冬の富士山は厳しい。その美しい姿とは裏腹に非常に危険な山なのだ。連続する峰がないため風が分散せず、想像を絶する強風が予期せぬ方向から吹き付けるようだ。片山右京さんが関わった今回の遭難でも、どうやらテントごと吹き飛ばされたらしい。
右京さんは、私とも関わりの深いハーブクラブのイベントにも協力していただいている。ハーブクラブのマスターから、「Saltさんとは絶対気が合うはずです」と紹介され、陽光の差し込むテーブルで談笑したのは2年前だっただろうか。
カフェテラスNZの真絹ちゃんへのサインも快く書いてくれて、お店のことについても興味をもって、熱心に質問してくれていたのを覚えている。その日はサイクリングのイベントだったのだが、「昨日九州の山を下りて来て今日は奈良で自転車に乗って、明日はカナダへ行く予定だ」と力強く語っていた。思っていたよりずっと小柄だったが、活力にあふれていた。
今回のインタビューを受けていたブラウン菅の中の右京さんは憔悴しきっっていた。なかまを見捨てるかたちで下山せざるを得なかったその心中を思うと胸がしめつけられる。亡くなったふたりの友人の遺族のコメントも右京さんを責めるようなものではなく、「好きな山で逝くことができ本望」というような主旨のものだっただけに、彼にとってはいっそう厳しいものだったかもしれない。
日常の暮らしを離れ、厳しい自然の中に身をおいて己の生を確認したいという渇望は誰にもあるものだ。しかし、時に自然は人に牙をむく。自然には人格があるわけではない。一定の法則に委ねられているだけだ。
「生きもの」としての人と、いのちを取り巻く環境としての自然というものを考えるとき、人と自然との関わり、そして、人の生き方を思う。
私は彼らのように「冒険」する人間ではない。自らのいのちを自然の中で限界に晒さなくても十分スリルやエクスタシーはある。
右京さんは、祈っただろうか。祈ったとすれば、それはどこの何者に対するどんな祈りだったのだろう。不謹慎かもしれないが、そういうことに興味が湧く。
私はモータースポーツも好きです。
返信削除内燃機関というものは、他のスポーツにはないおもしろさがある。
力のない自分をアシストしてくれる魅力があると思ってます。
足の遅い自分が、ボルトより速くチーターよりも速く進む事が出来る、
アクセル一つで速さをコントロールし、疲れない
ワシより高く、飛ぶことも出来る。
ザアカイでは無いですが、背が低くとも、力が無くとも一番になれるような可能性を味あわせてくれるもの
天からの才能が与えられている者が「天才」なら
本当に、全ての者が天才と信じていますが、
彼もその与えられた才能を、使い、いかし、磨いていきました。
その最高峰であるF1で彼が見たものは、
想像ですが、それは権威と金と名声、人間のどろどろした姿
劣性のマシンのシートしか与えられず、それでも腐ることなく走り続けた彼。
世界で20しかないというシートを降りないなら進むしかない世界。
今まで応援してくれた人や、自分の為に使われた時間、お金を考えると止めることの出来ない世界。
もちろん、素晴らしい、ライバルやメカニック達、応援してくれ理解してくれる人たち、彼が勝てないマシンを走らせる姿を今でも覚えてくれる観客。
モータースポーツは、何処にむかっているのか?
そもそもスポーツも、どうなのだろう。
曾野あやこさんでしたか、「スポーツはよいものであるが、全てのスポーツが見て面白い、金を払ってでもみたいと思える程度になると、健康を犠牲にしてなりたっている」相撲で勝つためには、体重が必要、体重が増えるとケガのリスクがふえるといったぐあい。
自分の思うように自分が出来たときは楽しい
満足がある
でも楽しいで、止められない所も人間にはある。
その中でもモータースポーツは、命を懸ける狂気がある。
死は命を覚醒させる。
自分の命が秋の枯れ葉より軽く感じるとき、石ころ一つで死ぬんだと感じるとき
「俺は、死にたくない。俺は生きている。俺はここにいる!」と叫ぶ自分がいる
「俺は生きて帰ってきた」と後で思う自分がいる。
スポーツマンとは冒険をする者という意味もあると聞いたことがある。
モータースポーツの最高峰を降りた彼が、
文字通りの最高峰を目指し、到達しそれでも進み続ける。
ゴールはあるのか、本当の心からの満足はどこにあるか。
神は冒険する心を与えてくれたのは、どうしてか。
人が月に行っても満足せず、火星を目指すのはなぜか。
究極の冒険の目的は、
神はいるのか。
もし、いるならそれを私は知ることは出来るのか。
キリストとの関係がきちんとしていれば、
本当の満足、誠の冒険は、彼と共にいることが、わかると思う。
どんなに狭い道でも、死の谷を歩くときも、彼となら、、。
それは結婚の誓いと似ている
どうぞ、心の重荷をキリストに置くことが出来ますように
生きる事を許された者が、キリストに出会えるように
キリストに会えた者が、彼と共にいるように
激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。
地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。
本当に命があってよかった。
電気屋さん、熱い書き込み、ありがとうございます。
返信削除キリストと出会うまで、人は満たされることはないのですね。
今日もかすかな細い声でエリヤの神は語っておられることでしょう。
私もエリヤのごとく勝手な孤独感に打ちひしがれていた時期もありましたが、主はちゃんと残された民を確保されていることを知りました。
主が私に地上でどの程度を見せてくださるのかはわかりませんが、毎年新しい出逢いや発見があり、驚かされています。