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2011/04/03

礎石



幼少期を彦根城や和歌山城のそばで過ごしたせいか、城にはけっこう興味がある。 世界初の木造高層建築にして、信長の天下統一のランドマーク的な存在だった安土城。 「もし現存していたら・・・」と思う人は多いだろう。しかし、あっけなく焼失したがゆえによけいイメージはふくらむ。 いずれにしても、今は礎石しか残っていない。

これは、信仰の世界にも共通する。 たとえ誰かの建てた建物が焼けても、信仰の礎石であるキリストが残る。これは恵みである。人の業が無様に残り続けることを思うとぞっとする。

2011/03/13

100年後




今日のバンド・フェスティバルで「100年後」という曲を歌った。地震を受けて曲目を変更したのだ。この曲はもともとはキャンドル・ナイトのために作った曲。普通、人は自分が生きる舞台として世界を考えるものだ。しかし、子孫や他者の視点に立って世界を見つめ直し、地球環境や未来に対して謙虚になろうよというテーマである。

津波ひとつやってくれば、地境もなくなり不動産も流れていく。誰にも文句は言えない。それは天災だからだ。ところが原発の場合はそうではない。いろいろ言いたいことがあるはずだ。それは人災だからだ。

100年後を考えて今を選ぶという人はあまりいない。でも自分が存在しない町の住みやすさを考えることが、何かを変えていくだろう。揺れがおさまり、波が引いた大地に立って、100年先を考えることが出来たなら、災いは災いには終わらない。

「神はわれらの避け所。また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海の中に移ろうとも。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても」(詩編46:1~3)

「大水のとどろきまさり、海の力強い波にもまさって、いと高きところにいます主は、力強くあられます。あなたのあかしは、まことに確かです。聖なることがあなたの家にはふさわしいのです。主よ。いつまでも。」(詩編93編5節)

天災の天には、主の主権が働いている。そこに望みがある。

2011/02/13

織部の須弥(十文字)


本日のメッセージはエペソ2章から。

「私たちは神の作品であって、良い行いさえもそなえられている」ということばにこだわって興味ある一例をご紹介した。「贖い」という新創造に含まれるニュアンスがよくわかると思う。

徳川2代将軍秀忠にも茶の湯を指南した古田織部という茶人がおりました。
織部は利休に師事していますが、師匠が追求した「わび茶」を離れ、利休が打ち立てた茶の湯の定型を次々に破壊しながら、独自の美の世界を発展させます。歪みや焼けぞこないの茶器を尊んだり、床の幅に合わないからといって掛け軸をふたつに切ってしまったりしています。
そんな織部に、私が絶句した、驚くような作品があります。
それは、大ぶりの茶碗を故意に十文字に割って、小ぶりの形に仕立てたものです。井戸茶碗で銘は「須弥(十文字)」と言います。須弥(しゅみ)とは古代インドの世界の中心を表すことばです。
一度出来上がっているものを、わざわざ壊して、壊したものを素材にしつつ、全く新しいものを作り直すところに美を見出すという画期的なものです。私はこの茶器を見たとき本当に感動しました。一部には、血をイメージするような朱があしらってあるのも驚きです。


詳しくは、メッセージブログでお聴きください。

2011/01/10

成人の日に


オバマは大統領就任演説で「我々はいまだ若い国家だ。だが、聖書の言葉を借りれば『幼子らしいこと』をやめる時が来た」と、聖書のことば(Ⅰコリント13:11)を引用したが、そのことによってかえって聖書に関する無知と不信仰を明らかにした。それでも、聴衆はさらに無知で不信仰なので、どこからの引用かもわからず、使い方が正しいかどうかもわからず、ただ熱狂していたのだった。

そのアメリカに、「日本の精神年齢は中学生レベルだと言われた」のは、いつのことだったか。戦後日本は国としてどれだけ成長し、国民はどれだけ大人になっただろうか。高度経済成長は、本当に豊かさに向かっての成長だったのか。

