人は騙す者であり、騙される者であり、そして騙されていたい者である。
様々な「陰謀論」が蔓延している。信憑性の高いものからトンデモ話まで・・・
宗教は糞喰らえ。科学では割り切れぬ。
つまるところ、真偽のほどはわからないのだ。何につけ、万人を納得させる証明は難しい。
「わかろうとする」と人は混乱する。「自分のわかる」筋書きにしようとすると、これがホントだという嘘が生まれる。手の届かぬ巨悪をでっちあげ、これに責任を押しつける。
そもそも、この世界そのものが巨大なフェイクである。「真相はこうなんだ」ということが明らかになったとしても、特に驚くには足らない。だから、私は何をするのかが問われることはあまりない。
陰謀論者には、他人のふんどしで相撲を取りながら、異常にハイテンションで調子に乗る馬鹿が多い。「猿沢の池に龍が出るとデマを流して、野次馬が大勢集まるや、自分もその気になって見物に出かけた」というあの古いお話に似たようなことになる。(多分、出典は宇治拾遺物語)自業自得だが、烏合の衆の興味を煽るためにガセネタを垂れ流すと後に恥を見る。
インターネットの普及は、情報というものの質と量を劇的に変えた。椅子に座って指先を数回動かしただけで、誰もがかつては絶対知ることのなかった内容に簡単にふれることが出来る。裏と表がところどころで反転し、秘めておきたい情報も最早隠しきれなくなってしまった。
「これが本当だ」と口々に皆が違うことを言い出し、その中に本当も嘘もないまぜになっているというのが本当だ。
その情報の量はあまりに多く、その質は細かく、発信元も多様であり、発信者の動機もさまざまである。
だから人は、最終的に自分の信じたい情報を選びとるしかないのだ。
それは多くの場合、自分にとって都合の良い情報であることが多い。同じ嘘ならマシな嘘をつきたいし、同じ見るならいい夢を見たい。誰だってそう願う。すべての事柄について、100%の真実をつきつけられたら、私たちはそれに耐えられないに違いない。
最終的に、人は何を信じたかによって自分を値踏みするのである。何を信じようが自由だ。しかし何を信じたかによって、生き方や最期、そしてその先は大いに異なる。
畢竟、私の信じていることも、ただ私が信じているだけのこと。その確かさを裏付けるものは何もない。自分に騙されても、他人には騙されまいとそう思う。
イエスに騙されるなら私は本望である。それは賭けだ。
ルーレットはいつか止まる。
こんばんは saltさん
返信削除私も、
「真実は、人の力では分らない。
でも私は、イエスになら騙されてもいい」
と思っていました。
でも教会では、そんなこと絶対言えません。
saltさんの姿勢に大いに共感し、
こう言えたことに感謝。
イエスに賭けています。
hiroさんどうもです。
返信削除あえてキリスト教的ではない挑発的な表現を使っていますが、共感していただけて嬉しいです。
人格に対する信頼というのは、何も特別なことではないし、継続していく関係性の中で、その絆は強固になっていきますよね。
内なる聖霊の確信は、いのちの交わりの中で分かち合うほどに豊かに育っていくものです。
それは、人手にはよらないのです。
無理に揺り起こしたり、かきたてたりしても、決して愛は育ちません。愛は目覚めたいときに目覚めるもの・・・
聖霊による発信には聖霊がアーメンするはずです。
これからも気軽にコメント入れてください。
現代という壮大なフェイク。「人は騙されていたい者」-まさに私などはそうであります。問題は、誰に騙されるかですが・・・。少なくともキリスト教にはごめんでありますね^^
返信削除全くです。
返信削除キリスト教サイドでは、DR.LukeやSaltなんぞに騙されるなということなんでしょうけど・・・・
今年も淡々とやります。