私のさまざまな発信に触れて、「私だけは違うんだ」というようなメッセージを聴き取って、あわよくば自分もそうした「特別なフィールド」へと思う方もおられるだろうけれど、私のメッセージの核心部分はそんなところにはない。
簡単に言えば「私も含めてみんなゴミだ、何もかも糞だ」ということ。「どうしようもないんだから、そこを見極めてきちんと絶望しよう」ということである。
物の見方やスタイルではなく、信仰が核心にある。
極言すれば、その信仰は、教会に行ったり、祈ったり、聖書を読んだりすることでさえない。そういう習慣を積み重ねることが信じていることの証拠だと勘違いしているといつまでも自分に「信」を置くことになる。信仰とは、自分に絶望し、ただイエスに希望を見ることである。
イエスとともに十字架に架かった強盗のひとりは間違いなく、イエスとパラダイスで再会しただろう。それは紛れもなくイエスの約束であった。彼が教会に行き、祈り、聖書を一ページでも読んだか?No!
彼は自分に絶望し、イエスに希望を見出したのである。彼はただ自分の罪の故にこの世に断罪され、ただひとりイエスがよみがえったのである。福音のメッセージはたったそれだけではないか。
どこをどんな風に読み違えてくだらない付け足しや誤魔化しをするのか。キリスト教徒の謎の読解力と脚色には驚かされる。「異なる福音を語る者は呪われよ」とパウロが断罪したのは当然だ。
イエスの十字架が無効で復活がなかったとしたら、私は仕事なんかしないし、聖書など電話帳以下の読み物になる。家族も邪魔だしギターもつぶす。 私にとっては、それくらい十字架と復活が土台なのだ。
私が生きていることの意味は何もかもそこにあり、そこにしかない。
10数年前のジェリコ讃美集会の時に、故松沢牧師が何かで切れて、参加している人達に「おまえらはクソだ!」と言った事が、今でも忘れられないがまさかその後事件を起こすなんて信じられない・・・。
返信削除ビュンが遂に逮捕されたが彼も異なる福音を語っていた事になるのだろうナ。
彼らが事件を起こしたことは、私にとっては全然「まさか」ではありません。
返信削除これからますますこういうことが明るみに出て来るはずです。
キリストをダシにして成り上がった人たちは、遅かれ早かれ恥を見ます。
混ぜ物がいけないのですが、キリストが混じってりゃいい。細かいことを言わず、裁き合わず受け入れりゃいいだろうということでエキュメニュカルも進むでしょう。
私はこういうものには名を連ねません。心配しなくても誰も私なんか誘ったりしませんが・・・・
とにかく妙な連中が主の名を語るのは大いに不愉快で迷惑だということです。
パン種を排除した純粋なパンとは何でしょう。それは人としてのイエス、この御方の人格を伝えることです。私はこの一点にしか興味はありません。それ以外は異なる福音です。曖昧な表現は差し控えて、忌み嫌ってください。聖書はそう教えていませんか。
そのパンでの祭りを求める方とは交わりますが、誰とでも親しく交流するわけじゃありません。信仰以外はめっちゃオープンですが、信仰では絶対妥協はしません。
時代の風は明らかに十字架を否定し、セルフを高くする方向へ流れていますね。自分を堅く保って、自分に自信をおき、自分の才能を十分に発揮しなさい、自分に希望を置きなさい・・・と。世に媚びるニッポンキリスト教、悲惨も極まれりです。
返信削除一方で人知れず花嫁を備えてくださる主の御手に委ねたいと思います。
返信削除Salt&lukeさんに100%アーメンです。
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