2010/11/28

研究授業を終えて




6年ぶりの研究授業を終えて、ちょっとホッとしている。とは言え、そんな時間も1日6時間あるうちの1時間にすぎず、これからも毎日毎日授業は続いていく。

当日は、参観する先生方がそれぞれに2人で4人の子どもを観察し、顔やからだの表情とその変化を追いかけ、その子の学びがどの場面で深まったのか、また途切れてしまったのかを個々に記録する。また、教師や子どもの発言のすべては全体の授業記録となり、その2種類の記録による事実を元にした授業検証を行う。

「何となく」の印象や、教師の指導力に関する互いに気を使いながらの話ではなく、「子どもがその時どうであったか」が中心に語られるので、非常に協議の質は高まる。

私も授業提供者として、非常に充実した時間を過ごさせてもらった。
とりわけ、一番心配だった発達障害を抱えている子たちが、周囲の子どもたちの支えによってねばり強い学びの姿を見せていた。私が感じていた以上のことが、複数の先生から詳細にわたって報告され、高い評価を受けていたのが非常に良かった。

いよいよ2学期も残すところ一ヶ月。

2010/11/25

三島事件から40年


今から40年前の今日、すなわち1970年11月25日、作家三島由紀夫こと平岡公威が、自衛隊の市ヶ谷駐屯地にて隊員に向かってクーデターを呼びかける演説をした後に、楯の会メンバーとともに割腹自殺を決行。当時小学生だった私には、その時はさっぱり意味などわからなかったが、三島の割腹自殺のニュース映像は、万博の太陽の塔とともに、強烈なインパクトを残した。このふたつのアイコンは、私が考える日本の戦後民主主義の矛盾を象徴するものだ。

三島は死の直前に「私の中の25年」という文章を新聞に掲載した。その中にある一文は現代の日本の姿を予見したものとして、ここ数年何度も取り上げられている。

「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。」 

確かに民主党政権になってからの日本は、まさにこの三島の憂いと絶望に満ちたことばのとおりだ。
三島は単純な天皇崇拝者ではない。また、自衛隊員の中に行動を共にする者がでることは絶対にないことも知っていた。従って、三島事件は、政治的な決断でも思想的行動でもなく、空虚な自分の文学の美意識に殉じた演劇的な死であったと私は思う。


1984年に発刊されたフライデーの創刊号に掲載された三島由紀夫の生首の写真は、これまでに私が読んだすべての三島作品よりもリアルに、「人が地上に残しうるもの」を曝していた。

イエローカーペット&レッドカーペット



上は天理市庁舎前、通勤中の信号待ちに車の窓越しから。

下は先日紹介した伊那食品工業の敷地にて。



2010/11/24

ヤドカリ少年



何だかんだ言って、仕事の現場で束縛される時間は長く、ベラボーなエネルギーを奪われている。楽しいが、決して楽ではない毎日だ。

公立学校にいる以上、子どもを縛りたくないもので縛らざるを得ず、私自身も縛られている。縛られていても自由でいられる私とは違い、子どもはその不自由感を露わにする。こんなややこしいことは子どもに説明しようがない。

子どもたちは、私に会いたくて学校に来るわけではない。私の演奏やメッセージが聴きたくてそばにいるわけではない。これは前に立っていて一番しんどいことだ。

静かに話を聴いてじっくり考える訓練もまだ十分にはされていない。ただじっと座っていることさえ難しい子もいる。

授業は本当に難しい。ライブよりもメッセージよりも、これまで引き受けてきたどんな相談や講演よりも難しい。

たとえ私のことを信頼していても、それでも毎度ちゃんと話を聞いているわけではないし、こちらの予想や期待通りに反応してくれるわけではない。

大事な話をしているときに全く話を聞いていなかったり、ずっと言い聞かせてきたことを簡単に忘れて正反対の選択をされたりすると、本当に情けなくなる。

子どもは一人ひとり性質や能力も違う。親の考え方や環境によって多種多様の生育歴を経て今日の姿がある。そうした背景を無視して現在の有り様を冷たく判定することは出来ない。

それにしても、彼はなぜゴミ箱にはまってしまったのだろう。いくら考えてもわからないが、とにかく抜いてやるのにずいぶん苦労した。これまで周囲の子たちは、「○○が××なことをしている」と言いつけにくるだけだったが、最近は面白がって「これ、オモロイから写真撮ろうよ」と言うようになった。

2010/11/23

ブリューゲル版画展in京都


昨日の「11.22(いい夫婦)」の日は結婚記念日だったのだが、お互い仕事に疲れてまともにことばを交わすことが出来なかったので、午後から京都へ出かけることにした。ブリューゲルの版画展を観に行ったのだ。妻はブリューゲルの版画に興味を持っていたし、私もボッシュやブリューゲルの気持ち悪い系の作品は昔から好きだった。

私としては純粋に作品で気持ち悪くなりたかったのだが、絵画の世界を味わう前に満員の人に酔って気持ち悪くなってしまった。とにかく大勢の人でびっくりした。あれだけの人が美術に関心があるのは悪いことではないが、とうてい絵を味わう空気ではなかった。人気のある作品の周辺は、まさにブリューゲルの作品の中のような密度だったので、絵に登場する巨大な魚の腹を切り裂かれて飛び出るように会場を後にした。

400年前のネーデルランドも現代の日本も、人間の本質は全く変わっていないわけだ。

ゆっくり出かけたので、絵を観た後は他は何処へも出来ず、目の前にある京都タワーにでも上るかということになって、おそらく20数年ぶりに京都タワーに上った。○○と煙は高いところが好きなのだ。

京都タワーは、古都にあまり似つかわしくない滑稽な佇まいだが、幼い頃から見慣れているせいか、それほどヒドいとは思わない。まさに60年代の産物で、そういう時代の香りを残している。デザイン上のコンセプトは、京都市内の町家の瓦葺きを波に見立て、海のない京都の街を照らす灯台をイメージしたものだそうだ。

2010/11/22

ライブ感覚

学校の教室というのは、日々ライブ感覚だが、音楽の場合と全く違うのは教室の主役は子どもだということ。パフォーマーとして有能であることは小学校の教師にとってあまり重要な要素ではない。

今日は5時限目に、研究主任が自分の空き時間を利用して、金曜日の研究授業につながる国語の学習を見に来てくれた。

子どもたちは、月曜日か、火曜日か、午前か、午後か、前日に家庭で何があったか、休み時間に何があったか、朝食に何を食べてきたのか・・・・等、ちょっとしたことで様子が全く違ったりする。

とにかく、こちらが思ったようにはいかないことが多いのだが、それが面白い。いずれにしても、子どもたちが研究授業当日に見せる姿が、取りあえずここまでの私の通知票みたいなものだ。

ボサ・ノヴァのライブも近づいて来た。You Tubeでのライブ・インフォメーションをどうぞ。

http://www.youtube.com/watch?v=R-CBnhwOlc0

2010/11/21

侘びダーヂ・寂びダーヂ


Salt&Uribossaはボサ・ノヴァを中心としたブラジル音楽をベースにはしているが、日本語の持つ美しさや、「侘び」「寂び」といったメンタリティーをとても大事にしている。

