2009/11/09

学びは遊びで遊びは学び

私は高学年の学級担任になれば、それぞれの教科や領域の学習が、具体的に暮らしのどんな場面で役立つかということについて、ものすごく時間をかけて話す。そうすると多少、子どもたちの学びへのモチベーションが高まるからだ。

しかし、本来学問というものは、実生活に役に立つとか立たないなんてどうでもいいのだ。そうしたことを前提としての妥協ではあるが、子どもをその気にさせなければ、次の価値ある情報は届かないので、オリエンテーションには配慮する。

その上で、さらに数倍の時間とエネルギーを注いで、「数式の美しさ」や「ことばの不思議」など、学ぶ内容それ自体の魅力について、各単元の中で、力を込めて伝える。その中の多くはこぼれ落ち、流れて、消えてゆく。それでもいい。しかし、豊かさとはこうした無駄の蓄積のことなのだ。何より、私はそうしている方が楽しい。

つまらない先生のくだらない授業のせいで、子どもを「○○嫌い」にさせてはいけない。

最近読んだ河合隼雄氏の本に「日本の先生は、基礎基本を定着させようとして、○○嫌いを作っている」と書かれていた。ズバリ核心をついている。

「教える」ことは、知識の切り売りではない。「学ぶ」ことの動機が、学校に入るためや肩書きをもらうためであってはならない。

人は不思議に思うから追求し、興味があるから覚えてしまうのだ。「強いられること」「値踏みされること」は、誰であれ何であれ不愉快で苦痛だ。それは子どもも大人も同じ。

こういう制度の中では、敗者や落伍者が生まれるのは必然。かなりの数の子どもたちが、システム化された教育の中で、プライドをズタズタにされて学校に背を向ける。学びには敗者や落伍者などないはず。

落ちこぼれ、いじめ、不登校、中退者をこれだけ出しておきながら、学校における「学び」の本来的なあり方に対する見直しの議論はほとんどなされない。

先進国の学校が、産業革命以降、社会に必要な労働者にふさわしい人材(時間に遅れない・
正確に作業に従事する・雇用者に搾取されても気づかない)すなわち、「真面目な馬鹿」を大量生産するシステムとして機能してきたことを、私は中学生の時に見破っていた。私は馬鹿らしくなってこのレースから飛び出した。

高校1年のとき、「オートメーション」という学校批判のハードロックを歌った。「教科書どおりの生徒の大量生産は楽しいかい?」という内容だ。私は誰にとっても、都合の良い部品にはならないと誓った。

その後、高校中退で音楽を志すはずだったが、訳あって逆オフコースして教員になり、「学校」という万人が通過するシステムや、「学び」という人の一生の課題と向き合うことになった。これは決して愉快なことではないが、私の一生をかけての行である。

私にとっての教育の目標は、自立する精神を持った個人を育て、その上で協調し相互に補い合う力を培うことだ。そして、各自が細かい違いを味わい、創造的に人生を楽しむ術を知ることである。

○と×、「好き」か「嫌い」かのデジタル思考には、柔軟性も繊細さもない。「どちらでもない」という本来一番豊かなはずの幅広いグレーゾーンを存在しないものにすれば、不寛容で頑な感性しか育たない。

「なぜ」「どうして」をゆっくり考える時間を与えず、効率よく紙に書く「答え」を出すことばかり教える傾向には断じて抗いたい。立ち止まることを許さず、取りあえず動いてさえいればいいという誤魔化しの躍動感には、可能な限り物申す。

可能な限りというのは、哀しいかな、「不可能」な場面も少なくないからだ。

ただシステムの中で、ただ「うまく立ち回ること」を教えたくはない。勝者の定めた偏差値に振り回される劣等感を、エリートの優越感以上に嫌悪する。

「新しいもの」に触れるドキドキ感や「おもしろいこと」を追求するワクワク感があれば、学ぶことは全ての人にとって楽しいものであるはず。

その結果を誰かに値踏みされる余地を与えない喜びを持てば、煩わしいことから解き放たれるのではないか。

「よく学び、よく遊べ」ではない。「学び」と「遊び」に線を引くから、「学び」がつまらなくなる。「学びは遊び、遊びは学び」でよい。楽しく学んでいる人は、学びを遊び、豊かに遊んでいる人は、遊んで学んでいる。

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