2011/01/31

算数嫌いにならないで

4年生くらいになると、算数嫌いの子が増えてくる。過去の塾講師経験を振り返っても、中・高で数学の苦手な子は、たいてい4年生か5年生でつまずいている。

私は高学年を持つと、「この教科(単元)で学ぶことは、将来こんな風に役に立つのだ」というオリエンテーションの時間をかなり丁寧にとる。4年生くらいだとまだそれはちょっと難しいので、とにかく「楽しかった」「おもしろかった」という感覚を残してやりたいと思っている。

大人になっても、度量衡の感覚や集合の概念、関数や確率や損益の計算など、算数や数学を通して身につけた力は暮らしの役に立つことばかり。

算数のテストがちょっと悪かったくらいで、算数嫌いになってはもったいない。逆に少しばかり満点が続いたくらいで、「この子は理系が向いているのでしょうか」と言う親御さんも、やや気がはやりすぎ。

私も理想ばかり高くて、たいしていい授業は出来ていないが、可能な限り具体的な活動や操作を通して体験させることを大事にしている。

面積の学習では、1平方メートルを体感するため、みんなでその上にのっかったり、算数の教科書を敷き詰めると何冊分になるかを予想して、実際に計算してみたりした。

立体の学習では、5ミリきざみで、立方体マトリョーシカを作った。条件はすべて異なる展開図にすること。

工作用紙を無駄なく使っているかどうかも評価のポイントのひとつ。

2011/01/29

本日のリコーダー講座より



今週は連日11時前後の帰宅となり、さすがに消耗が激しかったが、何とかリコーダー講座の準備をし、ケーナ奏者のすーちゃんのサポートもあって、実に楽しくクリア。ほっとした。正直、「今回は内容が乏しくなるかな・・・」と珍しく心配していたのだ。

音楽が充実すると、休養するより遥かに元気が出るから不思議だ。すーちゃんのフォルクローレ・コーナーもとても良かった。何ヶ月がぶりに来てくださった方が、「ケーナの音が大好きでかつて挑戦したことがある」と言っておられたので、すーちゃんのコーナーには大満足だったようだ。

音楽専科の先生ふたりは特に初見の楽譜もサラリと演奏してくれるので「さすがだな」といつも感心している。自分の編曲したものも、きちんと3パートで演奏してもらえると、改めて全体を確認できるので自分も勉強になる。本当にこの講座は、私が教えているというより、みなさんに演奏していただいて私が楽しませていただく機会になっている。ありがたいことだ。

毎回、神戸から参加してくれる銀じ郎さんとのアフタータイムも楽しい。
今回は、榛原の「こんぴらうどん富士」へ。

何とも懐かしい佇まいのお店で、会話もしみじみしたものに・・・

この季節、おでんが美味い。

2011/01/28

わが町「天理」のタイガーマスク


漫画「タイガーマスク」の主人公の名前などで全国各地の福祉施設に寄付する動きが群馬県で始まって以来、1か月。奈良県内でも昨年12月30日以降、十数件の贈り物が県に報告されている。そんな中、天理市の児童養護施設「天理養徳院」に、絵本や色鉛筆、お菓子などが入った紙袋が置かれ、中に1枚の手紙が添えられているのを施設で暮らす5歳の男児が見つけた。

天理養徳院(うめ・さくら)様 この部屋にたくさんの小さい子どもたちがいると聞いてやってまいりました。テレビや新聞などを見て私もやってみたい、役に立ちたいと思って本やおかし、遊び道具を持ってきました。どうか喜んでいただければと思っています。 伊達直人4人 伊達直子1人

この手紙が見つかったのは20日。ディズニーのキャラクターの便せんに鉛筆でこう書いてあった。

同院では18歳までの71人が、いくつかの棟に分かれて共同生活を送っている。「うめ・さくら」は6歳までの16人が暮らす幼児棟のことだ。お菓子は今年になって子供たちに配ったものばかり。手紙を見た中島道治院長(62)は「これは院内のタイガーマスクや」とすぐに思ったという。

実はこの4日前の16日、中学2年の女子生徒が同院を訪れ、匿名でお年玉袋に入った4000円などを寄付していた。中島院長は「このことに上級生が刺激を受け、下級生のために伊達直人を演じたのでしょう。自分のことでも精いっぱいのはずの子供たちなのに、すごい成長を遂げてくれた」と目を潤ませた。

