2010/01/23

秘密のテキスト公開

徘徊指導生活も残りわずか。木曜日の学校は担当する方が産休に入ったのですでに終了。どの学校もあと5回程度で今年度の仕事はおしまい。

私のことをいつでも何処でも、かなりやりたい放題、言いたい放題にふるまっているように思われているかも知れないが、実際はそうではない。特に仕事ではずいぶん遠慮して、言いたいことは百のうちせいぜいひとつかふたつしか口にはしないのが、現時点での私の方法である。 我慢して自分を押さえているわけではない。

自分が正しいと思い込んでいることが常に益になるとは限らず、言いたいことは言うべきことでないことが多い。そういうことはたっぷり学習してきた。とにかく聴き手の姿勢とキャパでずいぶん内容は制限され精選される。最終的に子どものマイナスになるようなことや、相手や自分が不愉快になることは注意深く避けているのだ。

・・・・とは言うものの、内容はほぼ全面的に私個人の裁量に委ねられているので、この自由を全く無駄にするのはもったいない。せっかくだから他で絶対聴けない話もしてやろうと思い結構面白いネタを準備している。とりあえず、少しは楽しみたい。

指導内容の8割は、その日その時の授業や子どもの事実に基づいた振り返りや考察で、抽象的な価値を押しつけるような話はいっさいしないようにしている。ただ残りに2割は、私の経験に基づいた私にしか言えないこと伝える。その為にこの1年ゆっくり記憶を整理し、資料は常に集めてきた。

今回は、金曜日に指導に使ったテキストを特別に公開しよう。

私の20年余りの現場観察によれば、「プロレスの醍醐味を本当に知っている教師は例外なく学級経営に秀でた手腕を持っている」と言う仮説を立てることが出来る。それがなぜなのかということを、私が実力を認める3人のレスラーの証言をもとに私の教育との関連を示す簡潔なコメントによって構成したテキストを作成した。

なぜプロレスなのかというと、上記の理由の他に、金曜日に勤務する学校(毎朝おはボンがかかる)の校長先生も教頭先生も、そろってプロレスに深い理解と愛情をもっておられるからなのだ。今回も事前にこのテキストをおふたりに見せたところ、「あきれるほどに素晴らしい」と絶賛をいただき、私もずいぶん気をよくしたと言うわけ。

興味のない方には非常にくだらない内容だと思うが・・・・


では、どうぞ。




八百長批判に対するレスラー語録に学ぶ

A
「(バックドロップの際)相手の選手レベルに合わせて角度を調節する…以前そのように話したら、  “本 気でやっていない”と批判されたことがある。もちろん私はいつも本気だ。“プロレスは殺し合いではない”と思っているだけなのだ」(ジャンボ鶴田)

B
「最近は投げっぱなしジャーマンや投げっぱなしパワーボムがはやりだが、私個人の意見では、どんなに首を鍛えたレスラー相手でも避けるべきだと思う(首は鍛えられない)」(ジャンボ鶴田)

C
「反則は基本的には不器用なレスラーが、自分のペースを取り戻すためにやることであってね。いきなり目つぶしとかされたら、作戦を持ってたレスラーも瞬間的に考えが飛んじゃうでしょ。そういう効果を狙うもの」(三沢光晴)

D
「総合格闘技は勝敗だけが焦点になる世界。いい選手がいなくなったら飽きがくると思う。プロレスには勝ち負け以外にも見るところがたくさんあるし、飽きられることはない」(三沢光晴)

E
「プロレスはロープを使って上下左右に動けるから、体格差のある相手とも闘えるんだよ」(三沢光晴)

