2011/05/27

seasoned with salt から seasoned with saltへ

今度は匿名でもコメントできなくなったので、6月を待たずに引越しします。
自分の車のエンジンがかからず、家にも入れない感じです。

http://lastsalt.exblog.jp/ (seasond with salt)

2011/05/26

引越し



電気屋さんのブログ消失や、コメント欄の不具合など、いろいろあってBloggerのサービスにはちょっとイラっときていたのですが、今日は管理人の私を匿名扱いにされたことで、5月いっぱいでのブログの引越しを決めました。準備が整い次第、お知らせします。




明日から、いやもうほとんど朝ですね。30分ほど時間を無駄にしました、ブログは大事にしたいですが、余計な時間や労力を注ぎたくはないので、そそくさと引越します。



明日と野外活動の引率です。天候が心配ですが、雨には雨の味わいもあるでしょう。




楽しんできます。

2011/05/25

イーネ!


もちろんボサノヴァが一番ピッタリくるわけだが、クレイジー・ケン・バンドなんかもけっこう好きだったりもする。

イーネ!つながりで、今日は稲の話題。

今年はベランダに50個を超えるバケツを並べ稲を育てている。

1年毎に、こんなにもわかりやすい実りがあるのは凄いなあと改めて思う。

いろいろとイラつく様なネタも尽きないが、稲の生長を見ながら、いつもイーネ!と上機嫌でいたい。

2011/05/23

Watashi wa Denki



アースデーならSouth 2011でのSalt & Uribossa with Itaminhoのパフォーマンスの一部が、You TubeにUpされました。すごく暇なときに、ご覧ください。きっと誰にでも耳なじみのあるあの曲ですが、タイトルはWatashi wa Denkiとしました。奈良には津波は来ないけど、あの日は、とにかくもの凄い風でした。

http://www.youtube.com/watch?v=Qb_8Pywte1s

2011/05/21

写真のない写真集

去年撮りためた写真とじっくり向き合うこととなり、嫌でもいろいろと考えた。デジタルカメラの便利さと不便さを深く心に刻む1日となった。

人は何を「記録」し、何を残したいのか、また、それを時々振り返ったり、共有したりしようとするのか。恣意的な「記録」は、変質した「記憶」に変換される。

カメラには、そんなセコイ装置としての一面がある。

ファインダーによって切り取られた時空は、ある意味で死んでいる。3次元から2次元へと次元を落としてまで撮り手の意思を反映させるためだ。それゆえ、写真は決して「真を写したもの」ではない。

つまり、その時空の切り方や変換の妙が問われる。写真の情報として、被写体に関する事実とともに撮り手の精神が読み取れるようなものこそ、写真としての独立した価値を持つものであろう。

素人がコンデジで撮った日常の写真ではあるが、私がそのとき何を見出し何を感じたかが、ある程度正確に写っている。

私にはまだ写真として独立した価値を持つものは撮れない。ただ、私の記憶を再生するきっかけとしては、極めて有用であると言える。

Y.B.Mさん、以上が私が昨日考えたことの約半分です。

2011/05/20

神の仕業


与謝野馨経済財政担当相は、20日の閣議後会見で、東京電力の福島原発事故について、「神様の仕業としか説明できない」と述べた。同原発の津波対策に関しても「人間としては最高の知恵を働かせたと思っている」と語り、東電に事故の賠償責任を負わせるのは不当だとの考えを重ねて強調した。

与謝野さんは、先月、自己評価が最悪のレベル7になった際にも「原発は電力供給の為に必要」と断言し、事故の評価にかかわらず今後も原子力発電を推進していくと語っている。自民党政権時代に通産相として原発を推進してきた責任を問われても、「謝罪する気はない」と言ってのけた。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110520-00000050-jij-pol




カルフォルニア州で福音派ラジオ局「ファミリー・ラジオ」を運営するハロルド・キャンピングという爺さんによると、明日5月21日、キリストの再臨があるそうだ。

米東部標準時間で午後6時から、世界の各地で今まで見られなかったほどの大地震が起こり、キリストは再臨し、聖徒の霊は墓場から蘇える。

世界で約3%の真のキリスト教徒のみが、キリストとともに天に昇るというラプチャー(携挙)が起こる。取り残された者は、10月21日の地球滅亡まで地上で苦しむということになっている。

