2010/02/04

「アバター」のエクボ

「アバター」をご覧になれば、「風の谷のナウシカ」や「もののけ姫」に通じるものを感じられると思うが、ジェームズ・キャメロン監督は、どうやら宮崎アニメの崇拝者らしい。このあたりも見どころのひとつになっている。

そして、宮崎作品同様、「自然」対「人間」や「異文化」対「アメリカ」を単純に善悪に描きわけているところが、この作品が大ヒットの秘密であり、底の浅いところでもある。

ベトナム戦争の反省からオリバー・ストーンの一連の作品やキューブリックのフルメタル・ジャケットが生まれたが、この映画もイラク・アフガン攻撃に対するキャメロンの思いが反映されており、現在のアメリカの政治的精神的背景が見て取れる。

バーチャルのリアル化が進み、リアルのバーチャル化が深まる中、一人ひとりの日々のあり方が問われていると感じる。

特にバーチャルを支える動機は「逃避」であり、逃げるために使う能力は主に「視覚」である。だから、動機を正すこと、つまり勇気を出してリアルと向き合い、そこから逃げないこと、そして視覚以外の感覚をとぎすますことに鍵があるのではないかと私は思っている。

現代人は何でも簡単に諦め逃げ出す傾向が強い。そして、一般に視覚以外の感覚が弱い。視覚とてそれが優れているというのではなく、強い刺激に慣れきっているだけのことであり、それ以外の身体感覚を使い研ぎ澄ます機会が著しく損なわれているという都市生活の現実がある。

「アバター」の中でも、主人公が「パンドラの森」の中で、部族の一員として受け入れるためにいのちの感覚を総動員して「生きもの」としての充実感を味わう場面がある。

パンドラの人たちにとってのリアルは、リアルなアメリカ人のリアルな息苦しさの反動として創造されたバーチャル世界であるとういうこと。

バーチャルな世界で尊ばれるものが、いかにリアルな世界に欠けているかがわかるという読み方が出来る。

リアルな世界でリアルに良いものをゲット出来れば、誰もバーチャルへは逃げ込まない。キリスト教がバーチャルな教えで脳みそをバーチャル化させるのは、リアルなイエスを知らないからに他ならない。リアルなイエスとつながっていれば、おかしな教会もヘンテコ牧師もいらない。

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