2009/12/09

歌うたいのフェーズ④

「歌がうまい」というのはどういうことだろう。音程が正確であるというのは、うまい以前の最低条件であろう。しかし、腹式呼吸で滑舌よく朗々と歌われても、ただそれだけで人は感動しない。7オクターブの声が出るとか言われても何だかなあ・・・・という感じだ。

人が感動しない歌はうまい歌だろうか。「うまいだけのつまらない歌」という言い方は出来るかもしれない。

フレディ・マーキュリーは、ピチピチタイツに上半身裸で、スタンドマイクを振り回しながら、海老反って歌う。あの恰好、あの動きでないと歌えないとでもいうように・・・・。彼の場合は決してうまいだけの歌ではない。だから世界中の多くの人が熱狂した。でも、私的にはああいうのは何か違う。

マイケル・ジャクソンが死んで、久しぶりに「ウイ・アー・ザ・ワールド」の映像を観た。錚々たるメンバーがクインシー・ジョーンズの演出に従って(多分)、自分の割り当ての部分を歌う例のやつだ。さすがに一流の歌うたいばかり。皆、個性的だしうまいと言えば物凄くうまい。その中で私が一番印象に残ったのはボブ・ディランだった。

ボブ・ディランは、いわゆる歌がうまいタイプのミュージシャンではない。学校の教育音楽の中では、「ボブくん、ちょっとその歌い方は良くなくてよ」と叱られそうだ。しかし、その「ぶっきらぼう」な歌い方と独特の嗄れた声に、何とも惹かれるものがある。

レオン・ラッセルもそうだ。
レオン・ラッセルという名前だけで、顔や声を思い出せる人はあまりいないかも知れない。カーペンターズが歌った「ア・ソング・フォー・ユー」「マスカレード」「スーパースター」の作者と言えば、若干うなずく人が増えるだろう。

リチャード・カーペンターのアレンジはとっても洒落ている。レオン・ラッセルの原曲の良さを引き出しつつ、カレンの声を活かす完成度が高い出来映えである。しかし、カレンがどんなにうまく歌っても、原曲の圧倒的な「渋み」や「苦み」には全くかなわないのだ。

こんな風に自分の嗜好を分析してみると、私が引きつけられるのは、「歌のうまさ」ではない。かと言って、その声が特に好きというわけでもない。私が魅力を感じるのは、その人が本質的に持っている「自由」というよりは「奔放さ」という表現が近いかな・・・あるいは、「その人らしさ」を努力して保っていることだと思う。

そして、私自身は決してうまく歌いたいわけでも、歌うパフォーマンスを見せたいわけでもないんだなあと改めて気づいた。私は自分らしい自分の声で、歌いたいことを、歌いたいように、歌いたいときに、歌いたいだけなのだ。それが自分のあり方として一番気持ちいい。

10 件のコメント:

  1. 「その人らしさ」というのは、「個性」なんですよね。
    でも個性は努力して保っていかないといけないですね。

    「個性を尊重した教育」といいながら、日々子どもがけなげに維持しようと努めているものを、時には教師の枠にはめるために破壊しているのでしょうか?

    銀じ郎さんのメールにあった『梅かよさん』のことを考えるとやはり、僕のしていることは何だと、はたと考えてしまう。

    決して悪意でやっているわけではない。でも結果としてそうしているでしょうか。確かに日本での学校というシステムは、個性を重んじることを出発点としていないがゆえに、いくら看板の掛け替えても、根っこが変わらないから同じなのでしょうか。

    うーん、やはりわからんな。

    PS 個人的にはブルーススプリングスティーンのパートが
    好きです。

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  2. そうですとも。学校にも、教会にも「善意」が満ちています。

    その「善意」が曲者です。

    引きこもりの大学生たちは、間違いなく親が「善意」で保護してるわけですが、さらにそれを手厚く支援するらしい。

    日本は何と善意に満ちた国なのでしょう。

    「個性」ということにも触れてくださったので、ちょっと質問です。

    大阪では図工・美術教育における○○式や△△式はどれぐらい影響力がありますか?(金曜日は、図工と家庭科を指導する日なのです)

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  3. 善意の押し売りから返事します。

    図工・美術教育ですが、正直データがないので分かりません。
    八尾市内にそのことを前面に出した研究会は聞いたことがありません。

    でも、「シャボン玉をふく絵」はあちこちで見ますし、○○式と書いてある本は、職員室のあちこちの机で目にします。

    ●●化(=システム化)はまさに、教育の大量生産ですね。
    このマニュアル通りすれば、全国どこの学校でもある程度(?)の結果を、経験年数に大きく左右されず出せる風には聞いていますが…。

    ただ正直思いますが、絵の指導などは教材研究不足を言い訳にしてはいけませんが、経験年数が浅い教師でも、ある程度(世間一般の保護者が見て)のものができる気がします。

    大阪は風土的に、from 東京が嫌いなんで、あんまり浸透していない様な気がします。
    すべて僕の主観で、客観的なデータ無しといいことでお許しください。

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  4. 早速のコメント感謝です。やっぱりね。

    ○○式が広まることも悲しいですが、「それがいい」「それでいい」と思う人が大勢いることにも愕然とします。

    同じ構図の似たような表現が並ぶのは、まさに地獄絵です。

    私に言わせれば、表現することによって表現を冒涜する犯罪行為です。

    神戸も同じですかね?