これは私と出会う前からUribossa氏自身も追求して来たものであり、そうした感性が響き合って今日の活動に至っている。

Uribossa氏は、ジョアンのギター奏法や発声を継承しながらも、日本人としての古風な感覚を根っこに持っているので、そのスタイルは決して「ブラジルかぶれ」の借り物ではない。それは彼の人となりや生き方の細部にも現れている。

現在、Uribossa氏によるSalt&Uribossaの公式HPを制作中であるが、暫定的に御自身のブログでもライブに関するインフォメーション等を行っている。

最新記事はニューアルバムに収録予定の待望の新曲の歌詞。

アルコのライブのフライヤーも私のブログのものと食事のメニューに若干の変更があるので、ご来場予定の方は、チェックよろしく!

http://wabisabidade.blog.eonet.jp/bossa/2010/11/

寒天を売る観点


ちょっと訳ありの社会見学に行って来た。

「伊那食品工業」は、国内シェア80%を誇る伊那の山の中の寒天の会社である。創業以来、連続して増益増収を続けている奇跡の企業。不景気な昨今の日本にあってこれだけの規模の企業が途切れることなく右肩上がりを続けているのは、ほとんど考えられないことなので、あのトヨタをはじめ、多くの企業がその創業者である塚越氏の経営理念に注目しているそうだ。

しかし、この大躍進は決して利益を追求した結果ではなく、創業以来、社員ひとりひとりの幸せを求めた自然な結果だと言うからさらにびっくり。創業者塚越氏のことばによれば、「利益は健康なからだから出て来るウンチだ」とのこと、「50年間たった一人の社員のリストラもしていない」というのが本当だとすると、外向きのキレイごとではなく、これはなかなかあなどれない本気の姿勢だと感じる。社内には21世紀の100年カレンダーをあちこちに貼り、目先のことではなくずっと先を見通すようにと、徹底している。

健康ブームで寒天に注目が集まったときも、経営規模が拡大することを「あえて」しなかったと言う。企業にとって最大のビジネスチャンスを軽く受け流したことにもちゃんと理由があるのだ。一時のブームにのって無理に設備投資をすれば、ブームが去ったときに必ずそのツケがまわってくる。その時傷つくのは社員であり、会社もダメージが大きい。「責任を持ってキチンと商品を届けられるような身の丈にあった商売が大事だ」とキッパリ言い切る塚越氏。

あくまでも会社はみんなの幸せにあるとし、「凡事継続」「年功序列」「終身雇用」というイマドキの経営理念とはかけ離れたことばを恥ずかしげもなく謳いあげている。
伊那食品工業は、「寒天」というこの世に別に無くてもよさそうなマイナーなものを扱いながら、アメリカ型の能力主義や効率主義で組織をボロボロにしてきた日本の会社経営を一から考え直させる怪物企業なのだ。

このような、地元の方々にとっても誇りであるような素晴らしい会社を一代で築き上げた塚越氏の理念を支えるのは何なのだろうと不思議に思ったが、それは、なんと昔はどこの小学校にでもその像があった二宮尊徳の生き方に原点があった。

「遠きをはかる者は富み 近くをはかる者は貧す。」「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である」という尊徳のことばが、会社経営のすみずみにまで浸透していたのだ。損得よりも尊徳優先というわけだ。

半日かけてゆっくり見学させてもらったが、会社の敷地の中に、植物園のような自然を生かした庭園や美術館、レストランやショップがある。確かに謳い文句のとおりに、どこをとっても、効率よりも快適さを優先し、それなりの「癒しの空間」を作っている。社員のマナーもサービスもよく、施設もすみずみまでキレイでホスピタリティーかなり高い。

伊那食品工業に古き良き日本人の姿を見た。

2010/11/20

戦国感冒朝刊

尖閣問題の映像流出を巡って様々な議論が巻き起こったが、「こんな映像がYouTubeで流れた!」とバンバン報道するのはどうなんだ?

「秘密」にしても「正義」にしても、ことばの定義自体がそもそもいい加減なものだとつくづく思う。

とは言え、「自衛隊は暴力装置」という表現は確かにいただけない。

しかし、「自衛隊が暴力とは無関係」だとすれば、戦車や戦闘機はいったい何をするものなのだ?

自衛隊という組織にも、自衛隊の装備にも「消防車や火を消す」「扇風機は風を送る」というわかりやすさがないから困ったものだ。本当は誰でもわかっているのに、わかっていることを口に出せない馬鹿馬鹿しさにたえかねているのだ。

官房長官も「軍隊」とは言いにくいから、「暴力装置」と言い換えたわけだが、それが「隊員のプライドを傷つけた」からどうのこうの・・・と首相がわけのわからないことを言っている。

法務大臣は国会をナメきった発言のせいで、国民にナメられているし、そうこうしている間に、ロシアと中国に国家の主権をないがしろにされている。

2010/11/16

リンゴ飴



高学年のいきいきタイム(クラブ活動のような枠)で「スーパーサイエンス・コース」を担当している。

毎回、ネタさがしに苦労するが、今回はリンゴ飴にトライ。

テキ屋でのバイト経験もある同僚の指導により、限られた時間と予算と設備の中で何とか完成。

私は毎回、天才科学者に扮し、白衣を着て参加している。「ひとことサイエンス」のコーナーでは毎回、サイエンスにまつわる蘊蓄を語ることになっている。

リンゴの側から見た種の話をした。動けない植物は、いかにおいしそうな実をつけて種を分散して運搬するかというストーリーを3分程度にまとめた。子どもたちはグツグツ言い出した鍋を気にしながらも、興味深く聴いてくれていた。

これも私の種まき。

朝、教室に行くと「先生、リンゴ飴ちょうだい。」と書いてあった。他のコースの子どもたちが、羨ましいなと思ってみていたのだろう。

まあ、「砂糖眩し」はいかがなものかとは思うが、「本来のおいしさ」をそのまま伝えるべきではある。

2010/11/15

オンステージ








             




最近、Uribossa氏の友人が撮影してくれた夏のライブ画像をいただいた。

あの暑かった夏はどこへ行ってしまったのだろう。

              

被写体になるのは好きじゃなかった。

でも、最近は写真を撮るのも写るのも、けっこう楽しい。何でだろう?

