ても何の役にも立つまい。すでに、さまざまな前提は壊れ果てている。

(追記)ちなみに私は、オウム事件にこだわって大学を去った養老孟司氏と、女子高生の援助交際の背景を追求する宮台真司氏の言説は興味深くチェックしている。彼らは村上氏が指摘している多くの人が問わない問題についてキチンと自分のことばで語っているからだ。

2010/01/03

人生、洗い直し

正月からいきなり洗濯機が壊れた。17年間働き続けた働き者だったが、ついに動かなくなってしまった。何度か止まっては息を吹き返しては何とか動いていたのに・・・・

ちょっと悲しい。それはペットが死ぬ感覚にどこか似ている。猫が死んだほどの辛さはないが、金魚や虫が死んだ以上のダメージはある。

洗濯物が出ない日はないので、早速買いに行くことになった。久々の大型家電店。正月商戦にのっかって買い物客がいっぱい。

洗濯機なんて細かく内容を吟味することがないが、丁寧にサイズや機能やデザインをチェックすると面白い。容量はデカイのにコンパクトになり、しかも省エネ、節水出来るものがずらり。家電の進化にちょっとビックリ。毎日使い続けるものなので安いだけじゃ駄目だ。でも、安いにこしたことはない。内容と価格のバランスが大事。

縦型がドラム式か、乾燥機能があるかないか、容量はどれだけか。結局、妻との協議の結果、縦型、乾燥機能付、容量10キロものにした。価格にも納得。これはあらゆることを考慮に入れた上の正しい選択。

洗濯機が音響機材よりも暮らしに欠かせない重要なものであることに気づくのに、私は実に何十年も費やしたのである。

・・・というわけで、今日は洗濯機のお話。

2010/01/01

約束の場所へ

2010年始まる。

ここ数年は、元旦は妻の実家、2日は私の実家へご挨拶に行くことになっている。甥っ子や姪っ子の成長を見守るのも楽しみのひとつである。

夭折を予感していた10代には、干支を4周も生きることになるとは想像もつかなかった。思いもよらなかった人生を生きている。

今年のテーマは「約束の場所へ」

これは、さをり織りの手ほどき人で、ケーナ奏者のすーちゃんのために作った曲のタイトルだが、いろんな意味で大切な意味を持つことになった。

「約束の場所へ」Salt&Uribossaバージョンは全く違う雰囲気になったが、どちらも大切にしたい。ともに、ライブでは非常に評判が良かった。

今年の教会でのメッセージは「ヨシュア記」を見ていくことにした。まさに「約束の場所」を獲得していくストーリーである。

徘徊生活も後3ヶ月。4月にはどんな場所が私を待ってるのだろうか。