2010/07/31

真夏の夜のボサノヴァ

7月最後の日は、「真夏の夜のボサノヴァ」と題して、カフェ・アルコでの3度目のライブ。

近隣の地域のお祭りなどとも日程が重なった中だったが、満員のお客さんの前で、気持ちよく演奏することが出来た。磯城郡やお隣の橿原・桜井市周辺のお客さんが中心だが、大阪から来てくださった方もおられた。


少年時代を過ごした田原本でシーズン毎に演奏させてもらえる場所が出来たのはとても嬉しい。 しかも、ここは元SIGN工房でもある。 いろんな想いがこみあげる。

今回は夏を意識した選曲。最初は「浴衣を着ようか」という 話もあったが、「短パンにアロハで」となった。

お客さんも、静かにボサノヴァを愉しんでくださる方ばかりで、非常にありがたかったなあ。

2010/07/30

洋画教室に用があって

Uribossa氏の母校が主催する洋画教室でのデッサン修行に行って来た。ここ数年は夏の恒例行事になっている。 日々のクロッキーやデッサンを怠ると、描写力は衰えるばかり・・・わかってはいても時間もなくて、たまに作品は描いてもきちんと基礎練習など全くしていない私。最低限、自分に課したルールとして、毎年これだけは行くようにしている。



しかし、なかなか描くモチベーションが出来ない。私は元々描きたく無いものは描きたくないし、描きたくない時にも描きたくない人なので、「みんなでイーゼル並べて」「あてがわれたモデルやモチーフを」という情景がすでにしんどい。

そんなことを言ってずっと描かずにいると、本当にただの下手くそになってしまうので、ここはひとつ真面目に描いてきた。

2010/07/29

ギャラリー夢雲


私の住む室生にはいくつかのギャラリーがあるが、私の一番のおすすめは向渕にある「ギャラリー夢雲」である。ご近所ながらオーナーは毎回DMを送ってくださっている。にもかかわらず、なかなか足を運ぶことも出来ず失礼が続いているのだが、いつも顔を出すと温かく迎えてくださる。

今日は、「カリンバ・山下光雄/珍獣画陶・中山昌果」の展覧会のスペシャルイベントとして、ロビン・ロイドさんのコンサートがあった。


ロビンさんは、山下さんがカリンバを作り始めるきっかけとなった人で、カフェテラスNZにもゲストとして来てくださったことがある。 そんなつながりもあって、私はPAスタッフとして参加させていただいた。こういう裏方仕事もけっこう楽しいものだ。

不思議な空気やオーラを漂わせる人たちが次々に出入りする。そういう人たちを見ているだけで面白い。面白い人はまた別の面白い人とつながっているものだ。

けっこう高価な作品も次々売れていく。山下さんも中山さんも、それぞれに見るたびに作品が良くなっているので、売れて当然とは思うが、オーナーの魅力やギャラリーの場の力も大きい。「ふるさと元気村」ではこうはいかない。

ロビンさんは、カリンバや民族笛を使った即興演奏でコンサートを作っていく。「世界中のミュージシャンを集めても、楽譜が読める人、使う人の方は20%もいない。音楽は学校で教えるものではなく、初めから人の中にあるもの。私の今演奏した曲は皆さん初めて聴かれたと思いますが、私も初めて聴きました。」そんなMCをしながら、山下さんのカリンバを自在に操って、雨あがりの匂いを感じる山の音を奏でていた。

2010/07/25

今年度は粘土で父カエル


もうすぐ大阪市立美術館で開かれる私学美術展に出品する娘の粘土作品だが、カエルのモデルが何とSalt氏だそうだ。

カエルはどうやら酒を飲んでいい気分になっている様子。

やれやれ。まさに父カエル。

過去2年は油絵を制作していたが、今年はなぜかこうなった。

あれだけ好きだった吹奏楽をあっさりやめてしまい、さらに大好きな美術を選んだが、大学は芸術系は嫌だとのこと・・・・

猫をお洒落な町中に置くのではなくて、ユーモラスなカエルと組み合わせるあたりは、さすがにカエルの子はオタマジャクシ・・・



池の中のザリガニや蚊取り線香も苦もなく作っていた。こういう細かい作業は大好きみたいだ。

猫は娘の化身だろうか。猫とカエルの間の蓮の池が妙におかしい。まるで童話の一場面のようだ。

これを見る限り、あまり恰好の良い父親像ではないが、どうやらそんなに嫌われてはいないようだ。

面白がってブログにアップしているのを見つけたら何と言うかな?