            
 
      

 明日の夜は練習。
 
 本番もいいけど、練習が楽しい。
                               
 音楽そのものが楽しい。









2010/11/12

バックステージ




たった3曲、わずか数分間の演奏だが、子どもたちにとっては貴重な体験だったと思う。やりたい楽器にさわれなかった子、1ヶ月必死に練習しても、まだまだ完全には演奏出来ない子、それぞれの子どもの背景やドラマがある。

そうしたバックステージが充実しているかどうかも、おそらく客席に伝わるものだと思う。

膨大なエネルギーを注いだが、私は音楽専科ではなく、学級担任なので、混乱を避けるために音楽的なアドバイスは一切しなかった。

私が伝えたのは、ただ「演奏前の静けさを作る」ということ。「友達の音を聴き、全体の音に調和する自分の音を聴き、音楽を楽しむ」ということ。

会場である市民会館から徒歩で学校にもどる足取りは軽かった。

教室に戻ってから、全員にひとことずつ感想を語らせた。どの子も笑顔で満足していた。私もその子どもたちの表情を見て、これでいいと思った。

2010/11/11

仙谷より千石の米を守れ

日ごとに国益を損なうスッカラ菅氏だが、「TPP平成の開国」などという戯言は、歴史も経済にも暗く、外交能力もなしという証拠である。

「仙谷より千石の米を守れ」と言いたい。農業を馬鹿にした国は滅びるしかない。

尖閣問題に関しても、10日の衆院予算委員会で「歴史に堪える対応」だったと現状認識の甘すぎる答弁をしたようだ。

YouTubeさせた海保職員は、失職覚悟で彼が信じる国益を追求した点で、私服を肥やすために職にしがみつく政治家よりはずっと偉い。

「自分がやりました」と認めた点でも、「私は知らなかった」「秘書のせいだ」とシラをきる政治家より遥かに立派。

故意に衝突してきた中国人船長を超法規的に釈放して、中国で英雄にしてしまった。今度は、海保職員を処分して、日本で英雄を作ろうとしている。

冬めくボサノヴァ



磯城郡田原本町「カフェ・アルコ」にての冬のライブのご案内。

「真夏のボサ・ノヴァ」の頃のあの暑さはどこへやら。今朝は各地がこの秋の最低気温を記録した模様。

今回も超多忙なスケジュールの隙間をぬって、秘密の特訓を繰り返し(別に秘密でも特訓でもないけどけっこうマメに練習はしてます)果敢に新しいネタにもチャレンジ。

冬はお鍋かボサ・ノヴァか。

ボサノ・ヴァは、夏には涼しく、冬には温かい、世界で一番こころとからだにやさしい音楽です。

2010/11/10

Saltの「アホ」リズムな箴言⑨


(41)遊びは無計画で非効率で不可解であることが多いが、その膨大な無駄の中にこそ新たな発見と大いなる飛躍がある。

(42)遊びは、時間的、空間的、精神的「ゆとり」の中でこそ生まれる。この3つのうちどれが欠けてもいい遊びは出来ない。人は追いつめられた状態では遊べない。

(43)図星をつかれると怒り出す。哀しみを突き抜けると笑い出す。

(44)偶然を主張する必然について、無意味を強調する意味について、もう少し考えてみても悪くない。

(45)最短距離で目的地に着くことが最善のプロセスではないことが多い。

2010/11/09

同じ目の高さで


上から目線で話しても、子どもの心には届かない。こちらから何かを伝える前に聞いてあげないといけないことがいっぱいある。

ムカついても、「ことば」で伝えることが出来る子どもは簡単にキレない。そんな「ことば」を育てるために良い教師は徹底的に聞き役になる。

2010/11/06

今日のリコーダー講座から


やたらゆっくりはっきり丁寧に話す戦場カメラマンが人気を集めている。私も最近何度かテレビで見かけて、ついついその「軽妙」というのとは程遠いトークに引き込まれてしまった。そして、今の時代だからこそ、ここまでウケるんだなと思った。

今日は月に1回のリコーダー講座である。

リコーダー講座では、意識的にワルツの練習曲をたくさん取り上げている。ミディアムテンポのワルツが音楽療法的に高い鎮静効果があると考えられているからだ。

私は、軍楽的な士気高揚に用いられた偶数拍子ではないことにその一因があると思っているのだが、それは言ってみれば、カウンター的な癒し効果である。

戦場カメラマン渡部氏がここまでウケているのも、こうした背景とのコントラストがあってのことだ。つまり、茶の間を席捲するワイドショーやバラエティ番組のテンポの速さ、テンションの高さと、無駄な情報量の多さと、質の低さに比べて、その真逆をいっているところに癒し効果が生まれているのだと思う。つまり秘密は、彼のトークのテンポの遅さ、テンションの低さ、情報量の少なさと、質の高さにある。

さらに、今日の講座では、トピックのひとつとして、「クリシェ」を取り上げた。これはフランス語で「決まり文句」「常套句」を意味することばであって、本来はあまり良い意味ではない。

音楽でクリシェという場合、「同じコードが続くときに装飾的に加えられる慣用的なライン。半音あるいは全音の動きをあえて作る作・編曲上の技法」を指すが、これがその名前のとおり、いかに頻繁に使われているかを実際の楽曲を取り上げて説明した。

本当の意味での個性というのは、突飛で新奇なものではなく、普遍的な「型」や「法則」をはずしたものではあり得ないのではないかと伝えた。同一のコード展開の上に巧みに重ねられたメロディの美しさを確認できたと思う。

先の渡部氏も、日本人らしい礼儀正しさが、戦場カメラマンとしての非日常性と重なっているところに魅力があるのだと思う。ウケをねらわないその人らしさが一番いい感じなのだ。これは音楽も同じだ。

裏ビデオ流出

海上保安庁が撮影したとみられる例の衝突事故映像がYouTubeに流出。民主党政権にダメージを与えるための内部告発であるとされている。

「仙石」「左派」を揶揄するsengoku38というハンドルネームも怪しげだ。

インターネット社会では、一部の人間が情報を独占することは不可能である。裏が表に出て来て、表が裏返る。

「一目瞭然」と前原氏が息巻いていたビデオだが、中国側は捏造だと一蹴。

「どんな証拠を見せても見たいようにしか見ないのだ」ということが、全くわかっていない人たちの管理していたはずの「隠し球」がポロっともれてこの有様。みっともないことこの上ない。

さあこの後、どんな風に中国と向き合うのか。

日を追うごとに国益を損なうスッカラ菅さんは、東アジア構想については前任のルーピーポッポちゃんよりもいっそう見識が乏しいと言われているだけに、一国民としては心配でならない。

2010/11/03

Saltの「アホ」リズムな箴言⑧




(36)子どもにとって遊びとは、まさに子どもが子どもの今を生きる最も貴重な時間である。

(37)意味のなさそうなことを、本当に意味があるのかないのか、それを確かめることが大事だ。ないとしたら、どんな意味がなかったのか、そのくだらなさを実感することこそ貴重な体験なのだ。遊びの中にはそうした要素が含まれている。

(38)大人になると、日常の大半が意味のありそうなことで埋め尽くされ、意味のなさそうなことが入り込む隙間がほとんどなくなってしまう。子どもが、子どもの今を生きるということは、その意味のなさそうな時間を大人に勝手な色づけをされずに体験することだ。