聖書には、「キリストにある成人」ということばがある。(コロサイ1:28)それは、キリストの身の丈に達するような信仰や知識の一致をはじめ、あらゆる点において成長するということであり、(エペソ4:13~15)多くの場合は、なかなか年数ばかりを浪費して、霊的な成長がおぼつかないこと(ヘブル5:11~16)も指摘されている。

アダムとエバはどうやら、初めから成人として作られている。しかし、イエスは赤ん坊として母の胎に宿り、完全に「人としての性質をもって」この世に現れ、そして人の間で、人から教えを受け、養育されて成長されたのである。(ピリピ2:6~9)

成長とは、失敗を繰り返し、経験を重ねて学ぶことである。これは、驚くべきことである。イエスは神の子であったが、生まれたときから完全であったわけではなかった。「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となった」のである。(ヘブル5:8~9)

成人式を迎えたから人は成人するのではない。「キリストにある成人になること」を意識するのでなければ、成人の日も、ただ滅びに向かう通過点に過ぎない。

2011/01/02

ナナちゃん人形を見上げて


正月にいったい何人の人が初詣に行くのだろう。

名古屋駅の近くにナナちゃん人形がある。名古屋の友人との待ち合わせなどによく使う。

いくら正月でもナナちゃん人形を拝む人はさすがに誰もいないだろう。ただの人形だからだ。でも、これが金ピカだったり、社の中にあったりすると、疑うことなく拝む人が出て来るのだろう。ナナちゃんは名鉄百貨店のシンボルなので旬の装いに着替えをする。暮れには「冬のクリアランス」のタスキをかけていた。たくさんの人がナナちゃんをバックに写真を撮っていた。

そういう人たちの視線をちょっと気にしながらも、私は斜め下から変態的角度でナナちゃんを盗撮。相手は人形なのに周囲の視線を気にする私はまだまだ修行が足りない。

人は心の中にある恐れや欲望をかたちにしてそれを拝むことで、後ろめたさや不安をかき消そうとする。神の栄光をさまざまなかたちあるものに代えてそれを拝む。(ローマ1:18~23)

「何か大いなるものをありがたがる宗教的情操は大事なものだ」と言う人もいる。しかし、それは信仰とは正反対のベクトルである。宗教的情操は善悪の知識による呵責が基になった防衛機制だからだ。したがって、宗教的情操によってキリストを拝すれば、それは立派な宗教だということになる。教会という建物や組織、牧師という人、さらに自分たちが奉じる教義や信仰深さをありがたがることも含め、たとえそれがキリストに多少の関係があったとしても、それらは仏像を拝むのと大して変わらない人の心の弱さであると私は評価する。

とりわけ、「かたちのない偶像」は一番厄介な敵であって、それは我々の心の奧深くに潜んでいる。私たち自身の中のキリストに関する誤ったイメージや信仰上のビジョンには、「下がれ。サタン」と命じなければならない。

では、私たちの心が偶像に支配されているのをどうやって見分けることが出来るのか。それは、「イエスを自分の方へ引き寄せて、いさめ始める」態度によって明らかになる。そして主に向かって祝福のことばを述べ、十字架を否定するようになる。(マタイ16:22)

年始にいろいろと計画を立て、夢を持つのは悪くはない。しかし、優先順位が転倒すると、知らずに偶像を拝むことになる。

ナナちゃんはただの人形。計画も夢も、キリストではなく人の形では駄目だ。

2010/12/24

振り返り(信仰編)


最後になったが、私の仕事をはじめ音楽その他のあらゆる活動のベースであるところの信仰に関する振り返り。

2010年に配信されたメッセージ

約束の地カナン(全11回)

1.10 ヨシュアの登場
2.14 ラハブの信仰
3.21 ヨルダン川をわたる
4.25 主の軍の将
5.30 エリコの戦い
6.20 アイの戦い
7.25 日は動かず太陽はとどまる
8.22 約束の地の相続
10.17 逃れの町
11.06 祭司のつとめ
12.12 私と私の家は主に仕える