2010/07/24

アナクロでアナログな私

数ヶ月ぶりの休養日。

久しぶりにレコードをかけた。

本当に何年ぶりだろう。

レコードをかけるという一連の儀式的行為やターンテーブルが回っている様子などが何ともいい。

改めてジャケットの大きさを確認。CDだとジャケットデザインをLPレコードほど意識することはなくなった。この大きさは大事な要素だったのだ。

私はアナクロでアナログ嗜好が強い人間である。

アナログというのは、元々「類似」「相似」という意味の英語だ。LPレコードはアナログの代表選手。ご承知のように(若い読者はレコードの音を聴いたことがない人がいるかも)レコードには細い溝が刻んであって、その溝をレコード針がトレースして音を再生する仕組みになっている。この溝の刻まれた壁面の波と音の波が「類似」「相似」であるという訳。

消耗品である針が、同じく消耗品であるレコードの溝を読んで波に揺れながら針が振動して電気信号を検出する。この信号は極めて小さいのでアンプで増幅し、スピーカーから音を出す。ここでスピーカーから出る最終的な音は空気の波であって、これがレコードの壁面の波と「類似」「相似」なのだ。

私は時計もアナログ派である。アナログ時計は、針が連続的に動いて時刻を表示するのに対し、デジタル時計は、1秒なり1分なりといったまとまりを数字で段階的に表示する。

実際の時間は「連続的に」進んでいるので、これを「連続的に」表示するアナログ時計が私にはわかりやすい。音楽も時間芸術なのでやはりアナログがいいのだろうか。

車やバイクのスピードメーターのデジタル化があまり歓迎されないのもよくわかる。音楽には始まりがあり、終わりがある。スピードやリズムがあり、音にならない音楽が大事なのだ。

レコードは長時間聴いてもCDより疲れない。同じ音量で聴きながら仕事をしていても邪魔になる感じが少ない。




ちなみに使用したレコードは・・・

MILES DAVIS/ kind of blue
CAROL KING/one to one
松田聖子/the 9th wave
大貫妙子・鈴木茂・細野晴臣/on the beach

2010/07/23

飴と無知

日本政府は来日した金賢姫をVIP扱いしたが、拉致に関する新たな情報は何ひとつ得られなかった。韓国は、米韓の軍事演習を目前に日本を取り込む為のカードとして、金賢姫をこのタイミングで出したわけだが、菅さんはその当たりをどう考えているのか。

日本は事前に何の情報収集もなく、ただ政権の人気取りの為に元死刑囚を国賓扱いしたのであれば、拉致問題解決に向けてはかえってマイナス効果であろう。「飴と無知」と揶揄される民主党政権だが、鳩山さんから菅さんにバトンを渡しても、見通しは暗い。

日本では緊迫する中東情勢よりも、連日「大相撲がどうのこの・・・」といった類のことばかり。悪いのは菅さんだけじゃないなあとしみじみ。

少し前になるが、野中さんが内閣官房機密費の使い道を暴露してしまった。私は野中さんが秘密を漏らした事実以上にその内容にはもっと驚いた。誰もがうんざりするようなこの国の中で、しょうーもない目先の利益にしがみつく構造を支えるためにのみ、血税が蒔かれていたのである。(野中さんは自分の出自についても明言している人なので、発言の信憑性はかなり高い)

イスラエルのモサドがどんな金の使い方をしているかは知らないが、まさか日本の機密費のようではあろうはずはない。

カプセル化された箱庭のような国ニッポン。絶望しきること以外に希望がないではないか!(私の場合は、村上龍よりは信仰の分だけ少しだけ前向きな表現になるが)

モンゴル人力士が孤軍奮闘する大相撲は、何かあるごとに「国技」「国技」と言われる。いじめによる弟子殺し、八百長、賭博、外国人の台頭・・・等の現状を見れば、確かに「ニッポンの国技・大相撲」という感じがする。

2010/07/22

ヨブを呼ぶ声

彼らは彼とともに七日七夜、地に座っていたが、誰も彼に話しかけなかった。彼の痛みがあまりにもひどいのを見たからである」(ヨブ2:13)