(39)子ども時代から、意味のありそうなことばかりで埋め尽くされた子どもはあまりにも不幸だ。そういう不幸だった子どもが真面目な先生になって不幸を拡大する。

(40)遊びのモチベーションを作るのは、未知なるものへの好奇心と期待である。傲慢と諦観からは遊びは生まれない。

2010/11/02

よく遊び、よく遊べ


子どもたちを見ていると、「もっと遊べ」「もっと楽しめ」と思う。私の目には「少しも」「さっぱり」「まだまだ」「全然」遊び足りていない。あんまり遊んでいないから、何をやらせても鈍くさすぎる奴が多すぎる。

要するに経験不足なのだ。そのくせゲームには詳しい。物事を短絡的に考え、諦めるのがやたらはやく、恐ろしくわがまま。幼い子どもに刃物を持たせるのが危険だと知っているなら、10歳未満も子どもにゲームなんかさせちゃだめだ。ゲームは遊びではない。

そんな中、私のクラスにはほとんど遊ぶことしか考えていない男の子が若干名いて、こいつらがなかなかいい。もっとも、世話はやけるし、いつもトラブルは起こすし、真面目が取り柄の先生はあんまり受け持ちたくないタイプの子たちだと思う。こいつらのおかげでかなりの時間と体力を失うことになるが、こいつらがいないとずいぶん味気ないクラスになるだろう。

とにかく彼らはいつどの場面をとっても、とてつもなくくだらないことをしていて、あまり誉める要素がない。これがいい。「遊び」というのは、何かをねらいにしたものじゃないからだ。誉められるような遊びなんてほぼ遊びじゃない。

生活科などという最低な教科がやっていることは、目もあてられないような内容ばかり。まともに遊んだことのない輩がどつまらん役人になって、「遊びとは何か」を考え出す。それを言われたまんまに現場でとっとと実践しているようではどうしょうもない。

生活科の悪口を具体的に書くと差し障りもあるかと思うので、(すでにかなり差し障りがあるが・・・・・)退職した幼稚園の某園長が私に話してくれたエピソードをご紹介しよう。

昔、保育の研究をしてかなりの成果があがっていると信じていた。そんなある日、子どもたちが言われたとおりに「お店ごっこ」をしていきいきと遊ぶ姿を目を細めて見ていたと言う。子どもたちも明るい声を響かせなかよく楽しくやっている。職員たちもよくここまでがんばってくれたと園長として満足だったそうだ。ところが、お片付けを終えた頃、遊びをリードしていたひとりの子どものが園長に近づいてきて、開口一番こう言ったと言う。「園長先生。もう、遊んでいい?」

これで、この園長は「目が覚めた」と言っていた。「言われたとおりのお店ごっこ」は、5歳児であっても「あそび」とは感じないのだ。それを楽しく遊んでいると見なしていた自分は子どもの何を見てきたのだろうと謙虚に反省なさったわけだ。まあ、これで目が覚める人はいいが、ずっと寝ぼけたままの人も多いというのもおわかりいただけようか。

私が「人生の半分は遊び」と言っているのは、かなり真剣なのだ。ただ漫画を読むとかゲームをするなんてことは遊びの範疇には入らない。他人のプログラムにのっかって消費に貢献しているだけだ。もちろんその行為自体は否定しない。仕事ではないから遊びというのは、ほとんど遊びの本質ではない。

遊び以外の領域においても、言われたことをそのとおりにやって誉められるくだらなさと言うのは、何と言おうか、私の価値観ではほぼ0点である。ちゃんと遊んでないから、遊び自体も遊び以外もともにおもしろくないのだ。

言われたことを言われたとおりにやらないと怒りだしたり、機嫌を損ねたりする教師が多い。「先生は今そんなことは指示しなかったでしょ!」と言うわけだ。これではストライクゾーンが狭すぎる。先生に遊ばしてもらっても、それは遊びじゃない。先生の目を盗んで楽しめれば、これはちょっと遊びっぽい。

私はその子が投げる一番いい玉をストライクとする。全然違う。こちらが予想しない反応をすると、やたら面白がって計画を柔軟に変更する。こういう「遊び」の心が良い結果を生むのだ。

目先の小さな予定調和の中で生きている人たちとは一生かけて話し合っても意見が合うことなどない。そういう人たちに限って、「話し合えば通じ合う」などと思っていたりするからやっかいだ。

意味のなさそうなことを、本当に意味があるかないか確かめたい。ないとしたら、どんな意味がなかったのか、そういうことを試してみる時間が必要だ。遊びの中には、そういうことが自然に含まれている。大人になれば、意味のあることが連続するので、意味のなさそうなことの入りこむ隙間がほとんどない。

2010/11/01

甲賀の飛び出し坊やは忍者風


上柘植インターから、東近江に向かう道中、 脇道のススキの陰の「飛び出し坊や」が目に入った。

「さすが甲賀の町、飛び出し坊やも忍者風だな~」と妻と話していると、本当に忍者の「飛び出し坊や」があった。あまりにもグッドタイミングなので笑ってしまった。しかも、これから飛び出すのではなく、渡りきった様子なのが、「やるな~忍者」って感じだ。

でも、忍者のコスチュームより、普通の子どもが忍者風の方がいい。このあたりのセンスは大事だ。

こんな風に「ろばの子」へ向かう途上は道中も、いつものように「遊び半分」の実に楽しいものだった。 目的地に着くまで目をつぶって突き進む感じはどうにも好きじゃない。プロセスも含めてすべてを味わいたい。

ちなみに滋賀県や京都府には、この「飛び出し坊や」の数はやたら多い。「坊や」ではなく「女の子」の人形もあった。



「飛び出し坊や」とは・・・・

主に児童への交通安全の呼びかけやドライバーへの注意喚起のために、通学路などに設置されている看板のことである。横断旗の入れ物を兼ねるものもある。正式な名称は存在せず、飛び出し人形・飛び出し小僧・飛び出し君・飛び出し注意君などとも呼ばれている。


2010/10/31

主がお入り用なのです!

「お招きがあれば2~3人以上のキリストの御名に集う交わりであれば何処でも参上しますので気軽にご連絡ください」と広報したところ、早速オファーをくださったのは、滋賀県東近江市にある「ろばの子キリスト教会」

「ろばの子キリスト教会」と聞いて、何だか楽しい気分で出かけた。まさに聖書にあるとおり、「主がお入り用なのです」と私を招いてくださったようだ。

そこには、いろんな経験を越えてこられた兄弟姉妹たちが、本当に純粋な信仰で集っておられた。メッセージが終わってからも、食事をしながら楽しい交わりが続く。

主は各地にこうした群れを「直接」養っておられるのだと改めて確認することが出来た。主が私にこうした出逢いを与えてくださっている事実を通して励まされる方もきっとおられると思う。