ひねくれ者のための聖書講座(vol.11~21)

1.24 愛の寛容と不寛容
2.21 はじめにことばありき(その1)
3.07 贖いの文脈
4.11 イエスの相対性と絶対性
5.09 神のまなざしと人のまなざし
6.13 聖書における結婚と奥義
7.04 メタモルフォーゼ
8.08 聖書から見た自然の不自然
9.05 はじめにことばあり(その2)
10.03 コンプレックス
11.28 自殺について

その他

3.14 分かち合いより ショートメッセージ
10.31 ルカ15章(ろばの子キリスト教会にて)
12.19 クリスマスメッセージ

メッセージは、ほぼ月2回のペースで肩を壊さずに登板できた。これなら、そう厳しくはない。自分にとっても非常にいい。

昨年は何と言っても、北海道の兄弟姉妹との交わりがスペシャルトピックだったが、今年はemiさんの昇天があり、深い喪失感に沈む中、戸隠の電気屋さんや横浜のゆばるさんとのお付き合いが始まった。これは私にとって大きな慰めになり励ましになった。また、大阪の姉妹たちも何度も教会やライブにも来てくださった。

30年来の友である銀じ郎さんや、桑名のKojiくん&Mayumiちゃん、そして神戸のmeekさんファミリーとの交わりもさらに深まった。

そして、かのDr.Lukeとのつながりから吉祥寺デビューも果たし、全国に「奈良のSalt」の悪名もとどろいた。

滋賀の「ろばの子キリスト教会」へ出向いての出張メッセージと交わりは本当に楽しかった。これからはオファーがあれば、こういう仕事もどんどんやっていきたい。

そうそう、今年はブライダルの司式もやってみた。これも意外に面白いし、やり甲斐もある。

2年後には、今借りている建物の契約も切れるので、「天理の集まり」は終わりにする可能性も高い。まだ何とも言えないが導きに委ねるだけ。私は集まりを大きくしようと思っていないし、いつまでも続けて誰かに継いでもらおうと考えたこともない。

とりあえず、主のみこころであれば、明日生きていて語るべきことがあれば語るだけ。なければいつでも沈黙して幕を引く予定。
  

2010/12/19

クリスマスっていったい?


クリスマスメッセージとして、全然クリスマスっぽくないメッセージをした。今の私自身に妥協のない話になったと思う。周囲と妥協しているように見られても別に気にしないが、自分に妥協するのはけっこう難しい。自分の中で燃えるように熱くなることば以外は語っても虚しい。そういう点では言いたいことだけ言えたという満足はある。クリスマスの空騒ぎを尻目に、ずっと抱えてきた違和感の塊を今日はすっきり摘出できた気がする。

これでカナン教会を通して発信する2010年のメッセージをすべて語り終えた。ヨシュア記をテキストにしたシリーズ「約束の地カナン」はおしまい。新シリーズは全く白紙。語りたいことも語るべきことも自分の中に、今はない。

2010/12/12

約束の場所へ

「ヨシュア記」をテキストにした2010年のシリーズ「約束の地カナン」を本日終了した。「約束の場所へ」というのは、いろんな意味で向こう数年間の私のテーマでもある。

私が話した内容は、「ヨシュア記」という大河のわずかな滴りにすぎない。興味のある方は御自身で聖書をひもとき、本当に私が語ったようなことが書いてあるのかどうかを詳細に吟味していただきたい。

私のメッセージにはそうするだけの価値は十分にある。それは聖書のことばを少しも薄めず、他のものを混ぜずに語っているからだ。

聖書からのメッセージを語り終えるとものすごく疲れる。決して悪い疲れではない。しかし、全然楽なことではない。

みだりの神の名を語ることは許されず、神のことばを借りて好き勝手な身の上話や自己主張をすれば己を滅ぼすことになる。こんなリスクを誰が好きこのんで負うものか。

私は別にクリスチャンになりたかったわけではなく、教会に行きたかったこともなく、牧師なんてこの世のクズだと思っていたのに、なぜか「似たようなこと」をやるはめになった。