全米に1200の広告板「聖書が保証する」を立ててきた。中には、妻子をおいてツワーに参加した人や、退職金をはたいて広告用ポスターを作った人もいるそうな。ニューヨーク・デイリー・ニュースによると、ロバート・フィッツパトリックさんもその一人である。フィッツパトリックさんは、退職金から14万ドル(約1440万円)をはたき、「大地震!審判の日:5月21日」というポスターを作り、ニューヨーク市内の地下鉄やバス停に掲示しているのだとか・・・

どうでもいいけど、彼らのこれから先のことを心配してあげたい。

http://www.newsmag-jp.com/archives/8269

いずれも神様の仕業だろうか?

神の「存在」についても「救済」についても、人は何でも好き勝手に語ることが出来る。間違ったことを言っても、急に天からの罰がくだるわけではない。

与謝野さんは決して「学校の成績的」には頭の悪い人ではない。しかし、言っていることは馬鹿としか思えない。

ハロルドが手に持っている聖書には私の聖書とちがうことが特別なことが書かれているわけでもない。しかし、普通に読み間違っている。

人は同じ現象を見ても同じように感じるわけではないし、同じ聖書を読んでもその反応は同じではない。

私は与謝野さんとは違う意味で津波も事故も神の仕業だと思う。また、ハロルドよりも切にキリストの再臨を待ち望んでいる。

人は自分が見たいようにものを見、信じたいように信じるだけだ。私も自分の見立てと信仰を裁かれるだけのこと。与謝野さん、ハロルドさん、覚悟はよろしいかな?

2011/05/19

スイッチ



ある日の放課後、どういう風にスイッチが入ったのか、突然ふたりの女の子が、「ベランダをそうじする」と言って掃き始めた。バケツ稲の準備で土が散乱していたのでかなり汚れていたのだが、彼女たちのおかげでずいぶん綺麗になった。別に私にほめてもらおうというわけではない。逆に遅くなって、「早く帰りなさい」と叱られたくらいだ。晴れ晴れした笑顔でふたりは帰って行った。

良いことは「ただそれが良いことだから」という理由だけで追及できる価値であることを、小学生の彼女たちはちゃんと知っているのだ。そこには大人のようなせこい駆け引きなんかない。

良いことに向かう自分を他者の瞳に映そうと意識し始めると、善は純度を失う。これはカントの哲学の大きなテーマだ。

善と悪は対立する同じ強さの概念ではない。悪は善と同じように、「ただそれが悪いことだから」という理由では追及できない。悪には、それが良いことであるかのような見せかけや嘘が必ずある。

聖書が語るように、悪魔は堕天使であって「腐った善」すなわち「偽りの父」なのだ。彼に追従する者は恥を見ることになる。

私たちがある行動に向かうとき、どのような動機で自分のからだにスイッチを入れるかはけっこう重要なのである。

2011/05/17

被災地からのレス



先月、仙台の方の紹介だということで、東京の牧師さんから、「最近自分が本当にみことばも神もよく知らないでメセージをしていることに気付いて、改めてみことばの奉仕をしていることに対して恐れおののく気持ちになった」という主旨のメールをいただいた。

教会を離れた方や教会に行けない方、行きたくない方からのレスは多いが、大きな教会の牧師さんから謙虚なお便りを頂いたことはなかった。又、それが仙台で被災された方からの紹介ということを知らされ、さら驚いた。

そして今日、原発事故による放射能汚染に苦しむ福島からのコメントがあった。

初めまして。小学生男子2人の母です。福島市に住んでおります。私達はもうどのくらい被曝したんだろう…と考えると、無邪気に笑う子供たちに本当に申し訳なく思います。大人の責任として。私はクリスチャン初心者?で教会に行っていません。お聞きしたいのですが、神様にお委ねすることと自分の努力や知識で行動することは対立することなんでしょうか。例えばまず神様に祈りや感謝があり、その上で現実的に動くことは御心にかなうのでしょうか。この場での質問をお許しください。それでは失礼します。