F
「受け身を取るのは、相手の攻撃がキツイからじゃない。体をぶつけられたり蹴られたりした力を後ろに逃がしているだけであってね。受け身をたくさん練習するから、プロレスはやらせだなんて思われても困るんですよ。ロープに飛ばないようにすることは、もちろんできますよ。ただ走らないようにすると、相手に片腕を取られた状態になる。片腕を取られてロープに行かない場合は、相手にそのまま肩とか肘を抜かれちゃう場合もある。人間の関節って外れちゃうものなんですよ」(三沢光晴)

G
「ドロップキックの自爆程度なら、ただ痛いだけですよ。でも精神的なダメージがありますよね。“ああ、スカされちゃった。カッコわりぃ”っていうね。プロレスの試合っていうのは、ひとつの技をマスターするまでにかけてきた時間や、努力の結果を出す場でもあるわけですよ。それは相手も解ってますから、相手のフィニッシュホールド(決めワザ)は何度も受けられないけど、ドロップキックぐらいは受けてやるわけです」(三沢光晴)

H
「技をやった時に、そのつもりはないのに、モロに急所が入っちゃう時がある。膝蹴りって基本的には膝を鋭角に入れちゃいけない。エルボーでも肘の骨は当てないつもりでも、当たっちゃう時がある。そういう時には、分からないように相手に大丈夫かと聞くことがありますよ。お客さんに知られちゃマズイけどね。あるいはロープに飛ばしたりして、相手に軽い技を出す。でも技を出すのも受けるのも上手じゃない選手がいる。例えばドロップキックを打っても、体が上がりきらないで相手の腹に入るような奴ですね。まぁこれは若手を相手にしたときの試合の話ですけど、ああこいつは俺の技はまだ受けられないな、と感じたときは実は(技を)事前に教えてやることがあります。まあそれは相手が未熟な場合のみですよ」(三沢光晴)

I
「相手の技をいかに美しく受けてみせるか、それが“受けの美学”。それはもう愛ですよ。こんなに素晴らしいスポーツ、ないじゃないですか」(武藤敬司)

J
「総合格闘技を柔道のように競技として追求するものとして見ている。プロレスはまったく違う。プロレスラーは芸術家であり、職人でもある。試合は技術を見せる作品だと思っている」(武藤敬司)


教育現場に適用すると・・・
学校不信に対する信頼回復の心得として

A
子どもに課題を与えるときは、発達や能力にあわせて内容を調節する。

B
あわただしさの中、教えっぱなし、やらせっぱなしになることが多いが、どんな子ども相手でも避けるべきだろう。

C
授業の中で、ハメをはずす子どものぺースに乗せられてしまうことが多い。不器用を自覚するなら、自分のペースを取り戻す効果を狙った手練手管が必要だ。

D
「大きい・小さい」「はやい・遅い」「強い・弱い」「出来る・出来ない」で勝ち負けを競ってはいけない。世の中には見るべき多様な価値がたくさんあるんだと伝えよう。そうしないと、度重なる負けは、子どもにとってダメージが大きすぎる。教室にいることを、学ぶことに飽きさせてはいけない。

E
学校や教室という枠(制限)をうまく利用することで、さまざまな違いを豊かさに変えて、共に互いを生かし、また実りを分かち合うことが出来る。窮屈かつ滑稽と思える教育のフレームをいたずらに批判するだけでなく生かす発想が大事なのだ。

F
教師からの指示命令は攻撃であり、聴くことは受け身である。子どもの無駄な力も上手に受け、後ろに逃がしながら、一人ひとりの子どもの持っている一番良いものを出させたい。

G
授業には、その単元におけるねらいの実現にむけて、準備にかけてきた時間や努力の結果を出す場である。子どもたちにもそのことを理解させ、教室をともに磨いた技を出し合えるリングにするのだ。

H
配慮を要する子どもには、大丈夫かと声をかけたり、つまずきが予想されるときには、事前にヒントを与えてやったりすることも必要だ。

I
子どもの発信するものをいかに美しく受けてみせるか、それが“受けの美学”。それが教育における愛。授業づくりも、学級経営も、児童理解も、すべてそこにつきる。

J
塾や予備校は利益を追求するものとして見ている。公立学校は塾や予備校ではない。商売ではないのだ。教師は芸術家であり、職人でもある。授業は技術を見せる作品だ。

9 件のコメント:

  1. 思わず笑ってしまい…でも、A~Jまで的を射た深いコメントです。こんな話が聞ける初任の先生は、この一年、抜けない楔を打ち込まれたでしょう^^

    私は、プロレスや格闘技に入れ込む程、興味はありません。ときどきTVで楽しむ程度です。
    だから、プロレスの方のA~Jも「へぇ~、プロレスってそういう考えか。」と楽しませてもらいました。
    おもしろい、と思うのは、専門ば〇でない方は、必ずこういう別分野の世界から共通の真実を引き出し、わかりやすく説明してくれます。どんなに詳しく新しい知識や技法であっても、聞いてて退屈さを感じるのは、「それだけ」しか認めようとしないその人の姿勢のせいなのか?

    私は特にEがポイントと思いました。今の私にとっては特に。

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  2. おもしろすぎる。
    冗談抜きでこのような形で本にして初任者の辞令交付式で手渡すべきである。(明治図書からでも売れるんちゃう?)
    ぜひこれからも、どんどん秘密を公開して下さい。読んで理解できても、実践できるかには大きなステップアップが必要なんで。

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  3. さすが、同業者の反応は早いね。

    プロレスは共生の世界なんです。還暦すぎたレスラーも若手と魅せる試合が出来、弱いレスラーも強いレスラーと面白い絡みが可能なのです。

    「どっちが強いか」という単純な物差しの総合格闘技とは深さが違う。事実、ボブ・サップやチェ・ホンマンなんて使い捨てでしょう。

    学校という制限は、私にさまざまな知恵を与えてくれました。それはプロレスのリングみたいです。でも、どこかにレフリーの死角ってあるんですよ。

    ある角度にいるお客さんには見える。

    そして、名レフェリーは、旨く見て見ぬふりをして、魅せ場に協力するんです。

    プロレスでは、そういうレフェリーにはレスラー以上の拍手が来るんです。例えば、古くはジョー樋口、そして和田恭平など。馬場門下の全日系のレフェリーが優秀です。

    どんどん話がマニアックになっていくので、この辺にしますが・・・こんな本、明治図書が相手にしますかいな。

    レフェリーの死角でこっそりやります。

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  4. エシュコルさとやん2010年1月24日 23:59

    へ~、さすがSaltさんですな。
    昔テレビで『女王の教室』があったが、アレをどう考えますか?

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  5. 知ってますよ。何回か見ました。

    天海祐希がエンドタイトルのとこで踊ってたのが、格好良かったな・・・という印象です。内容のディテールは現実離れしているし、イマイチ思いつきでスタートしたけど、内容がついて来なかったって感じかな。

    あの番組は、プロデューサーが自分の子どもの学校の参観に行って、崩壊しかけたお友達タイプの先生の学級経営に対して違和感を感じたのが、番組制作の動機になったと何かで読んだ記憶があります。

    「駄目なものは駄目」とはっきり言えない大人が多すぎるのです。

    私は躾けに理由なんて必要ないと思っています。

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  6. エシュコルさとやん2010年1月25日 13:06

    躾の行き過ぎとしての暴力は論外としても、体罰はどう考えていますか?

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  7. 体罰は暴力とは厳密に区別して肯定すべきでしょうが、いたずらにそれを言うと、体罰の名を借りた暴力がはびこります。特に学校においては体罰は厳禁です。

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  8. エシュコル2010年1月27日 0:08

    と言う事は信念として教育現場では、指導されるとかではなくて、体罰は言語道断だとお考えですね?

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  9. そうです。

    体罰と暴力を峻別出来るほど、現場の平均的教師には、知恵も愛情もあるとは思えないからです。

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