ヨブの友人は十分いい奴等だったが、不愉快な役立たずの慰め手にしかならなかった。

彼らは、「教訓」を語ったからだ。

私たちは、人に適用する「教訓」ならうんざりするくらい豊かに持っている。私なんぞ「教師」の類は特に・・・・・

吐き気がする。説教など語るも聴くもうんざりである。

苦しみや哀しみの渦中にいる友や兄弟には、実際「何も言えない」
ただ「何も言えない」しんどさを七日七夜明けても共有していられたらと思う。

主は、御自身が造られた創造世界の素晴らしさをヨブの疑問とは無関係に語られたけれど、答えにならないその答えこそが唯一の答えだった。

苦しみには必ず意味がある。意味がわからなくても意味があるとわかることは力強いことだ。

ヨブは答えを聞いて納得したのではなく、答えを持っておられる御方を信じたのであり、その答えの前に「全ての苦しみを贖う御方」のリアリティーをその苦しみのただ中ですでに味わっていた。それはそれ故なく苦しんだ者の特権である。

私たちは人生の苦しみに対して無力である。しかしながら、その苦しみの中にあるからこそ、自らが神から慰めを受けた事実によって、苦しみの中にいる人を慰めることが出来るのだとパウロは言う。(Ⅱコリント1:4~7)

(キリストの)苦難のあるところには慰めがあふれる。それは理屈ではない。法則である。

そうとも、キリスト者に起こることがキリストの苦難でなくて何であろうか

2010/07/21

夏はクールダウン

終業式が終わって体育館から帰ってくると、通知票を渡す時間。クソ暑い中、わかりきったような野暮な話もよろしくないので、子どもたちに1学期を振り返ってのコメントをしてもらった。

「跳び箱が跳べるようになった」「わり算がわかって算数が好きになった」「バタフライが出来るようなった」など、全員が自分のことばで自分の変化や成長を語っていた。

個人懇談が始まる。親たちの要望をかなり聞くようになったとはいえ、紙切れ1枚で、保護者を順番に呼び出すのだから、「学校」というのはずいぶん偉そうなものだといつも思う。

せっかくの機会なので少しはまともな情報交換をしなければとあれこれことばを選ぶ。「聞きにくいこと」や「言いにくいこと」の中に真実がある。十分な信頼関係がないまま、そうした中身に踏み込むことは出来ない。

相手に受け止めてもらえるボールを投げなければ、キャッチボールは続けられない。
あせらず、のんびり行こう。1年はまだ半分以上残っている。

それにしても暑い。

みなさん、熱中症にご用心。何事にも熱くなりすぎてはいけない。夏は特にクールにいかないとね。

2010/07/19

セルフポートレートとしての写真




写真というのは、写す対象が何であろうと、それは一種の自画像である。

「写真に神話などない。情報が写っているだけ・・・・」とY.B.M氏は言った。

それは、私を取り巻く外部の情報であり、私自身の内部の情報でもある。そんな風に私は受け止める。

誰でも、シャッターを押すだけで写真は撮れる。そんなものにたいした優劣も、繊細な表現もないと思っていた。しかし、テキトーにシャッターをきったものであっても、私が撮ったものはどう考えても、「私が写したかったもの」である。それは、「私が残したかった時間」や「私が心動かされたもの」だ。

茶話会に参加された一人ひとりの作品を見ていると、そこには彼らの映像はなくても彼ら自身が写っているのを感じる。

写真は面白い。カメラが鉛筆や紙みたいになってくると楽しい。

もし、ワールドカップに日本が出ていなかったら、ずいぶん味気ないものだっただろう。日本が出場しているから、その他の試合さえ熱くなって観る。「子どもがいる」というのは、そういうことかも知れない。親は子どものサポーター。子どもがいるから、人生にも熱くなれる。

大きくなっても、子どもは子ども。そして、私もかつては子ども。そして、今は神さまの子ども。約束の場所で、私が見せてもらえるスライドショーはどんなものだろう。そんなことを思いつつ、シャッターをきる。

2010/07/16

ふぅ~っ

いよいよ1学期も3連休明けに終業式を残すのみ。

ふぅ~っと大きな溜息ひとつ。

私が全力で関わっても、子どもたちが短期間にそれほど劇的に変わるということはないし、一時的にそんな風に見えたとしても、それは本人にとってもそれほど幸せなことではなく、決して長続きもしない。