同院では21日早朝にも、幼児棟でカラーペンや筆箱などが入ったビニール袋が見つかった。今度は一つずつ新聞紙で丁寧に包装され、「伊達直人2人 伊達直子4人」の署名があった。ある女の子が中島院長に教えた。「先生、わたし、誰がタイガーマスクか知っている。また明日も誰かがやるって聞いたよ」

中島院長は意を決して全員に説いた。「先生は皆がこういうことをしてくれてうれしい。だけど、もうこの中でやるのはやめにしよう。今度はみんなが社会で自分の気持ちや思いを人のために渡してほしい」。子供たちの顔を眺めると、みんなが一様に穏やかな笑顔を浮かべていたという。(須藤祐介)

(2011年1月27日 読売新聞)


昨年、私は新人の指導の為に市内4校を徘徊していたが、金曜日はこの「養徳院」の子どもたちとも付き合ってきたので、この記事は私にとっても大きな御褒美というか、本当に感慨深いものがある。

また、現院長の中島先生は、私の局長時代の研究会の事務局の業務で、いろいろお世話になった方でもある。

世間は負の連鎖の悲しい出来事ばかりだが、こんな子どもたちのやさしさには心がふるえる。

今週はいろいろあって、学校を出るのが連日10時前後という厳しさだったので、この記事は心に染みたなあ。

2011/01/26

完走の感想


寒風吹きすさぶ中、かけ足大会が開かれた。

始業式の日、全員に一言ずつ今年の抱負などを語らせたところ、ひとりの男の子が「ボクはかけ足大会で絶対一位になります」と宣言したのだ。その子は見事に宣言どおり1位になったのだが、2位と3位の子は悔しくて泣いていた。2位の子との差は1秒、さらに2秒おいて3位。4位には女子がひとり食い込んだ。男まさりのこの子は毎年4位。どうしても上位3人の男子にはかなわないのだ。それぞれの子どもに思いやドラマがある。

特に3位の子は途中までずっとトップを走っていただけに、その落ち込みは激しかった。こうした真剣な競り合いは見ていても気持ちがいい。「みんなそろってゴールイン」なんてのはダメだ。1位を目指して走らないと。はじめからオンリーワンを目指すようでは、どうでもいい様なその他大勢になりさがる。たとえ負けても、1位を目指して全力を出し切れば必ず「何か」が残る。

教室に戻って、また一巡感想を聞いた。

「一度も立ち止まらずに走れたことが嬉しい」と満面の笑みで32位の女の子が話してくれた。すばらしいコメントだ。体調の悪い数人の走りが気がかりだったが、ちゃんと完走の感想を笑顔で語っていた。

2011/01/23

邪馬台国を掘る


NHKスペシャル「邪馬台国を掘る」は、久々に見応えがあった。話題の遺跡は、私たちのレンタル会堂と目と鼻の先。

3世紀の日本は謎だらけ。それ以降も古代史はよくわからないことばかりだが、そんなモヤモヤしたものがいっぱい埋まった土の上で生活している奈良県人。

県を代表する有名人といえば古代人ばかり。「遷都1300年」が終わったら、さて町おこしはどうするのという感じだったが、これから邪馬台国の決定的証拠が発見されたとなれば、かなり盛り上がるだろう。まあ、そんなことはどっちでもいいが・・・

卑弥呼の行っていた鬼道が弥生信仰を否定するものであり、中国の道教との結びつきが深いとする説を裏付ける「破壊された銅鐸」と「数千個に及ぶ桃の種」の発見。また、それを取り入れるにあたる政治的な意味合いを魏志倭人伝の記述から解説するくだりはかなり説得力があった。

私の場合はムキになって論争するほどでもないが、掘り出されたものや、文献をもとに理詰めで推理するのはオモシロイ。

2011/01/21

This is it





まあ、何といいましょうか?
とりあえず、そういうことです。

一週間、長かった・・・

2011/01/19

とにかく現場はおもしろい




ニュース番組で、教師の仕事の多忙さについての特集をやっていた。
確かに報道されていたことに無理な事実の捏造はないが、あまりにも情けない取り上げられ方にちょっと苛立った。まずこの種の取材に応じる現場教師の麻痺した感覚に驚く。顔にモザイク入れてもらって匿名性を担保しつつ、マスコミの力を借りて何かを主張したいという甘えきった根性が気にいらない。逆にそんな主張さえなく、ただ何となく取材に応じているだけだとしたら、救いがたい馬鹿である。

