2010/06/27

カナン教会・夏のスケジュール

本日の礼拝は、メンバーの都合により「家庭礼拝」に変更しました。メッセージがないので、レギュラー以外の参加はないと思いますが、念のためにお知らせしておきます。

カナン教会・夏のスケジュールです。


7月

04 メッセージ「日は動かず月はとどまる」(約束の地カナン⑦)
11 分かち合い 聖餐式
18 家庭礼拝
25 メッセージ「タイトル未定」(ひねくれ者のための聖書講座⑰)

8月

01 分かち合い 聖餐式
08 メッセージ「タイトル未定」(約束の地カナン⑧)
15 家庭礼拝
22 メッセージ「タイトル未定」(ひねくれ者のための聖書講座⑱)
29 家庭礼拝

礼拝はpm2:00からです。電車でお越しの時は車でお迎えに行きますのでご連絡ください。桜井駅や柳本駅に1時半前後に着く便で来られたらぴったりです。

どなたでもお気軽にお越しください。

2010/06/26

100年後のためのSign







毎回のライブはまさに「生もの」、今日はさすがに梅雨の最中だけあって強烈な湿気に悩まされた。商品でもある植物たちに囲まれて演奏するのだから当然と言えば当然だが、6月は失敗だっかかな。

ボサノヴァはリズムのキレがいのちなのだが、汗ばむとナイロン弦に指が絡みついて、うまく爪弾くことが出来ないのである。

そんな悪条件だったが、それでも風草木は大好きな空間。楽しく演奏することが出来た。今日はY.B.M氏が来ても来なくても、彼との関わりの中で生まれた曲「100年後」と「Sign」で締める予定だったので、開演直前に彼が現れたときには、思わずにんまりした。贅沢な時間を過ごさせてもらった。Junpei君、ありがとう。

スタッフのY嬢がとってくれた写真もなかなかいい。

水の上を歩く

今更ながらだが、私は特に「子どもが好き」というわけではないし、「学校」という仕組みや場所は「警察」と「病院」の次に嫌いだ。私は地方の何でもない美術館とか図書室とか、それほど混み合わない静かな場所が好きなのだ。

チャイムやカリキュラムや、あらゆる決まりや薄っぺらな目標や、追い立てる雑務や、わずらわしい人間関係に納得したことはただの一度もない。

イエスがナザレで30年間過ごされたという事実がなければ、私は100%教師などしていない。逆に私が学校で過ごすことは、そうしたイエスの追体験としての学びの要素があるからこそ価値を認めているのであって、仮に「良い先生」であるような一瞬が私の日常に認められるとしても、それは「良い先生であること」を目指した結果ではない。私は断じてそういう者にはなりたくない。

目の前にかわいい子どもたちが困っている状況があれば、何とかしてやりたいとは思うが、そんなことは評価すべきことではなく、大事なのはプロとしての「その手立ての正確さ」であるべきだ。そうした意味でのスキルはまだまだ未熟だし、この世界に身を置く以上は真摯にそれを追求しなければならないと思う。それが出来たとしてもそれはただの教師の標準であって、取り立てて評価すべきでさえない。それは「無農薬野菜」とか「有機農法野菜」とかいうレッテルみたいなものだ。野菜はそもそもそれが標準だと思う。

現場の真実を知っている教師は、机上の空論で自己完結する大学教授の話がいかに空疎かを日々確認している。

人が生きるということ、子どもが育つということ、そしてそんな人々が絡み合う世の中は、本や資料をつなぎ合わせた式やモデルで表せるほど単純ではない。脳みその中で空転する理想で世の中はまわらない。

小さな現場で長い時間留まれば、人の営みの難しさがわかる。イエスはナザレで、そこに暮らす人々と生きられたのだ。

私は偉そうにメッセージしているが、いつも信仰的というわけではない。イエスから目を離して湖に沈むペテロのごとく、日々水没の危機にさらされている。

私には教師の資質がそもそも足りないので、仕事を自力で乗り切る力はない。私にとって教師の仕事は、まさに水の上を歩くのに等しい。私が何とかやっていけているのは、ただ主の召しと導きの確かさのゆえだとつくづく思う。

今年はメチャクチャしんどい。思ったようにいかず、柄にもなくイライラすることも多くなった。そんなとき、そもそも私はここにいるはずじゃないのにここにいるのはなぜかを思い返す。そうすれば、静かにまたゆっくりと水の上を歩けるようになるのだ。

2010/06/25

3-1

たまたま起きていたのでデンマーク戦をリアルタイムで観た。熱狂的なサッカーファンではないが、ちょっと興奮した。3-1というスコアを予想した専門家はどれだけいるだろう?

「サッカーがチームプレーだということを証明したかった」という岡田監督や「決まるときはこんなもの」「もっと喜べるかと思ったけど喜べない。先があるので満足出来ない」という本田選手のことばは、この勝利が単なる偶然や幸運ではなかったこと裏付ける説得力があった。

サッカーはわかりやすい。この単純さが世界中の人々を熱狂させる。スポーツは音楽と同じようにことばの違いを越える。

日本の好調だけでなく、フランスやイタリヤという強豪が相次いでグループリーグを敗退していることも、今回のワールドカップをさらに面白くしている。

日本が次に対戦するパラグアイもユニークなチーム。凡戦にはならないと思う。

2010/06/24

ことばは違っていても・・・




地元の語学院の留学生との交流会をもった。出し物やプレゼントの準備に何かと時間が奪われたが、それに見合う盛り上がりはあったかな。

子どもたちはノリのいい留学生たちに圧倒されるかなと思っていたが、かなり友好的で、思っていたよりずっと上手にコミュニケーションをとっていた。

子どもたちと「おはボン」を歌ったが、こういうときにはピッタリくる。

2010/06/22

風草木ライブ

6月26日は風草木でのライブ。
風草木は実に不思議な空間。
私にとってもとても大切な場所である。
中南和に仕事があるときは、帰りによく立ち寄らせてもらった。
橿原市の特に風草木周辺には私の10代後半の想い出がいっぱいつまっている。
来月のアルコといい、田原本や八木周辺でのイベントは大阪や神戸や名古屋でのライブとは違って、何とも言えずセンチメンタルでノスタルジックなのである。




どうやら今回は、高校時代の同級生も来てくれるとのこと。

この写真は、前回のライブで風草木の店員さんが撮影してくれたもの。
ちなみに、風草木の店員さんは、みんな感じがよくてハイセンスなのだ。

http://www.geocities.jp/fuusouboku (風草木HP)

2010/06/21

今後のPruneは?

「PruneのCDはないんですか?」「HPはありますか?」などと聞いてくださる方もいて、土曜のライブは、まずまず好評だったようだ。

全く集客の努力をしなくていいのは助かる。「前回のお月見ライブが良かったのでまた来ました」というお客さんも何人もおられた。さらには、10月には大阪でもライブのオファーをいただいている。ありがたいことである。

確かに回を重ねるごとに、少しずつ良くなってきている。彼女たちのポテンシャルは高いので、まだまだこれから先が楽しみである。

何よりSue&Momoが、それぞれに手応えを感じてくれたことがよくわかるし、活動に意欲的であることがうれしい。とは言うものの、これからPruneをどうしようというビジョンはない。

ただゆるーく続けていければいい。そんなに無理しなくていい。誰かがしんどくなったらそこでおしまいでいい。

今回は、これだけケーナを使っているのに、結局フォルクローレを1曲もやらなかった。これもすごいことだなあと思う。

編成も妙なら、やってることも変わっている。クラシック調のものや、昭和歌謡風のものや、祭り囃子的なものなどなど・・・・さらに今回は、無伴奏のリコーダー3重奏もやってみた。

さて、今週末はSalt&Uribossaの風草木でのライブがある。「約束の場所へ」もSalt&Uribossaでやると、全く別の曲。でも、これは元々Sueちゃんの為に書いたもの。本家であるSueちゃんの歌には独特の味がある。これにMomoちゃんが絡むとまた面白い。

この「約束の場所へ」が今年の教会のメッセージの方向も決め、Salt&Uribossaのネクスト・アルバムのタイトルにもなろうとしているのだから不思議だ。

2010/06/20

音楽の贈り物

いろんな人を想って曲を書いてきた。昨日のライブでは、Momoちゃんのピアノに合わせて、SueちゃんがLife is beautifulを歌った。

どんなプレゼントでもあげてしまえば手元にはなくなる。しかし、音楽は捧げても消えない。音楽は分かち合うほどに豊かになり、生き物のように育っていく。そして、何度でも繰り返し、毎回新鮮に贈ることが出来る。

ライブ終了後、「今回の演奏の中で一番気にいったのは何?」とふたりに聴いてみた。

ふたりがそろって選んだのは、1曲目に演奏した「陽流(ひかる)」という曲だった。それは、私のクラスの子どもの名前である。

彼にはまだこの曲を聴かせる予定はない。いつか、彼にこの曲をプレゼント出来たらと想っている。それは「いつ」「どんな」かたちになるのだろう。

音楽は神さまがくださった最高の贈り物のひとつである。天から贈り物を贈る楽しみを贈ってくださった神さまに感謝したい。

2010/06/18

私の荷は重い

気がつけば1週間が過ぎていたというわけじゃないが、とにかくあんまりパソコンに向かう気がしなかった。その分、リアルな日常がてんこ盛り。

担任としての毎日は、実にいろんなことが起こり、何とも面白すぎる。子どもとの日々は、「生身の人間」としての瞬間的な反応を問われる。

大事なことは、何でもそう簡単にはいかない。

子どもの悩みひとつ解決するのも、恐ろしく面倒でやっかいで、私はほとんど「無力な支援者」でしかない。

ひとつひとつをあれこれと振り返りつつも、遊びと奉仕の準備を半分ずつ。

週末はPruneのライブ。日曜日はメッセージだ。まあ、夏休みまでこのペースは仕方がない。

私には荷が重すぎる。しかし、キリストの荷は軽い。ともなるくびきによって、キリストから学ぶことが出来、その結果、私の荷は軽くなる。この感覚が実に楽しいのである。時間がなくてもゆとりが生まれる。

メッセージの配信ブログを管理してくれているKoji君も、夫人の出産準備もあり、ご多忙の様子。そんな中、先週の「ひねくれ者のための聖書講座」の最新メッセージがupされているので、よろしければそちらも是非どうぞ。

20日(日)は、約束の地カナンのシリーズ第6回の予定。

2010/06/13

キリストの荷は軽い

昨日はリコーダー講座、今日はメッセージと、毎週、土日はウイークデー以上にハードだが、「その時その場で頑張ればいい」というのではないのが実は一番しんどいところ。土日の備えはウイークデーにしておかなければならず、これをうまく回すのがなかなか難しい。

特にこれから体育の授業でプールが始まると著しく体力を消耗することが予想される。担任としての実労働は、通勤も含むとほぼ12時間。睡眠、食事、入浴その他を合わせ約8時間と見積もっても、残りの(4時間×5日)で他のすべてをこなさざるを得ないのだ。

・・・とは言いつつも、実際にはまだまだ「無駄」や「ゆとり」はある。だから、今のところ、特に行き詰まりもイライラも感じることなく過ごせている。

長いのに短い時間もあれば、短いのに長い時間もある。あっという間に凄いことが出来るときもあれば、時間をかけてもさっぱりうまくいかないときもある。

「時間があるから出来る」とか、「時間がないから出来ない」ということは、実は何ひとつない。「やる気があるかどうか」それに尽きる。

誤解しないで欲しい。「私はたっぷりやる気があって、こんなにもがんばっているぞ」と言いたいのではない。私が伝えたいのは全く逆のことだ。

時間というのは相対的なもの、絶対者とともに負うくびきによって時間は自由に伸縮するのだ。

私にやる気があまりなくても、イエスにやる気があれば、委ねていれば必ずそれは出来るはずだ。私はそう考えて今まで生きてきた。

疲れている人、重荷を負っている人は、イエスのもとで休もう。キリストのくびきは負いやすく、その荷は軽いから。(マタイ11:28)

2010/06/11

満員御礼

19日のPruneのライブの打ち合わせの為に、ハーブクラブへ打ち合わせに行って来た。もう予約で満席。キャンセル待ちの方もおられると聞いてひと安心。ありがたいことだ。

住まいも離れていて、日頃バラバラに活動している3人なので、練習時間の確保が非情に難しいのだが、そんなことは言ってられない。ディナー付きとは言え、この不景気に4000円のチャージは高価である。自分たちのお楽しみや発表会ではない。プロ意識を持って、ちょっと頑張らないと・・・

毎回「次」が備えられて来たのは、一度も手を抜かなかったからなのだが、今回はSueちゃんの渡米もあり、あまりにも時間が無かったが、何とか集中力で補いたい。

明日リコーダー講座を終えてから、日本へ帰って来たばかりのSueちゃんを迎えて猛練習。アメリカ帰りだから、すーちゃんもアルフェベット表記でSueちゃんだ。ライブの翌日にはフランス語のテストがあると言っていたMomoちゃん。みんな忙しい。でも、単純に一番忙しいのは私かな。

暇なしを自慢するのも虚しいが、ビートルズのナンバーじゃないが1週間が8日あれば。

布留川リバーウオッチング

学校の前の川でリバーウオッチングをした。環境指標生物を採取して、川の汚れ具合を調べようというわけだ。県の河川課の事業なのだが、探偵ナイトスクープでもお馴染みの谷幸三氏(大阪産業大学)を講師としてお招きした。

なかなかパワフルでオモロイ人だ。小魚やヤゴやカワニナなどがたくさんとれたが、それらを分類してみると、少し汚れた川であることがわかった。この布留川が下流へ流れると、悪名高き大和川へ流れていく。

4年生の社会科の学習ではゴミや水のことを扱う。内容からいってそう面白くはないのだが、いずれも環境につながる大切な課題である。子どもたちが興味のある生き物のネタから、ゴミや水について考えることが出来たので非常に良かった。

来月の初めまでにもう1回、別のNPOの協力を得てリバーウオッチングをやる予定だ。さらに日を改めて河川敷のゴミ回収にも出向く。

机の上で理屈を言ってるだけじゃダメなのだ。

2010/06/10

戸隠紀行③

今回の戸隠への旅は電車を使ったこともあり、実にのんびりゆったりさせてもらったのだが、寸暇を惜しんで遊ぶ電気屋さんのおもてなしに甘え、古道を歩き、カヤックと2種類のバイクに乗るというかなり盛りだくさんなオプションもあった。

嗜好やタイプは少し違うけれど、電気屋さんも私もかなり「やんちゃなおっさん」である。楽しむためにはとことん手間暇かけるところや、自分のこだわりを追求する姿勢には大いに共感する。

最終日にはそんなおっさんふたりで、デッキで絶景を眺めつつ露天風呂に入った。まさに裸のお付き合いだ。透明の丸い浴槽に入っていると、妙な表現かも知れないが、まるで「キリストの胎」に抱かれているような不思議な感覚になった。

特別なことばを交わしはしなかったが、「俺たちはお互いそれほどさえないおっさんかも知れないがが、この御方の恵の摂理のただ中にいるのだ」という確信が、お互いの心の奥深くにあったと思う。

2010/06/09

戸隠紀行②

今回「電気屋さん」のところへお邪魔した直接の理由は、結婚式の司式の為だった。「時間が重なるので助っ人に来ないか」というわけだ。電気屋さんの提案はいつも唐突で、肝腎な説明がほとんどない。ところが、これが不思議なことにことごとく実現してゆくのだ。

「電気屋さん」は私に負けないぐらいの変人である。私の方が少しだけマトモに見える?

「電気屋さん」の職業や職業観について、私がここで必要以上に詳しく論じることは適当ではないが、「電気屋さん」のさまざまな仕事のひとつである「ブライダル」に関しても、それが主から託されたものであることを受け止めている。やはり、私が睨んだとおり、「電気屋さん」はただの「電気屋さん」ではなかったのだ。

そんなわけで、これまでブライダルで食い代を稼ぐ牧師や宣教師は、総じて私にとっては軽蔑の対象でしかなかったが、一人ひとりが個々の式にどのように関わっているかを吟味したわけではないことを振り返らされた。また、Dr.Lukeが、Koji&Mayumiの司式で語ってくれたメッセージも、布石として生きていた。そして、カナの婚礼におけるイエスの態度は、悔い改めを迫ることや福音を伝えることでなく「祝福」であったことも思わされた。結論として、私は今回のオファーを私に関する個別の問題として、信仰を持って受けることにした。

結婚という摂理は偉大である。それはキリストと教会のモデルであり、そこには祝福が満ちている。

整えられた花嫁は美しい。姿かたち以上に、そこには特別な何かがある。誓いの瞬間、その厳粛さに心を打たれた。花嫁の頬をつたう涙はとても美しく、そしてその涙を見つめる花婿のまなざしは限りなく優しい。

司式者である私の問いかけに「はい、誓います」と答えるときの新郎新婦の表情は、おそらく一生で一番真剣なものなのではないだろうか。

2010/06/07

戸隠紀行①

ここ数年、ネットを通して知り合った兄弟姉妹とリアルに会うという経験を重ねて来た。そうした交わりを通して感じさせられることがいろいろある。

メッセージを配信している関係上、カナン教会や私個人を訪ねてくださることの方が多いが、「お招きがあり」「主にある必要を感じ」「スケジュールがあえば」こちらから出向いて行くこともある。

2泊3日で戸隠の通称「電気屋さん」のところに行って来た。

神の働きやいのちの流れを立体的に見せられることの価値は大きい。その不思議や楽しさは他の何ものにも代え難い。

人間というのは、いくら謙遜であっても「私を中心にした周辺」を見てしまうものだ。しかし、主の導きに身を委ね、「目に見えない全体」を絶えず意識していると、全然違うことを味わえる。

神が時間や空間を越えて一人ひとりを導いておられることを具体的に知り味わうことは幸いだ。

自分の経験が自分だけのものではないことを知り、失敗も過ちも十字架を経るなら祝福に変えられる事実を味わうことが出来れば、ちっぽけな私のささやかな人生も、まんざら捨てたものではない。

消してしまいたいような過去もお互いをつなぐ力強い結び目に変える主の憐れみの深さに驚かされる。

私たちの周辺に偶然なんか何もない。出逢いや経験に意味を与え価値を深めるのはただ「信仰」による。十字架を経て、天を経由した交わりは永遠のものである。

「夏には行こう」という思いを「夏にも行こう」に変えてくれた今回の電気屋さんからのお誘いと全知の主のくださった絶妙のタイミングにただ感謝。

2010/06/04

今年も平和のコンサート

今日は8月15日の平和コンサートの依頼を受けた。学校までユネスコ協会の方が挨拶に来られて正式にお話があり、校長先生も「すまんなあ。ギャラは出んのか?」と気にかけてくださっていた。実は校長先生が学校教育課長だったときに、私を紹介して下さったのが、このコンサートに関わるそもそものきっかけであった。今年で4回目になる。ちょっといつものライブとは性質が違うので、どんな曲を演奏するかは毎回悩むところだ。

ひとつのライブの為に、結構に入念に準備もし、シビアに反省もする。同じ内容でのツアーなんかしないし出来ないので、インターバルが短くても、人と所が変われば、大幅に曲目も変える。全く同じことは2回演らない。まず、自分が納得して楽しめることを大事してきたし、それはこれからも同じ。

人の曲をカバーするにしても、それなりの必然性やこだわりがある。何でもかんでもやるわけではなく、是非やりたい曲もあれば、いくら頼まれてもやりたくない曲もある。

こちらの思い入れや隠し味が細部まで理解してもらえた時はとても嬉しいが、たとえそうでなくても、「自分たちにとってこれで十分」というところまで何とか突き詰めたいものだ。

オリジナルに関しては、CDを聴いていないお客さんにも、一度聴いただけで心に残る曲作りや演奏をしたいと思っている。人生が豊かであれば、さらにいい曲が書けると思う。

理想は高いが、実際には技術的なことや進行のまずさで不満や苛立ちが残ることも少なくはない。でも、そうしたことをキチンと整理して次に生かしていけばいい。そうすれば次回はささやかであっても良くなっているはずだ。ゆるやかであっても常に右肩上がりのパフォーマンスを目指したい。

まあ今のところ、まだ気力はそれぐらいあるのだが、あとは視力と低下と記憶力の衰えとの戦いである。

2010/06/01

音楽関連のインフォメーション

暦は早くも6月突入。2010年も折り返し点が見えてきました。

わが国の行く末を思うと憂いで心が重くなりますが、暑くジメジメした季節を「涼しげに」「軽やかに」駆け抜けたいと思っています。

音楽関連のインフォメーションです。フライヤーが出来れば、また個別に詳細をご紹介します。お近くの方も遠方の方も、誘い合わせてお気軽にどうぞ。

6月12日(土)14:00~16:00
 Saltの「楽しいリコーダー・アンサンブル」
室生ぬく森の郷 学びの部屋にて(宇陀市室生区)
ピアノ伴奏 momo
参加費 1500円 
なお、当施設では300円で入浴できます。
今回はフルートの貴公子K君は現れるのか?

6月19日(土)18:00~21:30
 Prune Live「蛍と出会う夜」
アメリカツアーから帰国したSueと変幻自在の若きピアニストMomoとますます変なおじさんなSaltによるトリオでお月見ライブ以来の再登場!TetraからPruneに生まれ変わってさらに演奏が冴える!
 カフェレストラン・ハーブクラブ(奈良市)
 参加費 4000円
 ディナーの後ライブ、そして蛍鑑賞会

6月26日(土) 15:00~17:00
Salt&Uribossa Live at 風草木(橿原市)
チャージ1500円(ワンドリンク付)
リニューアルした風草木で、クールなS&Uの演奏を楽しんでください。
緑に囲まれた不思議空間でのボッサ体験はまさに癒しのひととき。

2010/05/31

カナン教会 6月の予定

カナン教会の6月の予定は以下の通りです。

6 分かち合い 
13 メッセージ ひねくれ者のための聖書講座⑯
20 メッセージ 「アイの戦い」(約束の地カナン⑥)
27 分かち合い 聖餐式

先日5/31のメッセージ「エリコのたたかい」(約束の地カナン⑤)がアップされています。

2010/05/29

辺野古のジュゴンも泣いている

たぶん通知票にはいっぱい5が並んでいるんだろうけど、友達にはなりたくないタイプの同級生がいたと思う。ちびまるこちゃんで言えば丸尾君タイプか?