聖書を読む限り、自分から立候補した預言者はいない。神が一方的な主権で導かれたことにのみ、拠り所がある。神が責任をとってくださる。

取りあえず、内側から突き動かすものがある限り語り続けなければならない。来年以降のことはまだわからない。明日のことは明日が考えるだろう。

とりあえず、ホッと一息。

2010/09/22

コンプレックスについて その②

せっかくの休日だというのに、あれやこれやと役場の地域振興課に顔を出したり、地元の中学校や小学校に行ったり・・・・・と、けっこう大まじめに仕事をしてしまった。

まあ、いいや。仕事しながら、半分遊んでるから。

以下は昨日のつづき。

さて、肝心の聖書はどう言っているのか?

「人の心は何よりも陰険でそれは直らない。だれがそれを知ることが出来よう」(エレミヤ17:9)

人の心は良くはならない。しかも、その陰険さの質も程度も本人では捉えきれない。

「しかし、イエスはご自身を彼ら(エルサレムで御名を信じた人たち)にお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてのだれの証言も必要とされなかったからである」(ヨハネ2:23~25)

イエスは信じた者を信用しない。イエスの信頼を得ようとがんばるのは不信仰なのだ。イエスに知られていることを知ることが唯一の安息なのである。 信用に足りない私を愛してくださっている。だから、安心。

コンプレックスは、神から離れた後ろめたさと取り繕いの間におこる葛藤であり、神を抜きにしているから、それ以外の本来無関係な事実が原因であるかのような症状が発症するのだと私は考えている。

聖書は小説ではないので、世の小説家が本来最も紙面をさくであろう登場人物の内面の葛藤などは描かれない。また心理学の本でもないので、ある行為に関する分析も解説もない。
ただ人間の意志決定や行為に関する事実が淡々と描かれるばかりだ。

偉大な葛藤の記録を残してピストルで自分の頭を撃ったり、奥深い人間のドラマを描いて女と心中したりというのはよくある話だ。人は残された作品に共感するかも知れないが、神はただ自殺を評価する。要するに、神の前に取り繕う能力の優越など競っても仕方がないのだ。

全うなクリスチャンであっても、信仰があるにも関わらずコンプレックスを引きずって生きているかも知れない。それは、私たちが肉の弱さの中にある以上、やむえないことなので、そのこと自体を責めても悔いてもどうにもならない。

しかし、断言出来ることがふたつある。ひとつは、コンプレックスは信仰からは生まれはしないということ。そして信仰はあらゆるコンプレックスを乗り越えるということ。

とりあえずは、こんなところで・・・

コンプレックスについて その①

運動会の代休で、少しのんびりさせてもらっている。ありがたいことだ。このゆとりを、たまっている仕事の片づけや諸々のリクエストへの応答に当てようと思う。

最近あちらこちらでコンプレックスに関する話題を目や耳にする。少し前に、友人からの依頼もあったので、この機会に簡単に私見を述べる。

コンプレックスを「劣等感」と結びつけて考える人が多いけれど、学問的に言えば、それは正解ではない。(学問が一般的理解より優位とは全然思ってはいないが・・・・)本来、コンプレックスとは「ある事柄と本来無関係である感情との結びつき」のこと。つまり事柄と感情の複合体である。

コンプレックスの意味は、スクリーンがたくさんある巨大な映画館をシネマ・コンプレックス(いわゆるシネコン)と言うけれど、そのコンプレックスと同じ。数学では、複素数をコンプレックスナンバーと言う。また、文学では、複文のことをコンプレックスセンテンスと言う。いずれも「劣等感」とは関係ない。いずれもただ「引っ付いている」という意味。心理学で使う場合は、「心的複合体」というちょっとわかったような、わからないような訳語がつく。「劣等感」は「劣等複合」といってコンプレックスのひとつの表れのひとつに過ぎない。