この番組では、以前にも新任半年で自殺した教師のことを特集していたようだが、今日の報道もその延長線上にあるものとして取材していた。現場を混乱させているのは、教育制度なのか、親のクレームなのか、教師の未熟さなのか、番組が視聴者に対していったい何を伝えたいのかはっきりしない。

自殺はあくまでも自己責任の範囲の問題であって、「自殺の原因が教育現場にあるはず」と言いたげな取材は、全く違うという気がする。死にたくなる原因なんて、その気になれば何処からでも見つけてこれる。退職者の場合も、休職者の場合も同じ。現代は社会全体がオカシイのだから、学校にその影響が如実に反映されるのは当たり前のことだ。

さらに、仕事はあくまでも出来高で評価すべきだと思っている。たとえ、カリキュラムや時間割が学校を支配していたとしても、それは事実上の王様ではない。あくまでも教育の主体者は教師と子どもである。教育にかかわらず、何時間かけて準備しようが駄目なものは駄目で、瞬間のひらめきであろうが良いものは良い。それ以外の評価など、本来あろうはずがないのだ。

人間が時間を売るようになったのは、巨大なシステムが人格や能力を奴隷的に人材化したことによる仕事の質の低下、均一化による。「こんなに忙しくがんばってます」「忙しいから~出来ません」こんな言い訳は何の説得力も値打ちもない。

確かにやるべきことは少なくはないが、要求される最低限の書類提出や日々の業務に簡単に音を上げるようではまるで話にならない。教育の仕事はそんなに甘くない。他にもっとやるべきことや、さらにおもしろいことはいっぱいあるのだ。

2011/01/18

冬の音 Salt&Vinegar




Salt&Vinegarのライブのご案内。

VinegarことSueちゃんの「さをり織り」のイベントです。
さをりのイベントなので、なんとノーチャージ。
会場であるMagatamaは、環状線玉造の駅前なので、大阪周辺の方はお越しください。

お互い超多忙なので、なかなか合わせる時間がないけれど、ピシッといい演奏が出来るようにしたい。
テーマは「冬の音」さて、どんな選曲にしようかな。

ちなみに、トークは「織り」に関するもので、私のMCではありません。

http://www.magatama.net/  





2011/01/17

1.17






あれは、いったい何だったのか? 私たちは何を学んだのか・・・

2011/01/16

タンゴの単語がわかってきた


TVでアルゼンチンタンゴの番組を観た。去年から数回にわたってタンゴのライブを観に行ってから、ちょっと興味が湧いてきた。と言っても、私にはダンスには素養がまるでないので、動きに関してはスゲェ~と驚くだけ。

私が観た番組はタンゴの世界選手権を取材したもので、演奏者や音楽にスポットがあたることはなかった。当然、タンゴはダンスミュージックなわけで、音楽とダンスは切り離せない。

私が興味深く思っているのは、あれほどアクセントの強い音楽なのに、打楽器を使わないこと。バンドネオンとバイオリンが絡み合いながら、哀愁漂う曲調をしみったれずにうスキッと演奏するのも気持ちいい。

何と、その選手権では日本人女性がチャンピオンになった。日本でも静かなタンゴブームなんだそうだ。それはなぜか。女性たちにアンケートをとったところ、タンゴの最大の魅力は、「100%男性にリードされること」だそうだ。なるほど、男性はつないだ手と肩に回した手によって女性の動きを完全にコントロールしている。複雑なステップも男性が女性の動きに先駆けて導いていくようだ。