鳩氏と福島氏はともに美辞麗句を並べるのは得意だが、彼らのことばに心を打たれることはない。そんなふたりの確執はまさに学級委員長ふたりの喧嘩みたいな薄っぺらさで、実にうんざりさせられる。

「空気読めない」「思いやりがない」「立場はあっても権威がない」
そういう肝腎な部分が欠落しながら、そうまでして何のためにリーダーでいたいのか、普通の感覚ではほとんど意味不明である。お金はたんまりあっても、プライドや信念はないのか。

福島氏は辞任せず罷免された。鳩氏が福島氏を別室に呼んで1対1で説得した末の結論だと言う。いずれにしてもみっともない話だが、この上「閣外協力」などに決着したら社民党自体もうおしまいだ。どうでもいいけど、福島氏にはちょっとはマシなスタイリストをつけてあげたい。

いったいこの国の未来はどうなるのか?確かに一国の舵取りは、門外漢が口先で論じるほど簡単ではない。責任与党は大変なのだ。しかし、首相たる者が口を開くたびに支離滅裂なことを発言していてはどうしようもない。

鳩氏の発言を聞いていると、とにかく未だに基地問題をゴミ処理場感覚でとらえていることに大きな違和感がある。ここまでこじれたのだから、今回の混乱を国防に関する根本的な議論の機会にすればいいではないか。

いっそのこと「本土の人間にとって他人事だった国防問題を自分事だと考える転換点にするために、私はピエロになったのだ」と、開き直ればいいのに。

アメリカの高官たちは、基地問題の決着を鳩氏ほど簡単にはとらえていない。数人の要人の発言を聞いていると、そういう印象を受ける。

辺野古のジュゴンも泣いているだろう。

2010/05/26

「風のメロジア」アフリカの大地に静かに響く

いよいよ週末に「なにわのブラジリアンな夜」が近づいて来た。今回はパーカションのイタミーニョ氏を迎えてのトリオでの演奏になる。

二人の時は違うグルーブが生まれるので、ただパーカッションが入って音に厚みが出るとかいうのとはひと味違う感じになるだろう。

29日の夜は、大阪周辺の方は是非カイピリーニャへ。

今日は、そのパーカッショニスト・イターミニョ氏のHPのご紹介。前回の練習後に夕食を食べながらたっぷりコンゴ紀行を聞かせてもらったのだが、これがなかなかツボにはまってしまった。

とにかくマニアックな嗜好とクールな執念が「ハンパねえ感じ」で実にイイ。教員なんてのは、言い訳ばっかりのハンパな奴が多くてちっとも面白くないので、針がレッドゾーンまで振りきってる人は実に心地よい。

HPには、彼のフェイバリットであるリンガラ・ポップスの情報やコンゴ紀行の写真もあるというので開いてみると、何とS&Uのアルバム「風のメロジア」のことを論じてくれていた。

イタミーニョ氏は、コンゴの奥地で私たちがこのアルバムに込めた思いを確かに受け止めてくださったようだ。

興味のある方は是非ご一読を。

http://homepage.mac.com/jakiswede/index/contents_fr.html
(イタミーニョ氏のHP)

2010/05/23

基地より機知

ついに移設先は「辺野古周辺しかあり得ない」と言明した鳩さま。

もはや一国のリーダーというよりは、食品偽装か何かで追いつめられたせこい弱小企業の社長みたいで見ていてあわれである。

「最低でも県外」とあれほど威勢良かったのに、「あれは個人の発言で党とは関係がない」という支離滅裂な言い訳をしてしまったのだから、どうせこの後、何を語っても何の説得力もない。

これまで、とにかく「基地をどこに移すか」という前提で話を進めてきたわけだが、いっそのことそこから見直せばいいのだ。

「日本には平和憲法があります!これがあれば米軍の核の傘などいりません。最低でも県外と言ったのは、もう少しがんばって国外ということを視野に入れての控えめな発言だったのです!」

こんな風に所信表明の時の元気さで堂々と語れば、少数ではあっても熱烈な支持者は得られそうだが・・・・

日米関係は大切だが、そんなにビビる必要はない。持っていき方によってはいくらでも相手を譲歩させるカードは切れる。

こっちは提供する方なのだから、「もうお前らには守っていらん」と言えば、一番強いのである。

はい、日本国民の皆さんに質問です。いったいアメリカにどんな具体的な危険から守っていただいているのでしょうか?

赤い紐

このところ、年金生活者を食い物にしたビジネスが次々に告発されている。病院とヤクザが結託し、弱者から搾取して腐った組織を維持する。まるで何やらとそっくりではないか。

「どこも悪くない」と言いながら、「路上生活よりマシだ」と言って入院を続け、無駄な検査や悪くもない部位の手術までしている被害者も、被害者面できるような偉そうな立場ではない。いずれも加害者みたいなものだ。弱いからエライともカワイソウとも全然思わない。ただ哀れである。

ちゃんと受容と供給が成り立っているから、告発は第三者のおせっかいとなる。こうして互いに騙し騙されつつ悲しいシステムを維持するのである。

一方で、口蹄疫にかかった家畜たちは次々に処分されていく。これらは時代の生贄だろうか。2000年前、デカポリス地方で豚が大量死した原因は、イエスが追い出された悪霊が乗り移ったからであった。

神の存在や贖いを示唆する様々な雛型は、人の欲望によって激しく歪められどん底まで貶められている。この世界の癒しがたい罪をとりなすことばが見つからない。

崩れ去るエリコの城壁を修復する努力は無駄である。神のみこころに添ったエリコの再建などは愚かな空想話である。肉の要塞はすべて破壊されなければならない。

この世界でただひとつの価値は、窓辺に結ぶ赤い紐の印だけだ。

2010/05/22

?!

思うようにいかないことばかりだが、
思うようにはいかないからいいのであって、
だからまあすべてこれでいいのだけれど、
時々、からだが疲れ果てることもあって、
ちょっと休みたくても休むことも出来ず、
とにかく働き続けるうちに、
誰かに力を注ぐ必要にかられてなぜか不思議と元気が出て来るのであって、
「もうどうでもいいや」と思っていたことの細部にさえ、
再びこだわり始めたりもする。

そして、
結局「利己主義」というのが一番脆くて、
でも、
「誰かのために」とふんばるのであれば、
あと少し強くなれる余裕が生まれるんだ・・・・と気づく。

それが、私が何度も経験してきた天の法則だ。

いろいろあったここ数日間のことを伝えるのは難しいが、
とにかく、少し元気にはなった。

それほど無理をしたつもりはないのだが、
2日前はとうとう疲労困憊のせいか脂汗が出て職場で動けなくなった。(たぶん誰にも気づかれてはいないが・・・)
昨日は半分朦朧としながら大阪まで社会見学の引率。
その後、キャンセルしたいほど苦しかった家庭訪問に出かけ、2時間ほど話し込む中で「補助エンジンが始動する感覚」を覚えた。それで体調は未だイマイチだが、驚くような力が湧いてきて、今日はほぼ普通かそれ以上の感じで乗り切れた。

明日は一日音楽。「なにわのブラジル」に向けて「室生でブラジル」
かなり心配したが、どうやら最高の週末を過ごせそうだ。

100才の詩人まど・みちお氏が、世の中に疑問符と感嘆符さえあれば「ことば」なんていらないんじゃないかと言っていたが、これは至言だ。

主よ?アーメン!

これでいいのだ。

2010/05/17

「故意の誤訳」より「恋の媚薬」を!

日本語には独特の情緒や深い味わいがあるが、聖書の表現に関する限り、そんな日本語の良さはほとんど感じられない。それは原点の主意を守るためにことばとしてのリズムや流れを仕方なく犠牲にしたものだと思い込んでいたが、実はそうではなく、ただ訳が不味いだけだと言うことがわかってきた。

日本語をこよなく愛する私は、聖書の日本語は最低だと思っている。

でも、聖書は文学ではない。聖書は霊的な書であるから、私は日本語としての意味を越えて「霊」や「いのち」に直接触れている。

だから、おかしいものは何処かおかしいとわかる。そして、封じられているものは解けはしない。神が私に語るのであって、私が正しく読み解くのでない。

改訂と言っても、より原語の発音に近い片仮名表記であったり、人権に配慮したために取って付けたような不自然なことばへのすげ替えたりと、どうにもすっきりする話ではない。

聖書の翻訳に関して、「故意の誤訳」があると言うことは、随分以前から言われている。私も知らないわけではないが、「これが正しい翻訳だ」と言っても、そう主張する人たちに大して正しさやホンモノを感じないので、気になることばや表現はとにかく自分で調べて、他の聖句との整合性を確認しつつ納得できたことだけを発信してきた。

「日本語に立って思考する」から問題があるのであって、「正しい訳に立って思考する」というプロセスにも同様の落とし穴はあると考えている。「信仰に立って思考する」ことが大切だ。

「聖書読みの聖書知らず」ではいけない。

「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか」(ヨハネ3;10)

あらゆる言語は「ことばなる御方」の影であって、何がどう投影されているかがわからなければ、正しい訳も何もないような気がする。

ギリシャ語やヘブル語がすんなり理解できる人は少ない。それなら、せめて英語で読む必要があるだろうか。原語の意味を逐一調べなければ信仰は歪むだろうか。

神は常に無学で普通の人の味方である。キリストを直接知ることには、ことばの妨げはあるはずがない。

2010/05/16

家族のリアリティー

「家族とは何か?」というのは簡単そうで難しいテーマである。

それは実のところ、信仰なしには解けない問題だからだ。

イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちです」(ルカ8:19)とおっしゃっている。

「『神のことばを聞いて行う』という条件を満たさなければ、イエスはご自分の家族でさえ家族とは見なさない」とイエスは語られたわけだ。

このような厳格さが家族の前提である。

神のことばを聞かず行わず、人の言い伝えの中で馴れ合って「兄弟だ」「姉妹だ」と呼ぶのは間違っている。私はこの安っぽく嘘っぽい人間関係に耐えられるほど鈍感に出来ていない。

ヤクザの世界だって、兄弟の杯を交わしたらもう少し厳格だ。

少年時代の都上りの際に、イエスを見失った両親に語れたことばは、「どうして私をお捜しになったのですか。私は必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか」(ルカ2:49)であった。

カナの婚礼の際にぶどう酒がなくなったことを訴えた母に対してイエスが語られたことばは、「そのことで、わたしとあなたは何の関係があるでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません」(ヨハネ2:4)であった。

ユダヤ人たちは、自分たちはアブラハムの子孫だという誇りを持っていたが、正しくは、「アブラハムの信仰を継承する者」を指すことは、聖書を見れば明らかである。

つまり、この世においては、信仰がなければたちまち実体のリアリティーが薄れ、影が全てであると思い込んだり、実体と影が逆転したりするということだ。

信仰の家族のリアリティーは極めて希薄である。偽の家族ゲームは、欺瞞と裏切りと失望に満ちている。

2010/05/15

浅田政志写真展



Y.B.M氏の写真専門学校時代の教え子であり、2009年度の木村伊兵写真賞を受賞した写真家浅田政志の個展に行ってきた。

浅田氏を囲んでのランチを含むスペシャルな企画は、恩師であるY.B.M氏の写真茶話会の春の遠足である。

茶話会のレギュラーメンバーの硬派銀じ郎氏をはじめ、プライナスのふたりや、Koji君夫妻も参加され、何とも楽しい時間になった。私は最近写真に興味を持ちだした息子を連れて行ったのだが、彼にも伝わるものが大いにあったようだ。

私も数多くの展覧会を見てきたが、美術館で声を出して笑ったのは初めてのこと。いろんな意味で型破りの個展だった。館内で放映されている映像作品を見て大爆笑したのだが、ご両親のコスプレによる「なりきりぶり」が半端じゃないのだ。

お兄さんが結婚されて、子どもが生まれて、浅田家のDNAが力強くバトンタッチされ増殖していくさまを見事に視覚化しているのは、あっぱれとしか言いようがない。

作品は被写体である自分を含む家族の言わば「究極のヤラセ写真」なわけだが、その「あまりにも自然なヤラセぶり」に心をくすぐられる。

「写真で何を表現したいのか」という根本的な師であるY.B.M氏の問いかけにきちんと答え続けている浅田氏のカメラは、「自分の家族」から、「いろいろな家族」へと向けられるようになった。

これから浅田氏が家族の肖像に何を見出し、何を映し出すのか楽しみである。「見えるもののかたちを写すこと」は簡単だが、「見えないものにかたちを与える」のは難しい。

それにしても、どこか学園祭のような地域のお祭りのような楽しさが会場に漂い、堅苦しい県立美樹館の空気を浅田カラーで圧倒していた。

販売コーナーも作家の絵はがきやアクセサリーなどが主ではなく、地域の物産展みたいになっていたのが面白かった。

いろんな小道具を使って浅田家みたいに自由に写真をとることが出来る体験コーナーも愉快だった。「誰でも簡単に真似できそうだけど、なかなか難しいでしょう」という浅田氏の笑い声が聞こえてきそうだった。

今週のハードワークで相当疲れていたのだが、かなり元気が出た。

http://www.pref.mie.jp/BIJUTSU/HP/jp/home.htm 
【三重県立美術館HP】

http://www.asadamasashi.com/
【浅田政志HP】

2010/05/12

基地より吉

今、鳩さまを馬鹿にするのは簡単だ。

しかし、「じゃあ、どうすりゃいいのか・・・」は、実際極めて難しい。

具体的に皆を納得させる提案が出来る人がいたら、とっとと発表して欲しいものだ。

クリスチャンは基本的に「鳩」っぽいので「蛇」っぽい狡猾さは欠けやすい。

善人ぶってアジアの国々にペコペコ誤る奴はいても、アメリカ人に「おまえ謝れ!」と言える奴はそういない。

さて、あり得ない想像だが、もし私が総理大臣のブレインのひとりなら・・・・

政権交代を機に、まず原爆投下の謝罪、地位協定の改定あたりを問題にするようにサジェションするかなあ。大波紋を巻き起こしてつぶされて終わりかも知れないが・・・

相手はこっちを見下してるんだから、まず目線を正すことから始めないとまともな交渉なんて出来っこない。

こんなのはどうだ?

「私の主張は友愛なんだ。これは公約の実行だ。とにかく県外と言ったら県外だ。沖縄に新しい基地など作らせない。愛は平等だ。沖縄を除く全ての都道府県知事にクジ引きして移設先を決める。 裏取引なしだ。だから、文句など言わせない。決断するのが政治家の務めだが、決断出来ないからクジで決める。石原氏が引いたらどうするって?知らんよ、そんなことは。」

あるいは、

「友愛を具現化するために、ここは憲法を改正して核武装する。そして在日米軍基地はすべて撤退してもらう。核を所有して何が友愛かって?これは、戦(いくさ)をせずに攘夷を実現しようとした坂本龍馬の理想と同じ。国民に大人気の大河ドラマにヒントを得たのだから立派な民意の反映だ。友愛はまず同胞に示してこそ他国への思いやりも生まれるというもの。妻の占いでもそれが吉と出ている。基地より吉だよ。」

馬鹿馬鹿しいとは思うが、現状の馬鹿馬鹿しさよりはちょっとマシだ。

2010/05/11

さっちゃんはね・・・・

先日のリコーダー講座のひとこま。

「音楽にとって大事なことは何だと思いますか」という私からの問いかけに対して、参加者のみなさんに思いつくことばを出してもらった。

「リズム、メロディ―、ハーモニー」というような学校的な答えだけでなく、「癒し」「豊かさ」「コミュニケーション」「協調性」「充実」など・・・・ホワイトボードに書ききれないほどの多様な答えが出た。

ひとつひとつのことばが意味するところの背景やそのつながりを私なりに解説しつつ、「人にとって音楽とはいったい何なのか」を出来るだけ丁寧に言語化してみた。

それにしても、それほど深く考えずにパッと発したことばが、各自のこれまでの音楽との関わり方や現状を見事に映した表現だったのには驚いた。

中でも、さっちゃんが答えてくれた「楽しさ」や「和み」といったことばは、他の参加者の心を大きく揺り動かしたと思う。と言うのは、まさに彼女自身がそれを見事に体現しているからだった。

今回の参加者は、たまたまさっちゃん以外は全員教師だった。中には音楽の専科や、銀じ郎さんのように障害児教育のスペシャリストもいた。そして、さっちゃんはダウン症だ。「でも」や「だから」は関係ない。彼女は音楽がただ好きで、音楽を心から楽しんでいて、その姿が周囲を和ませている。

さっちゃんには、幼いころから音楽に親しむ環境があり、ともに楽しむなかまがいる。だからさっちゃんは楽譜も読めるし、楽器の演奏技術も高い。

さっちゃんは、別に歯を食いしばって「でも」や「だから」を乗り越えようとしたわけではないけど、軽~くクリアしているわけだ。

教師は「ダウン症のさっちゃん」という見方をしてしまうことが多い。でも、私たちの意識の中では「さっちゃんはダウン症」なのだ。似たようなものと思われるかも知れないが、この違いは大きい。私たちは音楽を共有することで、さっちゃんの人柄や生き方に触れたので、私たちは障害のことを時々忘れてしまう。

障害のある方々と関わるとき、「福祉的」な配慮も絶対必要である。しかし、大切にしたい関係性の中で「福祉」を第一に考えている障害者なんかひとりもいない。

「楽しむは音楽の楽」「和みは和音の和」である。

まさに私が講座に名付けた「楽しいリコーダー・アンサンブル」のねらいそのものを、さっちゃんはあまりにもサラッと言ってくれた。

ありがとう。さっちゃん。

2010/05/07

5月のリコーダー講座

5月のリコーダー講座のご案内

明日 5/8(土) 14:00~
「楽しいリコーダーアンサンブル」
ぬく森の郷 学びの部屋にて

連休中に、リコーダー用の練習曲を数曲準備できた。曲はまさに演奏者の息を吹き込まれて「いのち」を得る。私は熱心な参加者の皆さんのおかげで、曲を作り続けることが出来ている。

練習曲はいろいろな練習の個別の目的のために作った曲ではあるが、単に機能的に作っているわけではない。その時々の私の想いが織り込まれている。

毎回新鮮な気持ちで楽しめるのは本当に幸せなことだ。

2010/05/05

連休の終わりはセンチメンタル

こんなにゆっくり出来たGWは久しぶりだ。細々とした用事もあったが、ほぼカレンダーどおりに休めた。それだけに連休最後の日はちょっとセンチメンタルなのだ。

この前まで立っていた建物が町から突然消えて更地になっているという光景は、郊外の町にはそれほど珍しくないが、ネット上から馴染みのブログがひとつふたつと消えていくと寂しさを感じる。

Koji君の「The Word」やムベさんの「石ころ」はよく訪れていただけに残念だ。

私は彼らとは親しい関係にあるので、ブログが閉じられてもリアルなつながりが途絶えるわけではないが、ネットを通じてしか彼らの暮らしの息づかいを感じられない方は、もっとガッカリしておられるのではないだろうか。

でも、そんなことくらい、当の御本人たちは十分考えた上で「しばらくお休み」という結論を出されたのだから、私がグダグダ言っても仕方がない。

そもそも「何の為に」という動機が一番大切だ。ブログの為に費やす時間やストレスが大きくなりすぎるとその「何の為に」がぼやけてくる。

Koji君やムベさんは真面目な方なので、「何の為に」に釣り合う中身を追い求められて、きっとあれこれ思い悩まれたのだろう。

私の場合は、半分はけっこう真面目な発信なのだが、もう半分は「こんなもん、たかがブログじゃねえか!」と遊び心でやっているので、この程度であれば、負担どころかけっこう楽しみになっている。

しかしまあ何ですなあ~(桂小枝調で)ネットの付き合いに義理も作法もないのかも知れませんけど~いろいろ考えさせられますぅ。

誰でもが簡単に書き込めるのは、表面上極めてフラット化されているようだけど、実際はそんなことはない。どんな短いコメントであっても、ことばには「その人間」が現れる。そうしたコメントを見ながらプロファイリングするのは面白い。自由と平等は共存出来ない。自由度が増すと、くだらないものは本当にくだらないということがけっこうハッキリ明らかになる。

また、私の場合はリアルなつながりの濃い人たちとのやりとりが主になるので、表現上の誤解でもめることもないし、大して気も使わないが、コメントのことばじりをとりあってもめたりするのはさびしいことである。

内容については、大いに議論していいと思う。反対意見や多様な角度からのコメントが寄せられるブログは価値が高いと思う。

でも、あんまりそういうのはないかな。

所詮、それがブログであって、それ以上でも以下でもない。

最後に、先の譬えをもう少し正確に修正して私の希望を述べれば、更地になったとしてもリニューアルオープンのための建て直し工事なのだ・・・と期待している。

2010/05/04

Salt&Uribossa なにわの「ブラジルに登場!




サザエさんの歌じゃないけど、「今日もいい天気~!」で気持ち良かった。

昨日は野菜を植え、ギターとピアノをポロンポロン。今日はヨシュア記6章を10回くらい読んで、ひたすら脱力、放心。そしてランニング。角笛の音ってどんな音かなあ。音色は?音域は?城壁一周すると。どれくらいの距離。速さは、タイムは・・・など、いつものようにあれこれいろいろ思いめぐらせる。

そうこうするうち、大阪西区靱本町にある「なにわのブラジル」こと「カイピリーニャ」でのライブの詳細決定!大阪周辺の方は是非。本格的なブラジル料理も楽しめる。

「カイピリーニャ」は知る人ぞ知るブラジル音楽ファンの集う店。小さなお店ながら、ちょっと奈良にはない感じの異空間。さて、耳の肥えたお客さん相手に、ひと味違う和ボッサで酔わせることが出来るだろうか。

正直、この数日間でちょっと重かったからだもリフレッシュ。ヒノキ花粉もそろそろ完全終結。次の杉花粉あたりまでは、調子よくいけそうだ。感謝。感謝。

   
     ♪      ♪      ♪


今回はゲストにブラジル・コンゴ帰りのイタミ―ニョを迎えてさらにパワーアップ。

〒550-0004 大阪市西区靱本町
1-15-4-1F06-6445-3886(サンバやろう!)


http://caipirinha.jpn.org/home/【こちらがお店のHP】

2010/05/02

ゴールデンライフ

ちまたでは、いわゆるゴールデンウイークということで、私もその恩恵にあずかって休む。

ただ「休み」が続くだけで単純にゴールデンだとは思わないが、久しぶりに「自分でスケジュールをやりくりできる時間」はまさにゴールデンだ。時間にゆとりがあるのは実にすばらしい。

「自由業」の友人が多い。私には私の与えられた分があるので羨むことはないが憧れはある。「キリストの奴隷」でなければ、「公務員」などという選択は絶対なかった。「キリスト教」の人には絶対わからないと思うが、私は「献身」したから「教員」をやっているのだ。

教員なので、ゴールデンウイークはカレンダー通りのお休みである。毎年、何処へも行かない。毎週土日は予定がないことはないくらいだが、ゴールデンウイークはあえて予定を入れない。今年は日曜も休みにした。

ゴールデンウイークに「この時」とばかりにがんばる気も遊ぶ気もない。タイトなスケジュールでも日々宴会気分を満喫できるエネルギーを温存するべく、ひたすら脱力して、静かに自分自身と日常を点検する。

黄金(ゴールド)は、乳香、没薬と三点セットである。信仰者にとってはこれが鍵である。

「イエスの栄光」「イエスの人格」「イエスの死」この三つを地上で確かめる旅こそクリスマスである。12月25日のお祭りではない。

クリスチャンは右肩上がりのゴールデンライフでないとね。

2010/05/01

憂哀

鳩さま一人をルーピー呼ばわりしてはいけない。むしろ、このイカれたボンボンは戦後の平和ボケ日本の見事なシンボルではないか。国の責任は主権者たる国民にある。

アメリカも日本も「国としての責任」を問われるときが来る。地の塩たるそれぞれの国の教会の塩加減はどうであろうか。それぞれの国に立てられた見張り人(ウオッチマン)は何を見ているだろう。憂いや哀しみのない柔和さや、痛みのない喜びは偽物の匂いがする。祭司は涙をもってとりなす心を持っているだろうか。

三島は「憂国」という短編を書き、この国の行く末を見切って腹を切った。目に見える醜悪さや滑稽さと彼の残した文学の表面的ギャップの故に評価が難しいが、彼が見ていた幻は確かに現実になっていることは疑いない。

エレミヤは「哀歌」を残した。その霊的に空洞化していく国を思う嘆きは、単なるナショナリズムではない。エレミヤの嘆きと涙は私を深く慰める。腹を切ったらおしまいだ。

「主よ。ご覧ください。私は苦しみ、私のはらわたは煮え返り、私の心は私のうちで転倒しています。私が逆らい続けたからです。外では剣が子を奪い、家の中は死のようです」(哀歌1:20)
この表現などは、「憂国」の切腹の描写よりもずっと単純だがもっと深い。

「口をちりにつけよ。もしや希望があるかもしれない」(哀歌3:29)
それでもエレミヤは絶望しない。彼は贖いを待っているからだ。

本当の合い言葉は「友愛」ではなく「憂哀」だ。

2010/04/30

鳩レベル

「戦後日本はマッカーサーと昭和天皇のツーショット写真から始まる」と美術家の森村泰昌は語っており、マッカーサーと昭和天皇に二役に扮して、自分の生家をバックにセルフポートレイトをとっているが、私の認識は森村の肯定的なノスタルジーとはかけ離れている。

http://www.morimura-ya.com/gallery/
http://syabi.com/contents/exhibition/index-4.html

日米の同盟関係は、陵辱された男にしがみつくようなもので腹立たしくてならないが、関係が切れないのなら、せめて援助交際レベルに精神的に優位に立ちたいものである。残念ながら、わが国の鳩様は、国内問題も外交問題もきちんと相対化する力がなさそうである。

沖縄の基地問題に関して、ようやく口を開いた鳩様のおことばにただ唖然。

「友愛」ではどうにもならない。私の心は「憂哀」だ。

死んだ魚のような彼の虚ろな目を見ていると、その視線の先には庶民の暮らしなどはまるでなさそうだ。

以下は、遡ること約2週間前のワシントンポスト原文の一部とその和訳だが、「その評価は大きく外れてはいないよなあ・・・」と改めて痛感。

しかし、それ以上にアメリカの上から目線にはムカツクのだが。


By far the biggest loser of the extravaganza was the hapless and (in the opinion of some Obama administration officials) increasingly loopy Japanese Prime Minister Yukio Hatoyama. He reportedly requested but got no bilat.

