2009/12/11

明日は廃校でリコーダー

NGOペシャワール会の代表で医師の中村哲氏が、次にように語っている。

「『アフガニスタンには教育がない』なんて言う。『子どもたちが、学校に行ってないんですってね』と。でも、あちらでは、家の手伝いをすることが職業教育、小さいときからコーランを暗唱して、毎週金曜日にモスクに行くことが道徳教育です、基本的なことはきちんとやっているわけで、あそこで微分・積分を教えてどうする(笑)。それなのに干ばつで、腹ぺこで逃げようかどうしようかというときに、突然、外国人が来て、『あんたたちがこんなにみじめなのは、教育がないせいよ』と鉛筆を配ったりして。ホントに嘘みたいなことが起きている。『教育が崩壊している』という日本がアフガン復興で教育に携わると聞いたときは、冗談じゃなかろうかと思いましたけど」【養老孟司氏との対談「先進国はアフガンという田舎が怖いのだより」】


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先進国の学校教育というシステムの無神経さが、(かなり無神経な人にも)多少はわかるコメントではないだろうか。

過疎地の廃校にアトリエを構える私は、明日もそこで月一回の講座「リコーダー・アンサンブルを楽しもう」を開講する。

過疎地の廃校という存在自体が、そこでの私の活動内容よりもずっと大きなメッセージを持っている。
「ふるさと元気村」という情けない名前。いつも言っているが、ここは「被災地」なのだ!!
こういう売りになる特徴のない過疎地が日本にはいっぱいあることを記憶せよ。

私は自然と寄り添って生きる当たり前の人の営みを陵辱するシステムはすべて憎んでいる。陵辱されても恥や痛みを感じない鈍感さを嫌悪し、そこに都市的なシステムをはめ込もうとする安直さには怒りを感じる。

ただ私は、人が人と何かを分かち合ったり、ともにひとつの価値を共有することは、美しく尊い姿だと思っている。

あらゆる「学校」が崩れ、すべての「教育」が腐っているわけじゃない。

斜に構えて批判するだけの輩は世の中に掃いて捨てるほどいる。私はそういう者にはなりたくない。辱められて黙ってはいられない。

たとえ、ささやかなものであっても、私は常に「つくる」人、「分かち合う」人、「遊ぶ」人、「楽しむ」人でいたいのだ。

2 件のコメント:

  1. Salt氏に質問
    「システム」の反対言葉は、一体何ですか?

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  2. 面白い質問です。

    システムは、ギリシャ語「システマ」が語源で、もともとは「結合」という意味ですね。

    それでは結合している個々の要素がその反対語になるのかと言えば、そうは思いません。

    教育においては、人材を育てるのがシステム的なら、人間を育てるのは非システム的です。

    芸術においては、商品を作るのがシステム的なら、作品を作るのは非システム的です。

    信仰においては、宗教としての教会がシステム的なら、いのちのあるエクレシアは非システム的です。

    それは、二元的に対立して存在しているわけではなく、混在していて人目にはもつれあっているように見えるでしょう。

    私は公教育というシステムの一部ですが、それに取り込まれてはいません。

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