ある日の放課後、どういう風にスイッチが入ったのか、突然ふたりの女の子が、「ベランダをそうじする」と言って掃き始めた。バケツ稲の準備で土が散乱していたのでかなり汚れていたのだが、彼女たちのおかげでずいぶん綺麗になった。別に私にほめてもらおうというわけではない。逆に遅くなって、「早く帰りなさい」と叱られたくらいだ。晴れ晴れした笑顔でふたりは帰って行った。
良いことは「ただそれが良いことだから」という理由だけで追及できる価値であることを、小学生の彼女たちはちゃんと知っているのだ。そこには大人のようなせこい駆け引きなんかない。
良いことに向かう自分を他者の瞳に映そうと意識し始めると、善は純度を失う。これはカントの哲学の大きなテーマだ。
善と悪は対立する同じ強さの概念ではない。悪は善と同じように、「ただそれが悪いことだから」という理由では追及できない。悪には、それが良いことであるかのような見せかけや嘘が必ずある。
聖書が語るように、悪魔は堕天使であって「腐った善」すなわち「偽りの父」なのだ。彼に追従する者は恥を見ることになる。
私たちがある行動に向かうとき、どのような動機で自分のからだにスイッチを入れるかはけっこう重要なのである。
今日娘と、嘘をついたのって何歳の時にどんな理由で付いたのが最初なんだろうね?
返信削除「子供の時の嘘は親に怒られたくないからだよね・・・」
今まで、どのくらいの嘘をついたんだろう・・・?と、
話してました。
今日のsaltさんの話につながっていたのですね。
ひたすら悪を目指して駄目になっていく人なんて誰もいません。
返信削除たいていみんな「良かれ」と思って何かやり始めるのです。それが時としてとんでもなく間違っていたりする。また、途中から何かが狂い始める。
それが善悪の知識の木の道です。
「地獄へ至る道には善意が敷き詰められている」というのは、かなりの名言だと思います。
最近、今までの自分に対する甘さと、人に対する甘さで自分の首を絞めているなと感じる時があります。
返信削除善と悪ではないかも知れませんが「私の行いは冷たくも無く、熱くも無く、口から吐き出されてしまうかも・・・」と
私の場合は良かれと思ったことの方が失敗に繋がります。
人と接する時は、優しさの方が簡単なような気がします。
それが、「地獄へ至る道」に繋がっていたりするんですね。
私に厳しくしてくれる、お方に感謝です。
エバが最初に善悪の木の実に触れたのも、「今よりよくなりたい」と思ったからですし、アダムにすすめたのも決して彼を陥れるためではありません。むしろその反対です。
返信削除原発だって、はじめから 100%悪いわけではありません。
サタンが差し出すものも何%かはとても良いものなのです。だからこそ、人はそれに騙され、みことばを軽んじ、曲解するのです。