なんといっても、この首脳外交レースショーで最低最悪の敗者は、哀れにして、さらに(複数の米政府 当局者の言葉を借りれば)「ますます頭がイカれてきた」日本の首相、鳩山由紀夫だった。公式会談の要請を米国に蹴られた、あの男だ。

The only consolation prize was that he got an "unofficial" meeting during Monday night's working dinner. Maybe somewhere between the main course and dessert?

それでも、月曜夜のワーキングディナーでの 大統領との「非公式会談」をねじ込めたのは残念賞だったと言ってよい。メインディッシュとデザートの合間あたりでやったのだろうか。

A rich man's son, Hatoyama has impressed Obama administration officials with his unreliability on a major issue dividing Japan and the United States: the future of a Marine Corps air station in Okinawa. Hatoyama promised Obama twice that he'd solve the issue. According to a long-standing agreement with Japan, the Futenma air base is supposed to be moved to an isolated part of Okinawa. (It now sits in the middle of a city of more than 80,000.)

この金持ちの息子がいかにいい加減な男か、沖縄の海兵隊基地の問題という大きな懸案を抱える オバマ政権の関係者の間では、とうに共通認識となっている。鳩山はオバマ大統領に対して、2度、問題の解決を約束している。過去、長年の日米協議によって、普天間空軍基地は沖縄県内の人里離れた場所への移設が決定済みだった(この基地は現在、8万人以上が暮らす人口密集地のど真ん中にある)

But Hatoyama's party, the Democratic Party of Japan, said it wanted to reexamine the agreement and to propose a different plan. It is supposed to do that by May. So far, nothing has come in over the transom. Uh, Yukio, you're supposed to be an ally, remember? Saved you countless billions with that expensive U.S. nuclear umbrella? Still buy Toyotas and such?

それが、この鳩山の党が、もう決まった計画を見直したいと言い出したのだ。5月までに決着させるそうだが、この掟破りの成果は今のところ何もない。ユキオ?おたくの国は我が国の同盟国だったはずでは?核の傘に何億かかるか分かってますか? なのに我々にはトヨタを買えと?

2010/04/28

猿レベル

京都大学などの国際研究グループは、西アフリカのギニアで野生のチンパンジーの数十頭の群れを30年余りにわたって観察している。この群れでは、これまでに3頭の幼いチンパンジーが死んだことが確認されているが、母親は2歳半の子の死がいをミイラの状態になるまで27日以上背負って運び続け、ハエを追い払ったり、毛づくろいをしたりしていた。また、同じ母親のチンパンジーは、1歳の子が死んだ際は死がいを68日間肌身離さず運び続け、同じ群れの別の母親も2歳半の子が死んだ際、19日間、同じ行動をとっていたという記録もある。この群れでは文化的な伝統として、幼い子どもが死んだときに固有の行動をしているとみられる。

「愛情深い」あるいは「宗教的な」猿の群れのお話。

京都大学霊長類研究所は、「ヒトが死を悼み、弔うようになった起源が読み取れるのではないか」また「非常にまれで、しかも死を特別に扱うような行動」とコメントしていたが、これを聞いて不謹慎かも知れないがちょっと笑ってしまった。

これは「猿が人間のような感情を持って行動した」のではなく、「人間の弔いに関わる宗教心が猿レベルだ」ということである。

「牧師の言ってることは変だと思うが、出てしまうと葬式が心配だ」という年寄りは、各地の教会にいっぱいいるはずだ。まさに猿の発想である。

進化論もまた、己を猿レベルに貶める仮説である。「猿でいいのなら、猿でいろよ」というのが、神の答えだろう。

「無実の猿よりは、贖われる罪人であることを選んだ方が利口だぜ」というのが、私が伝えるメッセージジのアウトラインだ。

2010/04/27

家庭訪問初日

6年ぶりの担任としての家庭訪問はタイヘンだった。

「さあ出かけるぞ!」と昇降口に行けば、キンキンに入れておいたタイヤの前輪から空気が抜けている。のっけからトホホの出来事だが、気を取り直し、代わりのミニサイクルにまたがって出発した。ところが久しぶりの担任なので、知っている家はわずか2軒だけ。

「家はわからん」「時間は遅れる」「頭は痛い」と三重苦。

次が何軒目であろうが、迎える方はそうではない。一期一会の気合いが緩むと相手に失礼になる。

何とか最後のお宅を後にしたときには、軽い目眩が・・・

ふと新任の頃を思い出した。次の家がわからなくて、見上げた空も今日と同じように青かった。つくづく私は教員になどむいていないなあとしみじみ思う。人と会うこと、聴いたり話したりすることは、心身の活力を激しく消耗させる。私なんぞが、よく25年もこんなショーバイやってこれたものだ。

ひとつ大きく違うのは、あの頃オバサンに見えた母親たちが、お姉さんに見えること・・・

光陰矢のごとし。

2010/04/24

カナン教会5月の予定

予定は未定ながら、おおよその見通しは以下のとおり。

2 家庭礼拝(天理での礼拝はなし)
9 メッセージ ひねくれ者のための聖書講座⑮ 
16 分かち合い 聖餐式
23吉野での家庭集会
30 メッセージ 「エリコの戦い」(約束の地カナン⑤)

現在の月2回の割合でのメッセージは、まずまず無理ないペースで、私の健康にも良い。

毎回メッセージを終えると、「もう話すことなんか別にないや」と思うが、不思議と次回までには語るべきことが整えられる。

明日は、約束の地カナンのシリーズ第4回だ。「主の軍の将」というテーマで話すが、信仰における自己チューの問題にも触れることになるだろう。

ちょっときいてな

今年度は、Saltファミリーにとっても大きな節目である。

妻も職場が聾学校に変わった。教会に聾唖者の兄弟姉妹は来られなくなったが、身につけた手話が生かされている。下の息子は私たち夫婦が出逢った母校に行くことになり、ずっと夢だった高校野球ではなく、バスケットボールに転向した。長男は妹と一緒に再度受験する気配だが、さて、どんな展開になるのだろうか・・・・

主のなさることは深く、そして無駄がない。

私も4年2組の担任となって、新任のような気分で原点回帰。毎日疲れるが、実に面白い。

先日は参観日の国語の時間にLaugh&Peaceの「ちょっときいてな」をかけた。音読の工夫をさせようというねらいだが、親たちはちょっと固まっていた。

http://www.youtube.com/watch?v=285m8cJ2Qu8 【ちょっときいてな】

昨日は理科の時間に白衣を着て登場しただけで大いに盛り上がった。サイエンスの眼を持って予断や偏見を持たない思考パタンを身につけさせたいという願いをこめてのコスプレ。

いよいよ来週は家庭訪問。金曜日に自転車をチェック。タイヤにはキンキンに空気を入れておいた。

さて、「ぬく森の郷」に場所を移しての「新・リコーダー講座」が始まった。こちらも気分新たにとってもいい感じ。村おこしやその他のもろもろのことを考えずにすむので、荷はずいぶん軽くなり、純粋に音楽に向き合えそうだ。

来月はレギュラー参加者の銀じ郎さんの希望で、ちょっとインターバル短めだが、5月8日(土)の午後2時から、場所は「ぬく森の郷」学びの部屋にて。

2010/04/23

教会に「行く」「行かない」

教会に「行く」「行かない」の議論はそもそも不毛だ。

キリストを信じているなら、教会とは私なのだから。

私が神にとっては、「いばらの中のゆりの花」なのだ。

集まったところが、「ゆりの花束」ならいいけれど、パチンコ屋の開店の花輪みたいな造花だということもある。

造花は枯れないが香りもしない。

生きた植物なら、根をおろしてさえいれば、いのちはめぐる。

だから、行くべきところがなければ、行かない方がずっと正しい。「どこかへ行く」という発想ではなく、キリストが私を集まりの起点にされると信じて時を待つ、あるいはアクションを起こすというのが正しい。

聖書は、「何でもいいからとにかく集まれ」とは言っていない。「集まることをやめたりするな」とは言っている。それは「集まりの質を保って集まりを保持せよ」という意味だ。

教会に「行く」にしても「行かない」にしても、その先に「礼拝」があるかどうかの方がずっと重要である。

ただ「行く」ことにも「行かない」ことにもそれ自体意味はない。

「長年教会に行き続けたけど礼拝したことがなかった」というほとんど意味のわからないようなことが実際にはあまりにも多い。

聖日礼拝を守るべきかどうかも、虚しい話題である。

日曜礼拝の参加者が礼拝しているとは限らない。大声で賛美歌を歌っている人が賛美しているとは限らない。断食祈祷している人が祈っているとは限らない。

私はキリストを経由して返ってくる手応えをくれるような兄弟姉妹との交わり以外は信用していない。私たちの交わりは、「御父ならびに御子イエス・キリストとの交わり」だと書いてある。

キリスト教用語を羅列するだけの馴れ合いなんて、特に交わりとは呼ばない。礼拝とは集まることでも歌うことでも祈ることでもない。

どんな教会でも、同じ聖書を使い、たいてい似たような祈りをし、大して変わらぬ歌を歌っている。そんなことは同じ信仰の証ではない。

十字架を経ていないものは全て偽物であり、よみがえりとともにないものにはいのちがない。

2010/04/20

「おはボン」は原点

5周年目のアースデーでは、キンキ雑楽団が、壮馬が、Prinusが、それぞれに「おはよう・ボンジュール・ハロー」を演奏してくれた。今回Salt&Uribossaはビギンのリズムで演奏した。エンディングでは全員での合唱。6時間にわたる舞台にひとつの流れが出来て、演出としても成功だったと思う。

「おはボン」は、アースデーでは、いつも陰で動いてくれているY.B.M氏やつっちゃんたちと私を結ぶ曲でもあり、カフェテラスNZのイメージソングでもある。そして何よりSalt&Uribossa結成のきっかけとなったのもこの曲だ。

いろんな活動をしている市民団体のメンバーたちが、それぞれに出会いを紡いでくれたらという願いをこめて、第1回のアースデーでも歌っており、その時はクロマチック・ハーモニカのあらいなおこさんが吹いてくれたのを思い出す。

どうしても今回、「おはボン」を取り上げたかったもうひとつの理由は、最初にこの曲を録音してくれた森卓也さんの追悼のためである。彼もまたこの春に癌で急逝したのだ。

2日あけて今日は参観日。ギターを教科書に持ち替えて教壇に立つ。持っているのはギターだろうが、教科書だろうが、聖書だろうが、いつも私は変わらない。

世界に向かって語りかけることばは、復活の「おはよう」しかない。

2010/04/19

アースデー打ち上げ茶話会

若いミュージシャンたちが、自分の人生を賭けて真摯に音楽と向き合う姿を見るのは何とも嬉しいものだ。しかし、好きな音楽で簡単に家族を養っていけるほど、世の中そう甘くはない。しかし、それが難しいからといって、簡単に諦めたり方向転換をする必要がどこにあるのだろうか。

壮馬とプライナスのふたりが、熱く語っているのを見て、ちょっと心がふるえた。彼らの姿は決して愚かではない。はっきり言って、今の日本の音楽シーンで彼らよりもすぐれたミュージシャンがそれほど多く存在するとは到底思えない。それは、単なる贔屓ではなくほぼ正当な評価だと思う。

客観的に見ても商品価値の高い彼らが、人から商品イメージを押しつけられることには強い違和感を感じている。それが何とも面白い。

彼らも自分の本当のレベルを知っている。成功するとかしないとか、食えるとか食えないとかじゃなく、そんなことでやりたいこと、やるべきことが左右されてはいけないと彼らは本気で考えている。自分たちの選択について、妥協の上で安逸をむさぼっている連中に忠告されるようなことではないと心の中で叫んでいる。それは実に正しい。

川名君は言った。「もう競争するのはやめた。大事なのは心といのち。自分を裏切らない生き方であれば、それは音楽でなくてもいいんだ」と。それは、「何としても音楽を続けたい。いつかは成功するんだ」という薄っぺらな夢を見ている者のことばではない。

別れ際に、壮馬とプライナスは各々の音源を交換して再会を約束していた。とっても美しい光景だった。「人の演奏を聴いても感動することなんかあまりない」と言っていた壮馬の方から自分のCDを差し出し。マミちゃんがそれに応えた。

後ろで見ていた私は、Uribossa氏と顔を見合わせて「俺たちも右肩上がりでいかないとね・・・」と決意を新たにした。

2010/04/16

5周年

このクソ忙しい時期に、毎年恒例になった土日連続のビッグイベントのお知らせ。

「カフェテラスNZ」も「アースデーならsouth」も、ともに5周年を迎える。

いずれも何となくお手伝いをしてきたが、気がついたら相当なエネルギーを注いでいた。「頼まれると嫌とは言えない」というところも無くはないが、「期待されると期待以上をかたちにしたい」し、何より楽しいから続いている。

あと何年やれるかはわからないが、やめる理由の方が続ける理由よりも納得できそうなら、きっと自然に始まったように自然に終わっていくのだろう。「ふるさと元気村」撤退みたいに、突然思いがけずに終わりが来るかも知れない。

☆Prinus LIVE at カフェテラス NZ
~NZ5周年記念~
プライナスとは、ちょうどよいところ、バランス・調和・全体を表しています。
名古屋を中心に活躍する本格的J-POPバンド。
翌日のアースデイならSouthにも出演します。
日時:4月17日(土)15:30~場所:カフェテラスNZ(奈良市法蓮町1330-1
TEL・ FAX:0742 - 42 - 7115)チャージ:1500円(ドリンク代別)

☆アースデイならSouth2010~たのしみながら考えよう、環境のこと~
日時:4月18日(日)10:00~16:00
場所:橿原文化会館前広場(近鉄・大和八木駅下車すぐ)

内容
◎ステージ
10:00 オープニング
10:05 アクティブサポートwhat’s up?(ヒップ・ホップ)
10:20 はちみつ(コーラス)
10:50 キンキ雑楽団
11:20 楽団ひとり(大道芸)
11:50 石橋愛史 (ハワイアン)
12:10 Salt&Uribossa (ボサノヴァ)
13:00 アクティブサポートwhat’s up? (ヒップ・ホップ)
13:15 壮馬(ギター弾き語り& ジャンベ)
14:15 吉村恵美子(歌謡)
14:45 prinus(ポップス・ユニット)
15:45 エンディング「おはよう・ボンジュール・ハロー」(出演者全員)

◎リサイクルマーケット自転車、衣服のリサイクル、苔玉、手作りカバン、ステイショナリーなど
◎飲食バザーシュハスコ、無農薬梅干、サーターアンタギー・沖縄物産、郷土伝承・サナブリ餅など
◎子どもの遊びコーナー
◎一箱古本市
◎環境のみどりのハンカチ(本部企画)
※24日の「アースデイ2010 in なら」につなぐ共同企画

2010/04/14

「冥福を祈る」を常用すればいい

先日来られた宣教師のご婦人に「Saltさんはどれぐらいの漢字が読み書き出来るか」と尋ねられ、「そうですね、きちんと読み書き出来るのは2500文字くらいでしょうか・・・」と適当に答えた。今日のニュースによると、常用漢字が少し増えたらしい。これで常用漢字は2136文字になった。とすれば、いくら何でも2500くらいなら何とかなるだろう。三鷹市の市長が「鹿や熊が常用漢字になったのに鷹がはずされるのは合点がいかない」と話していたのが面白かった。

「あの字をはずそう」「この字を入れよう」というようなことは、文化審議会国語分科会の漢字小委員会というところが決めるらしいが、おせっかいなことだ。

「常に用いる」って何だ?

この「常用」は「携帯」と似た響きがあって何となく信用出来ない。

「携帯電話」を略すなら正しくは、「携帯」でなく「電話」だろう。「携帯」するなら「傘」の方が歴史がある。でも、「携帯傘」を「携帯」とは言わないだろう。私の母は、携帯をほとんど携帯しない。持つのが重いのだそうだ。母の携帯はリビングのテーブルの同じ場所にいつも置いてある。そして時々孫とメールをやりとりして満足しているのだから、そんなものを「携帯」と呼ぶのは奇妙に思える。

まあ、そんなことはどっちでもいい。母の使い方もそうした道具の呼び名でも、みんなが呼ぶように呼ばなければ、感覚を共有できないではないか。だから、私も電話に出たり返信したりが面倒臭いときは数日にわたってあえて携帯しないこともあるが、「時々ケータイ」とか「気まぐれ電話」とは言わずに、世間の例にならって「ケータイ」と呼んでいる。

表現やことばについてこだわるというのは、本質的にそういうことではないのだ。

教会が「エクレシア」であることは知っている。「エクレシア」はもちろん「教える会」ではない。でも、カナンエクレシアではお菓子屋さんみたいではないか?別にカナン教会でいい。そんなところでこだわりを見せてもしゃあないのだ。

違いをわかっていることは大切だ。しかし、それを抱き込みつつ、きちんと分別していることが大人の態度である。

若者のことばの乱れが・・・言葉の使い方が・・・・どうのこうの、本当の意味はかくかくしかじかと、蘊蓄をたれる人は何処の世界にもいる。しかし、ことばなんか所詮は記号なのだ。どっちが正しい記号かというようなことは愚かな議論だ。大事なことは、「なぜ本質が別の記号にスライドしたか、そのズレが本質の捉え方にどんな変化をもたらすのか」ということだけ。

「冥福を祈る」という言葉がある。リクエストがあったので、面倒くさいけど、「・・んなこたあ、どっちでもいい」ということを言うために無駄な蘊蓄をたれてみる。

冥福とは厳密に言えば、冥土における幸せのこと。冥土とは死者が亡くなってから49日間さまよう場所のこと。仏の道においては、生前の行いを裁かれ、次の世界を決める場所であるとされる。大乗仏教である浄土真宗十派では死んだ瞬間に即得往生で仏の仲間入りをするので、他宗の様に冥土の旅そのものが存在しないので、その最中の幸福を祈るということはそもそも意味が無い。

「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」というわけだ。「真宗なおもて冥福を祈らず、いわんやキリスト信仰をや」ということなのだろうが、「仏教用語じゃないのか」という指摘の中でも、このように教義は分裂しているわけだ。

「普通の感覚」だとこの辺りでどうでもよくなってくるはず。

だから、普通の「死後の幸福」という程度の意味で使っているのなら、クリスチャンが「冥福を祈ります」と言っても別にかまわないと思う。クリスチャンが「多分信じていないだろうな」という人の死に際して使うふさわしいことばが他には見当たらないでしょう。

死んだ者はいくら祈っても甦らない。人が死んだら誰であれ、死を悼むのが常識。時として歪んだ信仰は人を無神経で不謹慎にする。

私は食前にとってつけた祈りはあえてしないが、給食の前には子どもと一緒に「合掌」する。別にパンやおかずを拝んでいるわけではない。

「冥福を祈ります」は、亡くなったときの、良くはないけど、悪くはない決まり文句だと思う。キリスト教の手垢にまみれた表現よりはよほど自然なことばだと思う。

それよりも、唯物論者こそ、自分たちの持論にふさわしい弔いや慰めのことばを考えればいいと思う。「死んだら終わり。死後の世界(霊界)も輪廻転生もありえない」と信じる人は、代わりにどういう言葉を使うのかを聴いてみたい。

2010/04/12

2匹の魚と5つのパン

やらなければならないことが山ほどあるが、どこから手をつけようかと思案する。思案するうちに喫緊の課題が迫り、取りあえずはそこから・・・という繰り返し。あまり良いリズムではない。

今年は2月から飲み始めた漢方薬のおかげで花粉症のダメージは軽いが、大切な友人知人の死や子どものダブル受験に加え、仕事の役割や元気村撤収などの環境の変化もあり、春先の体調は最悪。

昨日も教会にはたくさんのゲストをお迎えしたのだが、肩こりと頭痛がひどくて、きちんとメッセージが出来たのか、まともな受け答えが出来たのかかなり不安が残る。

しかし、こうした様々な制限があることは幸いだ。時間も、能力も、意欲も、健康も、すべてに満たされ、豊かに溢れていることなんてまずない。私たちがどういう状態であろうと、ただ主にあるからこそ、私たちの手持ちの力である2匹の魚や5つのパンが役に立つ。

2匹が1匹でも、5つが3つでも問題ではない。私たちがそれを喜んで主に差し出し、主がそれを裂いて祝福してくださるかどうかが鍵なのだ。

追記
(昨日来てくださったみなさん、右目を腫らし、口は半開き、肌つやが悪く、無愛想なSaltですみませんでした。本当はいろんな点でもうちょっとだけマシなんです。)

2010/04/10

折りしも、オネシモ

昔コロサイの町にピレモンという人がいた。彼はオネシモという奴隷を所有していた。詳細は明らかにされていないが、オネシモは主人であるピレモンに何らかの借りのある状態で逃亡する。その後、オネシモはパウロと出逢い信仰を持つ。パウロはこのオネシモをピレモンに送り返し、主にあって兄弟として迎えるように促す。(ピレモンへの手紙)

長男の大学受験の件ではいろいろと励ましのコメントをいただいたりした。

はからずも父としての情を醸すような文章を書いてしまったが、実はその後の展開の中で、大いに教えられることがあった。

主の不思議なお取り扱いの中で、私は「父」として「教師」として、根本的に駄目出しをいただいた感じを持っている。それは、とても苦く甘い経験だった。

親子は主人と奴隷ではない。そんなことは当たり前だ。しかし、子どもが親に対して妙な「負い目」を感じているようであれば、何かが違っている。

私は何があろうが、子どもが「健やかな状態」でいられるように育てて来たつもりだったが、いくつかのダメージは彼から「健やかさ」を奪ってしまった。


私は彼を「主にある兄弟として」(ピレモン16)迎えなければならない。けれども、私は心の何処かで課題を先送りしていた気がするし、そういう感覚は正直あまりなかった。

彼の問題は何であれ最終的に私が責任を持ち解決してやる覚悟でいたし、それが正しいと思っていた。だが、どう考えても私には初めからその力がない。

「父」として「教師」としての私が、無能感、無力感、自己嫌悪に襲われる。

「彼は私の心そのもの」(ピレモン12)と言えるような子どもであって欲しいという願いと現状との大きなギャップ。

しかし、ピレモンは、「パウロの助けによって」オネシモを永遠に取り戻す。

「彼(オネシモ)がしばらくの間あなた(ピレモン)から離されたのは、たぶん、あなたが彼を永久に取り戻すためであったのでしょう」(ピレモン15)