子どもには、一人ひとりに成長のスピードがあるし伸びる節目がある。無理に押したりひっぱったりしてはいけない。

小学校の教室は、目的を特化した塾でもスポーツクラブでもない。人格の成長を支援する場所であり、そんな個の成長を集団の中で生かす舞台である。

彼らはみな別個の独立した人格であって、決して十把一絡げにはできないし、彼らの伸びる方向や花開く時期などは、私の思惑通りにはいかない。

安易なパワーやスキルで管理することに違和感を持っている私は、こちらからの発信よりも、子どもからの受信をメインにした1学期を過ごした。

夏休みもそうのんびりは出来ないが、出来る限り休んで充電しよう。

2010/07/11

SIGNの写真茶話会



同じ時代、同じ空間を生きていても、ある人は注目し、ある人は見過ごすものがある。

それ故、私が撮った写真には私が選んだ情報が何かしら詰まっているはずだ。私が過ごした時間が多少は刻まれるはずだ。

カメラという道具を持ち込むことで、私を取り巻く世界に対して向けられる「自分自身のまなざし」に対して意識的になれるのが面白い。

参加者の作品を見ていると、それは何を撮っていようと一種のポートレートに見える。

2010/07/04

地上のかたち・天上のかたち



ブログでは「カン」のシリーズが続いたが、礼拝のメッセージは「カナン」のシリーズではなく、予定を変更して「メタモルフォーゼ」(ひねくれ者のための聖書講座⑰)の話をした。

数日前にはこのブログでも書いたが、「メタモルフォーゼ」とは変態のこと。生物が成長の過程でその姿を著しく変化させることを言う。私の中では、今ちょっとした変態ブームなので、自分にとっての旬のネタを選んだ。

私の教室では、子どもがつかまえてきたツマグロヒョウモンという蝶の幼虫を飼っているが、これが蛹になって羽化していく様子を観察している。

完全変態の昆虫の蛹化や羽化の様子は実に感動的。十字架と復活の美しいモデルなのである。

中年の皆様は、「メタボ」ルフォーゼになって無様な姿をさらさぬよう、「地上のかたち」も大切にいたしましょう。

2010/07/03

菅より元缶



Salt&Uribossaとしてどんな楽曲を選んでどんなふうに演奏するかについて、私たち自身がお客さん以上に、そのプロセスを本番以上に楽しんでいる。

今回のフライヤーは、そんなSalt&Uribossaの遊び心と音楽がデザインされていると思う。

菅より缶

「風のメロジア・レコ発ライブ」「ボサノバレンタイン」と続いて、田原本カフェ・アルコでの3回目のライブです。私が少年時代を過ごし、相方Uribossaが現在も棲息する磯城郡での演奏は、特別な思い入れもあり、今回も短いインターバルながら、新曲・難曲に果敢にトライします。

オーナー自慢のお食事プレート(限定10食)は、デリシャス&リーズナブル。
各種ドリンク片手に、まったり「真夏の夜のボサノヴァ」をお楽しみください。


2010/07/02

メタモルフォーゼ

今から約20年前の詩を綴った詩集「生贄たちの墓標」の中で、私は「アゲハチョウの変態に隠された本物の哲学」というフレーズを書いている。

「変態」は、最近のマイブームでもある。私の教室で「ツマグロヒョウモン」という蝶が次々に羽化しているからだ。職員室では、同僚が持って来た「オオムラサキ」の蛹が羽化した。

そうこうして盛り上がっていたら、電気屋さんのブログでも羽化の話題が取り上げられているではないか。こういう霊的シンクロは楽しい。これはムシできないなあという感じ。

昆虫の羽化、とりわけ蝶の仲間のように、完全変態といって「蛹」になるもののメタモルフォーゼは実に感動的だ。まさにそれは死と復活のモデルであり、栄光のからだの実在を保証する天からのメッセージでもある。

人の目にはあまり触れないかも知れないが、あちこちで今日も無数の虫たちが「いのちの法則」に従って羽化している。

人間様は、ウカウカしていてはいけない。

2010/07/01

こりゃあ「かんなおと」おい景気回復

菅首相は、「低所得者に配慮し消費税率を上げた分を還付する」と発言。その「低所得者」の定義も揺れ動き、聴き方によっては、半数の世帯からは消費税はとらないともとれる内容である。いったいこの人、何を考えているのだろう。

消費についても、税金についても、一国のリーダーとしてあまりにも考えが浅薄である。本当にこんなことをしてしまうのなら、そもそも何の為に増税するのかさっぱり意味不明だ。

「むこう4年間消費税は据え置く」と公約して政権をとった民主党。参院戦を控えて候補者に配られた想定問答集の中では、「マニュフェストは、状況を見て変わっていく余地がある」と書かれているというからあきれかえる。法人税率は見直さないのか。

このまま菅氏が、片方で日和見のパフォーマンスをしながら、己の政権延命のために対米追従路線を突っ走れば、この国は取り返しがつかないほど落ちぶれ果てるのではないかと思う。

「議員定数を見直すべきだ」という意見も少なくない中で議員会館の建て替えをしたり・・・・政治家のやることは、庶民の感覚から大きくかけ離れている。