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  5. ここで僕がコメントしていいのかわかりませんが、梅の名前が出てきたので。
    まあ、聞き流してください。

    僕が梅の才能に気付いたのは、彼女が入学してきてすぐのころでした。
    基礎技術や基礎知識に関する授業と平行して、表現の基礎を教える授業もありました。ひとつのテーマを与えて、自分で考えて撮影して来るという課題を出し、提出された写真をみんなで見て、講評をするというものです。
    一番最初の写真表現の課題でした。それが、梅の写真は他の学生とは明らかに違い、僕は彼女の作品を一番最後に講評したのです。
    その時の心境を後から彼女が僕に語ってくれたことがありました。
    クラスは100人近くいましたから、自分の前に90枚以上の写真を見せられるわけですが、どれも自分が撮ったものとは雰囲気が違う。そしてなかなか自分の写真が出て来ない。
    彼女は自分の写真が良くないから出て来ないんだと、落ち込んで悲しくて涙が出そうで、帰りたくなったそうです。
    しかし僕の意図はそうではなかったのです。他の学生があまりにも当たり前すぎる発想で、似通ったものが多く、いかにも点数を取りにきている作品ばかりであるなかで、梅の写真は異質でした。明らかに飛び抜けていました。
    梅の写真はほんとに一枚目から良かったんです。
    それを僕は一番最後に講評することにし、100人最後まで集中して聞いている奴、最後にした意味を理解できる奴よ見よ、という気持ちを込めて「この写真は本当にいい写真です」と話しました。
    そういう意図でしたことが、予想外の予想以上の効果をもたらしました。梅はこの一言でスイッチが入ったというか、僕が今写真茶話会で回を重ねてお話ししていることの全てを、一瞬で理解してしまったのです。
    それ以後、ほとんど彼女に指導をした記憶がないくらいです。ただ見る度に「この写真はいい」と言い続けたくらいで。あとは自分で勝手に成長していきました。
    僕はずっと、天才っているもんだな、と思っていました。

    しかし、最近それを考え直すようなことがありました。
    僕の娘は4歳になりますが、3歳になったころからカメラを持たせて撮らせています。最初は構えることすらおぼつかなかったのが、すぐにそれをマスターし、ちゃんとフレーミングをして撮るということが出来るようになり、それを始めて間もない頃から驚くような写真を撮るようになってきたのです。
    教えもしないのに、今では梅のような写真をガンガン撮ってきます。しかもシャッターが軽く、30分もあれば100枚くらいは越えてくる。
    僕も最初は親バカで、これは才能か?と思いましたが、いやもし、これが普通であったらどうだろう、と考えたのです。
    使わせているカメラは、13万円もする高級なデジカメですが、それだけ高性能な本物のツールを与えれば、幼児期の子どもは誰でもできることなのかも。子どもだからおもちゃのようなものか、触らせないとか、危ないとか、やらせたくないとか、必要ないとか、できないとか。
    もしかしたら、大人になるまでに僕らはいろんな「できない」ということを学習してきたのでは、教育者としてはいかに「できない」ということを教育してきたのか、と思ったのです。

    そしてその短期間で濃密な人生経験の間に、個性というものが形成されるとしたら、教育の責任はかなり大きいと思います。
    個性を尊重する教育は本当ならその発端も見なければならないような気がしたり。
    これはネガティブな考え方なのでしょうか。

    物を作ったり、コミュニケーションとして表現を経験させることは、かなり個性と関わりがあるように思います。

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  6. Y.B.Mさん、興味深い書き込みありがとうございます。

    確かに娘さんには特別な才能があるのだと思います。

    ただし、他の3.4才児もまた同じレベルではないにしても、それぞれに大きな才能の芽を宿していると私は思っています。

    子どもは幼ければ幼いほど「凄い」のです。「無知の高貴さ」を持っている。

    梅さん以外の学生が、学校で求められがちな「最大公約数的な価値」に合わせていったのに対し、梅さんはそれを(意図して)あるいは、(意図せず)外して来た。ここに彼女の非凡さがあるのでしょう。

