2009/11/05

Saltの反哲学的断章③ 反転する世界

ことばの空転。情緒の繊細さも、痛みのかけらもない鉄面皮な美辞麗句。

立ち止まり振り返ることを知らぬ目的地を見失った前進。

個人を顧みない錆び付いたシステムの謎の滑らかさ。

症状の改善など全く期待できない永遠の無自覚。

冷たく絶縁されるコミュニケーション・・・・

私には居場所がない。

何処にも安息の場所などないし、人の承認の中には、私の存在価値も生き甲斐もない。この世は私にふさわしい場所ではない。賞賛も批判も等しく無視するに限る。そして、そのような感覚こそ正確な評定であると信じる。

人を呪うことはすり替えに過ぎない。忌むべき堕天使に与えられた一時的な力を笑え。

キリストがこの世の為に死んだのでなければ、世界には何の価値も見いだせまい。キリストが確かに甦ったのでなければ、生きる意欲など何処からも出て来はしまい。

虚無は重量を持たない。それがずしりとこの身に重くのしかかるものであるなら、負けじと踏ん張ることも出来たろう。

軽すぎる。しかも、踏ん張る足場も見い出せない。となれば、堕ちていくのは摂理である。しかも、私が堕ちていくのは己自身の罪の重さによる。決して虚しい世界のせいではない。そのことを良く知っている。多くの人生の真摯な探求者が生きながらえる意味と本当の救いを見出すことなく、自ら命を絶つのは理解できる。

私も又、世界の軽さと己自身の罪の重さのゆえに深い闇へと沈んでいくのである。

しかし、驚くべきこと、感謝すべきことは、さらに闇の深いところで、キリストが私の堕ちてゆくからだを受け止めるべく先回りしておられるということ。

この身を受け止められた確かさ・・・・これほど力強い証はない。ここにのみ逃げ場があり、ここにこそやすらぎがある。

この虚無を見つめながら、しかもいきいき生きている人間こそ、「新しい創造」の中を生きている人である。

私が今生きているのは、まさにイエスの復活による。「私がイエスを信じる」からでさえない。「イエスの信仰」の中に、「イエスのいのち」の中に、私自身が取り込まれた結果に過ぎない。私には誇れるものは何もない。しかし、生き方には誇りがある。私が経験したこと、味わっていることは、極めて重要で価値のある情報だと思っている。

十字架を中心に反転する世界の真実が、この虚無の世界に散りばめられている。死の影に確かな復活の兆しが見え隠れしている。

まずはこの世界の嘘を見破り、とことん絶望すること。そして、イエスのことばを曇りのない心でそのまま受け取ることだ。

然るに、この世に媚び、すがり、自分の可能性に希望を見出すための福音は、最も恥ずべき嘘である。

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