2009/12/09

歌うたいのフェーズ①

ボサノヴァを誕生させたのは、アントニオ・カルロス・ジョビンとジョアン・ジルベルトというふたつの巨大な才能である。

ジョアンは、自分の生活言語であるポルトガル語で歌うことにこだわった。自分のからだから出てくる「ことば」の自然さと繊細さを大切にした。一方ジョビンは、自分の曲は英語で歌われたとしても、その「本質」は損なわれることなく、かえってその普遍性が証明されると信じていた。

そして、皮肉にもボサノヴァの波をインターナショナルな規模にしたのは、当時ジョアンの妻であったアストラッドの英語による「イパネマの娘」の大ヒットだった。

歌うたいにとってのことばは、ある意味でメロディやリズムよりもやっかいで大切なものである。

リズムやメロディにいかにことばを乗せるかという葛藤は、歌入り音楽にとっては宿命的なものである。

最近「『唱歌』という奇跡・12の物語 讃美歌と近代化の間で」(安田寛)という本を読んだ。これによれば、アジア太平洋を席捲したキリスト教に基づく近代教育による強引な西洋化に讃美歌の強要があった。この讃美歌という音楽の押しつけが地域の伝統的な歌舞、詩歌をどれほど圧迫したかは計り知れぬ。私はこういうのが大嫌いなのだ!

安田氏によれば、「アジア太平洋海域諸民族の近代歌謡史には、讃美歌という太い一本の断層がくっきりと走っている」と言う。その中で唯一日本における唱歌の誕生はミラクルだというのだ。言わば在来種を駆逐する外来種であった讃美歌から、唱歌という新しい国産オリジナルを生み出したというわけだ。単に「音楽がどうのこうの」と言うレベルではない。それには、教育権をミッションに奪われることなく、近代教育制度を自前で確立できるかどうかがかかっていたわけだ。讃美歌に抗うための折衷策として、メロディは讃美歌を使い、歌詞は守ったのである。つまり、肉を切らせて骨を守ったと言うのだ。歌詞には万葉以来の自然や人事に関わる詩的映像世界を盛り込んだのである。

しかし、この時点でことばとメロディは完全にバラバラである。近代における日本の歌が、こんな風に出発しているのは、実に興味深い。

その後、日本人作曲歌による試みは、いずれも日本語のアクセントやイントネーションとリズムの切り方、メロディの流れを一致させようとする試みであったと言える。山田耕筰や中田義直などが残した歌曲には、例外なくその規則が貫かれている。

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