2009/11/30

単語がわからんタンゴ

友人の箱屋八代目が企画に加わったクアトロ・ビエントスのタンゴを聴きに行った。6時9分に仕事を切り上げ、大和川沿いを突っ走って6時32分に「いかるがホール」到着。5分遅れの35分開演にギリギリ間に合い、たっぷり2時間音楽に浸る。

なかなかしっとりした演奏だが、私はスペイン語は全くわからないので、やや欲求不満。いくら日本語で解説があっても、まさにラテンな歌詞世界は、ちょっと宙に浮いた感じで、アルゼンチン酒場風に演出されたステージも、何やら太秦映画村風で、どこか滑稽さの漂うものに思えた。

ボサノヴァをポルトガル語で延々やり続けても、馴染みの無い人には同じような印象を与えるに違いない。

この道で感動を誘うには、圧倒的な実力がないと無理だ。そんな実力のある日本人などいるわけもなく、ボサノヴァでは小野リサが限界だ。

そもそも日本人が、母国語でないことばで、本当に繊細な表現が出来るのかという問いについては、私は否定的だ。かつては、自分のサウンドを表現するには英語でないと不可能だと思った時期もあった。しかし、様々な葛藤を経て、今は日本語での表現に落ち着いている。

発信側に問題はなくても、受信側の問題がある。だからこそ、共通のことばで伝えること、わかりやすさ、聞きやすさが大事なのだ。自分のことばであるより、相手のことばであることを大切にしないと何も伝わらない。

神のことばが人になられたのは、「伝える」ためである。だから私も、たとえ「アホ」と思われようと、わかりやすい日本語で歌い続けることにこだわっていたい。

1 件のコメント:

  1. ご来場、多謝でございます!
    音楽における言語と聴衆の関係、イヤそもそも言葉とは、音楽とは何ぞや?という設問にも辿りつくと思いますが、これは企画すっとばしてずっと考えている事ではあります。ご指摘、まさにその通りです。

    先に「楽団ひとり」としての結論を言うと、私はここ当分は、全曲スペイン語のカバーで行こうと思っています。私をこのような奇矯な人間に育て上げたメキシコへの恩返しという意味で。そのうち敢行するであろう南米ツアーの準備をするのです(ひひひ)

    20歳の頃、「日本人相手に英語で歌うのはおかしい」と私がゴネて辞めたバンドのメンバーが今や全曲(奇妙な)日本語で歌い、今度は私が外国語で歌っているのはとっても奇妙ですが、まぁ、歌うたいにはいろんなPhaseがあるのでしょう。また日本語に戻ってくるかもしれませんし。

    話戻って例のタンゴですが、受信側が「何を歌ってるのんか判らんし、演出もビミョーやけど、こんな立派なホールで公演されてるんだから、立派な音楽なんだよこれは」と考えて「素晴らしかった!」と言うなら、こんなに情けない話は無いと思います(ex. 『This is it』)ただ、スペイン語話者の観点から言うと、「スペイン語を喋る私」と「日本語を喋る私」は人格から別物ですから、スペイン語の私はスペイン語で無いと引き出せない。だからスペイン語で歌う意義はあると思っています(受信側は、語の意味は受け取れず、音と雰囲気だけしか受け取れませんが・・)

    イベント企画も、楽団ひとりも、精進します。今後とも宜しくご指導の程を・・・!笑

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