誰も組織したり扇動したりしなくても、主がつなぎ、主が結ばれる。人手によらずにいのちは育っていくのだ。

今後も主が必要とされるところなら、何処へでも出向いて行こう。

2010/10/30

学びのたより

11月が始まった。

いよいよニューアルバムの録音に着手する。しかし、一方で今月は研究授業を公開しなければならずその準備もある。今日はそっちの話。

①拠点校指導員をしていて「どう授業を組み立てるべきか」を他人に教えていた者が、さてどんな授業を展開するのか。

②人権教育研究会の事務局長をしていてさまざまな啓発活動を企画してきた者が、平素の学級経営や授業の中にどんな風にそうしたポイントを押さえているのか。

③特別支援教育にのコーディーナーターをして外部でも講演などをしていた者が、支援の必要な子がいっぱいいるクラスで具体的にどんな配慮をし手立てをこうじるか。

参観者は意地悪な方々ではないが、おそらくいろいろな興味をもって見てくれるはずだ。

6年ぶりに学級担任を持って半年を過ぎた。4年生ともなると15年ぶりで、「こんなに幼かったかなあ」と困惑する日々を過ごしている。毎日仕事帰りの余力は殆どゼロに近く、そんな中でやりくりしてきた。

教員生活も25年を過ぎてから、授業づくりについて根本的な見直しを迫られているのだ。 それなりに今まで通りの無難な授業をするのでは「研究」にはならない。

①一斉指導型のわかりやすい授業ではなく、教師を中継点とせず、子どもどうしが直接つながり合いお互いから学び合う授業。

②「わかること」「できること」を積み上げていく授業ではなく、「わからない」「できない」から始まる授業。

③全体として流れまとまってしまう授業ではなく、どの子の学びも途切れたり、逃げたりしないような授業。

他の人があまり試みないようないろいろな実験をやってきたが、この3つの課題は全くクリア出来ていない。

授業というライブはボサ・ノヴァより難しい。

同業者の仲間たちからのリクエストもあって、「発達障害の子が学級集団の質を問う」ことに関連する資料を当たってみたのだが、直接そういうものはない。発達障害の子どもたちのことに関しては、まわりの健常(そんなもんあんのか?)とされる子どもたちとの関係性に言及したものはほとんどない。すべてはその子の障害克服のためのあれこれのものだ。

しかし、直接特別支援のことは出て来ないが、先のことばをくれた岩谷氏も推奨するJunさんこと石井順二氏の学びのたよりは秀逸である。

暇なときに、ちょっとずつアーカイブを読まれるといいと思う。

http://www2.yecc.gr.jp/~manabukai/manabinotayori/tayori-1.htm 

2010/10/29

「風のメロジア」CDジャーナルに登場

Salt&Uribossaの 「風のメロジア」がCDジャーナル11月号に登場。 松山晋也というライターの「よろしく哀愁」というコーナー(P118)で、今月のよろしくCDの1枚として紹介されている。

「中途半端にメディアで紹介されるのも何だかなあ」という感じで、SaltもUribossaも掲載誌を買おうともしない無関心さだったのだが、書店で立ち読みしようと3軒回ったが、在庫がなかったので意地になってネットで注文した。



「奈良在住の男性2人によるボサ・ノヴァ・ユニット。音作りは典型的なジョアンジルベルトスタイルだが、軽やかなボサ・ノヴァ・ギターに乗る歌詞は、日本語のリズム、音節をしっかり主張し、節回しにも、時に70年代フォーク的ニュアンスが感じられたりする。カッコつけない、背伸びしない、抹茶味のボサ。ユニーク、そして誠実。」(松山晋也)


「風のメロジア」 日本語によるオリジナル・ボサ・ノヴァ全12曲 定価 2000円

試聴 http://www.youtube.com/watch?v=pr6E6xQ6KbE

http://www.youtube.com/watch?v=X2eoNErmAM0&feature=related

2010/10/28

子どもの眼



子どもはいろんなものを見ている。その眼に写っているのは、いったいどんな世界だろう?

大人は子どもたちに、「ほら、これをみてごらん」と言えるものをどれだけ作って来ただろう?

子どもだった頃の私は、ずいぶん早くから、「あんな大人にはなりたくない」と思う連中が、このうんざりするような世界を作ったのだと気づいていた。

そんな私もやがて大人の仲間入りをし、自らもこの腐り果てた世界の共犯者であることを自覚するに至った。そして、気がつけば眼の前に立ちはだかった壁のレンガひとつとして子どもと関わる仕事についている。

しかし、私はせめて自らのからだを抜きはずして、その隙間から「この壁を突き抜けた世界があること」を見せてやりたい。背丈の足りない子どもの足台になってやろう。

この世界は既に終わっているが、それでおしまいではない。

どんな時も希望を失ってはいけないと・・・・・

2010/10/26

Saltの「アホ」リズムな箴言⑦


(31)人は自分の信じたい情報を選びとるしかない。それは多くの場合、自分にとって都合の良い情報であることが多い。同じ嘘なら少しはマシな嘘をつきたいし、同じ見るならちょっとでもいい夢を見たい。誰だってそう願う。すべての事柄について、100%の真実をつきつけられたら、私たちはそれに耐えられないに違いない。いずれにせよ、人は何を信じたかによって自分に値をつける。

(32)自殺は意気地なしの行為である。のみならず卑怯だ。何が意気地なしでどこが卑怯かと言うと、自殺は、己の自意識過剰によって現実が裏付けられなくなった時に、その高ぶった自意識を守るために現実を消去する取引だからだ。親や子どもや友人といったあらゆる関係性を一方的に暴力的に断ちきる行為だからだ。

(33)正義を追求することが必ず大いに報われ、人からの間違いのない評価や豊かな暮らしにつながるのであれば、正義を追求するという目的は、賞賛や冨を得るための手段になってしまう危険性があり、正義はその時点で本質を手放してしまう。

(34)言霊なんてない。人のことばはいつも後付けのもの。通り過ぎる本質を追いかけても永遠に追いつかぬ鬼。

(35)文章にとって最も大切なことは品格である。次に大事なのは光を感じさせる影を描くことだ。

2010/10/25

~するのは誰の為?



昔は「世の為、人の為」という建前がそれなりに立派に見えた。今はそんな建前よりも、生々しい本音を語ることが当たり前で、それが恥ではなくなってきた 。時代の流れとは言え、そうした風潮はあまり好ましくない。

そして、本当に「世の為、人の為」は建前で「自分の為」は本音なんだろうかと問いたくなるのだ。

そもそも、神は人を複雑な関係性の中で共存させながら祝福することを目的としてこの世界を創造されたのであって、ある個人の為の単独の幸せなど存在しないと言ってもいい。

子どもに勉強することを勧めるときも、「勉強するのは自分のため」と言うのが当たり前になった。「~するのは、自分のため」を全面に押し出すと、「俺のことなんだから、ほっといてくれ」という理屈を肯定するしかない。

緒方洪庵の敵塾は、「世の為、人の為」の学問を教えた。私はその精神が好きだ。知恵は他人の幸せのために使うべきだ。

「私の利益」を勘定に入れずに何か打ち込んでいるときが、結果として私が一番得をしていたのだと後から気づかされることが多い。恵まれたのは誰かとともに分かち合うためであって、そのことによって自身もさらに潤うのである。