もちろんタンゴのダンスの最大の魅力は女性の華麗でしなやかな動きである。男性の動きは極めて地味で、女性を美しく魅せることに徹している。

これは、なかなか深い。まるでキリストと教会のそれではないか。

エペソ5章がちょっと見えてきた。

2011/01/15

ハイジのブランコ


私のクラスには面白いのがいっぱいいる。私がそういう部分を引き出して煽っているのだという噂もあるが、それはどうでもいい。元々、子どもはみんな天才なのだ。

特に彼らの中の数人の無敵少年たちは、無駄なエネルギーに満ち溢れている。連日飽きもせず、次から次へと悪戯をしたり、危険な遊びをしたりする。彼らの周辺はいつも薄汚く、周りは散らかっていて、通常の感覚で必要なものは持って来ないが、邪魔になるものをあちこちから集めてくる。言われたことがきちんと出来たためしがないが、よけいなことは指示されなくてもやりまくる。

私を呆れさせ、疲れさせるぐらいだから、なかなかのレベルだと言える。最近はとんとこういう連中に出会っていないので、非常に付き合い甲斐がある。

今日は「ハイジのブランコやったるわ!」と言って盛り上がっていた。

う~ん、オモロイ。しかし、何処でどう止めるかが難しい。

2011/01/14

ダーティーな大人ばかりじゃ・・・・


道徳の時間に、全国に広がる「伊達直人ブーム」を取り上げた。毎日新聞と奈良新聞の記事をテキストに内容を噛み砕いて説明しながら、全文を紹介した。

子どもたちも熱心に聴いていたが、伊達直人の行為は理解できても、なぜみんな伊達直人なのかがどうもわからないようだ。伊達直人の人物像がイメージ出来ないのだ。

「タイガーマスクを知らなくても、君たちの大好きな○○みたいなものだ」と言えればいいのだが、その○○にあたる存在がいない。

そこで、授業の後半では、カッコいいと思う漫画やアニメのヒーローやヒロインについて聴いてみたが、聴いて愕然としたのは、ほとんどが「思い当たらない」「特にない」という答えだった。こういうとき、私は子どもたち全員に必ず答えさせるのだが、予想した以上にさびしい答えだった。

夜の職員室で、現代の人気漫画「ワンピース」の話になった。20代のある先生は、「ワンピースは面白い」と言っていたが、私の感性には正直言って何ひとつ訴えてくるものがない。まず、「主人公ルフィが悪魔の実を食べたから特殊能力を持っている」という設定そのものが納得出来ない。「虎の穴で鍛えに鍛えたから強くなった」というようなプロセスが欠落しているからだ。

最近は動機の希薄な物語が多い気がする。だから、主人公の人格を感じ取らせる背景が丁寧に描かれることもない。主人公はただ意味無く強かったり、ラッキーだったりする。その他の登場人物のキャラクターも絵は派手だが中身が薄っぺらなことが多い。

「かっこいい」「あんなふうになりたい」と思うモデルが見当たらないのは、何ともさびしすぎる。周りが「ダーティーな大人」ばかりじゃ、子どもが夢を失うのも無理はない。

2011/01/13

耐寒を体感する


今週から耐寒かけ足が始まっている。毎朝、私も子どもたちに混じってトラック外周を10周程度走る。この時期にかけ足をやっている学校はかなり少なくなってきていると思うが、私の学校では、かたくなにあえてこの季節を選んで実施している。なかなか良いことだ。ものすごい寒い日に体の内側からあたたかくなる経験は、口でいくら説明してもわからない。

2011/01/12

少年は今日も無敵


この日、私の住んでいる地域は、出勤時にマイナス6度を記録した。いくらもう少し標高差があるとはいえ、いくら午後からの授業だといえ、いくら少し陽がさしてきたとはいえ、ピューピュー北風が吹く運動場はかなり寒い。

ところが、この少年を見よ。気がついたらどんどん服を脱いでいき、吠えながら鉄棒のそばまで走って行って、何をするのかと思って見てみたら、「鉄棒におなか引っ付けてみるわ」といって、何度もチャレンジしては雄叫びをあげていた。

なかなかやるなあ。

こうやって自分が生きている感覚を刺激して、誰も傷つけずにドーパミン出して、ひとりハイテンションになることを覚えてくれたら、まあ上出来だと私は考える。

2年先に同じことやってたら、ちょっと問題。今でも少し問題だが、私が経過を見守っているからギリギリセーフなのだ。

2011/01/11

虎の穴


「伊達直人」を名乗る人物からの施設の子どもたちへの贈り物が連鎖的に各地に広がっている。

くだらないニュースばかりなので、ちょっと嬉しい気持ちになる。私も学校にいるときは、ちびっこハウスを訪れた「伊達直人」気分に浸っていたりするので、何だか「わかる」気がする。