    学校教育は、その「最大公約数的な価値」を短時間で手軽に刻印するシステムだと言えます。

    まるで鯛焼きですよ。これは犯罪的行為です。

    私は、こういうものに対して「いのちをかけて」抗っているわけです。

    子どもたちの中には、少なからず、いわゆる「学校の規格」にのっとらない「はみ出る」あるいは「忘れられる」子どもたちが出て来ます。

    梅さんも何らかの理由で、学校規格から「ちょっと」もしくは「かなり」ズレたところにいる存在だった可能性がありますね。

    銀じ郎さんは、生梅(ナマウメ)を見て「発達上の認知の個性」という観点で、少女時代の彼女の学校での姿を想像されたのでしょう。

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  7. Salt氏の言う、
    子どもは幼ければ幼いほど「凄い」のです。
    「無知の高貴さ」を持っている。
    は頭では理解できます。

    Y.B.Mさん(お久しぶりです)の言う、
    個を尊重する教育は本当ならその発端も見なければならないような気がしたり。
    も理解できます。

    とすると学校教育とは本来何をする(いや何もしない?)
    少なくとも、無知の高貴さの前に、世間の常識を身にまとった教師(大多数がそうでしょう)が、教科書とチョークをもって立つことに何の意味があるのでしょうか?

    ここはアーミッシュ(アーミッシュがいいとも思えませんが)ではありません。

    なんかはやり分かりません。
    中途半端でご免なさい。また、考えて書き込みます。

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  8. 私より詳しいと思いますが、アーミッシュなんか糞ですよ。

    また、学校的なものが、完全に良くなることなんてないと思います。

    だから、私は「抗う」と言っても、組織改革をしようとも思いません。管理職にもなりません。

    教会に関しても同じです。既製の組織に何らの働きかけを試みる気はありません。

    淡々と私は「私を」生きるだけです。ただ静かに発信は続けます。

    世の中にある真・善・美は、確かに何かしらキリストの影に似た(その程度)偶像です。

    学校でも教会でも、その他の何であれ、中心に十字架がない周辺の御利益としての祝福は、雛型としての意味以上のものは無いので、時間とともに腐って崩れていくのです。

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  9. 「発達上の認知の個性」
    少し難しい用語が出てきて、専門知識のない僕には難しい話になって来ました。
    銀じ郎さんの説明を待ちます。

    隆嗣さん、それでも僕は学校が好きでしたよ。

    梅について、こういうこともありました。
    梅がもちろんまだ無名だった学生時代、梅の周りにいる学生が梅化しようとする現象がありました。
    特に彼女の後輩の女子に多く見られました。
    多少演じているようにも見えましたが、これにも何かヒントがあるような気がします。
    誰もが「最大公約数的な価値」と自分とのズレは、あらかじめ認識した上で答えを出している、と考えるのは無理があるでしょうか。
    彼女たちは梅の存在を知って、ズレてていいんだ、ズレてるほうが気持ちいいことを知ったから、そうなろうとした。
    しかし、表現における「最大公約数的な価値」の無意味さを授業の中で感じるうちに、その現象がまたおさまっていきました。
    梅に合わせることが、本当に自分が自由になることではないと気付くからでしょうか。

    彼等が学校に求める相反しながらもどちらも必要だと感じているがゆえの行動で、「最大公約数的な価値」によって守られた環境と、自分を尊重できる解放とを、どこでどう使い分けるかを常に選択している、そんな能力は多かれ少なかれどの子にもあるのではないでしょうか。

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  10. 最大公約数的な価値によって守られた環境と、自分を尊重できる解放との使い分け・・・・

    まさに、鍵はそこにあります。流石に鋭いフレームとフォーカスですね。

    ご承知のように、「最大公約数」というのは、すべてが悪い意味ではないのです。椅子やテーブルが1本や2本の脚より4本脚の方が安定するのと同じで、変わってれば良いと言うものではない。ズレ具合、浮き方も、0ポイントからの絶対値がマイナス方向にデカイだけならば、ピントはずれのバカにすぎません。

    また、自分の憧れを追いかける模倣だって、必ずしも否定すべきものじゃない。ある時期には必要なプロセスでしょう。

    ただ、表現における個性を追求するのなら、そこで留まってはいられないのは当たり前。

    表現における「答え」は、最大公約数というようなひとつの数字ではない。簡単な数字や記号にはおさまりきらない「伸びしろ」と言うか「振れ幅」と言うか、そこを拡大していくしかないわけです。その順列や組み合わせの無限の可能性の彼方に広がる「美」の世界があるのです。神さまは、私たちがそれを楽しむ余地を、予め世界を創造されるときに、プリセットしてくださっていると信じています。

    優れた表現というのは、ジャンルが何であれ、最大公約数が何なのかを「わかった上で」の破壊と再構成になるのではないかと思っています。もちろん、そこへ行き着くプロセスはさまざまだと思いますが・・・・

    現時点での私の理解はそういうところに落ち着いているので、「無自覚な天然」も素晴らしいが、「自覚的な演出」はさらに優れていると位置づけているのです。

    つまり、自分の表現を、表現者自身が相対化して認識しているかどうかを物凄く大きなポイントだと思っています。

    アーチストには、「オレが」「オレが」という表現における絶対者が多いですから。

    取りあえず、最低限の慎みと謙虚さが大事だと思うのです。

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