コンプレックスが劣等感の同義語として広く受け入れられた背景には、アドラー心理学の流行がある。「劣等複合の克服が人格の成長につながる」とした彼の理論をそのままコンプレックスの説明として無批判に飲み込んだからだ。欧米コンプレックスを克服しながら、高度成長を目指した戦後の日本人の事情にマッチしただけのこと。

コンプレックスは感情の複合。人の感情は「劣等感」だけではない。嫌悪、憎悪、敵意、恐怖、そして、愛着や葛藤など、あらゆる感情がある種の事柄と結びついて人間の深層に潜み、その人の価値観や行動に少なからぬ影響を与える。例えば、ファザコンやマザコンは父母への過度の愛着、エディプス・コンプレックスは息子の父親に対する敵意、ダフネ・コンプレックスは処女の男性嫌悪・・・etc

コンプレックスは、時としてその人の主体性をおびやかすこともある。流行の不登校の原因とされる「学校恐怖症」などもその一例だ。 特に本人が自覚する理由がないのに、どうしても学校へ行けなくなるのである。本人でさえ原因がわからないから問題なのである。学校へ行こうとすると、本当におなかや頭が痛くなったりする。

似非カウンセラーや素人教員は、「このようになったからには何かの理由があるはず」と考えて、子供を問いつめ、「どうして」「なぜ」に当てはまる理由を求める。そうすると、事態はますます混乱するのである。そして、ありもしない「いじめ」を告白させて、ますます親や子どもを袋小路に追いつめる例もある。本人さえほとんど意識出来ない、言語化出来ない原因をさぐり当てるのは、実は至難の業なのだ。

主体性をおびやかすもう一人の自分、それがコンプレックスの正体なのだが、このような分裂的な無意識の中の自己内対話をモデル化したのが、先ほど述べた劣等感コンプレックスの重要性を強調しアドラーである。 アドラーは、フロイトの「性欲」説に対して、人間にとって根元的な欲望は「権力欲」であると主張した。

アドラーによると、人間は誰でも劣等感をもっているが、その劣等感を補償しようとして、「権力への意志」が働くと考えたわけ。 アドラーがこの劣等感を補償する働きに気がついたのは、人が何か特定の器官に何らかの欠損や故障などの劣等性があるとき、それを補償する働きがその人の体にあることを知ったからだそうだ。意外に単純な気づきなので、何だかなあという感じ・・・「性欲」や「権力欲」はいずれも人間の中にプログラムされている要素であるが、それらを極端に浮かび上がらせてモデル化することには、いささか乱暴さを感じる。

患者には、よくわからないモヤモヤに○○コンプレックスという名前を付けてもらって安心したい欲望があり、学者には、自分のモデルの中に人を押し込めて標本化したいという欲望がある。Salt流に皮肉ってやれば、そんな共依存はまさにSMクラブ的なのだ。

2010/09/10

そげですね

「・・・であります」という軍隊用語は、指示伝達のニュアンスを単純化して誤解を無くすため、「・・・でありんす」という遊郭用語は、訛りが出ないようにして出身地を隠すために用いられた。

ともに不自然なことばの破壊である。これではことばに「こころ」や「いのち」はこもらない。

ペテロは「そんな人は知らない」と言って嘘をついて主であるイエスを拒んだとき、ことばの訛りでその正体がばれてしまう。

ペテロのことばにはガリラヤ訛りがあった。これは実に興味深い事実である。「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばの訛りではっきりわかる」(マタイ26:73)と書かれている。