ランドセル5個とか10個とかいうプレゼントもいい。そんなに大金持ちが金の使い途に困って、「慈善でもしようか」という感じではないと思う。

もし、これが偽善的行為や自己満足であったとしても、何もしないよりずっといいんじゃないか。

「日本のロボット工学が世界を席巻するに至ったのは鉄腕アトムのおかげだ」と技術者たちが座談会で語っていた記事を読んだことがある。彼らはみな子どもの頃に、手塚治虫の鉄腕アトムが大好きで、「自分が大人になったらアトムみたいなロボットが出来るんだ」と信じていたというのだ。

子どもの頃に「何をカッコいいと感じるか」は非常に大きい。

今の子どもたちは、大人になったとき、いったいどんな名前を名乗るのだろう?

2011/01/10

成人の日に


オバマは大統領就任演説で「我々はいまだ若い国家だ。だが、聖書の言葉を借りれば『幼子らしいこと』をやめる時が来た」と、聖書のことば(Ⅰコリント13:11)を引用したが、そのことによってかえって聖書に関する無知と不信仰を明らかにした。それでも、聴衆はさらに無知で不信仰なので、どこからの引用かもわからず、使い方が正しいかどうかもわからず、ただ熱狂していたのだった。

そのアメリカに、「日本の精神年齢は中学生レベルだと言われた」のは、いつのことだったか。戦後日本は国としてどれだけ成長し、国民はどれだけ大人になっただろうか。高度経済成長は、本当に豊かさに向かっての成長だったのか。

聖書には、「キリストにある成人」ということばがある。(コロサイ1:28)それは、キリストの身の丈に達するような信仰や知識の一致をはじめ、あらゆる点において成長するということであり、(エペソ4:13~15)多くの場合は、なかなか年数ばかりを浪費して、霊的な成長がおぼつかないこと(ヘブル5:11~16)も指摘されている。

アダムとエバはどうやら、初めから成人として作られている。しかし、イエスは赤ん坊として母の胎に宿り、完全に「人としての性質をもって」この世に現れ、そして人の間で、人から教えを受け、養育されて成長されたのである。(ピリピ2:6~9)

成長とは、失敗を繰り返し、経験を重ねて学ぶことである。これは、驚くべきことである。イエスは神の子であったが、生まれたときから完全であったわけではなかった。「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となった」のである。(ヘブル5:8~9)

成人式を迎えたから人は成人するのではない。「キリストにある成人になること」を意識するのでなければ、成人の日も、ただ滅びに向かう通過点に過ぎない。

2011/01/09

反省


少しまとまった時間があると、何をするにも本格的に取り組むには絶対的に時間が足りないことをよけいに痛感する。よくこれで何とかまわってきたなと思うが、そんなことに感心している場合ではない。

今年はもう少しいいものを作りたいし、中身の濃いことを話したいし、仕事も充実させたい。父親としても夫としても、もう少しマシになりたいが、やることなすこと、どうもぎこちない。

よく「どうでもいいや」と構えているとは言っているが、それは結果に対して柔軟に受け止める心の準備をするためであって、目標に向かう姿勢は意外にもけっこう真剣だったりするのだ。

あれこれと、やらねばならないことに手をつけてみるが、どれもこれも中途半端。今日は鬱気味の自己嫌悪な日曜日になってしまった。

熱心だけではどうにもならない。せっかくの休みなのに休もうとしないからこうなるのだ。反省。

2011/01/08

アメンボ


アメンボは雨上がりの水たまりにいるから「雨ん坊」だと思っていたら、飴のような甘い臭いがするから「飴ん坊」なんだそうだ。前肢が著しく短いから気づきにくいが、足もちゃんと6本あって、空も飛ぶことが出来る。表面張力を利用して水面を進むことは知っていたが、飛んでいるところは見たことがない。アメンボを空中に投げても飛ばない。水がなくなることを感知すると飛ぶのだと言う。人工的に飛ばすには強力な光を当てればよいらしい。石鹸水の上では表面張力が弱まるので、アメンボは浮くことが出来ず溺れてしまうのだそうだ。カメムシのなかまに分類されているのは納得できない。カメムシは飴のような臭いなんかしないぞ。