このみことばは私を深く慰めた。まさに「折りしも、オネシモ」という感じ・・・

アブラハムは約束の子イサクを捧げて再び取り戻す。

「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです」(ヘブル11:19)

このみことばは、かつて恋人であった女を妻として取り戻す時にも私を支えたことばでもある。

私はきっと息子を取り戻すだろう。それは受験や進路がどうしたとかいうレベルのことではない。

信仰とは・・・
礼拝とは・・・

理屈や概念ではない。それは、「今、生きること」であり、「今、選ぶこと」であり、「今、委ねること」だ。あらゆる場面で主を主とすることは、キリスト教の牧師の説教のように簡単ではない。

2010/04/09

すぐ手の届くところにある真理を拒む心理

人は抽象的で複雑な議論を好む。

深い葛藤や苦悩も意外にけっこう居心地が良かったりする。

それは最も敵の得意とする領域でもある。

かつては、私も風車に立ち向かうドン・キホーテの如く、敵の何たるかも知り得ぬ状態で自力でねじ伏せようなどとも考えたが、そういう発想自体が敵の思う壺。

答えはいつもあまりに簡単。この簡単な結論に一筋に思いを向けるのが難しいだけなのだ。

つまり「聖書にこう書いてある」と宣言すること。これに尽きる。

しかし、人が心からこれを宣言するには、私たちのプライドは高すぎ、少しは物を知っている。

だから殆どの人たちがたった10日ばかりの道を40年もさまよって、結局「約束の場所」に至らないといったことが今日も同じように起こるのである。

2010/04/07

4年2組始まる

4年2組の担任の先生として1年のスタートをきった。

それにしてもよくこれだけ次から次からやることがあるなあとびっくり。

いっさい工夫せず、ほとんど努力しなくても、ただ雑にこなすだけでも十分面倒くさい。

もともと学校にいること自体がそんなに好きではないので、全然やる気はないのだが、これだけ面倒くさいことをやりながら、何の工夫もせず、いたずらに時を過ごすことにはもっと耐えられないので、結局いつもあれこれ仕掛けをしてしまう。これはもう性分なので仕方がない。

さて、26人の子どもたちと対面。目の前に子どもが出て来ると、やはりエンジンがかかる。どいつも、こいつも、みんななかなかかわいいじゃないか。休んだ子にもその日のうちに教科書を届けてやろうと家庭訪問。

学年だよりの各担任からのコメント欄には、「楽せず、楽しく」とひとこと。「楽」を覚えたら、「楽しみ」なんかなくなる。子どもに楽させてはいかん。教師も楽しようと思ったらいかん。

今日はこんな話をした。
「アルファベットは26文字。26文字の組み合わせですべてのことを言い表せる。これってすごいことです。逆に一文字欠けても言えないことがある。26人いるということはそういうことだよ。」

子どもたちは、ふーんという顔をして聴いていた。

さて、彼らと一緒にどんなドラマをえがくことになるのだろう・・・・

2010/04/04

ワラシはワタシ

さて、ふるさと元気村を出た創作実験工房「童」だが、私は別に荷物の置き場に困るくらいで、よく考えてみれば創作実験工房「童」というのは、ふるさと元気村2番教室の名前というよりは、私自身のことなのだ。

工房名をつける時は、ずいぶん悩んだが、「童」と書いてワラシと読ませた。昔風、田舎風の子どもの呼び方である。呼び方だけでなく、子どもは昔のように育たないと田舎っぽい環境で育たないと駄目だと思っている。子どもは緑や水や風のない町でまともに育つはずがない。

「童」という字は「里の上に立つ」と書く。それが気にいったのだ。さらに「童」という字は土の上に音が重なっている。まさにsound of earthではないか。しかも、私は3人の子持ちで男の子も女の子もおり、おまけに小学校の教員である。このネーミングは今でも最高だと思っている。

私が生きている限り、創作実験工房「童」はつづく。

というわけで、今月のリコーダー講座は、場所を室生ぬく森の里・学びの部屋に移して実施することにした。

4月24日(土)10:00~12:00

http://www.city.uda.nara.jp/nukumorinosato/index.html【室生ぬく森の郷】

しおどき

今日は、SiGNの写真茶話会に行く予定だったが、引っ越し先のない工房の片付けに追われた。

一枚一枚絵をはずしながら、一枚一枚を同じ絵をかけていたときのことを思い出した。

キリスト教徒にとってはおよそどっちでもよさそうな「村おこし」に関わったのには、私なりのちょっとしたこだわりがあった。

どこの村や町に行っても、その集落に住む人を無視して、ひたすら「教え」や「文化」を押しつけてきた世界宗教としてのキリスト教に対して、私は強い反発を持ち続けているからだ。この世に厚顔無恥のおせっかいほどウザったいものはない。それをわが主の名と権威をもって人殺しまでやるのだから、赦されようはずがない。

アメリカの星条旗信仰を批判して教会を追われたから根にもって恨んでいるわけではない。ただ、イエスはそういうやり方は決して好まれないという確信があるのだ。そうした熱心は正しい知識によるものではない。

室生での村おこしにおいて私が自分に課したテーマは、「何もない村にある価値を相対化すること」そして、「参加者にアートを通して体感してもらうこと」だった。私は「価値を相対化出来る力」や、「自然のうつろいを味わいアートを楽しむ心」は福音の種を育てる土壌だと思うからだ。

集団の中に溶けこもうとしても、やはり私は溶け残る異物であったという証明を得たことは、当然の結末と言えばそれまでなのだが、みんないい人ばかりなので、気持ちは多少複雑である。

片付けの合間に食堂でうどんを食べていると、「またたっぷり時間が出来たら、戻ってきてください。待ってますから」と館長の奥さんが声をかけてくれた。

関係者の方々は、私が出て行ってほっとしておられるだろうし、反面、まさか出て行くとは思っていなかっただろうと想像する。彼らが組織として私に出した提案は、「妥協」を迫ると言うよりは、「交換条件」という程度のもので、普通の人ならまずOKしている程度のことだったからだ。

しかし、この提案は、私にとっては潮時、まさに「塩時」を教えるものとなった。ちょうどこの話に前後して4月からは6年ぶりに学級担任に復帰することが決まった。どんなに時間をうまく使っても、管理運営上の規則を守れそうにはない。

工房運営に関しては、やはり自分の力量不足を痛感した。「忙しい」「しんどい」は言い訳にならない。複数の人をみんなに気持ちよく動いてもらうのは難しいし、経済をまわすのも大変だ。でも、もう少しうまくやれば不可能ではなかった。まだまだ何処かに甘さがある。いつかまたどこかで何かを始めるとしたら、その時の良い準備になった。

2010/04/03

さらば「ふるさと元気村」

2007年、私は「ふるさと元気村」の常設アーチストとしての招きを受け、創作実験工房「童」を立ち上げた。そこで数々のワークショップを企画・主催してきた。

現役の勤め人が、さびれていく地域のために貢献できることは何かないだろうか。そんな小市民としての正義感に燃えて立ち上がったのである。アートと癒しと村おこし、けっこう面白いテーマである。

「ふるさと元気村」は廃校になった田口小学校を文化芸術活動体験交流施設として再生させたものだ。

私の生業は「世間が狭い」などとしばしば揶揄される学校の先生だが、私には誰にもそんなことを言わせない幅拾い分野の友人たちがいる。しかも、それぞれの道の達人も少なくない。こうした出逢いを、ただ私が面白がっているだけではもったいないと思ったからだ。

アトリエは、最初から自己実現の為の制作の場所ではなく、何でも出来る実験工房としてスタートさせ、私が教えるのではなく、それぞれの道のプロに来てもらって、間口が広く奧の深いワークショップを体験してもらうことにした。私はコーディネーターに徹し、講座の時は、私も生徒としてお金を払って参加するスタイルをとった。

他の工房は、それぞれに「陶芸」や「竹細工」や「一閑張り」や「切り絵」をしておられるのに対し、私のやっていること、やろうとしていることは、初めからまるで性格が違う。
他の人は大体、毎日来られて工房を開けているのに、私は月に数回しか来ない。

月に2回の講座も1日にまとめて、午前と午後にしている。この講座の質と成功にかかっているわけだ。しかし、雪の多い冬場は期待するほどの参加者が見込めない。せっかくの企画にも少人数の参加者では申し訳ないので、2009年からは苦肉の策として、自らが講師となってリコーダー講座を始めた。これは参加者が少なくても自分が講師なら気を使わなくてすむという極めて後ろ向きな理由で始めたのだが、これがウケた。伴奏者としてmomoちゃんが来てくれてからはますます面白くなり、神戸でも出張講座が開かれた。これなら、まだまだ続けられそうだ。そう思って、この春からも契約を更新しようと思っていた。

ところが、皮肉にも元気村全体の活動も活発になり、また宇陀市の管理が強化されることで、講座の日以外は閉じられている私の工房のあり方について、いろいろな意見も出るようになった。やはり、組織が妙に機能し始めるといのちの働きを損なうのである。

館長さんや、工房を取りまとめる代表者の方は、私が音楽室を自由に使えるようにして、元気村に残れる道を考えて、新しい提案をしてくださってはいたが、何回かに渡る話し合いの中で、彼らの善意とともに、一番根本的なところで「私がそこにいることの意味や価値」がほとんど伝わっていないことを感じることとなった。それで、互いの違和感が限界に達する前に、工房をたたんで元気村を出ることに決めたのである。

初めから自分の居場所や自分のやり甲斐を求めて始めたわけではないので、寂しさはほとんどないが、「そんなもんなんだなあ・・・」と思う。私がここにいて活動していることを励みにしてくださっていた方々には少し申し訳なく思う。

この3年足らずの間に、本当にいろんなところから、いろんな方が来てくださって、実に楽しかった。かなり濃密な想い出が出来た。改めてスタッフや協力者の皆さんに感謝したい。

「こけ玉づくり」や「ビオトープ」や「寄せ植え」など、子どもから大人まで幅広く取り組める内容で、植物の魅力を再発見させてくれた「植物屋・風草木」のJunpei君。

「流木アート」や「ダッチオーブン料理」でアウトドア魂を見せててくれた理想工房Craftのつっちゃん。

私をもうならせた圧巻の「デジカメ連続講座」で自分自身写真熱に再び火をつけてしまうことになったSiGNのY.B.M氏。

「アロマの香り」で工房を別の空間に変えてしまった「CalmDays」のイソカイさん。

たくさんのスタッフを引き連れて、「さをり織り」を明るく楽しく指導してくれた「アトリエSUYO」のすーちゃん。

私の企画展「44eyes」のために特別に額を制作し、「青空工房」でたくさんの仲間を呼んでくれた「wood Craft空sora」の松永さん。

素敵な宿を提供して、いつも仲間をもてなし、私を励ましてくれた「栗の木の家」の竹本さん。

旅の音楽家丸山さん、笛吹きの野田さん&赤星さん、そして相方のUribossa氏と姪っ子のMomoちゃん。そして、陰で支え応援してくれた妻と子どもたちに感謝している。

2010/04/01

走り寄る愛

互いに肉体という弱さや制限を負いながら「イエスを共有している」ということの価値、この時空にあって永遠の今を生きていることの素晴らしさを思う。

主が与えてくださる出逢いとそのタイミングはいつも人知を遥かに越えている。交わりは、確かに主よってつながれている。

ヨナの頭上には「とうごま」が、ザアカイの足元には「いちじく桑」が備えられる。そして、アナニヤやパウロに、コルネリオはペテロに会いに行く。

しかし、クリスチャンは「宣教」とか「伝道」のために生きているわけではない。「生きることがキリスト」であるから、死ぬことも益なのだ。キリストではない事業を目的にするといのちを失う。教団や教会という組織による囲い込みの無意味と無力を笑おう。

この世における成功にも失敗にもそれ自体には意味はあまりない。「今どこにいて何を見ているか」大切なのはそれだけだ。

もし主を正しく主とするなら、私たちは祝福から逃れることなど出来ない。私たちが自らの重さで何処まで堕ちてもさらに主は低いところで受け止めてくださる。闇が深ければ深いほど光はその輝きを増す。

今日は走り寄る父の愛を感じ、胸いっぱいで過ごすことが出来た。準備されるのは、ぴったりの服、ぴったりの指輪。ぴったりの靴。

2010/03/30

奇跡より軌跡

ゆばるさんのご子息の大学が、これからわが息子がラストチャレンジしようとしている学校だとわかって、私は本当に驚いた。主がゆばるさんのご家族を遣わしてくださったのだ。それは気持ちがキレかけていた息子にとっても大きな励ましになった。

「もしかしたら、これはイケルかも・・・」と思った。

「奇跡は鈍い奴のためにあるんです」「エジプトであれだけ奇跡がなければ民は出て来れなかったでしょう」と電気やさん。確かにそのとおりだと思った。

電気やさんのことばを聞いて、「私は鈍い奴なので、きっと今回は奇跡がおこるぞ」と、妙な自信も得たのだが・・・

どっこい、そうはいかなかった。

今回、息子は「合格するよりもさらに良い結果」となったわけだが、なかなか生身のSaltファミリーにとっては、それはかなり厳しいものである。

単なる合否ではなく、息子なりにこれまでいろいろと辛い思い(勉強のことではなく)をしてきたので、今回ばかりは最後の最後に逆転劇があるのではないかと期待していた。何とかちょっといい思いをさせてやりたかった・・・・というのは浅はかな親心。

しかし、さらに深い愛と知恵は、息子を奈落の底へ突き落とす。

私たちの信じる神には、御利益などまるでない。

なぜなら、イエス御自身が祝福の中心であるから。

私たちはこの御方に触れることなしに他の何を得ても無意味である。逆に、この御方に捉えられていれば、私たちはすべてを得ているのである。

ここ数年の間に、大きな喪失や、思うままにならないことをいくつも続けて体験する中で、改めて「私たちにとって主はどなたであってどんな方なのか」をしみじみと味わっている。

しかし、一連の決して望んではいない厳しい現実の中で味わっているのは、「見放された」という失望感ではない。むしろ「私たちは覚えられている」という甘美な喜びである。私たちは「祝福を失った」のではなく「祝福のただ中にある」ということだ。 御自身の掌に刻まれ、ひとみのように守られているということなのだ。

そんな「あたたかいしるし」が、私の落胆や失望をはねのけて、私の心の奥底から溢れ出てくるのを経験している。これはとても不思議な体験で感覚だ。それは辛くて悲しくて、押さえきれないほどの感情を伴いながらも、なぜかその傷口からキリストの香りがするのである。

電気やさんからいただいた手作りのスパークリングワインを飲みながら、交わりの中で「葡萄はつぶされて発酵することで腐らない(永遠のものになる)」と話していたことを思い出した。

私は未だ些細なことに一喜一憂する小さき者にすぎないが、神が真実な御方であることはちゃんと心得ている。

クリスチャンにとっては、奇跡よりも主に従った軌跡が大事。見ずに信じる者は幸いである。


【追記】
家族のために祈っていただいて本当にありがとうございました。多くの励ましのことばに心から感謝します。

2010/03/28

マジ、ワリィってカンジ?!

今日は教会としての礼拝はなかったが、長野県戸隠から電気やさん御夫妻が訪ねてくださったので、半日ご一緒させていただいた。教会でともに礼拝することもすばらしいが、こういうプライベートなゆるーい交わりは、また違った味わいがあって良いものだ。

電気やさんはブログでのイメージどおり実に面白い方で、黙っていれば一体何屋さんだかわからない正体不明なところや、コメントにも見え隠れしていたしっかり者の保護者的な奥様がおられるところ、そして紆余曲折の信仰の経歴・・・等々、私ともいくつかの共通点があって話も非常に盛り上がった。

「引き出しはいっぱいあるが中身は空っぽ」などとトボケながら、豊富な経験の中から次から次へといろんな話をしてくださったので、あっという間に時間が過ぎた。こうして与太話を繰り広げつつ、リアルでコアな交わりが出来るのは実に楽しい。私からは大して実のある話は出来なかったので、せっかく来てもらったのに、マジ、ワリィってカンジ?!  

さて、今回電気やさん夫妻が宿泊を予約されたのは、室生唯一のB&Bで、奇しくも私の古い知人でもある西峯さんのところ。実は彼女と私は農水省の役人らとともに、ドイツとイギリスにグリーンツーリズムの勉強に行かせてもらったことがあるのだ。西峯さんは「黙ると死んでしまう」とご自分で言われるほどエネルギッシュな方で電気やさんをも時々沈黙させるほどのパワー。

ここでちょっと「B&Bにしみね」のご紹介を・・・

B&Bとはbed&breakefastのこと。
宿泊は里帰り感覚で泊まれるどこか懐かしい和室。ロケーションも抜群でまるでおとぎ話の風情。くつろげるリビングにはカリンの壁面にテーブル、アップライト・ピアノ。最近は殆ど目にすることもなくなったタンノイの巨大スピーカーでクラシックが堪能できる。

http://www.pref.nara.jp/miryoku/nouka/tomaru/nishimine.html

http://web1.kcn.jp/bb_nishimine/


そしてもうひとつ。

今日は、ゆばるさんのところへリチャードさんたちが行かれたようだ。これも何だか嬉しいニュース。

http://aohiko.seesaa.net/

私も、西へ東へあちこち飛び回りたいところだが、4月からはさらに忙しくなってしまいそう。う~ん、悩ましい。

2010/03/27

桜咲く日

私はあまり自分の弱みを吐露しないこともあって、鉄の心で何でも受け流して、何もかも上手くやっているように思われがちだが、それは事実ではないので、ちょっとだけ告白しよう。

たかだか学校の合否になんでこんなにヤキモキするのだろう。

学生時代にはテストにも入試にも全く無関心だった私が、子どものことを必死になって心配している。あるいは、「学歴」や「学力」という物差しをとことん嘲り続けた罰であろうか。

子育ての中では、「自分の中にこんな感情が眠っていたなんて・・・」と自分でも驚くような心の動きを経験する。私は自分に関する悩みや心配が殆どないので、家族のことで悩み心配させられているわけだ。

私は一人ひとりの子どもたちに対する神の最善のお取り扱いを信じている。しかし、こうした感情は、霊的な平安とは別の次元で絶えず動いている。実はこれはとても幸せなことだ。家族がいるからこそ、ドキドキワクワクできる。こうしたちょっとマイナスに思える感情が信仰によって消え失せるとしたら、何と味気ないことよ。だから、同じような悩みを抱えるみなさん。強がることはないのですよ。おおいに主の前にありのままの不安や不満をぶつければいい。

正直、子どもをどんな風に祝福してくださるのかわからないことには不安がある。そしてそれは本人にとって喜ばしくない受け入れがたい事実であることも少なくないということを経験的に知るようになると、よけいにあれこれと考えてしまう。すべてが明らかになるには時間がかかる。生きている間には誰にも意味がわからないことさえあると思う。

アブラハムが約束の子イサクを得るまでにどれだけ待っただろうか。周りの女たちにはどんどん子どもが生まれているというのに、約束をもらったはずの自分のところには、その成就がない。これは絶えず今を生きるしかない生身の人間にとってはキツイ試練である。

だからこそ、待たされることには意味があるのだろう。また、目の前の事実が望みや約束を打ち消しているかのように見える最中に主に対する信頼を告白することは、確かにすばらしい生贄であろう。この期間に誰が主であり、祝福の本質とは何であるのかを問われ続ける。そして、約束のものを得てもなお、その祝福をいつでも手放せる自由を持っていることが求められるのである。理屈は簡単。教訓は具体的な苦しみや痛みには何の力もない。

しかし、息子のことで悩んでいるのは私だけじゃない。妻もそして子どもたちもそれぞれの立場で苦しみをともにしている。この一体感を作っているものこそ合否よりも遥かに尊いものだと思っている。

妻を得たとき、私は実存として安定した気がした。平たく言えば、ずっと片方しかなかった靴が両足そろった感じがした。

そして、3人の子どもを得たとき、その靴があるのは、「約束の場所」を目指して家族そろって歩いていくからなんだとわかった。

子どもたちの成長は家族の成長である。すべての家族の源である天の父がすべてをご存じで、必ず良くしてくださる。

霙まじりの冷たい雨が降っている。曇り空の下の桜の木は二度と花など咲かないかのようにも見える。でも、そんなことはない。桜は己が咲く日をじっと待っている。

明日わが長男は今年度のラストチャンスに賭ける旅に出る。結果はどうあっても、私は主を賛美しよう。合格なら良し。不合格なら合格よりさらに良し。これが現在の私の信仰告白である。

いずれにせよ、今年の桜は今まで見た中で一番美しいものになるだろう。

息子の面接の為に英語の特訓を引き受けてくれたMomoちゃん、もし読んでたら、ホントにありがとう!

