2009/12/09

歌うたいのフェーズ②

専門作曲家や御用作曲家の手を離れて、庶民に歌が降りてきたのは、60年代の初め頃である。つまり、「与えられた歌」ではなく、「自分たちが歌いたい歌」を自ら歌うようになるのだ。

60年代は、アメリカのムーブメントを受けて、反戦、反管理のプロテストソングが流行する。当然、歌詞はメッセージ性が強く、付け焼き刃的な表現なので、当然楽曲の完成度は低い。もともと英語で歌う方自然なメロディーに音楽の訓練の殆ど無い素人に近い人たちがギター片手にぎこちなく歌い出すのだから無理もあるまい。

やがて、時代の変化とともに、歌のテーマは、政治や体制から離れ、私生活へと移行する。「抒情派フォーク」だの「四畳半フォーク」だの言われるものだ。吉田拓郎などは、一音符に一音節という従来の決まりを破り、ひとつの音符に複数の音節をあてる歌い方をするが、これは、今問題にしている「ことばとメロディの葛藤」から生まれた試みというよりは、日本語でボブ・ディラン風に歌ったらたまたまそうなったというものだろう。その他の歌い手たちは、音楽的にはこれといった目新しさはない。部分的にS&Gやカーペンターズやビートルズなどの影響はあっても、どこか小唄や演歌調なのだ。だから、素人が誰でもすぐ真似できるという良さもあった。

70年代半ばにはニューミュージックが誕生する。これはユーミンこと荒井由美の登場とともに使われはじめたことばである。プロテストソングでも、私生活フォークでもない、また商業ベースで大量生産される歌謡曲でもない、日本の新しいポップスという様な意味である。ニューミュージックは、自作自演のサウンドを重視する音楽であった。

80年代になると、ニューミュージックは少しもニューではなくなり、その多様化から洋楽に対して邦楽やJポップという呼ばれ方でくくられるようになった。

70~80年代に登場する人たちを、詳しく論じ始めると話が前に進まないので大きく割愛してポイントを絞りたい。

80年代以降の最大のヒットメーカーは、サザンオールスターズの桑田佳祐だが、彼はかなり初期の段階で「たかが歌詞じゃねえかこんなもん」という本を書いている。桑田の歌づくりの方法は意味よりもことばの音を大事しながら、英語も日本もごちゃ混ぜに韻をふんで歌を紡いでいくというものだ。日本語を解体することによって、何らかのメッセージを伝えるための詩、いわゆる読んで理解させることばではなく、「聞こえる音に何となく意味があればいい」というところからスタートしたのである。これは、コロンブスの卵みたいなものだが、桑田以前にこういう発想をした者はなかったのではないか。しかも桑田の作る歌詞の完成度は極めて高いものが少なくない。一見デタラメに感じるその歌詞が『非常に良くできているのである。しかも、日本語を英語のようなアクセントをつけて無理にビートに乗せてしまう。これも、今まで誰もやったことがない画期的な歌唱法の発明でもあったわけだ。

ものすごく粗っぽく、日本の軽音楽の中の自作自演系の歌の流れを追ってきたが、もう一つ、忘れてはならない存在がある。英語圏にも輸出されるようにもなった日本語のロックの草分けでもあり、ことばとメロディの葛藤に真正面から挑んだバンド「はっぴいえんど」である。日本語のロックにおける「はっぴいえんど」の存在価値と功績を決して過小評価してはいけない。

歌詞を担当した松本隆の発想は桑田とは逆である。彼は純粋に自分の詩的世界をテクニカルにリズムに乗せていくのである。松本は、日本語を一音一音節と捕らえずに英語的に子音と母音の組み合わせとして表現し、意味を持つことばのまとまりをあえてバラバラにしてでも、語感を尊重することによって、より詩の内容を聞き手に印象づけたのだ。また、日本語本来のアクセントやイントネーションに束縛されないメロディーと一体化させた。バンド解散後は、松本は作詞家として活躍し、多くのすぐれた歌謡曲を生み出すが、何といっても彼の最高の仕事は、「はっぴえんど」でのソングライターチームでもある大瀧詠一のコラボであろう。大瀧詠一名義の「ロングバケーション」は、日本のポップス史に残る極めて完成度の高い名盤である。

松本隆の詩と大瀧詠一の曲は、まさにこれしかないと思うような一体感が感じられて、何度も繰り返して聴いたのを想い出す。

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