画像は、名古屋市街で見つけたマンホール。

2011/01/07

たった今の私


いよいよ本格的に仕事が始まった。子どもがやって来ると、嫌でもからだのスイッチが入る。食事を終えるとさっそく長時間の会議。ふぅ~。こっちは省エネモードに切り替える。

週5日制が始まってから、職員一人ひとりに委ねられる自由な時間は年を追うごとに短くなり、創造的なゆとりなど殆ど無くなってきている。勤務時間内にやることと言えば、無理矢理の連携や内容的拘束の強いものばかりで、「私みたいなのがよくやっているよなあ」と、最近は感心するより半ば呆れてしまう感じだ。抵抗するよりも順応している振りでもした方が無駄なエネルギー消費は少ないことも経験によって少しずつ学んだが、決して全く順応したわけではない。

本当に神さまの憐れみによる配剤に守られてこそ、私は辛うじて私であることを保ちつつ、笑っていられるのだと日々感謝している。まさに空中ブランコや綱渡りのような毎日だ。上司や同僚にも私なりの立場から見た多少の意見はあっても恨み言は全くない。上手くいかないことは、すべて私の不徳の致すところである。まだまだ改善の余地も残されていると感じている。

子どもは私がどんな人だかよく知らない。だからこそ、「目の前の子どもが、今、感じて反応すること」には高い信頼性がある。

それはまさに「たった今の私」に対するシビアな評価なのだから・・・・。

2011/01/06

仕事初め


明日からの3学期に備えて出勤。新年の挨拶を交わし、それぞれのポジションでゆったりと始動。

昼休みになかまとともに天理教本部に御節会に出かけた。新年の参拝者で溢れかえり、本通りの商店街も心斎橋筋のような賑わいだった。

御節会とは、全国から集まってくる御供えの鏡餅を無料で振る舞うというイベントである。焼き餅に水菜を入れてだし汁をかけたシンプルなものだが、お代わりは自由。際限なくいくらでも食べさせてくれる。

数年前の夏、東の兄弟姉妹をお連れしたときも、みんなそのスケールの大きさに驚いておられたが、宗教パワー恐るべし。改めて天理は不思議な町だなあとしみじみ。

2011/01/05

年頭に念頭に置きたいこと (その弐)


若い頃のように、私は背伸びして自分を実際以上に立派に見せようという気はない。どうせそんなメッキは剥がれる。外科手術で整形してもDNAは変えられない。

家族のかたちや子どもの姿は、私の生き方のひとつの答えである。私の場合は答えが3つ。いや、4つ。妻のあり様に関しても私は責任を問われる。妻はもうひとりの私なのだ。

このところ、「家族そろってみんな大したことはないのだ」ということをつくづく思い知らされているが、それは急にどこからか落ちたわけではなく、正しい認識により近づいただけのこと。これは決して悪い経験ではない。主イエスを信じた私と私の家族が救われる大事なプロセスなのだから。

・・・というわけで、私は今年もあんまりがんばらない。焦りもせず、あわてもせず。まったりとマイペースを貫かせてもらうことにする。主のみこころなら明日も生きていて、私の心が素直に喜べることを選んで、小さなことを丁寧に積み重ねていこうと思う。遠くの大きなことは私ごときにはわからない。相変わらず、サービス精神は旺盛で人と争うのは嫌いだが、誰かの言うことに調子を合わせようとは思わない。

いよいよ仕事も始まる。いろいろな場面で、人や組織との関係性の中での細かい判断が求められる。そんなとき、どうしても望まぬ妥協が迫られる。どこに自分の納得のいく落としどころを持ってくるかは非常に難しい。より良い落としどころを計算するよりは、私自身の動機やスタンスの方が大事だ。動機やスタンスがブレなければ、結果は付いてくる。念頭の仕事始めにはそんな確認も必要だ。

年頭に念頭におきたいこと (その壱)


私は協調性が乏しく、チームプレーは苦手だ。ところが、サービス精神はけっこうあって、争いごとは嫌いだ。そんなわけで、無理矢理束ねられた集団が気まずい空気で長時間放置され、その一員であることから逃れられないような状況のときは、「~すれば、いいんじゃない」的な発言はしてしまうことが多い。