2010/03/26

ココロのビョーキ・ジンカクのショーガイ

ただわがままで身勝手なために周囲と折り合いがつかなくなって、落ち込んだり居場所を失ったりすることによって、心の中が何だかモヤモヤする・・・なんてことはどこにでもある話。こうした自業自得の不快や不具合をココロのビョーキやジンカクのショーガイのせいにしてしまうのは、「ズルい」と言うか何と言うべきか、とにかく私はあまり好きではない。

適当な診断名をつけてもらうと、「こうなったのは、私ではなくてビョーキやショーガイのせい」という納得が出来る。こうしてビョーキやショーガイの周辺の人たちは自分のビョーキやショーガイに依存し続ける傾向を生む。それほど「よくなりたい」とは思わない心理が働くのである。むしろちょっとかわいそうな自分でいたいのだ。

ビョーキやショーガイを利用するのは当人だけではない。通常の因果関係を超えた理解不能の事件が起こると、悪いのはその人ではなくビョーキやショーガイがそうさせたのだということになり、ひどい場合は、人を傷つけたり、殺したりしてもお咎めなしということさえある。

学校においても、自分では手に負えない子どもたちにショーガイのレッテルを貼って、「ショーガイだからショーガナイ」と納得する教師も少なくない。

人というのは、「物事を自分の認知の枠にはめてその因果関係を納得したい」という物凄い欲望を持っているのだなあとつくづく思う。

しかし、それが間違った納得であることは簡単にわかる。特に殺人事件などは、「ビョーキやショーガイの人が犯して放免された罪の始末はいったいどうなるのか?」という被害者の心の切実な叫びがお手軽な納得を覆す。

「少年がどこまで少年なのか」が曖昧である以上に、病原菌も見つからず、レントゲンにも映らないココロのビョーキやジンカクのショーガイは非常にデタラメなカテゴリーなのだ。

「専門家でも詐病はなかなか見抜けない」と専門家が語っていた。診断は時にデタラメであっても、その証言は本当だと思う。自分はビョーキじゃないと意識してビョーキを装う病的セイカク。不幸なことに私はこういう人を何人も知っている。

さらに、教会には本物のビョーキの人もやってくる。私もいろんなツワモノを相手にしてきたが、良い結果が出たことほとんどない。それは私のせいかも知れないが、その可能性はあまり高くはない。主がご存じだ。

ビョーキの人は簡単に悔い改めない。強情でいつまでも意地を張るからビョーキになり、ビョーキであり続ける。

どこまでが自業自得で、どこからがお気の毒で、何が主の恵みなのかは簡単に他人がとやかく言うべきことではない。私も謙遜を装って口をつぐんでいるわけではないが、正直、私はわけがわからない。こんな狂った世の中で、どこまでも正常で健常であり続けることは難しいことだと思う。

正常って何?健常者って誰?と問いたい気分だ。本当に健康な人なんて宇宙飛行士の数より少ないのではないか。本当に健康な人を義人と定義するなら、「それは存在しない」と聖書は言う。

信仰がなければ、私は確実に死と狂気と背徳の世界に仲間入りしていたはずだが、己のズレや欠けを感じるのは、どこかにマトモがあるからだと思った。神は疑ったが辛うじて「マトモの存在」はココロのどこかで信じていた。

「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく病人です」というイエスのことばが胸に沁みる。これはマトモなコトバだと思えた。装うのではく、「あなたの患者です」と言うことが出来た。

2010/03/25

神のまなざし

今週のメッセージ『ヨルダン川を渡る』の中に出て来た「自分ではない自分を演じることによって、心が空洞化してしまう」「よい子が引きこもる」という部分に反応があったことが後の交わりの中で少しずつわかってきた。

それぞれに自分の経験や現状に当てはめて振り返ってくださったからだと思う。複数の兄弟姉妹からそうしたお話を聴いて、私になりにいろいろ思うことがあったので簡単にまとめてみたい。

人はなぜ「よい子(人)」でありたいと願うのか。

それは他者からの承認を得るためである。
「なかま」や「権威筋」からの承認を得るためなら、自分では納得のいかないことや、やりたくないことまで、人はやり続けるものなのだ。

「よい子(人)」であろうと志向するエネルギーや環境が整っている人はその方向で努力するし、逆に、それとは反対の環境にいる人は、あえて「悪い子(人)」であろうとする傾向を持ちやすい。

それは、人は本来別に「よく」も「悪く」もなく、ただ善悪の木の周辺へと解き放たれているという証拠なのだと思っている。いずれも承認を得るための行動であると見ると理解しやすい。承認を得ることによって得るものは、「善」でも「悪」でもなく「快」なのだ。

「よい子でいよう」「周囲に期待される自分でいたい」と思うことが悪いことなのかと言えば、そうではない。「快」を得るための道筋としては、「悪」よりも「善」を志向することの方が正しい。それは「快」はそれ自体が悪いものではなくよいものだから。

人間の成長や人格形成には、そうした「養育係」は必要なのだ。ここでは詳しい説明を省くが、聖書をよくご存じの方は「養育係」ということばが「律法」に対して使われていることを思い出されたと思う。「善」を目指しても「快」は得られないことを知ることにのみ、それを希求する価値があるというのがパウロの論である。

果たして「自分らしい自分」はどうしたら獲得できるのか。「自分探しの終わり」はどこにあるのかという問題につきあたる。

「あるべきクリスチャンの姿」などを目指すと、とんでもなく醜悪な偽善者を生む。そんなものが「自分らしい自分」ではないことは明らかだ。

クリスチャンは、「自分らしさ」など決して求めないことだ。何者にもならず、何事も成し遂げようとはしないほうがいい。ただ主に愛されている私を単純に受け入れれば、「私らしさ」が見えてくるはずだ。それは、教会の組織をまわすための役割とイコールであろうはずがない。そんなものに生き甲斐ややり甲斐を感じてはいけない。

ポイントがひとつあるとしたら、「人のまなざし」ではなく、「神のまなざし」を意識することだろう。

こう書くと、神は「私が~であれば、・・・なまなざしを向けられるのでは」と考えがちだが、それは違う。神はいつも変わらない。心の空洞はこの御方以外の何かによっては埋めようがない。

私たちはこの御方(われわれ=三位一体の神)に似るように(そのイメージで)造られたと書かれている。

いつも最高の愛で愛されている私の姿を信仰によって見ることだ。生き甲斐とは何かをすることではなく、キリストのうちにあることだと知ることだ。私がやることはすべてやり甲斐に溢れすばらしい価値がある。つまり、自分の何気ない行為も主にあっては誰かの役に立っているのだとわかるからだ。

2010/03/23

出会い系サイト

自分を棚に上げて申し訳ないが、正直クリスチャンを名乗る連中とは誰とも会いたくないし、新たな出会いにも何ら期待もしていない時期もあった。

「あなたはクリスチャンですか」と問われたら、「あなたが考えているようなそれではない」という言い方しか出来ない時期があった。どう答えても誤解されるのなら、間違って理解した気になられるよりは、理解されない方がマシだと思っていたからだ。

私は心の中でずっと主に訴えて続けていた。「みことばが約束している『傷なきしみなきキリストの花嫁』なんていったいどこにいるのですか?キリストのフィアンセを自称する女は、結婚式に備えるどころか、まるで、バラバラ死体遺棄事件みたいになってるじゃないですか、各地で肉片の朽ちる腐臭が立ち上っています」と・・・・

そんな渇きを、主は私が思ってもみなかった方法で満たしてくださっている。それはインターネットという10年前には見向きもしなかった手段を通じてである。主は真実であり、主のなさることは、私の想像をいつも遥かに越えている。

とは言え、私はネット社会を単純に肯定しないし、未だにネットには懐疑的で、一定の心の距離を置いている。不愉快な要素も危険も不安もいっぱいある。「好きか嫌いか」と二者択一を迫られるとしたら迷わず「嫌いだ」と答える。しかし、これほど素晴らしいことが続くと、私の心もだんだん緩んできた。

ネットでの配信をしなければあり得なかった交わりが現在ある以上、飛行機は嫌いでも外国に行きたければ空港へ向かうようにPCの前に座るようになった。「大嫌い」が「それほど好きじゃない」くらいになった。

私のHPがまさに「出会い系サイト」となって、リアルな兄弟姉妹たちが次々に私の前に現れるのだ。いわゆる「教会」をエクソダスした人もいれば、中には一回も「教会」に行ったことがないという人までいる。家族そろってお付き合い出来る方や、そうした出会いがもとで本当に結ばれたカップルまで登場した。

ここ数年、ネットを通して働かれる主のわざを見続けている。それは、私の渇きと叫びに対する思いがけない答えであったことが、また嬉しい。

ただ私が知らなかっただけで、主は各地に御自身のしもべを育てて守っておられるのだ。私は主の前に思い上がった渇きを訴えたことを恥じることが出来るまで、いろいろな出逢いを与えてくださった。

各地の人手によらぬ交わりが、この世では決してひとつのかたちを持つことなくても、やがてひとつの大きな喜びにつながっていくことだろうと思う。

2010/03/19

Saltが考えるプロフェッショナルな教師②

本来、小中学校の教員こそprofessionalなライセンスでないといけないと思うが、残念ながら、その養成課程も採用もその職責の重さにふさわしい人材を育成し登用するシステムにはなっていない。公立の小中学校の教員レベルでは、大学教授が持っているような学問的にも時間的にも自律性が保証された身分ではない。

社会的地位も低いが、それには教職員組合の卑屈な価値観と主張がいっそう自分たちの立場を悪くしている。教師が己を労働者と規定したことは、自らその職責を軽んじた宣言だと受け取られかねない。

高い職能を必要とするシステムが、すぐれた資質をスポイルするような連帯を内部に作りあげるのは大きな問題を孕んでいるが、本質的な改善を望むのは不可能だと見ている。

子どもと関わっている時間に自分の権利を主張すること自体がすでに敗北である。

出る杭は必ず打たれる。
打たれる前に引っ込む器用さは私にはない。
「飛んでいる杭は打たれない」と言うが、飛ぶと組織からはみ出てしまう。
これはいただけない。

残された道はふたつ。
打とうと思っても打てぬくらいに深く食い込むか、頭を突き出すかしかないのだ。

学校の外側が変わらない限り、学校の内側は変わらない。システムを攻撃してもほとんど意味はないし、徒労に終わる。エネルギーはもっと効率よく、かつ楽しく消費するべきである。なかまで攻撃し合うのは愚の骨頂である。

私は誰をも否定しないが、自分の立場や主義主張に凝り固まって感情的になるのはド素人の証だとだけ宣言しておこう。

それほど、教師という人種は「われわれことば」で語る傾向が強い。

なぜ私は親のご機嫌など一切とらないにも関わらず、親は私を信頼しやすい傾向にあるのか。これからも、私は許される範囲で私自身のことばを語り続けよう。全部本当のことなんて決して言えるはずはないが、自覚している嘘は言わずにいよう。それは私自身の健康の為でもある。

現場で人として当たり前に感じることをありのまま自分のことばで話すだけで、まず間違いなく親御さんは信頼してくれるものだ。それは簡単な理屈だ。親は自分のいのちより大事な子どもをあずけているのである。だから親というものは、基本的に「自分の子どもに深くかかわる教師は信頼に足る人だ」と思いたいのだ。

こうした心理を理解して、ただ率直に丁寧に話せばいい。自分が納得していないようなことばで相手を説得できるわけでもないので、私はまず自分を説得し納得してからしか、話し始めることはない。「こっちの立場もわかって欲しい」というようなレベルのお願いに耳を傾ける親は少ない。

「われわれことば」で語ると、いざというときに責任を回避するための保険をかけているような印象を与える。しかし、「その子が自分の子だったら、どんなことが心配で、何をしてやりたいか」を自分のことばで伝えれば、必ず落ち着きどころは見つかり、「先生、よろしくお願いします」となる。

だから、文句を言いに来た親にも、たいてい御礼を言って帰ってもらうことになる。だって親も私も子どもがかわいいんだから、そういう結論になるのは当たり前なのだ。

Professionalな教師は、「われわれことば」の本質が何であるかをわかっていて、「われわれことば」を使わない。「われわれことばの本質が何であるかをわかっていて」という断り書きは何かというと、単に組織の一員であることをわきまえず、秩序を乱す「自分のことば」を使う者も時々いるからだ。こういう教師が学校の信用を著しく失墜させる。

Professionalな教師は、相手にわかる自分のことばで語る。そして、自分の発言に責任を負う態度で子ども向き合う。だから出来ないことは言わない。

何か事件が起きても、「こんなことは二度と繰り返しません」「問題は即急に必ず解決します」などとは絶対言わない。

私はいつもこんな風に言う。
「私たちがどんなにがんばっても明日もっとひどいことが起こる可能性があります。学校というのは基本的にそういうところです。私に約束できることは限られていますが、約束は必ず守ります。起こったことは隠さず事実どおりに伝えます。そして、なるべく似たようなことが今後起こらないように時間をかけて取り組みます。お怒りはごもっともです。悲しみはよくわかりますが、なぜこうしたことが起こってしまったのかを正しく理解し、それを解決するには時間がいるのです。私は子どもの心や世の中を変える力はありませんが、考えられる限りのことは試してみます。どうかもう少し一緒に見守っていただけませんか」と。

年度末にあたり、一年間の反省と自戒をこめて簡単にまとめてみた。

2010/03/17

卒業

そつぎょう

①学校の全教科または学科の課程を終了すること
②ある状態・段階を通過すること

末っ子の卒業式に出た。

懐かしい昭和の匂いのする田舎の中学校の卒業式。

息子が答辞を読んだ。
「○○中学校 ありがとう 桜の木の下でまた逢いましょう」
そういう内容だった。

末っ子なのでわがままで甘えん坊で、ずっと幼いイメージしかなかった彼だが、いつしか私の身長を追い越し、野太い声で生意気なことも言うようになった。そんな息子も9年間の義務教育を今日で終える。

「3人の子どもに対する国民としての義務を果たし終えたことになるよなあ」といつものように馬鹿馬鹿しいことを言う私に「ほんまやなあ」と感慨深く相づちを打つ妻。

義務教育を終えさせても、子育てはまだまだ続く。

先日は、公立の試験が終わって帰って来るやいなや、「ケイタイ欲しい」と訴えて来た。上のふたりにケータイを持たせたのも高校からで、そういう約束になっていたからだ。

ところが、妻のケータイと妻を使って職場に訴えてくるその横着さが、私の首をすぐには縦に振らせなかった。

ちょっとかわいそうだが、私は「まだ中学生だろう。部屋を片付けなさい」という主旨の返信をした。

末っ子はケータイ欲しさに2日かけて必死に部屋を片付けていた。

私もそれを見て、自分の部屋を少し片付けた。

卒業・・・・・

悪くない響きだ。

Saltが考えるプロフェッショナルな教師①

日々成長し変化していく子どもたちを個々の性格や発達段階に応じて効果的な指導をするのは、それほど簡単なことではない。さらに今日学校現場でおこる様々な事象には、さらに複合的な社会の事情が織り込まれてくる。これらのひとつひとつを解きほぐし、問題に関わる様々な立場の人たちをひとつの落ち着き所へと導くのは至難の業であり、極めて高い専門性が要求される。

私は私自身が納得出来るレベルのprofessionalな教師でいたいと思うが、残念ながらそれは現場ではあまり必要とされない職能でもあり、そうしたこだわりや価値観は、周囲にとってはかなり迷惑なものなのだということも身に沁みてわかっている。

子どもの利益を最優先して、自分のこだわりを殺さなければならないことは、1日のうちに2度も3度もある。私はこれを妥協であり敗北であるというイメージで自己評価していたので、ずいぶん苦しい時期もあった。わけのわからないしがらみの中で思ったようにやれないことをシステムのせいにするのは恥ずべきこと、単に自分の力量不足なのだと思っていた。

しかし、子どもの現実をサポートするために最適の落としどころを見つけることは、妥協でも敗北でもなく、正しい手順なのだと思えるようになってきた。

私の力は小さく、私に出来ることはほんのわずかでしかない。子どもの現在は過去からも、そして未来へもつながっているのだと思うと、ほんのわずかな期間の今にしかかかわれない私が気負いすぎるのはよくない。かと言って、出来ることに手をこまねいてはいられない。どこまでやれるか、やるべきなのかは、常に一期一会の真剣勝負である。

中途半端な気持ちでは出来ないことを遊び半分でやっているSaltである。だから、半分の真剣さは半端じゃないのだ。

立場や考え方がまるで違う人たちと協調し、わけのわからん親たちと気持ちが重ならなければ、その子にとっての幸せは見えてこない。

どんな時でも目の前にいる子どもの利益を最優先できること。

それが何であり、どうすればいいのかを見極め、その為に素早く動ける教師はprofessionalだ。

2010/03/16

お知らせ(3月21日の礼拝について)

来週3月21日の礼拝に、横浜から4名の兄弟姉妹が来られることになっている。

HN「ゆばるさん」とそのなかまたち。

ゆばるさんは、作曲や編曲をお仕事にされているので、「竪琴や笛を奏する者の先祖」と言われているユバルからHNをつけられたのだろう。横浜で集まりを持っておられる方で、メッセージも聴かせてもらったが、私なんかよりずっと落ち着いた感じで品格がある。

奈良へ来られるお話があった時点で、礼拝をどんなプログラムにしようかと皆に相談した。「時間も限られているので交わり中心にしたら」という私の提案に対し、「そりゃ、アンタのメッセージを聴きに来はんねんから、ちゃんと喋らんなあかんで」ということになってしまい、「ひねくれ者」よりは「約束の地カナン」のシリーズの方が良かろうということで予定を組み替えた次第。

今回はカナンのレギュラーメンバーに加えて、西からは神戸のMeekさんや桑名のKoji君もともに交わりに加わる。これも楽しみ。Meekさんは7日にも単身参加されたが、21日はファミリーで来てくださるそうなので楽しみだ。

毎週、一期一会の新鮮な喜びと感動があるカナンの礼拝ではあるが、さらにエキサイティング。興味のある方はどなたでもどうぞ。

ゆばるさん関連のページ
http://homechapel.sblo.jp/ 【十弦の琴~音たちの賛歌~】
http://home.r05.itscom.net/kanon/ 【音楽工房 Kanon Und Gigue】
http://homechapel.sakura.ne.jp/ 【横浜フェローシップホームチャペル】
(メッセージは無駄が少なく聖書的、スッキリしていて聴きやすい!)

プロフェッショナルとは・・・

「職業人」や「専門職」を表すprofessionalは、「信仰告白」を意味するprofessということばに由来している。大学教授のprofessorにも「信仰告白者」という意味がある。

professには「神の託宣」の意味があり、元来professionalは「神の託宣を受けた者」なのである。つまりspecialistというのとはちょっと違う。

professionalは、神の承認とパブリックなミッションをおびた職能を有する者であるということだ。

有名なイギリスのオックスフォードやケンブリッジ、アメリカのハーバードは牧師を養成する為の学校であった。18世紀までは殆どの学生は牧師になったのである。従って医者や弁護士よりも先にprofessionalと呼ばれたのは、実は牧師だったわけだ。

私はこうした欧米のスタイルに賛成しているわけではない。professionalということばが一般的にも、そういう理解の上に成り立って分化していったものだということを言いたいのである。

つまり、職業的専門性は、自分以外の人の為に役立てる義務を内包しているわけである。それゆえにprofessionalと呼べるにふさわしい職能を有する方々は尊敬を受けて当然なのである。

職人はオーダーがあれば要求どおりにそれに応えるかも知れない。しかし、professionalは、オーダーに対して単純にその通りに応えない。自分の出した応えを相手に納得させ、喜んでもらえるようにと導くだろう。

2010/03/15

聖書から見た仕事

「あなたは、顔に汗して糧を得、ついにあなたは土に帰る」(創世記3:19)
「そして彼らに・・・すべてのものを支配させよう」(創世記1:26)

仕事には、「罪ゆえの苦役」という面と「神から委託されたものを管理する」という面がある。仕事で流す汗は、苦しみの証であるだけではない喜びの印でもある。

イエスは家業の大工の仕事をなさっただろうし、パウロも天幕を作って暮らしを立てていた。この職業選択は決して無意味ではない。

仕事の中で学ぶことは少なくない。

仕事を日々の糧を得るために時間を売ることだと考えてはいけない。

職業とは、社会との関わりの中で個人の能力を生かすことであり、その価値の代償として報酬を得る。これは聖書の中でも神の恵みとは明確に区別されている。

ローマの百人隊長は異邦人の軍隊という一見信仰とはかけ離れたような組織にあって、秩序や権威というものの本質を経験によって理解しイスラエルにさえ見られない信仰を学んでいたではないか。

なぜ、みことば三昧のイスラエルの教師たちにも見られない信仰が、ローマの兵士の中で育っていたのか?

百人隊長はみことばと生活が結びついていたのである。自分の仕事も信仰の中でとらえていたと言える。一方で現実の生活を軽く見て、ことばや観念の世界で神をとらえていた人たちの心は虚しく、その信仰は全く死んだものでしかなかったのだ。

というわけで、私はこうしたことをふまえて今の仕事にあたっている。

仕事は私にとっては訓練の意味合いが強いので、はっきり言うと、とても辛い。そして出来れば一日も早く辞めたい。でも続ける以上はプロフェッショナルでありたい。

2010/03/14

青い文脈

先週の日曜日は「ひねくれ者のための聖書講座」として、聖書を読む文脈について語った。

今日の午後からの分かち合いの中で、少しだけ続きの話をした。

聖書を文脈で読むためには、一定の長さと深さの人生経験が必要だ。人生の文脈がなければ、みことばを文脈に添って読むことは出来ないということ。

「誰でも自分の人生の中では自分が主人公」である。あれ、さだまさしがそんなこと歌ってたっけ。言ってみれば、それが「私が主であるところの」自分の人生の文脈。

どんなに気配りの出来る思いやり深い人でも「他人を主」にして生きている人などいない。人間自己チューが当たり前。ただしこれを露骨に出すと嫌われる。そういう人たちは性格が悪いというより処世術が下手なのである。

私たちは生きていく中でいろんな人と出逢いさまざまな出来事を経験し、その文脈を豊かにしていく。人生経験豊かな人のお話は実に面白いし、豊かな経験を重ねた人は魅力的でもある。そして、そういう人は自分の経験に基づいた人生観や人生論を持っているものだ。

しかし、聖書をいくら読んでも、心に響いたみことばを自分の人生の文脈に織り込むだけでは、それはただの読書であり、熱心に織り込んでも宗教の域を出ない。おそらく彼らが反応するのは、自分の人生観や人生論を後押しするようなみことばに限られている。遠藤周作や曾野綾子なんかは頻繁に聖書を引用するが、己の文脈で語るだけである。

私が聖書を正しい文脈によって読むべきだと繰り返すのは、みことばの断片ではなく、みことばの全体性こそが重要だからだ。

聖書の文脈と自分の文脈を擦り合わせ、聖書の文脈の中に自分自身を織り込んでいくこと、つまり、「自分の人生における主は自分ではなくイエスである」という読み方をしていくことが「信仰によってみことばを聴く」という態度なのである。

子どもの頃からみことばに親しみ、疑うことなく繰り返し、学校を卒業したら職業牧師になるような人がキリスト教界にはたくさんおられるが、聖書と擦り合わせる文脈が貧しいという問題がある。

天秤の分銅と釣り合わせせる具体物を見たことがないようでは、分銅のめもりが読めても実際の重さの実感が乏しい。

縦糸はたっぷりあるが横糸がちょろちょろでは、まともな織物が織れないのである。

別に、放蕩の経験が必要不可欠だと言っているわけではない。額に汗して働くという一定の経験や、神を知らない人の絶望の底を少しは知っておいても良いと言っているのだ。

かと言って、元ヤクザや元シャブチューが新しい組長や名医代わりのイエスを語るのは、やはり己の文脈を越えたとは言えないのである。

こういうことをふまえておかないと、「蔦の絡まるチャペル」ではなく、「舌の絡まるチャペル」になってしまう。お子様ランチみたいなメッセージは、舌の肥えた客にはジャンクフード以下なのだ。「青い山脈」的青春では、語り手の中には「青い文脈」しか残らない。

なぜ、モーセやヨセフはエジプトで苦労させられたのか。なぜ、ダニエルやネヘミヤはバビロンで仕えたのか。パウロは初めからイエスの弟子ではなかったのか。それは己の文脈を得るためである。

なぜ、イエスのまわりに人生の落伍者と見える与太者ばかりが集まったのか、しかし、与太者すべてが信じたわけではないという事実。ここに信仰がある。

「小犬にやるパンなどない」と言われた女は、「犬でもこぼれたパンくずを拾う」と応えてイエスにその信仰を認められた。自分自身の存在をイエスの文脈に見事にはめ込んだのだ。

一方で「永遠のいのちを得るにはどうしたらいいでしょう」と言ってやって来た金持ちの青年は、「持ち物を施せ」と言われて、悲しみながら去って行った。自分の文脈の延長にイエスの存在をはめ込もうとしてしくじったのだ。

この違いがおわかりだろうか。

正しい文脈で聖書を読むというのは、意外にというか相当難しい。

難しいだけでは結論にならないので、私が大事にしているポイントを3点挙げておく。

まずは霊的ではない読解力。聖書は非論理的な本ではない。ルカが福音者や使徒行伝を書くにあたって丹念に文献にあたったり、調査をしたように冷静で客観的な態度で聖書に向き合うことが大事だ。

もう一つはベタニヤのマリヤがイエスのひざもとに座って聴いたように、「人となられた神イエス」にひざまずいて聴くことである。

最後に母マリヤのように、「自分に語られたと感じるみことばを常に思いめぐらすこと」、そして「おことばどおりにこの身になるようにと願うこと」である。

2010/03/12

ケーキのおいしい食べ方

卒業を前に、大人はなぜか子どもたちに夢を語らせる。そして夢はなぜか職業と結びつく。

高校を卒業してもなお、何の具体的な夢も持てなかった私は、デタラメであってもとりあえず自分のことばで夢を語る小学生がある意味凄いなと思う。何で夢がいとも簡単に職業に結びつくのだろう?

