2009/12/09

歌うたいのフェーズ③

私も「どんな風に」「どんなことばで」表現すればいいのかを悩みつつ、私自身と身の回りの誰かの為だけに歌い続けてきた。商業ベースに乗らない、野心のない表現の純粋さに関してだけは、「壁」と距離を置いた「卵」的ではある。

試行錯誤の果てに今辿りついているのは、やはり、使い慣れた自分自身のことばで歌うしかないということだ。

そして、歌のことばは自分のことばであると同時に、聴き手である相手が飲み込めることばでなくてはならない。特にその歌を贈りたい相手、届けたい相手に、意味不明のひとりよがりの表現では始まらない。発信者よりも、受信者に近い表現の方が正しいのではないかと。

つまり、「私のことば」であると同時に、いやそれ以上に、「聴き手のことば」であるような詩でないと駄目だということ。「平易ではあっても凡庸ではない表現」と言ってもいい。「おはよう・ボンジュール・ハロー」以来、それをsimple&nobleというモットーとして掲げてきたが、ボサノヴァというスタイルに絞りこんでいく中で、ますますそうでありたいという想いが強くなっている。

そして、極めて個別で特殊な内容を平易なことばの中に美しく普遍化させたものだけが、聴き手のそれぞれの思い出の中でさらに特殊化される力を持つのではないかと想う。

音楽には力がある。ことばにも力がある。ふさわしい音楽を装ったことばは間違いなく美しい。

2 件のコメント:

  1.  音楽は好きに聴いているだけの私ですが、(それなりには)理解できる、と読ませてもらいました。佐野元春が司会で「ソングライラー」だったかNHKの番組に、スガシカオや松本隆が出ていて、内容も面白かったです。また、いつかDVDを渡します。

    「人が心奮わせ涙を流すのは、実は知るも知らぬも『キリストの影』に対してなのである。クリスチャンはその祝福を豊かに享受し、その秘密を鮮やかに解き明かす責務があるのではないか。私はそう思っている。
     
     世を遠ざけ、世に怯え、世に媚びるのは、いずれもあるべき姿ではない。」

    全くその通りと思う。一見地味な日常の営みにも、にこそ、salt氏の見解は当てはまる。
    私はぼちぼちとやります^^

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  2. ありがとう。DVD楽しみにしています。

    日々の地味な営みこそ、大事なんですよね。

    私は赤塚の日常の「ケ」を「ハレ」に反転させるギャグが好きです。

    クリスチャンの場合は、「十字架を通して世界を見る」ことによって価値が反転するわけです。

    これでいいのだ。

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