2010/05/01

憂哀

鳩さま一人をルーピー呼ばわりしてはいけない。むしろ、このイカれたボンボンは戦後の平和ボケ日本の見事なシンボルではないか。国の責任は主権者たる国民にある。

アメリカも日本も「国としての責任」を問われるときが来る。地の塩たるそれぞれの国の教会の塩加減はどうであろうか。それぞれの国に立てられた見張り人(ウオッチマン)は何を見ているだろう。憂いや哀しみのない柔和さや、痛みのない喜びは偽物の匂いがする。祭司は涙をもってとりなす心を持っているだろうか。

三島は「憂国」という短編を書き、この国の行く末を見切って腹を切った。目に見える醜悪さや滑稽さと彼の残した文学の表面的ギャップの故に評価が難しいが、彼が見ていた幻は確かに現実になっていることは疑いない。

エレミヤは「哀歌」を残した。その霊的に空洞化していく国を思う嘆きは、単なるナショナリズムではない。エレミヤの嘆きと涙は私を深く慰める。腹を切ったらおしまいだ。

「主よ。ご覧ください。私は苦しみ、私のはらわたは煮え返り、私の心は私のうちで転倒しています。私が逆らい続けたからです。外では剣が子を奪い、家の中は死のようです」(哀歌1:20)
この表現などは、「憂国」の切腹の描写よりもずっと単純だがもっと深い。

「口をちりにつけよ。もしや希望があるかもしれない」(哀歌3:29)
それでもエレミヤは絶望しない。彼は贖いを待っているからだ。

本当の合い言葉は「友愛」ではなく「憂哀」だ。

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