あの頃に未来に生きる今の私がそれを果たせているのかどうかさえ、夢を語ることを避けてきた私にはわからない。

式の練習を聴いていると、子どもの夢の中に「有名な○○になって・・・」というフレーズがけっこう出て来るのが気になった。子どもながらに「有名っていいことだ」と思ってるんだなと改めて驚いた。

「無名でいいから・・・」という夢など確かに成り立たない。でも、「無名」と言っても名前がないわけじゃないないか。

そう言えば、私はバーチャルでもリアルでもSaltと名乗っている。ネット上のHNだけではない。まるで、主からいただいたように、本名以上にしっくりくる。そんないい名前は有るのだけれど大して「有名」ではない。でも、全く知られていないわけでもない。何とも微妙である。

不特定多数の人に一方的に知られることは、あまり愉快なことではない。「有名になること」など私にとって少しもありがたいことではないのだ。主がご存じであればそれで十分ではないか。ずっとそう思っている。

私はどうやら「有名であること」自体がどこか偽物である感じているらしい。「有名であること」に嘘っぽさが漂うのはなぜだろう。それは、大勢の人が一人の人に知られることはあっても、一人の人が大勢の人を知ることは出来ないからではないだろうか。人は一生の間にそんなに大勢の人には出逢えない。挨拶程度や一過性の関係なら当たり障り無く過ぎていくだろうが、一定以上の双方向コミュニケーションを維持するためには相当なエネルギーが必要だ。

だから、有名な人の発信はどうしても一方的な垂れ流しになってしまう。それは悪意ではなく量的な限界を超えているからだ。

長くいろんなことをやっていると様々な出逢いもある。私はおせっかいを焼くのも焼かれるのも嫌いだし、全く八方美人ではないので、「Saltはとんでもなく変な奴だ」と了解した人としかつながりを持たない。

近づいて来られてもうっとうしい人からは付いて来れないくらいの早足で逃げるようにしているし、固定したイメージを持たれるのが嫌なのではぐらかす。それがちょうどいいやっかい払いになって、大体いつも自分の身の丈にあったサイズの人間関係を維持できていると思う。

分母が大きくなると当然のことながら、関係は薄くなる。ケーキを焼いたら、食べるのにちょうどいい人数というのがある。分母はそんなもんでいいのだ。ケーキは家族や気心の知れた仲間と食べるから旨い。

2010/03/10

成長させてくださるのは神②

基本的に、私は子どもが元気で楽しそうに生きていればそれでいい。そうした「子どもの快適さ」を守るためにだけ時々登場するという役割だ。間違った手段で快適さを求めることをしないように、たまにチェックすりゃ十分。ちょっとだけその舞台裏を紹介しよう。

私は基本的に細かいことは嫁さんに任せるかたちをとっているが、丸投げしているわけではない。役割分担である。嫁さんのほうがその手の能力は私よりずっと高い。でも、ポイントはちゃんと押さえているつもりでいる。子どもたちが小さい頃は、「お父さんは頭にうつるテレビで自分たちのことを見ている」と大まじめに信じていたほどだ。種を明かせば、嫁さんから得た情報をあたかもその現場を見ていたかのように子どもたちに話して、褒めたり叱ったりしていたからだ。こういう夫婦の連携プレーが意外にモノを言う。

テストや成績には一切口を出さないが、受験に際しては足りない力を何とか補ってやろうと、必要に応じて家庭内で講義を行うこともある。4月から志望校に通っているという状況が子どもたちにとって落ちるより少しだけ快適だと思うからである。大学そのものや学歴という評価に価値を求めてはいない。教育オヤジのスタンスとは基本的に違うのだ。

昨年度は娘の高校受験前に英語を教えたが、今年度は長男・次男が大学と高校のW受験なので小論文対策の講座を続けている。もちろん目前の入試の科目にあるからこそやっているわけだが、それだけでは私が一定以上の力を注ぐ動機付けとしてあまりにも弱いので、中長期的には「暮らしを見つめる感性」を養い、「情報を取捨選択し整理する技能」を身につけ、「論理的な思考力」を磨くことにつながるのだと本人たちにも意識させているし、実際にそのような教え方をしている。

私の子どもたちは、この世にあって飛び抜けて優秀というわけではない。あえて断るほどのことでもないごく普通の子だ。しかし、私は彼らが今の世にあって、それぞれに宝石のような輝きを秘めているいるのを見出す。それは私にとっては大きな誇りであり喜びでもある。人がどう評価するかではなく、父親としてわが子をそう思えることが大事ではないだろうか。

思いっきり普通に育ってきた。当然、生まれ育った時代や地域や学校の影響はあるが、子どもはもっとたくさん家庭の空気を吸って生きているのだ。それに、何しろ「成長させるのは神」なのだから、そういう意識をもった親がおかしなコントロールをなるたけ避けて養育すれば、「それなりに育つ」のは当たり前なのだ。

実際3人の子どもたちはどう思っているだろう。「私が父親」という環境で存在し、DNAを受け継いでいるとういうだけでも、相当なリスクというかハンディキャップというか・・・・
出生を呪わずとも、うっとうしいと感じる時期があるのは当たり前だろう。いろんなことを乗り越えて自分らしさを見つけていくには、まだまだ時間がかかる。

両親は出来る最高のことは、神を信じることが「正しく」かつ「楽しい」ということを示すことだ。ろくでもないこの世界で人生を肯定する姿を見せることだ。

私は子どもを育てることによって育てられ、成長を見守ることで成長していると思う。成長させてくださるのは神なのだ。子育てを楽しもう。

私は常に神が私の思惑を越えた最善を備えてくださっていると信じている。私たちに信仰の備えがあれば、神の祝福の備えを味わえる。

ちなみに、未だ受験の思わしい結果が出ず、悶々と苦しい時期に書いている記事であることを追記したい。今年の桜はさぞ美しかろう。

成長させてくださるのは神①

偉大な教育書(だと思われている)「エミール」を著したルソーは、自分の子どもたちを施設にあずけっぱなしだったと伝えられている。

Saltもあれだけ好き勝手に生きていたら、子どもと触れ合う時間なんてないのでは。偉そうなことは言っても自分の子どもは放ったらかしだったり・・・と思っておられる方もおられるかも知れないが、意外にそうではない。

「自分の子どもをキチンと育ててナンボ」と思っている。肝腎要で手は抜いては一生の不覚。取り返しがつかないばかりか、老後の自分に跳ね返ってくる。まあ、それは冗談だが、自分の所有物やペットではなく、「尊重すべき人格」として接している。つまり、自分が大事だと思うことは選択肢として伝えようとは思うが、決して押しつけない姿勢を貫いている。つまずく可能性があっても先回りして、障害物を除いたりはしない。選択肢を狭めて、良いものだけで取り囲むと結局子どもはダメになる。

「天からの留学生を預かっている」という感覚をもって養育することが大事だと思う。つまり、関わり自体を面白がっている部分があるということ。そして、最終的な養育責任者は私ではなく神だということ。彼らは神の配剤によって私のところへやってきた人たちなのだ。それゆえ、やがて父と母を離れる日がやってくる。それぞれが結ばれる相手を見つけて一つになる事実はキリストと教会のモデルであり、神との一体が親との関係よりも大切だということのしるしでもある。「成長させてくださるのは神」なのだ。

教師や牧師の子どもに問題児が多いのは、親の肩に力が入りすぎて子どもをコントロールしようとするからだ。親の期待に過剰に応えようとすることも、烈しく抵抗することも同じ原因による裏表の反応である。親と子どもは別もの。自意識過剰な親たちを私は飽きるほど見てきた。

「親は親」「子どもは子ども」私とは全く違う人格なので、私が好きなことを同じように追いかけることはないのだ。子どもが全然異なる分野に興味をもったなら、自分もそれを面白がればいいのだ。子どものことに必死にならず、親は親で自分の人生をきちんと生きてさえいれば、子どもも自分の人生を大切に生きようとする。それだけのことだ。それぞれの人生をプラニングするのが神であり、それに応答するのは本人以外の誰でもない。誰かに求められた生き方をなぞって誰でもない自分を演じることに意味を見いだせないと、自殺するか、宗教にはまるかである。それがたまたま人から評価されたり、うまくいったりすると、仕事人間になるか、ほとんど何も考えない馬鹿になるかである。信仰を選ぶ自由を与えなければ、たとえ信仰が正しくても意味はないとさえ思う。自分で選ばない人生には意味などない。

2010/03/09

徘徊終了

今日をもって1年間の徘徊は終了。
1日7時間×30日×4校を終えたことになる。ふぅ。

ほとんど干渉せずただ見守るという立場で、教室を後ろから観察するというのは、今まで経験したことのない不思議な感覚を私にもたらした。教育という営みや子どもの成長というものを軸にいろいろなことを思いめぐらした一年であった。

新人たちに対して、そうして得た情報を整理して提示し、自らの指導のあり方を丁寧に振り返らせる。一日の事実は教育をめぐる抽象論より大切だ。

教育というのは、「今日種を蒔けば今日のうちに花が咲いて明日実を結ぶ」というようなものではない。誰がどこでどうしたからこうなったというような即効性のあるものでも、そのことによって特定の誰かに手柄をもたらすものでもない。教育というのは、「子どもの成長といういのちの営みに寄り添うこと」以上ではない。しかし、寄り添う大人たちが、「どこで」「何をしたか」ということの蓄積が確実に子どもを変えていくことは間違いない。だからこそ、教育は尊い。

「○○式」とか「~メソッド」などと、個人のくだらない思いつきに子どもをはめ込んでしまうことに対して私は否定的だ。そんなものは教育と呼ぶに値しない。その発案者も追従者も、子ども一人ひとりをしっかり見てはいないからだ。簡単にいうとただの「横着」である。「子どもの尊厳」を嘗めきっている。「子どもの成長」という崇高ないのちの営みを侮っている。

だから、Salt式やSaltメソッドなどはない。そんなものをまとめたりもしない。もしそこに無理にでもことばを当てはめるとするなら、指導者ではなく一人ひとりの子どもの名前を入れるべきだと私は考えている。

「私が植えてアポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。それでたいせつなのは植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです」(Ⅰコリント3:6~7)

明日から終業式までは所属校勤務で残務整理をしながらスローダウン。事務や片付けは超苦手なのでちょっと憂鬱。それが終われば少し休める。

2010/03/07

ユアサる

最近のUribossa氏からのメールの中に、友人のミュージシャンのライブ・フライヤーのオファーを受け、超お友達価格なのに通常の5倍ぐらいのパワーを注いで作ったという内容が書かれていた。経済苦の中でこの余裕というか心意気が凄い。また、Uribossa氏のコメントがいい。「ユアサってしまった。。。アホです。でも喜んでもらえたからよしとせねば」

私はUribossa氏の「ユアサってしまった」ということばに、Y.B.M氏への敬意と、己へのやや屈折した自嘲と自尊を感じ、痛く共感してしまったのである。(注:ユアサというのが、Y.B.M氏の本名)

そこでUribossa氏への返信メールの中で〔ユアサる〕を、「この世の殆どの人にはどうでもいいようなことが、絶対どうでもよくなく、人知れず必要以上に力を注ぎ、密かに満足を得ること。全く割りにあわない効率の悪さにも関わらず、なぜか連鎖反応が起こったりする」と定義した。

私はY.B.M氏の人や物への関わり方が好きだ。家具も写真も、全く興味がなかったわけではないが、Y.B.M氏と出逢ったことで、その世界の奥行きが見えてきた。

Y.B.M氏が木工家に転身するにあたって封印した写真への情熱のくすぶりを誰よりも強く感じ取り、煽る風を送ってきた者として、彼が自身の家具工房で開催する写真茶話会はすごく気になっていながら、なかなか参加する時間がとれなかった。前回は終了後に合流、今回(昨日)は少し遅刻して顔を出せた。

私の工房での連続講座で見せてくれた彼の指導法は、通常の写真講座のイメージとはかけ離れたもので、あえて技術にこだわらず、撮り手の情報の集積である「写真」という記号の本質に迫っていく。

「写真は逆証である」という仮説に基づいたY.B.M氏の写真の読解力は卓越したものがある。写真を媒介とした撮り手との対話の中で、撮り手自身が気づいていない無意識さえ言語化してあぶり出す。このような手法であの梅佳代や浅田政志という優れた才能を育ててきたのだなと納得した。

この世のほとんどの人がどうでもいいと思っているY.B.M氏のこだわりについて、野暮ったいことばで抽象化したくない。それは具体的なひとつひとつの作品としてしか表し得ないものだから。

この世のほとんどの人がどうでもいいと思っていることは、本当はとても大切なことなのだ。

http://www.norioyuasa.com/%e6%95%99%e5%ae%a4%e3%81%ae%e3%81%94%e6%a1%88%e5%86%85/(SiGNの写真茶話会案内ページ)

2010/03/06

信仰と群れ②

「信仰と群れ」の問題は「教会と私」の問題に単純に置き換えることは出来ない。

ことばの定義の問題にもなるが、群れを作っているのは個人であり、そもそも私自身が教会だからだ。教会は「行くところ」ではなく、その名を呼ばれ召し出された一人一人が教会そのものなのだから。

群れを構成するのは、「私」という個人である。群れ全体の責任なんてない。責任はいつも個人に帰す。

モーセはイスラエルという群れの為に立てられ、同時に群れの一部として行動した。アロンは群れの関係性を優先して金の子牛を拝んだ。モーセは群れ全体の合意による偶像礼拝にとりこまれることはなかった。神との関係性を優先し、たった一人で群れに立ち向かったのである。ここにモーセとアロンの決定的な差がある。

群れはみな同じようにエジプトを出て来たのだが、主を見ていたのではなく、モーセという指導者を見、前後左右の隣人に合わせ、祝福にあずかって何となく流されてきただけだった。イスラエルという「ムラ共同体」の過ぎ越しという行事に参加していただけだったのである。

その結果、エジプトを出て来た世代で約束の地カナンに入ったのは、ヨシュアとカレブのたったふたりだけ。

「群れをなすこと」には、天にも似た祝福と地獄のような醜悪さというふたつの両極に至る可能性を秘めている。

グチャグチャいう奴はいつも誰かを引き合いにする。これもお約束。マリアを引き合いにしたマルタ然り。取税人を引き合いにしたパリサイ人然り。

主の前にひとり出ること。これに尽きる。

2010/03/05

信仰と群れ①

日本の伝統的なムラ共同体には「世間体」という不文律の覆いがかかっている。

「世間」は、覚醒した自立的な自己主張を敬遠し、程度が一定の容認を越えるとそうした「自己」は孤立させる。そのような環境では意識的に「世間」に立ち向かう「自己」は育ちにくい。「自己」を圧迫する「世間」は「自己」の集合体ではないので、「世間」の仕業に対して誰も責任をとらない。ムラ人であるという資格は、自由を売り渡して責任を放棄することによって得られる。

「村八分」ということばに表される阻害を合理化する空気は、あらゆる社会の小集団においてはいじめを生み出す素地を作っている。根本的には日和見主義でエゴイスティックでありながら核になるエゴが育ってないのがムラ共同体的日本人である。

それ故、ムラ共同体的日本人がキリスト教徒になっても、単なるお引っ越しに過ぎない。所属するムラを変えるだけなので、相変わらず「自己」はない。だから、「どちらの教団ですか、○○先生の教会ですね」などという自己紹介と認識の仕方になるのだ。「○○ムラの××べえ」でいることに安息するのである。

彼らは年貢を払うように献金を納め、田んぼを耕すように割り当ての奉仕をこなす。領主が横暴になると騒ぎ出すのである。

そして、彼らの美徳であるムラ共同体的な仲むつまじさも、実は「世間」という実体を持たない己の影法師に対する強烈な信仰と怖れが支えているものだ。

本質的な意味合いにおいて、「自己」がないところに愛は芽生えない。互いに寄りかかって支え合うことは信頼ではない。聖霊は、イエスとともに十字架に付けられてともに死に生まれ変わった「自己」がキリストのかたちへと変えてゆくのを助ける。ちょうどヤコブがイスラエルになっていくように。

聖霊の働きをムラ祭りに利用しようとする動きには驚き呆れる他ない。

神の前のひとりを自覚した個人が各々神から託された分を果たすような交わりにしか、兄弟愛などというのは存在しないのだということを念押ししておきたい。

友達の友達はみな友達だ

Uribossa氏のお友達のお友達、LA在住のボサノヴァ・ファンが「風のメロジア」を御自身のブログで取り上げてくださっている。

会ったこともないのに、実に丁寧かつ好意的なコメントを書いてくださっているのが嬉しい。

紹介してもらっているのを紹介するのも妙な感じだけど、ニューアルバム制作の為には、「風のメロジア」をもっと売らないといけないので・・・・

興味のある方、また、販売に協力してCDを預かってやろうという方はご連絡を。

http://riocato.exblog.jp/12977668/ 【空と雲と原っぱ、そしてボサノバriocatoさんのブログ】

2010/03/04

小さき者あるいは一羽の雀

「燕雀安んぞ 鴻鵠の志を知らんや」(史記)

小さな鳥には大きな鳥の心はわからない。度量の小さな人物には大きな人物の志がわかるはずがないという意味。後に英雄となる陳勝がまだ日雇い百姓をしていたとき、仲間に将来の夢を語り嘲笑された。その態度を悲しんで語ったものだと言われている。

イエスは弟子たちに御自身が十字架にかかられることを折に触れて語り続けられたが、弟子たちには全くわからない。しかし、イエスは即座に理解されることを期待して語られたわけではなかった。

イエスが語られたのは、弟子たちが後に理解するためであった。つまり「その時は理解されないこと」「理解できないこと」が重要だったのだと言える。

後になって聖霊を与えられた弟子たちがすべてを理解したとき、その時はどんなにがんばっても誰も意味がわからなかったことを理解することが重要なのである。

神の家にも、大きな器もあれば小さな器もあるだろう。しかし、大事なのはその器が神から注がれる恵みで溢れていることだ。

大小というのは比較の概念であって、意味はあっても価値はない。大きな神の前には人はみな小さい。だから、イエスに出逢ったサウロはパウロ(小さき者)と名乗ったのだ。みこころはいつも人の計り知れぬところにある。ゆえに、私たちはただ「自分の願うところではなく、みこころがなるように」と祈るのである。

2010/03/03

伸縮する時間

学校にチャイムが鳴るのは、一定時間内に作業や課題を仕上げるということに価値が与えられるようになったからである。それは産業構造の変化と大きな関連がある。

それ以前の暮らしのチャイムは、長いスパンで言えば、季節の変化、天候程度のものだ。産業構造の変化ということで言えば、農事ごよみとの関連である。

漁師には漁師の時間、牧人には牧人の時間、商人には商人の時間があるだろう。そして、大多数の人が寝たり遊んだりする時間に働いている人たちもいる。

時代の需要や技術の進歩によって、同じ職業の人たちでも、長い歴史の中でその時間感覚は大きく変化を遂げている。

いずれにせよ、現代の社会で生きる私たちは管理された時間を配分され、その中で成果をあげることを半ば義務づけられ、そして値踏みされるようになった。

そうした価値観に飼い慣らされた結果、管理された時間の外へ解き放たれると、何をしていいやらわからなくなり、休日は寝て過ごしたり、ありきたりの娯楽に身を投じたりすることになる。

しかし、こうした「変化の始まり」を遡れば、せいぜい100年程度の過去まで戻れば十分だ。

200年、300年前は、これほどせかせかした時代ではなかっただろう。便利になった筈なのに、大したことをしているわけでもない人まで、「忙しい」「疲れた」を連発するような時代ではなかった筈だ。

私はいろんな人から「よくそんなことしてる時間ありますね」と言われるが、これには「忙しいはずなのに、そんなどっちでもいいような面倒くさいことをよくやってるよなあ」という軽蔑と「それだけの質と量の内容をこなしているのは、ある意味驚異的だよ」という驚きが入り混じっているものとして、当人は受け止めている。

誰がどう思っているかは私にとってはどうでもいいことだ。私はどちみち私のことなど親身に考えてくれそうもないような人たちの評価など初めから全く気にとめない。

私は他者に配分された時間よりも、自分で創造する時間に重きを置いているので、私の中でその時間は、感覚的にはある程度伸縮の効くものなのだ。アインシュタインも物理学の観点から、その可能性について言及しているし、何より聖書はもっとスケールがでかいことを言っている。主の前では千年は一日のようであり、一日は千年のようなのである。

私のいのちの砂時計の砂はいつかなくなるのだから、他人に値踏みされ振り回されて空っぽになるのだけは御免だと思っている。他人のプログラムにのっかって時間を消費するような娯楽を避ける傾向が強いのもそのためだ。

2010/03/02

教訓もお面もいらない②

いつの頃からか小学校の卒業式では、優等生が送辞や答辞を読む代わりに「呼びかけ」という全員参加の形式に代わった。おそらく全国的にもこの傾向が強いと思う。それが、新しい学校の教育観が生んだ「優等生な結論」である。それはそれで悪くないが、大して良くもない。

私見ではあるが、内容的には、送辞・答辞よりも呼びかけに軍配があがる。しかし、それにかける労力を考えるとどっちもどっち。むしろ呼びかけに費やす時間に無駄を感じる。優等生に任せておけばよかったものを、誰かがその予定調和的なシナリオを書き、失敗しないように寒い体育館で何回も練習しなければならない。

某小学校で、まさに「呼びかけ」の核心部分である「お父さん、お母さん」という文言を「家族のみなさん」に変えようと提案があった。母子家庭や父子家庭への配慮だそうだ。なるほど立派に教訓めいてはいるが、鉄面皮なお面の笑顔である。

「家族のみなさん」などという不自然な日本語を、この呼びかけ以外に一生に一度でも使う日本人がいるだろうか?

当事者であるお父さんやお母さんがいない子どもにとっては、「かわいそう?」な自分に妙な気を使っておかしな日本語を使っていることの方がよほど不愉快だと思う。たとえそうでなくても、この種のおせっかいな配慮は、そうした背景を持つ子どもたちにとって教育的かというと私は断じて違うと思うのだ。

しかし、こういう提案を良いことであり、当然の配慮だと信じて疑わない感性の持ち主にとっては、私のような者は「やさしさ」や「思いやり」に欠ける無神経な人間に見えるのだろう。まあ、それもやむなしだが、無理に波風立てず黙っていることにしよう。

2010/03/01

教訓もお面もいらない①

すごく悲しいとき、とびきりしんどい時に、教訓はただムカツク。ヨブの友達みたいにいつも優等生みたいなことを言う奴はシバキたくなる。みことばに簡単にアーメン出来る人は、みことばが何を言っているか本当に理解できているのかと心配になる。きっと優等生だから大丈夫なんだろうが、少なくとも私はそんなにラクには信じられない。一つひとつみことばを受け入れるには、いつも烈しい葛藤がある。

丸ごと鵜呑みにしてしまった人(あえて「信じている」とは言わない)は、いつもかなり無理して柔和な表情を作っているが、私には妙なお面でもかぶっているようにしか見えない。表情が嘘っぽく目が笑っちゃいないのである。聖書を良く読めば、ちゃんと「目が大事」と書いてあるのだ。

私は時々「役割」として神のことばを取り次いでいるが、間違っても「善人」ではないし、ちっとも「立派」ではない。若い頃よりは幾分落ち着いてはきたものの、まだまだ「品性」に欠けているので、いろいろなことに「忍耐」しつつ、日常を何とかこなしている。

この日曜日にも分かち合いの中で「クルクル○―」ということばを使っていたそうで、帰りの車の中で妻に指摘された。納得のいなかない私は、「そんな連中(この世の学校へ通わせると汚れるので自分でホームスクールをやっているような人々)はクルクル○―でもまだ言い足りない」と反論したが、当然妻の言い分の方が正しいので渋々黙りこんだ。

「みことばは真実だなあ」と身に沁みないとわからないようなかなりの馬鹿者であるが、それだけにメッセージでは自分が身に沁みて味わってきたことを中心にお話することにしているので、教会と牧師館を往復して献金で食っている人の話よりはさすがに多少の説得力はあるのだそうだ。

今月も勇気ある兄弟たちが私に会いに来てくださる。とても楽しみだ。

みなさん、是非リアルSaltに親しく出会ってがっかりしよう!