桐生市の小学生6年生の女の子がいじめを理由に自殺した。こういうニュースを聞かされる度に本当にやりきれない気持になる。ご遺族や関係者の慰めを願いつつ、あえて言うが、「人は自分の幸せのために生きているんだ」と教えられた子どもは簡単に人を死に追いやり、また自らも命を絶つ。実は自分の為だけに生きているほどしんどいことはないのだ。

誰かを傷つけることは自分を傷つけることなんだ。誰かを誹謗中傷することは自分を蔑むことなんだという関係性の理を知っていれば、世の中はもう少しだけやさしくなる。

自分ひとりで生きている人なんかいない。みんな誰かを支え、また支えられている。力のある人が無い人を支えているだけじゃない。その逆だっていっぱいある。

ただ生きているだけで、誰かの役に立ち得るのだと知っていれば、人は不幸にも耐えられる。試練や困難を乗り越えることができる。家族や恋人や友人の為に、同じ境遇にある人の為にもう少しだけ、明日一日をがんばれる。

幸せは独り占め出来ない。「人はひとりでいるのはよくない」これが神のプラン。神御自身のすべてを分かち合うために人は作られたのだから、神と離れた私の祝福も、隣人とは無関係の喜びも存在しないのだ。

写真は秋の遠足で撮影した浄化センターのエアレーションタンク。この中では日夜、微生物が汚水を分解しているのだが、彼らは世の為人の為にエコしているわけでなく、自分の幸せを追求しているわけでもない。ただ自分のいのちのプログラムを生きているだけである。一方、人間の集団の自浄能力は今日きわめて低い。ヒトとしてのいのちのプログラムを顧みず、人と人との関係性を無視することによって、社会に下水を垂れ流している状態である。

2010/10/24

カナン教会の年末の予定

10/31  家庭礼拝 Saltは滋賀県の教会で奉仕します。
11/ 7   メッセージ(約束の地カナン⑪)
11/14  分かち合い
11/21  家庭礼拝
11/28  メッセージ(ひねくれ者のための聖書講座21)
12/ 5  分かち合い
12/12  メッセージ(約束の地カナン⑫)
12/19  クリスマスベント
12/26  家庭礼拝

来年度の予定は未定です。希望があればSaltは各地に出向きます。
ご連絡は、@kcn.jp まで(@の前にsaltを付けてください)

2010/10/23

もうひとつの原点


大雨による奄美地方の災害の傷跡も癒えない中、あの中越地震から6年目を迎える。

Y.B.M氏のコーディネートによって、丸山祐一郎氏らとともに現地で数回のコンサートを行った。

この写真は震源地である川口町の被災青年たちが、ボランティアと自衛隊の為に催したコンサート。 被災地で行われる慰安のためのコンサートとは逆のパターンだ。

最初はぎこちなかった自衛隊の隊員たちも、時間とともに打ち解け、最後にはボランティア・スタッフも、被災地の青年も、参加したミュージシャンも、みんな肩を組んで「上を向いて歩こう」を歌った。あの夜を私は忘れないだろう。

ギターと歌という素朴なかたちが表現できるもの、共有できるものの可能性と音楽の素晴らしさを感じた。何もかも失っても、祈ることと歌うことは出来る。

災害は、人にとって本当に必要なものは何なのか?そんな「暮らしの原点」を見つめさせられる。

演奏が終わってから、このライブを企画してくれた被災青年のグループの女性スタッフに「ご自宅の被害状況はどうですか?」と聞いてみた。

すると、彼女は笑顔でこう答えた。
「屋根がなくなったので青空がキレイです。お風呂も露天風呂になりました」

2010/10/20

腸、気持ちワルイ


教室の掃除をしていると、何だか怪しげな臭いがした。臭いを辿っていくとベランダの片隅に置いてあるバケツに埋もれたビンにたどり着いた。

ビンの中には生き物の内臓らしきものが詰められていた。数日前にクラスのやんちゃ坊主ふたりが、亀の腸の話をしていたのでピーンと来た。やはりそのふたりが河原で死んでいた亀を砕いてその内臓を抜き取ってビン詰めしたものであることが判明。

彼らはすっかり隠したことさえ忘れていたのだ。

実は、この少年たちが死んだ亀から内蔵を取り出している現場をクラスメイトの母親が目撃。その方にしてみればまさか元から死んでいた亀とは知らず、甲羅を砕いている少年の姿を間に合わなかった浦島太郎のような気分で見ておられたというわけだ。

その方から「娘のクラスメイトにあんな残虐なことをする子たちがいるなんて。いのちを大切にするということから考えてもいかがなものか・・・・」という丁寧なお便りまでいただいていた。

しかし、こういうタイプの子どもがクラスに複数いることは、私にとっては面白くてたまらない。いちいち相手をするのは大変だが、私の想定外のことをやらかしてくれるのがいい。

どうやら、亀の甲羅の中がどうなっているのかどうしても知りたかったらしい。

「オレらだって、生きてたらそんなことせえへんって・・・」という証言は信用できるので、先ほどの心優しいお母さんには、彼らの名誉のために、亀はすでに死んでいたのだということをお伝えした。

それにしてもなあ。腸、気持ち悪かった。

2010/10/18

Saltの「アホ」リズムな箴言 その⑥


26神の全能は、私たちがどうしても忘れられないでいる辛い過去を忘れさせてくださり、御自身も忘れてくださるだろう。

27不特定多数の目に見えない相手に向かって深い愛を語る人は、たいてい家族に恨まれていたり、親しい友人と仲違いしたままだったりする。

28一度車に乗って長いトンネルの中を走り始めたら、停まることも曲がることも引き返すことも出来ない。

29人は騙す者であり、騙される者であり、そして騙されていたい者である。つまるところ、真偽のほどはわからないのだ。何につけ、万人を納得させる証明は難しい。

30全てをわかろうとすると人は混乱する。何とか自分のわかる筋書きにしようとすると、これが本当だという嘘が生まれる。

2010/10/17

Saltの「アホ」リズムな箴言 その⑤


21田舎の親から送られてきた野菜を奉って拝んだり、宅配業者のお兄さんを家にあげて歓迎するのは、感謝の方向性が狂っている。まず田舎の両親に「ありがとう」の声を届けるべきであろう。感謝は大きさではなく方向が大事である。偶像礼拝は感謝の対象を間違っているのだ。

22女性のストッキングやハイヒールに興奮したり、特定のからだの部位に異常に執着したりという様々な性的倒錯は、偶像礼拝の見事な雛型である。性的な嗜好の歪みは宗教の有り様と見事にリンクしている。

23キリスト教は「ナザレのイエス」の事実を歪曲したゴシップの塊である。歴史の中で三流週刊誌の様に俗信を煽り続けたが、初めからその程度の質の情報だということ。まともな見識があれば誰も相手にしない。

24狡猾な告白者は、肝腎なことを内に秘める為に、周辺の差し障りのない罪については詳細かつ饒舌に語るものだ。

25弱者に対して上から差し伸べられた手はキレイに見えるが汚れている。下から支える手は汚れていてもきよい。

2010/10/16

龍馬より壮馬Live!





