2010/01/27

思い出のすれ違い①

今日の日本においては、ほぼすべての大人が学校という場所を通過している。その大半は戦後の9年間の義務教育をほぼ共通体験として持っている。しかし、その間に紡ぐ思い出はさまざまである。

現在、公立学校の教員になっている人たちは、学校に「良き思い出」を持っていることが多い。それに反して、荒れる子どもの親たちは、学校に「悪しき思い出」を持っていることが多い。

そういう親は懇談にも残らず、奉仕作業に参加せず、教師と見れば不信の態度をとったり、何かと言えば学校を批判したりする。そして、場合によってはモンスター化する。

現場で起こっている問題は、一昔前では想像もつかなかったほど深刻である。

教師たちが自分の「良き思い出」の中へ、そんな親子を取り込もうとしている以上、すれ違いはやむを得ない。問題を起こす親子の多くは、平常時の学校にさえ「悪しき思い出」のイメージを投影しているのだから。

学校という場所がそもそもどのような装置であり、それぞれがどのような立ち位置で学校を通過していくのかということを相対化して整理する能力がなければ、今日的な学校の課題に適切に対応することは不可能である。

せめてもう少し感性が鋭く頭がいいのを採用しないと現場はもたない。

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