2010/02/25

emiさんとのお別れ

emiさんと最後のお別れをした。

国道沿いのコンビニ葬儀館には、emiさんがはっきり切り分けけじめをつけたかったはずの安っぽいキリスト教的な空気が立ちこめていた。カシオポータサウンドの玩具的音色の伴奏にねぼけたような賛美が響く。私が出来ることなら、いろんなことをもう少し何とかしてあげれば良かったと思ったが、そんなことは全く意味のないことなのだともわかっていた。この世における人の最期とは、まあこんなものなのだ。

考えてみれば、「キリスト教」という大騒ぎも、イエスの死の本質を忘れたイエスの死に関するイベントである。いずれの混沌にも、その核に何を見ているかは各人の霊の中に答えがある。どんな風にかたちにしても、いかに演出しても、「どこか違う感じ」は地上では拭えないものだろう。しかし、この違和感の中にイエスがおられるのだと私は思う。

私は喪服の参列者の黒に溶けこんで、五感に染み込んでくる不愉快な要素を可能な限りシャットダウンしつつ、emiさんのことを静かに思っていた。

emiさんはとても繊細で静かな方だった。そして、心の奥深くに熱く燃えるキリストへの熱を秘めておられた。

私との出逢いでボサノヴァにも興味を持ち、中止になったジョアン・ジルベルトの来日公演にも一緒に行くはずだった。

私の作る音楽にも深い理解を示して応援してくださっていた。阿武隈の山小屋で、奈良市のカフェで、室生の工房でライブを聴いてくださった。

オリジナルの賛美を共作しようというプランもあり、1曲だけしか出来なかったけど、KFCでも歌ってくださった。第2弾、3弾も作りたかったのに。

奈良では、「山の辺の道」や「明日香」を歩いた。体力的にもキツかったと思うが頑張って歩かれた。Sugarさんの阿武隈の山小屋でも何とも楽しい時間を過ごした。山の上から一緒に輝く太陽を見た。

「もう一度奈良を歩こう」「今度は一緒に北海道やイギリスにも行こう」そんな話をしていた。気休めや慰めではなく、本当にそんな日が来ることを願っていた。

私の音声メッセージの配信も、彼女がその気にさせてくれたようなものだ。それまでもリクエストに対しては個別にはダビングして対応していたが、不特定多数の方々に向かってネット上で発信しようという気持ちはそもそも私には全くなかったし、物理的にもむりだった。当時はISDN環境だったので、毎回CDに焼いてemiさんのところに送っていた。それを毎回emiさんがデータを変換して更新してくださっていた。その回数は100回を超えた。データCDと一緒にemiさんが好きそうな音楽CDを選んで送るのも私の楽しみのひとつになっていた。

彼女と共有した時間や経験は簡単にことばに出来ないほどとても貴重なものだ。そして、これらの交わりはすべてイエスという御方によって共に結び合わされているという幸せと希望がベースにあった。

訃報に触れたとき、何とも言えない気持ちになった。Lukeさんが送ってくださった液晶画面の文字が淡々と事実を告げていた。去年の暮れから、emiさんのことを想うと心が重くて辛かったが、その時なぜか悲しみとは別の不思議な平安が訪れた。

これは、なかなかことばではうまく表現できない。心の持ちようとか、気分ではない。未だに感情はブロックされていて涙も出ない。

「祝福に満ちた唯一の主権者・・・・」義父が急死したときに、その枕辺の祈りの中で与えられたみことばが再び心に甦る。ただそのことばによりかかっている。これは祝福であり、残されたご遺族にとっても最善であったのだと・・・・

そんなことを、私ごときの脳みそが簡単に理解できるはずがない。ただそのことばが真実であり、主は間違いないということを信じるしかない。

emiさんの悲しみも喜びも、死も復活も、そして私たちの希望もすべてはイエスにかかっている。そんなことはわかりきったことのはずだが、「本当にアーメンする」には、私はまだまだ頑なで強情なのだと思う。

いつもemiさんが気にかけておられた御主人とふたりの娘さんにお会いできてよかった。3人のしっかりとした表情から、それぞれに心の準備をされて、emiさんとお別れされたんだなと伝わってきた。

ご遺族のこれからのために私が出来ることなんてたぶん何もないが、もし何か出来ることがあれば、何でもさせていただきたいと思う。

関係の皆様の上に慰めと平安がありますように。

emiさん、おやすみなさい。いずれ、そのうち。

emiさんの証

私たちの愛する姉妹emiさんこと三宅恵美さんからのメッセージです。
ご遺族からのお礼のことばとともに、参列者に配布されたものをご紹介します。

     
            †        †        † 



証詞(2005年4月27日)

私は、がんと闘い治療する日々の中で、クリスチャンとしてのあり方の変化を経験しました。
以前は、自分の努力で自分を変えようと一生懸命であり、そこに喜びを感じられず、考えられるすべてのことを試し、癒しを求め、しかし何もおきず、どうして良いかわからない状態でした。

放射線治療の影響で、礼拝も聖書を読むこともできない中、ただ「主よ」、「主よ、助けてください」と祈ることしかできませんでした。そのような状態においても、主は私を受け入れてくださることはわかっていつつも、喜びを感じることができずにいました。

しかし、ある小さな出来事を通して、主の恵みは行いの結果ではないのだと理解しました。何よりも大切なことは、私がどうであるかでも、何ができるかでもなく、ただ主がすばらしいということ。私の目線は私自身から主へと変わり、解放と喜びを経験しています。

私の内での変化は、周囲の人々にも影響しはじめました。キリストのいのちは私の中で大きく育ち、周囲と広がっていきます。私はただ主のうちにとどまり、楽しむだけです。主は真実な方、与え、十分に満たしてくださります。

そのために主は十字架につけられ、よみがえりました。それは特別な誰かのためだけではなく、求めるすべての人に与えられます。

キリストにあって私はもうすべてを満たされました。最もすばらしいお方が、最も近くにおられます。なんという幸いでしょう。

「なぜなら、私にとって生きることはキリストであり」(聖書 ピリピ人への手紙1章21節)

「なぜなら、命の御霊の法則が、キリスト・イエスの中で、罪と死の法則から、私を解放したからです」(同 ローマ人への手紙8章2節)

                                    三宅恵美

(原文は英語だったものを、牧師及び家族で翻訳しました)

2010/02/23

やさしさ

「やさしさ」ということばに不快感を持つ人は少ない。しかし私は、多くの人たちがためらうことなく使っている「人にやさしい」「地球にやさしい」という表現にも、「やさしさ」ということばで一括りされるものの本質的な欺瞞を感じずにはおれない。

これらの表現において明らかなように、やさしくされる人は弱者であり、やさしくされる地球は壊れかけだという前提じゃないか。つまり、「やさしさ」とはやさしくする側に立つ者が自分のうしろめたさを誤魔化してはいい気になるための宗教的価値観に過ぎない。

弱者の側に立つことをためらうことなく宣言する人々は、自分の立ち位置からの距離感で人を簡単に値踏みし、自分から遠い場所で生きる者を烈しく攻撃する。総括したり糾弾したりする人たちがそうだ。彼らはある種の同族への強烈な「やさしさ」を強要する。シー・シェパードだって鯨にはやさしい。

私はよくよく考えて言い分がどっちもどっちの時には弱者の応援をしたいが、弱者に非がある場合だっていくらでも存在する。

だから、私は人の吹聴する「やさしさ」を取りあえずは警戒するのである。

思いやり

「思いやり」ということばにマイナスのイメージを持つ人は少ないだろう。しかし、「思いやり」というのはエゴイズムの変形であるという見方も成り立つ。「情けは人のためならず」という諺のように、「思いやり」は自分を防衛し、露骨に人に気づかれずに自分に利益を誘導するための保険なのだ。それぞれに「思いやり」を持ち合うことで相互扶助する。

「Saltはまたひねくれたことを言うなあ」と思われるだろうが、「思いやり予算」ということばの意味を考えるなら、「思いやり」の中に潜むエゴイズムが浮かび上がる。鬼畜生よばわりしていたアメリカの前にひざまずいて、その薄汚れた靴を嘗めているのが日本の示す「思いやり」だ。

何という御都合主義、何というエゴイズムであろう。それでも、そうすることが少しだけ得なのだ。

そんなわけで、私は人の吹聴する「思いやり」をまず疑ってかかるのである。

2010/02/22

教員のメンタルヘルス

教員のメンタルヘルスの問題がクローズアップされることが多くなった。文科省の委託プログラムの調査結果を見ても、かなり厳しいものがある。

質問項目に対するマイナス解答のパーセンテージの高さより、一般企業との比較の中で語った方がはっきりする。教員は「気がめいる」「イライラする」「いろんなことに頭がまわらない」では約2倍、「気持ちがしずんで憂鬱」では約3倍、「ぼんやりして、作業に集中できない」という項目では5倍近い人たちが自覚症状を訴えているのだ。健やかな子どもたちを育てるはずの先生たちが病んでいたのでは話にならない。なぜ、こういう結果が出るのか。

物凄く簡単にまとめてしまうと、社会的な尊敬が失われたのに、要求は多様化して件数も増え、授業の他にもいくつもの校務をこなし、運動会や遠足や学芸会などの数々の行事をこなし、どうでもいいような書類を山ほど書き、さらに様々な研修に参加し、その上で過剰な要求に応え、勤務時間を超えて家庭訪問を繰り返したり、電話をかけたり、学校で個別に対応したりしているのである。しかも、肝腎の子どもはなかなか落ち着かず、言うことを聞かない。そりゃあ、おかしくもなるわ・・・とこういうことだ。

民間企業での経験を経てから、教員に転職された銀じ郎さんや隆嗣さんたちがコメントしてくれれば、私が言うよりも説得力があると思うが、確かに教員の仕事は忙しすぎるのだ。しかも、報いを感じることは少ない。「ハイリスク・ローリターン」が続くと元気がなくなってくるのは当然だ。

子どもは商品ではないし、教育はサービスではない。だからこそ「聖職」と言われるのである。昔は社会全体に教育を神聖視する空気があった。しかし、歪んだ人権思想が自他の権利意識を増長させ、教師が自らを「労働者」として規定して、「教育」を工場労働の類と同質なものにした。

「私は立派ではなくても、私の仕事は立派だ。」
そういう誇りと責任を捨てた結果が、現状を招いた学校サイドの要因であると私は考えている。

そんなわけで、私は教職員の組合運動とは常に一線を置いてきた。
「教職は聖職である」と規定する以上は、何があろうと現場から逃げたり、目をそむけたりは出来ないということでもある。

とは言え、「そんなことどうだっていいからとっとと逃げたい」と思うことはたまにある。

2010/02/21

訃報

癌で療養中であったemiさんが、その闘いを終え、21日午後3時頃天に召されたという知らせが届いた。 今はただ静かに喪に服したい。 ご家族や関係の皆様の上に深い慰めがありますように。

2010/02/19

再度ご案内

2月20日(土) 10:00~  13:30~ 参加費 1500円

創作実験工房「童」 ワークショップ
「リコーダー・アンサンブルを楽しもう」  講師 Salt / ピアノ伴奏 Momo

講座も2年目突入。毎回一期一会の面白さ。フルーティー菅野は現れるのか?
午後には銀じ郎さんに逢える。

  
ふるさと元気村 宇陀市室生区下田口1112番地 0745-92-2001  
  

 ☆  ☆  ☆


2月27日(土) 15:30~  チャージ 1500円

PRUNE LIVE

さをり織りの手ほどき人にしてケーナ奏者のSue。フリースタイルで貪欲に新しい音楽に挑戦する若きピアニストMomo。そして、作曲・ギター担当のSalt によるトリオ。 どこか懐かしくて、不思議に新しい無国籍な癒しのサウンドをどうぞ。

カフェテラスNZ 奈良市法蓮町1330番地の1  0742-42-7115 

アスリートの鍛え抜かれた肉

オリンピックもなかなかゆっくり見る時間はないが、垣間見て驚かされるのは、トップアスリートの鍛え抜かれた身体能力の高さである。とにかく凄い。

メダルを競う人たちの差は、0コンマ何秒とか、数センチとかいう単位であることも珍しくない。彼らは精密な機械で測定したり、録画を再生しなければわからないほどの僅差の中で戦っているのだ。肉体や技を鍛え上げ、板やシューズやユニフォームも限界まで合理化されている。

その道にすべてを注がなければ、参加できない高みである。だからこそメダルには価値があるのだ。「ナンバーワンにならなくてもいい、誰でもはじめからオンリーワン」というようなヘタレな歌を口ずさんでいる者は、スタートラインに立つ資格もない。「あなたは主の前に高価で尊い?」贖われることのない厚かましさは間違っても尊くはない。

しかし一方では、年がら年中冬のスポーツをやっているというのも妙な話で、そんな0コンマ何秒とか、数センチのために人生を賭けるより、他に大事なこともありそうな気もする。「正しい人生のバランス」というのがあるとしたら、何かが偏っているのだと、国母選手の物凄い技術を見て改めて思う。

私は教会の中で「罪」だとか、「肉」だとかいって一括りにして否定しているものの重さや中身をずっと見つめ続けている。なぜ神はそれらをすべてキリストにあって十字架につけてしまわれたのかを静かに考える。

「聖霊」を口にしても、それが「肉の劣等感や不全感のすり替え」である人たちの浅ましさには嘔吐が出る。私は国母選手のハーフパイプの演技にむしろリアリティ―を感じるのである。

「肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。このことばは真実であり、そのまま受け入れるに値することばです」(Ⅰテモテ4:8~9)

おお、この微妙な言い回し。見せかけの敬虔は無益ってことさ。

2010/02/18

教室と教会の「教」の歪み

「義務教育」というシステムの功罪については、誰もが平等に語る権利や義務を有していると思う。現代社会は驚くほど学校化されている。そのフラクタルな構造の中に、いずれをも読み解くヒントが隠されている。

学校外の力学が学校内のいじめを生んだり、学校で培われた価値観が学校後の選択に大きな影響を与えるからだ。教育について考えることは、社会について考えることであり、教育を語ることは人間を語ることだ。そして、目に見える世界には目に見えない世界を鮮やかに映している。

公立小学校の教室には、様々な背景をもった多種多様な個性をもった子どもたちがいる。興味も能力もバラバラである。そこに面白さがある。

この互いの違いがすりあわされ、意味や価値が構成されることの中に教育の醍醐味がある。ポイントは、子どもが潜在的に持っている力や、集団が有機的に機能したときの可能性を信じられる教師がいったいどれだけいるかということだ。

小学校の授業というのは、いわゆる講義ではない。子どもが学びの主体であって、教室は学び合いのリングである。知らないことを知ることの喜びや出来ないことが出来る嬉しさ以上に、価値あるものを友達と分かち合うことや友達の存在そのものを感じる楽しさが溢れるものなのだ。教師の感性や力量によって、学びの質は大きく変わる。

物凄く前向きなことを書いたが、こうしたことがもう夢物語なのではないかと思える現実が目の前にある。

久しぶりに国語の授業をした。新任に見せる師範授業というやつだ。一番荒れているやりにくいクラスだ。教師に先輩も後輩もない。子どもの学びや成長の支援者でしかない。

価値を教え込むのは簡単だ。そうではなく教えずに感じさせることが大事なのだ。子どもたち自身の探求の果てに「約束の場所」へ行き着いてくれるような地図を示すことだ。

これらは霊的な原則とも完全に一致する。成長させてくださるのは神である。種を蒔き、水を蒔く時と場所と程度をわきまえていればいいのだ。後は慎むことに尽きる。

神は不思議な助言者であり、イエスだけが偉大な教師である。牧師なる存在が価値を教え込むのは、福音の妨害であろう。

エクレシアを教会と訳したことにも、その本質の歪みが明らかである。神は聖書と聖霊をお与えになった。聖霊はあくまでも助け手あり、この方はただイエスという御人格と御業を明らかにする。

2010/02/15

母なる国の代表選手

国母選手の服装が問題になっている。私も「ラシクナイ」ことにかけては国母選手の上をゆくので、この手の話にはかなり大らかほうだが、記者会見の映像をYouTubeで見て、さすがに「ちょっとなあ・・・」と思った。

反省している人間がふんぞりかえって座ったり、歯を見せて笑ったりしない。そして、間違っても「反省してま~す」とは言わない。

ある分野の能力が少し秀でていただけで周囲がチヤホヤするから、こういう増長する若者が出て来るのだ。「メダルを穫れば名誉挽回」という町の声もあるが、それは全く別の次元の話ではなかろうか。

「お国のためにメダルを獲得」という雰囲気は私も好きではない。自分のスタイルを大切にしたって構わない。しかし、礼儀に反する自己流は大人の世界では通用しない。「税金を使って国の代表として国際試合に参加するのだ」という自覚に著しく欠ける言動は慎むべきである。バッシングはやむなし。甘受して反省すべし。

ただし、ボクシングの亀田にしてもこの国母にしても、その道では世界で競えるだけの結果を出すために、相当な努力をしてきているのだということも事実である。そのことは世間も十分認め、目くじら立てている人たちも自分の道で精進するべきだろう。そこは彼らの努力に習うべきである。一方で、彼ら自身は「その道から一歩出れば全く世間に通用しないただのガキなんだ」ということも思い知らねばならず、また、思い知らさねばなるまい。こうした一番大事なことを伝えないことが、落ちぶれてゴミクズのようになっていく芸能人やスポーツ選手を生む。

あんなガキに当たり前の世間のルールを教えられない指導者たちには、さらに大きな問題もあると思うのだ。

職場の後輩に元国体選手がいる。彼に意見を聴いてみた。彼も県の代表団として出場するとき、同じように服装のチェックを受けた経験を持っている。若き日の自分と重なるところもあり、いろいろ考えさせられたという。

彼の意見もやはり、「あれは、いかんでしょう」とのこと。でも、世代や価値観も近い彼の感性に触れるのは面白かった。彼は、「国母選手のスタイルが格好いいと思うタイプの若者たちがこの騒動をどう受け止めているのか興味がある」と言っていた。また、このプレッシャーの中で、自分らしい競技が出来るのかを気遣ってもいた。

おもしろいのでさらに彼に聞いてみた。「もし君が同じナショナルチームの先輩だったら、彼に注意するか?」と問うと、「しないでしょう」とのこと。「じゃあ、もしコーチだったら」と問い直すと「注意します」と即答した。どうやら、このあたりに彼の社会人としての境界線があるようだ。妙に納得。

「愛は礼儀に反することをせず」(Ⅰコリント13:)
礼儀は単なる処世術ではなく、愛の領域にあるとパウロは言う。これが真理である。今回のことに懲りて、変にかしこまって大人しくなって欲しいとは思わない。トンガッタままで、多少は周囲を察する愛が欲しい。

歪んだナショナリズムと一緒にパトリオシズム(自然な郷土愛や同胞愛)さえも、捨ててしまったこの国の代表チームに、こうした若者がいるのは当たり前と言えば、当たり前であって、国母選手個人に責任を追及するのは、いささか厳しすぎるし、気の毒であると思う。

名字が「国母」だなんて、何とも・・・笑えないギャグだ。

2010/02/14

遊女ラハブの信仰

ラハブの家にイスラエルの斥候が身を寄せたのは、ラハブの信仰を見抜いていたからではなく、ラハブが遊女であったからだ。他の遊女の家でも良かったという点では、言わば偶然である。

しかし、神にとってそれは必然であった。神は、町ごと全滅させられるべきエリコに住む憂いと渇きをもったひとりの遊女を覚えておられた。ちょうどイエスがスカルの女に出逢うためにサマリヤを通っていかなければならかったように、ふたりの斥候をラハブの家に送られたのである。

「私はこのふたりの斥候のひとりが、『サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ』(マタイ1:5)のラハブの夫サルモンであった」という言い伝えを支持する。聖書の中に根拠はないが、何とも美しい話ではないか。

神の救い、神の配剤とはそういうものだ。神の恵みに信仰をもって応答するとき、神は驚くべき贖いの大作の中に私たちの思い出を織り込んでくださる。

どうしようもない町のどうしようもない遊女が、アブラハムのとなりに信仰列伝に名を連ね、ダビデとキリストの系図に名を残している事実を軽く見てはいけない。

キリストにあって望みがない人はいない。いつだって遅すぎるということはなく、不可能は可能になる。

詳しくは、音声メッセージをどうぞ!

2010/02/13

ボサノバレンタイン

奈良盆地のど真ん中、田原本は私が育った町。そしてカフェ・アルコはY.B.M氏の工房SIGNの跡地。周辺にも多くの友人知人が住んでいる。昨年の11月に行ったカフェ・アルコでの1回目のライブは、Y.B.M氏とカフェ・アルコのオーナー夫妻へのメッセージでもあり、自分の気持ちにけじめをつけるためでもあった。今回2回目のカフェ・アルコは1回目とは少し感覚が違い、1回目には感じなかったアット・ホーム感が強まった。

今回はアレンジにもいっそう力が入り、新しい挑戦もあった。すごく楽しいライブだった。体調も良く事前のリハも絶好調。しかし、調子に乗って声を出しすぎ、本番でハスキーボイスに。トホホ・・・

それで全体としてはまずまずいいパフォーマンスが出来たと思う。演奏後においしい食事をいただき大満足。今日は朝から絶食してガムしか噛んでなかったので、胃袋も喜んでいた。

これでS&Uの活動は約1ヶ月の休養に入る。Uribossa氏とさらなる飛躍を誓って握手。ご来場くださった皆さん、本当にありがとう。

2010/02/12

気づくこと・気づくかないこと・気づかれること

私は教員3年目に、1クラス40人程度の町の学校から、1クラス10人未満の山の学校に転勤した。そのときに受けたショックは忘れることが出来ないほど強烈なものだった。

最初の2年も、子ども一人ひとりを意識して見ているつもりだったが、いかにそれがアバウトでデタラメなものであったかということを思い知らされた。

私は何となく全体を見ていただけだった。

4月の早い段階にそれはやってきた。いつもはテンポよく進むはずの授業が、なぜか急にリズムが崩れ、空気がよどむのだ。

原因は明白。それは、私が時折まずい発問をするので、虚しい沈黙が生まれてしまうからだ。教室に40人もいれば、どこに投げても誰かが投げたボールを受けてくれるのだが、10人未満だとそうはいかない。投げたボールが誰にも届かずに教室の床に転がる。こうした経験で私は初めて目が覚めた。

40人もいれば沈黙も気にならず、黙っている子どもたちも、答えられない自分を責めたりしないが、10人だと子どもたちが沈黙に気を使いはじめて申し訳ない表情を浮かべたりする。

思考が深まる沈黙は大歓迎だ。しかし、発問が子どもの現実のそぐわない不適切なものであるために生まれた沈黙は授業にとって大きな妨げとなる。

子どもに「申し訳ない顔」をさせている私の愚にもつかぬ発問はどこから生まれたものか。

それは、目の前にいる子どもをしっかり見つめないで、実際に存在しない「架空の平均的児童」を想定して準備したものだからだ。

私が嫌ってきたさまざまな指導のマニュアルは、「架空の平均的児童」のために作られたものである。そう感じて、1年目からマニュアルには一切頼らず、自分なりにその都度つくりあげたもので勝負してきたつもりだったが、何のことはない、自分自身もしっかり個々の子どもを見切れていなかったのである。

これまでは40人という集団の力を借りていただけだ。私のリーダーシップでグループダイナミズムを利用していただけであって、大きな流れを作って調和させるために、目立つ子どもたちの際立った個性は随所に生かしてはいたものの、それは本当の意味で一人ひとりをしっかり見つめて個別のニーズに応えていたわけではない。

私はこの山の学校の経験で多くのことを学んだ。全く違う能力や個性の一人ひとりが集まって、2人や10人や40人になるのだということに気づいた。

どうしてこんな当たり前のことに気づかなかったのだろうと自らを恥じたが、本当に気づかなかったのである。

偉そうなことを書いてはいても、私にはまだまだ気づいていないことがまだまだたくさんあるだろう。

日々勉強である。今日出逢う子どもたちが新しいこと気づかせてくれる。それが教育の醍醐味である。これまで私が子どもに教えてきたこと以上に、子どもから教えられたことが大きい。別に恰好つけてるわけではなく、本当にそう思い、出逢ってきた子どもたちに感謝している。