カフェテラスNZの秋のイベント「龍馬より壮馬Live」が無事終わった。これまで、壮馬のLiveは毎回あいにくの雨。今日はテラス席での爽やかなひとときとなった。

写真茶話会を終えたY.B.M氏一行も少し遅れて到着。遷都1300年で盛り上がる古都奈良の秋は、けっこうにぎわっているようだ。

結婚してちょっと大人になった壮馬を寡黙なオジサンPoolyが支える。シンプルだが芯のあるサウンド。
アンコールが終わってから、今日誕生日だと聞いたお客さんの為だけにこっそりお祝いの歌をプレゼントする壮馬の姿も見た。

それにしても真絹さんの挨拶は、だんだん言葉数も増えて良くなってきた。周りの人たちを気遣う言葉が増えてきたのには本当に驚かされる。

冬が来る前に壮馬&Poolyと室生で遊ぶ約束をした。来年のアースデーに向けて曲作りをしようというのだ。これもなかなか面白くなりそうだ。

2010/10/15

天然

このところサッカーに話題をさらわれている感があるが、プロ野球クライマックスシリーズが面白い。ゆっくり観戦する時間はないが、晩飯を食いながらチョロっと見るだけでも、けっこう見応えがある。

せっかくリーグ優勝しても3位のチームに出し抜かれてはたまらない。逆に短期決戦で勝ち抜けばリーグ3位でも日本一にもなれる可能性もあるとなれば選手たちも必死だ。

勢いづくロッテを王者ソフトバンクがいかに迎え撃つかだが、昨日はロッテ成瀬が今日はソフトバンク和田がともにしびれるようなピッチング内容で完投勝利をあげた。

ピッチャーが良いと緊張感が違う。球場で見るなら乱打戦、TV観戦なら投手戦だ。

さて、今日の本題はここから。茶の間の爆笑会話。

長男 「お母さん、どっち応援してんの?」

 妻  「そりゃ、日本ハムやん」

長男 「・・・・・」

※ どうやら、妻はロッテと言うつもりだったらしい。

2010/10/14

Saltの「アホ」リズムな箴言 その④


⑯勤勉であることはそれ自体悪いことではないが、「内容が薄いこと」や「的はずれであること」を忘れさせる負の効能がある。

⑰何か違う。こんなはずじゃない。そんな違和感をかき消したりごまかしたりせずに、「その感覚は何なのか」をしっかり見つめ付き合うことが重要だ。

⑱地はアダムの罪の故に呪われたものとなったので、エデンの東の自然はエデンのそれとは大いに異なっている。エデンの園の秩序や生態を自然と呼ぶなら、私たちの知っている自然は極めて不自然なものであると言わねばならない。

⑲人が自ら命を絶つことは許されてはいるが望ましくない。自らいのちを捨てることが出来るのはそれをもう一度える権威を持っておられる方に限られている。十字架は神の自殺であるが故に、人の自殺は神の領域を侵す罪なのだ。

⑳100年の年月を費やして巨大な箱舟を作り、そのしるしによって警告を発し続け、家族しか救えなかったノアの事業は、キリスト教的には大失敗である。しかし、これが神の効率であり方法である。

2010/10/12

エクソダス


昨日のリジョイスでは、演奏が終わってから兄弟姉妹たちとの交わりがあり、その中で「ニッポンキリスト教からエクソダスする」という話が出た。私はあまりこの種の表現は好きではない。自業自得で喧嘩しても、己を正当化するためにこの論理を使うことが出来る。お世話になった教会と不義理な別れ方をして、もっと中途半端な状態で悪態をついている見苦しい連中も大勢いる。

交わりの中で、「所属している教会から出て行くばかりがエクソダスではないと思います」と穏やかに控えめにmeekさんが語られた。牧師職でありながら、長い葛藤の末に結果として教団を出られたmeekさんのことばには重いものがあった。

2000年前、キリストを求めていた人は大勢いた。イエスを見た人も大勢いた。しかし、イエス・キリストと個人的に出逢った人はどれだけいただろう。彼のいのちとつながる出逢いをした人たちの共通点は、本物への「渇き」であった。自分を取り巻く環境や自分自身の在り様に、つまり人生そのものに本質的な「違和感」を感じていた。

この「違和感」がなければイエス・キリストと結びつくことは決してない。自分が「罪人」であることを知らず、彼が「救い主」であることがわからないなら、すれ違うしかない。

救われる前の「この世」に対する違和感、救われてからの「この世的なもの」に対する違和感をいずれも大切にすべきである。

何でもかんでも見るたび聴くたびに「アーメン」など軽く口にする人たちを私は信用しない。

さて、所属教会からのエクソダスの話に戻るが、もし、あなたの所属する教会があなたの「違和感」を育み、あなたを「本当の信仰」に導こうとしているのなら、それはそれで、その教会は信仰の初等教育機関としては役に立ったのだと言える。それは、律法が救いを得させることはなくても養育係として重要な役割を持っているのと同じ。

学校はいつまでも通うためではなく、卒業するためにある。そして、卒業するのは、受けるためではなく、世の中に与えるためである。

兄弟姉妹一人ひとりが発信源であることが望ましい。私たちが立派な何者かである必要はない。私たちが預かる神のことばが世の隅々を照らし、腐敗を食い止めるのだから。あなたと私は違っていても、手にしている聖書は一言一句同じ筈。それこそが「世の光」「地の塩」の意味である。

教会とはエクレシア、すなわち、「召し出された者」「目に見えないひとりの花嫁」「キリストのからだ」それ以外のことは聖書には書かれていない。

2010/10/11

リジョイスでリジョイス



普通の民家をあまり手を入れずに上手に改装したリジョイスというお店が今回の会場。オーナーはSueちゃんのお友達だ。

PruneのLiveも回を重ねるごとに変化している。

今回はSueちゃんの提案でリコーダー曲を主体にした構成にした。さらにお客さんのリコーダーを持参してもらってミニリコーダー講座をやろうということになった。

Pruneの活動がリコーダー講座とうまくリンクしているのが面白い。ライブの後のいろんな方々とのお話も良かった。

2010/10/10

散歩中に三歩先を天皇が通る

最近、にわかに駅周辺が綺麗になった。昨夜ライブのリハーサルのためにやって来たSueちゃんが「駅のトイレ、綺麗になってましたよ!」と言っていた。すかさず「Sueちゃんが来るから綺麗にさせてん・・・」と切り返したが、もちろんSueちゃんの為ではないし、私にそんな権限もない。 実は、平城遷都1300年記念祝典御臨席及び地方事情御視察のため御来県になり、そのコースに室生寺と長谷寺が入っているというわけだ。午前10時30分頃、近鉄特急で室生口大野の駅で降りて、黒塗りの車で駅前の細い道を通られる。天皇が駅のトイレで用を足すこともなかろうが、トイレが綺麗になって困る者はいないから、まあ、いっか。

特に熱烈にお迎えするつもりはなかったのだが、どんな警備や歓迎をするのか興味があって、ダム周辺の散歩予定を駅付近に変更すした。散歩中に三歩先を天皇が通るというのも面白い。住民に対する事前の広報がなかったのでそれほど大勢の人も集まらず、ピリピリした感じも物々しい様子もなかった。