これは、イエスもガリラヤのイントネーションで日常会話をされた確かな証拠である。「いのちのことば」である御方の日常会話は訛っていたのだ。

よく覚えておこう。日常の暮らしの感覚と結びついたことばは、それほどに大切なのだ。

なぜ、教会用語が宙に浮くのか。全く暮らしの血肉になっておらず、実質がほとんど共有されていないからだ。だから、気色悪いのだ。

世界中のドイツもコイツも、「アーメン」などと言うからいけん。山陰のキリスト者は「そげですね」と言おうではないか。【参考NHK朝ドラ「ゲゲゲの女房」】

こうして考えてみれば、「アーメン、素麺、冷や素麺」と揶揄されるのも、非常に納得できる話である。

2010/08/21

地引き網

マタイ13章には天の御国に関する7つのたとえがある。
① 3~9「種まきのたとえ」
② 24~30「毒麦のたとえ」
③ 31~32「からし種のたとえ」
④ 33「パン種のたとえ」
⑤ 44「畑に隠された宝のたとえ」
⑥ 45~46「真珠商人のたとえ」
⑦ 47~50「地引き網のたとえ」

その7つのたとえを締めくくるように「倉のたとえ」が語られ、イエスが郷里で「大工のせがれではないか」と侮られ軽んじられる記事が出て来る。

一つひとつのたとえについて、ここで細かく解説はしないが、ごく簡単にまとめると、この7つのたとえが語るひとつのメッセージは次のようなかたちでまとめられよう。

「多くの人は天の御国の本質を見きわめることが出来ない。しかし、その価値を認めて天の御国のために全てを捨てる人もいる。不自然な力で巨大化したその地上の教会には、毒をもったものや役にたたないものが混じっている。一人ひとりの信仰の真贋が明らかになるのは後のことである」

今回の脱力クラゲの旅では面白がって地引き網体験をした。当然、私のからだは自動的にこのたとえを思い出すようになっているので、いろいろ考えさせられたわけだ。

イエスは当時のガリラヤの庶民がその仕事や普段の当たり前の暮らしの中で見聞きしていることを題材に、とてもわかりやすいたとえを様々な角度から語られたが、別に地引き網なんぞ引っぱらなくても、今日も明日もそこかしこに天の御国の秘密は隠されているというわけだ。

海水浴場にもなっている遠浅の浜にわずかに広げた網だが、けっこういろんな数と種類の魚がかかっていたので驚いた。

ネットに引っかかってくる魚にも「いろ~んなの」がいて当然だ。

2010/07/22

ヨブを呼ぶ声

彼らは彼とともに七日七夜、地に座っていたが、誰も彼に話しかけなかった。彼の痛みがあまりにもひどいのを見たからである」(ヨブ2:13)

ヨブの友人は十分いい奴等だったが、不愉快な役立たずの慰め手にしかならなかった。

彼らは、「教訓」を語ったからだ。

私たちは、人に適用する「教訓」ならうんざりするくらい豊かに持っている。私なんぞ「教師」の類は特に・・・・・

吐き気がする。説教など語るも聴くもうんざりである。

苦しみや哀しみの渦中にいる友や兄弟には、実際「何も言えない」
ただ「何も言えない」しんどさを七日七夜明けても共有していられたらと思う。

主は、御自身が造られた創造世界の素晴らしさをヨブの疑問とは無関係に語られたけれど、答えにならないその答えこそが唯一の答えだった。

苦しみには必ず意味がある。意味がわからなくても意味があるとわかることは力強いことだ。

ヨブは答えを聞いて納得したのではなく、答えを持っておられる御方を信じたのであり、その答えの前に「全ての苦しみを贖う御方」のリアリティーをその苦しみのただ中ですでに味わっていた。それはそれ故なく苦しんだ者の特権である。

私たちは人生の苦しみに対して無力である。しかしながら、その苦しみの中にあるからこそ、自らが神から慰めを受けた事実によって、苦しみの中にいる人を慰めることが出来るのだとパウロは言う。(Ⅱコリント1:4~7)