教室が騒がしいとき、すぐに「静かにしなさい」「うるさい」と怒鳴る先生がいる。でも、40人いても本当にそのとき、声を出していたのは数人で、喜んでそれを聞いていた者を同罪としても10人もいないことが多い。場合によっては2~3人がさわがしいだけなのに、全員に罵声を浴びせるのはどうかと思う。

私は徘徊しながら新人教育を担当しているのだが、子どもがさわがしいとき、「次のことを指示せず、子どもが静まるまで何事も発するな」と教えている。間違っても子どもに負けないような大きな声で指示を与えてはいけない。

「それでも静かにならなかったらどうしますか」という質問には、「子どもの気づきに時間がかかるときは、うるさい子どもたちを叱るより、静かにしている子どもたちをほめる」ことを勧めている。

子どもは、先生が何となく全体を見ているだけなのか、自分を意識して見つめてくれているのかを見分ける臭覚を持っている。

子どもは、先生が自分のやるべきことをやっているだけなのか、自分にとって有益な価値を与えてくれようとしているのかにも、やがて気づくものである。

2010/02/11

コミュニケーション絶縁の時代を生きる②

最近、自分の所属校で「コミュニケーションが絶縁される場面」に出くわすことがある。直接関わりのない親御さんたちにこちらから挨拶しても、挨拶が返ってこないことが珍しくないのだ。無視されることもあれば、無視以前に存在に気づかずに通り過ぎられることさえある。これにはけっこう傷つく。少なくとも奈良の田舎では10年前にはなかった現象である。勤め始めた頃の旧都祁村の集落では、私が子どもたちを連れて校区を歩くと、道行く人や農作業をしている人が、子どもが小学校にいるいないに関わらず、挨拶をしてくれたものだ。

ところが、今の親たちはそうではない。自分の子どもが学校に通っていても、担任や関わりの深い先生以外には挨拶をしないのが普通になりつつある。こうした親たちの日常的風景やなかま意識の中に組み込まれない限り、彼らは目も会わさず挨拶もしないのだ。だから、不作法を嘆いていても関係は良くはならない。むしろ、彼らの習性やルールを学ぶ必要があるのだ。

彼らもその子どもたちも、普通に考えてあり得ないような行動をとっていたとしても、ちゃんと周囲の目は気にしている。つまり、挨拶もしてもらえず、迷惑を被る位置にいる人たちは、彼らの周囲のさらに外側に存在するものと見なされているのである。

まず、日常的風景に溶けこみ、「なかまなんだ」と認知してもらわなければ、価値のある情報は一切伝わることはない。ちょっと気にいらないが、こういう技術も職能のひとつとして身につけておくのがプロフェッショナルである。

私は批評家ではなく、今日も現場の教員である。コミュニケーション絶縁時代を教員として生きるストレスは決して小さくはない。

2010/02/10

コミュニケーション絶縁の時代を生きる①

私の職業は教員である。

音楽も教会での役割も職業ではない。職業とは、その職能が社会的に益するものと評価され、それによって家族を養っているということである。私にはそうした職業があるので、作品やメッセージが成り立っていると自負しており、そのすべてにおいて祝福をいただいている。

それぞれの活動はバラバラではなく、どこからどこまでと切り分けられるものではない。だから、私の発信にはそういうものがごちゃ混ぜになっている。とりあえずは「これでいいのだ」と思っている。今はこれ以外仕方ない。

学校では、担任職を離れて5年。この間に、学年や越えて、時には学校を越えて、いろんな保護者の方々と話をしてきた。そういう方々とは年月を経ても親しくことばを交わす関係にある。勿論、それ以前の約20年、担任を持たせてもらったご家族とは、その任を離れてもずっといい関係が持続できている。既に初期の教え子の子どもたちが入学し保護者は祖父母になっている。こうなると親子三代と付き合っていることになるわけだ。

「教育の危機」「学校崩壊」などと言われながら、私はいつも「右肩上がり」で仕事を楽しんでいる。

・・・と言っても、「それは何もかも華やかにうまくいって、周囲からあまねく評価されている」という意味ではない。実際には言いたいことも言えず、思うようにならないことが多いし、日々努力を重ねてもどうにもならないこともある。

しかし、そんな私が見ているものは、「私の仕事」や「仕事をしている私」ではない。ここに信仰の鍵がある。こういうスタンスでいるとき、私はドン底でも楽しく、気がつけば、自分自身の作品やスキル、そして満足度も右肩上がりをキープしているというわけだ。断片的な状況の評価とは別として、「あの頃は良かった」と思うことはない。イエスはいつも変わらない。主とともにあゆむ時間の密度が日々豊かになるのは当たり前。間違っても私が偉いのではない。

そして、しんどいことは事実として明らかにしんどい。それは誰でも同じだ。信仰があればしんどいことがしんどくないのではない。むしろ、明晰であればあるだけ苦痛も増す。逆に、だからこそ作品やメッセージが宙に浮くことはないのだと思っている。私の音楽やメッセージが誰かを慰める力があるとすれば、それは私が慰められているからだ。これもまたみことばどおり。
慰められる状況になんて、本当は身を置きたくはない。正直な気持ちを言えば、すぐにでも役割を終えたい。

それでも、困難な現場に身を置く私である。子どもとのコミュニケーションが難しい。ことばが届かない。今日もキツイ一日だった。週末はライブ。コミュニケーション絶縁の時代に、音楽を通して大切な何かを共有したい。

2010/02/09

これでいいのだ

「天才バカボン」のストーリーは、バカボンとパパとの馬鹿馬鹿しい日常のやりとりが軸になって話が展開していく。

私は、このシュールな世界がバカボンの日常の客観的な写生ではなく、すべて「小学5年生のバカボン」の視点で書かれていると読む。

つまり、「小学5年生のバカボン」が、自分を取り巻く世界と自分と関わりの深い人物、周辺で起こる出来事を見つめ体験したように描かれているのだ。だから、パパはいつもバカボンと遊んでいて、おまわりさんはピストルを撃っていて、レレレのおじさんは街を掃除しているのだ。それがバカボンとの接点だからだとすればすんなり理解できる。著しい誇張や急な展開もバカボンの心象や記憶の再生時の脚色であるという見方も出来る。

バカボンは常にパパと絡みながら悪ノリをエスカレートさせていくが、いつもどこかでヘマをする。このある種の軽快さと愚鈍さ、そしてパパのツッコミに対するボケの上手さとタフさが、パパと同じようにバカをやるがどこか「素」の部分があり、バカそうなのにどこまでもバカじゃなく、穏やかでニュートラルである。そういうキャラクターがパパの奇妙さを浮き立たせているのだが、これも赤塚がバカボンを視点としたからだと見れば理解しやすい。

バカボンには、「一般的な天才」であるはじめちゃんという弟と、「綺麗で常識的な」ママがいる。バカボン一家の半分は極めてフツーでマトモなのである。この時々、登場するふたりが、物語のリアリティーを深める。しかも、ママや弟がとんでもないふたりを自然に受容している描き方なのが凄い。

この漫画のタイトル「天才バカボン」であり、決して「バカボンのパパ」ではない。パパは「バカボンのパパ」として登場し、読者も「バカボンにとってのパパ像」を見ているのである。パパ本人も「ワシはバカボンのパパなのだ」とバカボンの前で語るわけだ。「本当の天才」はパパでもなく、はじめちゃんでもなく、凡庸に見えるバカボンのバランス感覚に宿っている。

バカボンがパパから学んだ人生哲学について、Salt流に解説しよう。

混沌とした不条理な世界を「これでいいのだ」と受け入れるパパの哲学は深い。「これでいいのだ」は、「あれでいいのだ」でも「それでいいのだ」でもない。パパの世界観には自分自身もちゃんと含まれて相対化されているというわけだ。そんな自分自身の有り様も含めて否定しつつ、全てを引き受けるという決意の表明である。それ故、パパは鋭い人間洞察と深い厭世感を持ちながらも、自尊心を失わず、エネルギッシュである。「反対の賛成」とは、相対する立場も結局は同じなのだということ、「忘れようとしても思い出せない」は、結局人間は歴史から何も学ばず、その本質は変わらないということを意味している。こうした哲学をバカボンはパパと遊びながら、楽しく身につけていくわけだ。辛く、悲しい、どうにもならない現実は、とりあえず笑い飛ばすしかない。哲学書が漫画より高級だとは思わない。私は常々、赤塚をサルトルやニーチェに並ぶ知性だと言っている。 バカボンのパパは、自由の刑を楽しむ真のツァラトゥストラである。

バカボンファンの方も、そうではない方も、赤塚がバカボンの視点で描いた世界として再読されると新たな発見があるはずだ。「おそ松くん」で名声と表現上の自由を得た赤塚は、かなり実験的にこの作品の連載を続けることが許されたようだ。

後付け可能な理屈はいろいろあるだろうが、すべてはそれほど意識的なものではないかも知れない。おおそらく「遊び感覚」の中でキャラクターがいきいきと動きだしたものなのだろう。要するにパパとバカボンはふたりとも赤塚の分身なのである。

2010/02/08

Tetra 改め

さをり織りの手ほどき人にしてケーナ奏者のSue。フリースタイルで貪欲に新しい音楽に挑戦する若きピアニストMomo。そして、作曲・ギター担当のSalt によるトリオで2回目のライブを控えて練習中だが、急きょTetraという名前を変更することにした。

先日、マリンバ奏者であり、奈良県の教育委員長でもある松本真理子氏(実はSueちゃんとも親しい)にお会いした際、彼女のマリンバアンサンブルもTetraという名前であることが発覚したからだ。「こっちはもうウン十年もやってるんだから、そっちが名前を変えて欲しい」とバッサリ。「そりゃ、そうやなあ」とアッサリ。

悩みに悩んだ末、Pruneとした。イタリアで織りを始めたSueちゃんはイタリア語の名前をいろいろ考えてくれたが、私の意見で押し切ってしまった。

SueとMomoでスモモ。こんなんばっかりか。そう、こんなんばっかりである。このグループは、やはりSueちゃんのケーナとキャラクターがメインだと思っている。そして、私とSueちゃんにとっては娘みたいなフレッシュなMomoちゃん。さてSaltは?大丈夫、ちゃんと、裏に「まぬけ」「ばか」という意味がある。動詞の意味もなかなか含蓄がある。

Prune
1 干しスモモ,プルーン
2 まぬけ,ばか.
━━ vt. (木を)刈込む ((back)); (枝を)おろす ((away, off, down)); (余分なものを)取り除く ((from, off)); 切詰める, (文章を)簡潔にする ((away, down))

2010/02/07

花嫁の手紙

従兄弟の娘の結婚式があり出席した。

「この人、大丈夫かな?」と皆に心配されていた花婿だが、花嫁が読む両親への感謝の手紙に感動して、ケロッとした花嫁の隣でボロボロ泣いていた。それを見て「大丈夫だ」と思った。

泣き虫の花婿は整形外科医の卵。花嫁は看護師。「整形外科は崩れかけたものを修復する仕事なので離婚は少ない」と上司の挨拶にあった。なるほど。

さすが私の血筋だけあって(冗談)、花嫁はかなりの美形だが(これは本当)、明るい笑顔がいっそう彩りを添えて眩しく輝いていた。去年一足先に結婚した姉もまた美人(これも本当)。お色直しの時には、花嫁の希望で姉がエスコート。美人姉妹が手をとりあって退場した。なかなか絵になるなあ。

「お姉ちゃんは自分のことよりも大切に思っている。自分にとって幸せだったのはお父さんとお母さんがとても仲が良かったこと・・・」

飾らない普段のことばで読まれた花嫁の手紙は、花婿だけでなく娘を持つ私の胸にも迫るものがあった。しかし、あんな手紙と引き替えに、花婿にくれてやるにまだまだ心の準備が出来ていない。

2010/02/06

大相撲の品格

朝青龍問題についてコメントする気はなかったが、「引退表明しなければ解雇する」という脅しをかけられていたことを知って頭に来た。これが新しくなった理事会の決定である。

まずはじめに、「大相撲は国技であり横綱には品格が求められる」という幻想についてだが、「大相撲は国技である」とする正式な規定はない。従って「国技だからどうのこうの・・・」という理屈を成り立たせるのはそもそも難しい。昔から大相撲は「興業」であって武道と言うよりは本質的に見せ物なのである。だから、八百長でさえそれが見せ物として高級であれば十分許容できる。そもそもNHKの放映時間枠におさまるように、時間いっぱいで無理に呼吸を合わせているのではないか。もう一度言うが、「見せ物」なのだ。

この興業という点において「朝青龍」が果たした役割は極めて大きいと思っている。朝青龍が問題を起こして相撲協会が騒ぐというのも、誰かの演出かなと思っていたほどだが、そんなに懐が深いわけではなかったのだ。

仮に大相撲が国技だとすれば、「品格」は、モンゴル出身の一力士に期待するよりは、国技たる大相撲の伝統と格式からにじみ出てくるものでなくてはならない。ものの順序から言っても、朝青龍は横綱審議委員会から推挙され、「謹んでお受けして」横綱になったのであって、任命責任も同等かそれ以上に問われてよい。さらに他人事のような態度の高砂親方の指導力にこそ最大の問題がある。朝青龍に品格が欠けているのは、大相撲全体に品格がないからだ。

暴力沙汰にしても、朝青龍がマジで素人をなぐっていたとしたら、素人は下手をすれば死ぬほどのダメージを受ける。要するに大したことはないのだ。トラブル処理にしくじって情報がもれただけだ。

今回の報道で唯一リアリティを感じたのは、同郷のライバル白鳳の涙である。

2010/02/04

「アバター」のエクボ

「アバター」をご覧になれば、「風の谷のナウシカ」や「もののけ姫」に通じるものを感じられると思うが、ジェームズ・キャメロン監督は、どうやら宮崎アニメの崇拝者らしい。このあたりも見どころのひとつになっている。

そして、宮崎作品同様、「自然」対「人間」や「異文化」対「アメリカ」を単純に善悪に描きわけているところが、この作品が大ヒットの秘密であり、底の浅いところでもある。

ベトナム戦争の反省からオリバー・ストーンの一連の作品やキューブリックのフルメタル・ジャケットが生まれたが、この映画もイラク・アフガン攻撃に対するキャメロンの思いが反映されており、現在のアメリカの政治的精神的背景が見て取れる。

バーチャルのリアル化が進み、リアルのバーチャル化が深まる中、一人ひとりの日々のあり方が問われていると感じる。

特にバーチャルを支える動機は「逃避」であり、逃げるために使う能力は主に「視覚」である。だから、動機を正すこと、つまり勇気を出してリアルと向き合い、そこから逃げないこと、そして視覚以外の感覚をとぎすますことに鍵があるのではないかと私は思っている。

現代人は何でも簡単に諦め逃げ出す傾向が強い。そして、一般に視覚以外の感覚が弱い。視覚とてそれが優れているというのではなく、強い刺激に慣れきっているだけのことであり、それ以外の身体感覚を使い研ぎ澄ます機会が著しく損なわれているという都市生活の現実がある。

「アバター」の中でも、主人公が「パンドラの森」の中で、部族の一員として受け入れるためにいのちの感覚を総動員して「生きもの」としての充実感を味わう場面がある。

パンドラの人たちにとってのリアルは、リアルなアメリカ人のリアルな息苦しさの反動として創造されたバーチャル世界であるとういうこと。

バーチャルな世界で尊ばれるものが、いかにリアルな世界に欠けているかがわかるという読み方が出来る。

リアルな世界でリアルに良いものをゲット出来れば、誰もバーチャルへは逃げ込まない。キリスト教がバーチャルな教えで脳みそをバーチャル化させるのは、リアルなイエスを知らないからに他ならない。リアルなイエスとつながっていれば、おかしな教会もヘンテコ牧師もいらない。

2010/02/03

「アバター」のリアリティー

最近なぜか仕事上のストレスがけっこう大きい。何やかんや言いつつ、やはり私は真面目なところがあるようだ。「いつも遊び半分」は前にも書いたが、つまり思いっきり遊んでいるのと同じくらいはいつも真面目だということ。

仕事に慣れて余裕が出て来ると、いろいろ考えて手を打ってしまう。そして、問題が起こると、気がつけばギアをローからセカンド、セカンドからサードへとチェンジして加速してしまう傾向にある。ここに来て、仕事に慣れて余裕が広がったのと、相次いで現場でいろんなことがおこるのでちょっと熱くなってしまった。私自身の納得や手応えを求めると、逆に周囲を混乱させることもある。クールダウンが必要だ。真面目が増して来た分だけ、遊びを増やさないと「半分半分」という私のとっての正しいバランスが壊れてしまうではないか。

基本的に私は自分のことでは悩まないので、現場を離れてちょっと深呼吸をすれば、「他人事」をどの程度「自分事」として負うのが「他人」にとってより有益かを整理できる。
こういうバランスを取りたいときは、非創造的な消費型娯楽に限る。ちょうど使わずに残してあった文化鑑賞補助チケットがあった。はからずもmovix橿原ではなく東宝シネマで申し込んでおいたので、今話題の3D映画「アバター」を見ることが出来た。

「アバター」とは、「分身」という意味で、チャットなどのコミュニケーションツールで、自分の分身として画面上に登場するキャラクターのことだが、語源はサンスクリットで、神々や仏の化身を指す。 伝統的にネット上のコミュニケーションは文字だけで行なわれていたが、「アバター」を使うことによって実世界のコミュニケーションと同じように表情や動作による豊かな表現が可能となり、若い世代を中心に広がっている。

「アバター」(分身)にしても「サロゲート」(代理)にしても、バーチャルとリアルの錯綜と葛藤という今日的なテーマを扱っており実に興味深い。いずれも作品としての深みにはいささか物足りなさを感じるが、娯楽作品としては十分な出来である。私は現場の一教師として、バーチャルリアリティーの現実を見極め、その切り分けが明確にすることがこれからの子どもに対応する鍵だと思っているので、この2本の映画は研修教材としても内容が豊富。

いずれの映画も、主人公がふたつの世界の間で葛藤した末の選択の結果を鑑賞者が共有させられるかたちで終わるのだが、その結果が反対なのが興味深い。ネタバレさせるとつまらないので控えめの表現にとどめるが、サロゲートでは、「バーチャルからリアルへ」という方向に対して、アバターでは「リアルからバーチャルへ」というベクトルの向きである。これは、「どちらがよりリアルに感じられるか」ということが鍵になっている。さらに主人公の年齢や世界観にもポイントがある。サロゲートの主人公は中年であり、アバターの主人公は青年である。彼らの人生に対する価値観が選択に繁栄される。もうひとつ付け加えると、リアルな世界でそれぞれの主人公が負っているマイナスの要素がその価値観を左右する。サロゲートの主人公は子どもを失っており、アバターの主人公は下半身の自由を失っているという設定になっているのも見逃せないファクターである。

アバターではあえてそういう描き方を誇張しているわけだが、バーチャルな世界がリアルな世界よりも遥かにリアリティーがあるということが実に「今日的リアリティー」に満ちている。逆にリアルな世界の方があまりにも単純な力と欲望の構図で動いており、そのことがバーチャル世界を肥大させるエネルギーになっている。主人公のアバターはカッと目を見開くが、リアルな主人公はカプセルの中で目を閉じている。

しかも、とてつもない映像を3Dで見せられ、自分もパンドラという国にいる錯覚を覚える体験をする。私の感覚や認知機能が正常であればあるほどバーチャルなものをリアルに感じるのだから何とも不思議な感じである。

「アバター」のバーチャル・リアリティ―は、映画館で体験してみる価値はある。宣伝しても仕方ないけど、DVDでは味わえない。「サロゲート」と合わせて見ると、なお面白かろう。

しかし、別に無理して見なくても、似たようなもっと不気味で不思議で面白い錯綜や反転は私たちの身の回りにいくらでもある。

大事なことは、自分にとってリアリティとは何かということ。つまり、学校が、教員というアバターと生徒というアバターがすれ違うバーチャル世界になっていないか。教会が、牧師というサロゲートと信徒というサロゲートが戯れているバーチャルな世界になっていないかとういう種類の点検である。

気がつけば、「リアルで自然な私」を、「バーチャルで人工的な私」に化身させ代行させている。

私はバーチャルなセンセイにはならず、リアルなおっさんでいることを選ぼうと決意を新たにした。見事ストレス解消。

2010/02/02

無神論者にもなれない日本人

日本人が「私は無神論者だから」などと嘯いているのを聴くと、この人はあんまりマトモにものを考えたことのない人なんだなとしか思わない。なぜなら、何も信じないということは、神の前における曖昧さを保留することに他ならず、そうした態度を無神論ということばで括ってしまうということは、その自覚さえ全くないという告白だからだ。言ってみれば、それは孤児院にいながら、そこがどういう施設なのかわからず、猫の額ほどの園庭の遊具に夢中になっているようなものだからだ。

本当の無神論者というのは、近頃はやりの多神教優位論者のことではなく、ドストエフスキーが描いたイワン・カラマーゾフやスタヴローギンのような人物を指す。即ち、創造主としての神の存在とキリストの贖罪の意味を知った上で、「そんなものはないし、あっても自分には必要ない」と宣言する人のことを言うのだ。

つまり、日本人は無神論者になる前提としての知識や情報さえ持っていないというのが本当ではないだろうか。人権思想や民主主義も背教文化さえも、日本に存在しているものには全てにその基礎や土台がない。しかもそれらはまるで「書き割り」のような薄っぺらさである。

・・・んなわけで、タカ&トシの「欧米か!」というツッコミはなかなかいいポイントを突いているのだ。欧米は既にほぼ決着がついている。

逆に、日本人にはまだ望みがある。きちんと聖書に触れ、福音に向かい合ったとき、何が起こるか。そこはまだ未体験ゾーンだからだ。

キリスト教を追いかけてもキリストの面影はない。

大切なのは聖書そのものに偏見なく向かい合うこと。私の発信はそのためのささやかな道つくりであると自覚している。

2010/02/01

サロゲート

「サロゲート(代理)」という映画は実に興味深い内容を扱っている。老いを克服し災いさえ引き受けてくれる身代わり高性能ロボット「サロゲート」によって営まれる代行社会。オペレーター(持ち主=本人)は、自室にこもって自分のサロゲートを操るだけ。夫婦は一緒に住んではいてもたまに顔を合わす程度でそれぞれ自室にこもってそれぞれのサロゲートに自分の人生を託している。主人公を演じるブルース・ウイリスも本人と自分の分身のサロゲートというかつてなかった一人二役で、理想を実現するはずのサロゲートに人間性そのものを浸食されていく心の葛藤を見事に演じている。

映像は現実離れしたSFでありながら、描かれているテーマが極めてリアルなのでストーリーを離れていろいろ考えさせられる作品である。

現代の先進諸国では、サロゲートなる技術などなくても、すでにひとつの人格が場に応じた演じ分けをして、社会のそこかしこでバーチャルとリアルが反転している気がする。お互いが健全な五感を解放し素直な心を曝して触れ合う場がリアルな世界には殆どなくなっている。そうした歪んだ現実を感じ取る感性がこの映画を作らせたのだろう。だから単に「こんな技術が出来たらそんな社会になるかも」という種類の映画ではない。サロゲート・カンパニーやサロゲート・スクール、そしてサロゲート・チャーチでは事件さえおこらない。ビュンさんなんて生身の変態だったのでまだマシかもね。

私が一番印象に残ったのはサロゲートを失った主人公が生身の姿で街を歩くシーン。あれはまさに毎日の私の姿ではないか。

http://wiredvision.jp/blog/takamori/201001/201001191130.html

これを見るともはやSFではなさそうだ。ますますバーチャルとリアルが交錯し反転する世界になるだろう。