とは言え、白バイやパトカーの先導でお付きの人々の関係の車が連なりちょっとした行列が続く。そして、行く先々で交通や入場の規制はかかる。

この平成の時代になってなお、天皇陛下が来られるともなればこれだけの騒ぎとなるわけだ。当然の事ながら庶民の日常と普通に接することはあり得ないし、御自身が庶民の日常を体験されることも許されていない。

このように考えると、イエスが人となって全く普通に庶民の日常を体験されたことは驚くべきことだ。地元住民に「あれは大工の息子で、我々と一緒に住んでいるじゃないか」と近所のおっさんに批判されたことは、「この方はまことに神の子であった」というローマの百人隊長の証言にもまして輝いている。

昨日もリコーダー講座に参加されたシュタイナー大好きの方が、子どもの発達について「10歳で魂が受肉する」と話しておられたが、「魂が受肉して人となる」という発想も、「天皇は現人神である」という思想も、神の子イエスの受肉の変型にすぎない。

そう言えば、昨夜SueちゃんとMomoちゃんを駅まで送ったとき、4頭の子鹿を見た。子鹿たちは12時間後に天皇が同じ道を通ることなど知らない。私たちは、子鹿たちを発見するとちょっと離れて車を止めて、彼らが移動するのを待ってから再び車を動かした。道は誰のものでもない。交通規制は「シカ」たないが、「馬鹿馬鹿しいよ」とシカも言っている。

Saltの「アホ」リズムな箴言 その③




⑪新聞を切り抜いて脅迫状を作るように、新聞の代わりに聖書を使う事も出来る。そうして出来たメッセージはたとえ平和のメッセージであっても神の啓示ではなく、ハサミとノリの仕業である。

⑫どれだけ大切なものだったかは、失ったとき初めてわかる。

⑬一番言いたいことは決して口にしないこと、二番目に言いたいことを出来るだけ丁寧に伝えること。

⑭考えても考え抜いても初めの思いつきと大して違わない結果しか出せないこともある。それでもなお程度時間をおいて考え直した末に達した似たような結論をより良しとせよ。

⑮過去や未来について多く語ることに、今日のすべてを費やすことはない。

2010/10/09

無敵の力


○○式描画法は好きではないが、「○○式など知ったことか!」というような子どもの表情が面白い。

2010/10/08

Saltの「アホ」リズムな箴言 その②


⑥誤解する程度に理解し合っている人間関係が最も良好であって、互いに相手の真実を正しく認識すると関係は壊れ始める。それ故、未知の部分を美しい想像で埋めるユーモアと事実を程よく脚色するセンスが大切なのだ。


⑦仕事の忙しさを協調する人は、自分の段取りの悪さと能力の低さを自分で言いふらしていることに気づいていない。


⑧忙しいけれど退屈だと感じたときは注意した方がいい。


⑨やたら家柄や学歴を自慢する人は、他に誇るものが乏しいさびしい人生を送って来られたのだから、羨むよりは憐れむべきである。


⑩人生やらねばならぬことは山ほどある。別にやらなくてもいいけど面白そうなものを探しながら川を逆流するのは人生の豊かさである。達人は川の遡上を楽しみながら、やらねばならぬことの山の頂にも軽く辿り着き、さらに未踏峰を目指す。

2010/10/07

Saltの「アホ」リズムな箴言 その①


①毎日がつまらなくて退屈なのは決して周囲のせいではなく、自分自身がつまらなくて退屈な人間なのだ。

②気持ちはあったけど行動しなかったというのは、行動しなかったばかりでなく、そもそも気持ちさえなかったのだという証でしかない。行動したことだけが人の気持ちの全てである。

③自分自身が満ち足りていれば、むやみに他者を攻撃することはない。又、周囲の視線も意見の相違も大して気にはならない。

④批判には2種類ある。他者をこきおろすことで自分を正当化する場合、あるいは、守べるき真理の純粋さの故に混入物を除去する場合。

⑤大声で繰り返し主張することを本人はたいてい信じてなどいない。

昼休みの光景

2階の職員室からふと運動場に目をやると、南の端にある遊具に無敵少年たちが雀のように仲良く並んで群れていた。

ほとんど何も考えていない無敵ぶりと謎の連体感に心を動かされてパチリ。

散らばり具合と無造作な動きがいい。

2010/10/04

龍馬より壮馬 

10月16日(土)  午後3時開演    御代1500円也

カフェテラスNZ 奈良市法蓮町1330番地の1
Tel&Fax 0742-42-7115

毎月行っていたNZでのLiveもシーズン1回の年4回ペースになり、私のプロデュースの手を離れ、オーナーの真絹ちゃんが、ほぼ全てを仕切ってくれるようになった。彼女にプレゼントしたLife is beautifulの歌詞そのままの進歩を続けている。

壮馬君は、真絹ちゃんもお気に入りにシンガー。シンプルなコードワークに乗せた何処か切ないメロディに苦く鋭くたたみかけるような歌詞が印象的。明るくて軽いトークでライブはテンポよく運び、アンコールが終わる頃にはみんなCDが買いたくなるだろう。

多分、いつものように伝説のジャンベ叩きスキンヘッドのPoolyもやってくるはず。 http://www.youtube.com/watch?v=u_nbRo9UhUA(アースデー09でのパフォーマンス)


http://www.youtube.com/watch?v=EHzNxl28Lzc

http://www.youtube.com/watch?v=Zm4MpPikIMc&feature=related

前々回NZにも来てくれたVoGoさんとのデュオがなかなかいい。


Prune Liveのご案内

Prune Live 2010 秋
と き 10/11(祝) 14:00~
ところ 菜食カフェ&織り工房リジョイス

Prune初の投げ銭ライブ  ケーナ/Sue  ピアノ/Momo  ギター/Salt

http://rejoice168.sunnyday.jp/

阪急宝塚線岡町駅下車徒歩5~6分 〒561-0881 豊中市桜塚1丁目11-10

今回は、リコーダーの曲を何曲かやります。
何曲かやりますが、大した難曲ではありません。
リコーダーをお持ちの方は是非ご持参下さい。

リコーダー講座のご案内


2010/10/01

これもサイエンスの入り口


理科の「空気の学習」の導入。
身近なもので空気の力体感できる出来るだけ簡単で馬鹿馬鹿しいものはないかと、校内を物色していると、印刷室に筒を発見!これは使えそうだ。

これにぴったりくる玉はないかな?さらに校内をウロチョロ。相談室でちょうどいい大きさの紙コップをゲット。先に突っ込んで反対から勢いよく息を吹き込むと、ポンッと間抜けな音を立てて飛んで行く。

これは面白いぞ。あっちから的、こっちから籠といろんなグッズを持って来て会場設営。後は見てるだけ。

これは思いっきり息を吐くのでモヤモヤがスッっとする。銀じ郎さん、通級のメニューにいかが?