(キリストの)苦難のあるところには慰めがあふれる。それは理屈ではない。法則である。

そうとも、キリスト者に起こることがキリストの苦難でなくて何であろうか

2010/07/04

地上のかたち・天上のかたち



ブログでは「カン」のシリーズが続いたが、礼拝のメッセージは「カナン」のシリーズではなく、予定を変更して「メタモルフォーゼ」(ひねくれ者のための聖書講座⑰)の話をした。

数日前にはこのブログでも書いたが、「メタモルフォーゼ」とは変態のこと。生物が成長の過程でその姿を著しく変化させることを言う。私の中では、今ちょっとした変態ブームなので、自分にとっての旬のネタを選んだ。

私の教室では、子どもがつかまえてきたツマグロヒョウモンという蝶の幼虫を飼っているが、これが蛹になって羽化していく様子を観察している。

完全変態の昆虫の蛹化や羽化の様子は実に感動的。十字架と復活の美しいモデルなのである。

中年の皆様は、「メタボ」ルフォーゼになって無様な姿をさらさぬよう、「地上のかたち」も大切にいたしましょう。

2010/05/17

「故意の誤訳」より「恋の媚薬」を!

日本語には独特の情緒や深い味わいがあるが、聖書の表現に関する限り、そんな日本語の良さはほとんど感じられない。それは原点の主意を守るためにことばとしてのリズムや流れを仕方なく犠牲にしたものだと思い込んでいたが、実はそうではなく、ただ訳が不味いだけだと言うことがわかってきた。

日本語をこよなく愛する私は、聖書の日本語は最低だと思っている。

でも、聖書は文学ではない。聖書は霊的な書であるから、私は日本語としての意味を越えて「霊」や「いのち」に直接触れている。

だから、おかしいものは何処かおかしいとわかる。そして、封じられているものは解けはしない。神が私に語るのであって、私が正しく読み解くのでない。

改訂と言っても、より原語の発音に近い片仮名表記であったり、人権に配慮したために取って付けたような不自然なことばへのすげ替えたりと、どうにもすっきりする話ではない。

聖書の翻訳に関して、「故意の誤訳」があると言うことは、随分以前から言われている。私も知らないわけではないが、「これが正しい翻訳だ」と言っても、そう主張する人たちに大して正しさやホンモノを感じないので、気になることばや表現はとにかく自分で調べて、他の聖句との整合性を確認しつつ納得できたことだけを発信してきた。

「日本語に立って思考する」から問題があるのであって、「正しい訳に立って思考する」というプロセスにも同様の落とし穴はあると考えている。「信仰に立って思考する」ことが大切だ。

「聖書読みの聖書知らず」ではいけない。

「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか」(ヨハネ3;10)

あらゆる言語は「ことばなる御方」の影であって、何がどう投影されているかがわからなければ、正しい訳も何もないような気がする。

ギリシャ語やヘブル語がすんなり理解できる人は少ない。それなら、せめて英語で読む必要があるだろうか。原語の意味を逐一調べなければ信仰は歪むだろうか。

神は常に無学で普通の人の味方である。キリストを直接知ることには、ことばの妨げはあるはずがない。

2010/02/14

遊女ラハブの信仰

ラハブの家にイスラエルの斥候が身を寄せたのは、ラハブの信仰を見抜いていたからではなく、ラハブが遊女であったからだ。他の遊女の家でも良かったという点では、言わば偶然である。

しかし、神にとってそれは必然であった。神は、町ごと全滅させられるべきエリコに住む憂いと渇きをもったひとりの遊女を覚えておられた。ちょうどイエスがスカルの女に出逢うためにサマリヤを通っていかなければならかったように、ふたりの斥候をラハブの家に送られたのである。

「私はこのふたりの斥候のひとりが、『サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ』(マタイ1:5)のラハブの夫サルモンであった」という言い伝えを支持する。聖書の中に根拠はないが、何とも美しい話ではないか。

神の救い、神の配剤とはそういうものだ。神の恵みに信仰をもって応答するとき、神は驚くべき贖いの大作の中に私たちの思い出を織り込んでくださる。

どうしようもない町のどうしようもない遊女が、アブラハムのとなりに信仰列伝に名を連ね、ダビデとキリストの系図に名を残している事実を軽く見てはいけない。

キリストにあって望みがない人はいない。いつだって遅すぎるということはなく、不可能は可能になる。

詳しくは、音声メッセージをどうぞ!