非常に本質的な的を射た質問だ。私は「人の努力も神から切り離されて独立あるいは、対立するものではなく、すべてが神の範疇にあると捉えることが神に委ねるということではないかと思っている。人の知識や感覚ではなく、みことばが祈りや感謝を正しく方向づけてくれるのではないか・・・」という意味のことを、コメント欄に書き込んだ。

語る責任の重さを改めて感じている。

2011/05/15

SaltもSaft


スポーツ大好きなSaltだが、それよりもさらに音楽や美術が好きだったため、学生時代はスポーツに打ち込むことはなかった。

スポーツは何でも好きだが、特に格闘技と球技が好き。見るなら格闘技、やるなら球技という感じ。今日は職場のなかまとともにソフトボールの大会に出た。

最年少は23歳、最年長は62歳というチーム。40以上が過半数を占める。他のチームより明らかに年齢層が高い。他のチームはユニホームをばっちりキメているが、我々は100均のTシャツにマジックで背番号を書いて毎年参加している。これで強けりゃ格好いいんだが・・・・

思うようにからだが動かなくても、ただからだを動かすことは楽しい。「けがをしない」が目標だったので、余裕でクリアできた。しかも、今日はチームが待望の1勝。

やっぱ、からだ動かさないとなあ。

写真は、感動を呼んだ北京五輪の女子ソフトボールチームだが、すごい試合を見るより、ドンくさい試合でも自分がからだを動かした方がおもしろい。

2011/05/14

のどがかわいた


指導要領の改定によって教科書がかなり分厚くなり、内容も刷新された。国語の読み物でウーリー・オルレブの「のどがかわいた」という作品に取り組んだ。

登場人物が4人出て来るが、次のページをめくれば、そのうちふたりは消えてしまう。主人公と友人はほとんどことばもかわさす、これといった事件もおこらないまま、物語は淡々と流れていく。メインのシーンでも約1時間ガリラヤ湖でただ立って空想しているだけというお話。ほとんどあらすじを書き様がない不思議なドラマである。全く性格のちがうふたりが「水を飲む」という行為の中に、お互いのかわきを感じ取り共感するのだが、このかわきを象徴する背景は日本の小学5年生には読み取り様がない。教える先生達だって、ユダヤ人のことなどろくに知るまい。

というわけで、内容はかなり難しい。わかったつもりになって教え、わかったつもりになって学ぶことは出来るが、この作品を本当に理解するのは易しいことではない。数ある児童文学の中から、誰がどういう意図でこの作品を教科書に採用したのか、また採用されるに至ったのかは興味がある。

写真は、この作品の舞台でもあるガリラヤ湖。私が2001年に撮影したもの。

1931年、ポーランドのワルシャワの裕福な医者の家に生まれたウーリー・オルレブ。幼いころは、自分の出自がユダヤ人であることを知らずに育った。第二次世界大戦がはじまり、町がドイツ軍に占領されると、ワルシャワの学校に通っていたウーリーは担任の先生から「君はユダヤ人だからもう学校に来てはいけない」と言われた。そのうえ、ポーランドの士官だった父親はロシア戦線に送られ、その後、ロシアで捕虜になった。母親とウーリーと弟の三人はゲットーで暮らすことになったが、ウーリーが11歳の時、母親はドイツ軍に殺害された。(著書:ぼくと弟のホロコースト「砂のゲーム」より)

2011/05/12

雨あがる



月末に予定されている野外活動のハイキングコースを歩いて来た。歩き始めは小雨が降っていたが30分も歩くと雨があがった。創立記念日なのにお仕事はちょっと辛いが、森の緑や田植えを終えた水田が美しい。

写真は都祁山口神社。20年以上前に山口神社の祭礼の映像を撮るために取材に来たことがある。当時勤務していた都祁小学校が県の音楽研究会の会場校となったためだ。それにしても懐かしいなあ。

2011/05/11

自然エネルギー義援金


アースデーならsouthでのCDの売り上げの中から10000円を、東日本大震災、自然エネルギー義援金とさせていただきます。

今日の夕方、実行委員長の伊藤満氏が職場まで取りに来てくれました。伊藤氏は14日から青森の児童施設に別口の義援金を届けるそうです。

残りはUribossa氏が赤十字社に送ってくれます。

みなさん、ご協力ありがとうございました。


http://www.isep.or.jp/tunagari-project.html 【環境エネルギー政策研究所HP】