それで、学生時代は「傑出したリーダーシップがある」などと通知票や内申書に特記されたりしたが、本人的にはあまりピンと来ていない。決して「みんなをよりよい方向へ導きたい」などと思ったわけではなく、ただうっとおしい時間をダラダラ共有したくないからという理由の消去法による選択なので、結果がよくても私の言動は少しも立派ではない。維新の志士たちのごとき志なんて持ったことはない。

今もそういうリーダーの姿が求められると、実はしんどくてたまらない。ある目標に向かって全員一丸で突き進むのはあまり好きではない。たいてい私だけがみんなとは全然別のことを考えているからだ。みんなが盛り上がっているときにひとりだけ醒めきっていたり、みんなが緊張しているときにひとりだけゆったり構えていたりする。

「みんなと私いう括り方は子どもっぽすぎる」とは思わないで欲しい。一人ひとりが中心になれば、頭数だけの「みんなと私」の地図が出来上がることは子どもの頃から知っている。だから、人が一致団結するなんてはじめから無理があるのだ。その乱暴で強引な一致のために目先の利益で気持ちを誘導して予定調和へ導く空気がたまらなく嫌いだということだ。

とりわけ、宗教に見られる一致や感情操作の誘導は一番の苦手。誰かに導かれて、その人と同じ思いや同じ気持ちになることなんて絶対あり得ない。

ものすごく頑張っている人の頑張った記録を見ると、「すばらしいな」と思うよりこっちまでしんどくなってくる。

いわゆる一般的な意味において教会や学校の「先生」に期待される資質は、私にはほとんど皆無と言ってもよい。カント哲学的な意味における道徳的な正しさも極めて乏しい。

私を道具として使う方がなぜか私を選んだだけのこと。私は主権を手放したので本当に楽になれた。使い手が器用で有能なので、私とてたまには役に立つことがある。それを深く感じたときは、「私は私でよかった」と思える。おかげで私はかつてほど自分が嫌いではなくなった。私は多少人よりつくりが繊細に出来ていると思う。アメリカザリガニのように汚い水には住みにくい。アユのように、山間の渓流に住み、己のテリトリーを大事にする魚に似ているかも知れない。それ故、同じ水槽に入れられると、ザリガニの後ずさりに戸惑い、大きな鋏に傷つけられることもある。

2011/01/04

富士山


春休みは学年末の処理や新年度の準備、夏休みは種々の研修でけっこう忙しいが、冬休みは休暇がとりやすい。休み中に先生方に研修してもらうプログラムを作っていた頃は、休み中も気が休まらなかったが、この冬休みはかなりのんびり出来た。家の掃除も出来たし、小旅行にも出かけて友人たちにも会えた。例年通り、両方の実家に年始の挨拶にも行けたし、買い物にも出かけた。そして年末には一年を振り返り、年始には少し考える時間を持てた。

大晦日に新幹線の窓から見た富士山が馬鹿みたいに綺麗だった。このわかり易い感動って大事だなと思った。あのハイスピードで走る新幹線の車窓から、安物のコンデジでしっかり撮れてしまう圧倒的な存在感に驚く。

マニアックでひとりよがりな傾向が強く、出来れば忘れ去られたいと思いながら、行きがかり上隠れることも出来ず、妙な目立ち方をして誤解されることの多い私は、富士山とは対極のわかりにくさを備えている気がした。

気味の悪い洞窟よりは、登りたくなるような山のほうがいいわ。そりゃ。

2011/01/03

足元を固める


久しぶりに運動靴を新調した。3学期はかけ足が始まるのでランニング用のものを一足と、ついでに体育館用のものだ。体育館シューズに履き替えない学校なので、1~2学期はずっと上履き用のボロ靴で通していた。

今日は意を決して夕方から近くのお店へ出かけた。娘が事前にチェックしてくれていた年賀状ハガキの当たり番号を使って特売価格からさらに3割引してもらった。これはお買い得。1足分で2足買えてまだお釣りがくる計算になる。

担任ともなると意気込みが違うというわけではないが、ちょっとずつ仕事の心準備を始めている。足元は大事なのだ。

「足には平和の福音の備えをはきなさい」(エペソ6:12)

