Y.B.M氏の写真専門学校時代の教え子である新進気鋭の写真家「梅佳代」さんのことがコメント欄で話題になり、Y.B.M氏自身がかつてのエピソードについて臨場感あふれる報告をしてくれている。彼女の傑出した才能を早い時期に見出したY.B.M氏は、特別な指導は何もせず、ただ認め励まし続けた。写真表現の授業で自分の写真が取り上げられず、「駄目なんだ」と思って泣きそうな気分のときに、最後の最後に、先生の最大級の賞賛とともに自分の写真が出てくるのである。写真家「梅佳代」誕生の貴重な裏話だ。
彼女は確かに普通の教室の中にいたら、「浮いてしまう子」「はみ出してしまう子」だったかも知れない。また、どのようなスタイルの学校であっても、そのような「浮き」や「はみ出し」はやむを得ないし、ある意味ではむしろ必要なのだ。その「浮き」や「はみ出し」でつぶれてしまう程度の感性なら、残る価値のないものなのかも知れない。「浮く」こと「はみ出す」ことで自分の相対的な位置を確認できるのである。
これまでの表現のかたちを変えていくほどの飛び抜けた感性の持ち主は、既製のシステムやフレームの中では、正当な評価を受けることはまずない。彼らの発信は、最大公約数的な価値観、つまり凡庸な感性のプラットフォームには落ち着かないからだ。
多くのアーチストは、この最大公約数的な価値観とどこかで折り合いをつけつつ、己の目指すべき処を探りながら、表現を磨いていくのである。残っていくべき人は、どんなキビシイ環境でも残っていくのだろう。
私が教育に関わるものとして、問題にしたいのは、そういう飛び抜けた才能はない「多くの普通の人たち」である。こうした人たちだって、他者に抜きんでて極めずとも、自分の伸びしろの範囲で自分なりの表現力を高めたり、表現それ自体を楽しんで、なかまと分かち合うことが出来るはずだ。自分の才能を開く前に、教育が表現者と聴衆を分離するのは違うと思っているのだ。誰だって、歌ったり、踊ったり、演じたり、描いたり、何かを作ったりすることは、それ自体が楽しい行為なのだ。
「表現」のかたちを方向づける感性が、認知や発達の個性とどのように関連しているのかは、まだまともに研究対象とされたこともない。既製のシステムやフレームに限界や退屈さを感じている人たちが障害者のアートを面白がっている程度の現状であるが、実はここに大きな秘密がある。
だから、私の戦いは学校というシステムを破壊する戦いではない。そうした「浮き」や「はみ出し」が起こることを未然に防ごうという動きでもない。私自身が「浮き」また「はみ出し」ながら、システムに押しつぶされない価値を確かめ、システム内に価値が反転する臍を見出すことである。安易に自由主義的な学校は、かえって自由が何なのか、その価値を曖昧にしてしまう愚かさがある。
私は、永遠の楽しみと表現の喜びにつながるバイパスへの狭き門を知っている。それをひそやかに指し示すことが出来ればと願っている。
家具屋に集中しデザインに向かおうとされているY.B.M氏にしつこくまとわりついて、ゴメンナサイ^^
返信削除私の勝手な空想です。
梅佳代さんは、写真学校では認められたとして、小・中学校ではどうだったのか、という点です。
撮った写真が認められるような場は、小・中学校ではほぼないでしょう。別に、写真そのものではなくても、あの感性で図工や美術でも、国語でも社会でも、なんでもいいです、学校生活の中であの感性から出た発言や行動や作品を「面白いな、いいな。」と認め、それを活躍させるような先生がいたのかな、という空想です。梅佳代さんは、写真学校に入るまでに、写真に対する思いや「こんなものを撮りたい」という意思をどうやって育てられたか、とても興味深いです。
梅佳代さんのよさを認める現場教師はたくさんいるでしょう。でも、あのよさを自分の授業や学級経営といわれるもので生かしてあげられる”先生”はなかなかいないのでは。
たいていの先生は善良で熱心で能力も高いです(私からすると)、でも、梅佳代さんのような魅力を生かせない学校現場にたいていの先生が疲労しています。
私も「教育改革だ、職場改善だ」と力まず、凡庸なものが楽しむよさを持てるようにしたいです。まずは、自分から。ギターとピッコロに交じったら、びびったリコーダーになるようでは、いか~ん ^^
おっしゃるとおりですね。
返信削除やはり「芸大」とか「専門学校」は特殊な世界です。
普通の現場では、アートは隅っこや末端にあります。
それはそれは惨憺たる有様ですよ。
○○式や△△式で描かれたた絵画群をY.B.M氏に講評してもらいたいものです。
取りあえず、ご令嬢の小学校入学を待ちましょうか。
銀じ郎さん、次回もフルート&ピッコロとジョイントしてもらいますよ。