2009/12/07

復活の卵

人が紡ぐすべての物語は、「十字架と復活」というイエスの物語に飲み込まれていく。人が作ったいかなる「壁」も、唯一の「復活の卵」であるよみがえりのいのちの中へと吸収されるのである。
 
「復活の卵」はよみがえりの初穂であり、神の新創造の宣言と証である。

イエスの物語は、残された4つの福音書によって知られている。しかし、その福音書と言えども、イエスの物語のほんの一部でしかない。

「イエスが行われたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまいと私は思う」(ヨハネ21:25)とヨハネは書いている。
 
 私たちは、「語られざるイエス」「秘められたイエス」を世界と書物から読み取ることが出来る。

 人が心奮わせ涙を流すのは、実は知るも知らぬも「キリストの影」に対してなのである。クリスチャンはその祝福を豊かに享受し、その秘密を鮮やかに解き明かす責務があるのではないか。私はそう思っている。
 
 世を遠ざけ、世に怯え、世に媚びるのは、いずれもあるべき姿ではない。

2009/11/15

ダビデの生涯と詩編 最終章へ

今年は月に1回の割合で、「ダビデの生涯と詩編」というシリーズをお話してきた。抜けたエピソードを補って来年も続けることも可能だが、12月で最終にしようと決めた。

ダビデの生涯はまさに波瀾万丈。彼が残した詩編は、今も世界中の多く人々の心を慰め、励まし続けている。なぜなら、ダビデにおこった出来事と喜怒哀楽は、時空を越えてイエスの地上での人としての体験と結びついているから・・・・

さらに、21世紀を生きる私たちは、ダビデの先行体験を、ダビデから1000年後のイエスを挟んで、さらに2000年後に追体験しているわけだ。物凄いスケールである。

私自身もメッセージを準備するにあたって、ゆっくりとサムエル記や詩編を読み直す機会を得て、新たな発見や感動もたくさんあった。

一番考えさせられたことは、イスラエル最高の指導者であったダビデの家庭生活についてである。彼の家族関係は決して円満とは言えず、妻たちとの強い絆もあまり感じられないし、子どもたちと気持ちが通じ合う場面もない。

長男アムノンが異母妹のタマルを辱め、タマルと母を同じくする三男アブシャロムがアムノンを殺し、ダビデに謀反を起こす。ダビデは全面対決を避けて、エルサレムを明け渡すが、アブシャロムはダビデのそばめと通じて辱めた挙げ句、この戦いでいのちを落とす。

不義の世にあって淡々と箱舟を造り、家族を守ったノアを思う。彼は自分の「家族だけ」しか救えなかったが、ちゃんと「家族を」救った。

私はダビデよりノアがいい。救いは「家」に来なければならない。それは、建物としての家とか、血縁とかではなく、ルツ記などの例を見ても、実質的な「家族」という意味でないだろうか?

2009/10/18

ハーベストタイム

収穫の秋。

カナン教会周辺の田んぼでは一斉に稲刈りが行われていた。眩しい光の中で、刈り取られた黄金色の稲穂が輝いていた。

メッセージのテーマも、ちょうど「刈り取り」のお話。前回は「ひねくれ者のための聖書講座」でヤコブの例に触れたが、今日は「ダビデの生涯と詩編」のシリーズから、バテシェバとの不倫後について。

人は蒔いた種の実を刈り取る。10月の2回のメッセージを準備しながら、私自身も改めて神の計画の深さと繊細さにおののき、また感謝した。

私たちは、自分の罪の結果を刈り取るだけでなく、私が蒔かなかった種の素晴らしい収穫を同時に得る。地に落ちた一粒の麦の収穫である。