ちなみに、Adidasはベトナム製、Pumaはカンボジア製。

2011/01/02

ナナちゃん人形を見上げて


正月にいったい何人の人が初詣に行くのだろう。

名古屋駅の近くにナナちゃん人形がある。名古屋の友人との待ち合わせなどによく使う。

いくら正月でもナナちゃん人形を拝む人はさすがに誰もいないだろう。ただの人形だからだ。でも、これが金ピカだったり、社の中にあったりすると、疑うことなく拝む人が出て来るのだろう。ナナちゃんは名鉄百貨店のシンボルなので旬の装いに着替えをする。暮れには「冬のクリアランス」のタスキをかけていた。たくさんの人がナナちゃんをバックに写真を撮っていた。

そういう人たちの視線をちょっと気にしながらも、私は斜め下から変態的角度でナナちゃんを盗撮。相手は人形なのに周囲の視線を気にする私はまだまだ修行が足りない。

人は心の中にある恐れや欲望をかたちにしてそれを拝むことで、後ろめたさや不安をかき消そうとする。神の栄光をさまざまなかたちあるものに代えてそれを拝む。(ローマ1:18~23)

「何か大いなるものをありがたがる宗教的情操は大事なものだ」と言う人もいる。しかし、それは信仰とは正反対のベクトルである。宗教的情操は善悪の知識による呵責が基になった防衛機制だからだ。したがって、宗教的情操によってキリストを拝すれば、それは立派な宗教だということになる。教会という建物や組織、牧師という人、さらに自分たちが奉じる教義や信仰深さをありがたがることも含め、たとえそれがキリストに多少の関係があったとしても、それらは仏像を拝むのと大して変わらない人の心の弱さであると私は評価する。

とりわけ、「かたちのない偶像」は一番厄介な敵であって、それは我々の心の奧深くに潜んでいる。私たち自身の中のキリストに関する誤ったイメージや信仰上のビジョンには、「下がれ。サタン」と命じなければならない。

では、私たちの心が偶像に支配されているのをどうやって見分けることが出来るのか。それは、「イエスを自分の方へ引き寄せて、いさめ始める」態度によって明らかになる。そして主に向かって祝福のことばを述べ、十字架を否定するようになる。(マタイ16:22)

年始にいろいろと計画を立て、夢を持つのは悪くはない。しかし、優先順位が転倒すると、知らずに偶像を拝むことになる。

ナナちゃんはただの人形。計画も夢も、キリストではなく人の形では駄目だ。

2011/01/01

元旦に思う


大晦日に私の住んでいる地域にも久しぶりのまとまった積雪があり、元旦は道を行き交う人もない。

あらゆる生活のノイズを降り積もった雪が吸い込んで、凛とした静謐感がある。

2011年が始まった。

エデンの園では雪は降ることはなかった。雪は神の贖いとその義を表現している。

道ばたのゴミも、道ばたの看板も、そして地境をさえ覆い尽くす。

そんな誰も汚したことのない雪の上を進む快感には格別のものがある。

五感にとらわれると信仰を見失うが、五感が信仰に反応すれば、日常の些細なことから、非常に心地よく、キリストそのものを味わうことが出来る。

私たちはからだで生きているのだから、からだで味わうことは非常に大事なのだ。イエスは何のために「私たちと同じように」なってくださったのかを読み取ろう。

ことばや口先だけの頭でっかちの理屈は人を疲れさせる。そんなメッセージならやめたほうがいい。

やせがまんしている人には何の魅力も感じない。頑張り抜いている人にはご苦労さんだなとちょっとだけ思う。

既に出来上がった閉じられた関係性の中で回り続けるのも、まともに出逢っていない関係性についての寛容さや優しさを示すのも実に簡単なことなのだ。

からだを使ってキリストに従い、感覚と経験でイエスがともにおられる事実を味わえる一年でありたい。

ところで、大晦日の夜にトトロの雪だるまを作っていたのは、18年前の元旦に生まれた私の娘。(ちなみに受験生)そう言えば、トイ・ストーリーにもトトロは登場していたっけ。父譲りの余裕と遊び心で、軽~く人生の節目をクリアして欲しい。