エシュコルさとやんが、昨日の「遊びの達人?」の記事を受けてこんなメールをくれた。彼のコメントと私の返信を少し膨らませて紹介しようと思う。
「新社会人になりたての頃に先輩に言われた事は、仕事を一生(所)懸命する人は遊びも一生(所)懸命する人だと、教えられました。その逆もしかり。Saltさんは上記と違う哲学の持ち主で、しかも奥が深いという印象ですね。私はSaltさんは勿論、Lukeさんも『遊びの達人』だと思っています」
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鍵は何を見何処とつながっているかということ。我々は誰もが神の栄光を何らかのかたちで反映するために作られており、キリストを味わい楽しむために生かされていると信じること。
空の鳥や野の花でさえ神の栄光を表しているのなら、キリストの花嫁は何をか言わんや。しっかり愛を受け止めて、花嫁を飾りたい御方に装っていただこう。
そもそも鳥や花に仕事も遊びもない。彼らは与えられたいのちを、そのいのちのままに生きているだけ。
Lukeさんの何を見習えばいいのか。それは彼のお勧めの映画を観ることや温泉へ行くことじゃない。学ぶべきポイントはただひとつ。その信仰のスタンスである。私はこの点において大いに共鳴している。
スタンスがしっかりしていれば、誰でも自分の持ち味や出番が自然に見えてくる。これを賜物と言ったりするのだが、妙な方向を向いていると、大混乱が起こるわけだ。
『スタンスがしっかりしていれば、誰でも自分の持ち味や出番が自然に見えてくる。』
返信削除これが彷徨坊主の一番の急所ですな。
まわりの人から見て「達人」と思えるような人は、もうかなりの「達人」の先頭ランナーなんでしょう。
人の目にたいしたことなくても、その人なりの達人でもいいかなって思ったりもしています。
それが身の丈ですから。
坊主の独り言でした
私のイメージでは、真の達人はひとり別のコースを走っているんですね。つまり誰かの隣を走っていても、集団と同じレースには出てないんです。
返信削除たとえば、イチローなんかを観ててもそういうことを感じます。彼の記録は確かに集団との比較のデータでしょうけど、それ以上の目的や満足のためにやっている気がします。
クリスチャンの場合はさらに、神のまなざしのもとでの評価に対応していればいいだけなので、人のまなざしを無視するスタンスは、実は容易なのです。
だからこそ、スタンスです。あらぬ方向へ力まかせにドライバーショットをすると、リカバリーに打数が増える。私はゴルフなんぞしませんが、そういうことです。
ホールには誰の目にもはっきり十字架のフラッグが立ってます。