2010/03/03

伸縮する時間

学校にチャイムが鳴るのは、一定時間内に作業や課題を仕上げるということに価値が与えられるようになったからである。それは産業構造の変化と大きな関連がある。

それ以前の暮らしのチャイムは、長いスパンで言えば、季節の変化、天候程度のものだ。産業構造の変化ということで言えば、農事ごよみとの関連である。

漁師には漁師の時間、牧人には牧人の時間、商人には商人の時間があるだろう。そして、大多数の人が寝たり遊んだりする時間に働いている人たちもいる。

時代の需要や技術の進歩によって、同じ職業の人たちでも、長い歴史の中でその時間感覚は大きく変化を遂げている。

いずれにせよ、現代の社会で生きる私たちは管理された時間を配分され、その中で成果をあげることを半ば義務づけられ、そして値踏みされるようになった。

そうした価値観に飼い慣らされた結果、管理された時間の外へ解き放たれると、何をしていいやらわからなくなり、休日は寝て過ごしたり、ありきたりの娯楽に身を投じたりすることになる。

しかし、こうした「変化の始まり」を遡れば、せいぜい100年程度の過去まで戻れば十分だ。

200年、300年前は、これほどせかせかした時代ではなかっただろう。便利になった筈なのに、大したことをしているわけでもない人まで、「忙しい」「疲れた」を連発するような時代ではなかった筈だ。

私はいろんな人から「よくそんなことしてる時間ありますね」と言われるが、これには「忙しいはずなのに、そんなどっちでもいいような面倒くさいことをよくやってるよなあ」という軽蔑と「それだけの質と量の内容をこなしているのは、ある意味驚異的だよ」という驚きが入り混じっているものとして、当人は受け止めている。

誰がどう思っているかは私にとってはどうでもいいことだ。私はどちみち私のことなど親身に考えてくれそうもないような人たちの評価など初めから全く気にとめない。

私は他者に配分された時間よりも、自分で創造する時間に重きを置いているので、私の中でその時間は、感覚的にはある程度伸縮の効くものなのだ。アインシュタインも物理学の観点から、その可能性について言及しているし、何より聖書はもっとスケールがでかいことを言っている。主の前では千年は一日のようであり、一日は千年のようなのである。

私のいのちの砂時計の砂はいつかなくなるのだから、他人に値踏みされ振り回されて空っぽになるのだけは御免だと思っている。他人のプログラムにのっかって時間を消費するような娯楽を避ける傾向が強いのもそのためだ。

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