2009/11/16

石井順治氏のことば

「学び合う学び」を提唱する石井順治氏の授業ビジョンと哲学、その実践と、現場教師への的確なコンサルテーションには、佐藤学氏、秋田喜代美氏というふたりの東大教授が最大級の賛辞を惜しまない。

最近、石井氏の著書「ことばを味わい読み開く授業~子どもと教師の『学び合う学び』」(明石書店)を精読し、私も現場の一教員として、石井氏の子どもを見つめるまなざしのやさしさと感性のしなやかさに心を揺さぶられた。

著書の大半は、彼が見た若手教師の実践の記録である。たいていこのような記録が中心の教育書は私にとっては、実は退屈極まりないものである。仕事柄、仕方なくその手のものも目にはするが、いつもうんざりさせられる。簡単に言えば、課題をつかませ、問題を解決させるための有効な発問の流れ、わかりやすく整理された板書、予想されたとおりの児童の反応や活動が、読まなくても次が読める展開で、それらしく書かれているだけであって、どうにも「子ども劇団の臭い演技」っぽくて、汗臭かったり、土臭かったりする「私が出会ってきた子ども」の臭いが少しもしないからである。

しかし、石井氏のまなざしを通して語られる「学び合う学び」からは、生身の子どもたちの息づかいが聞こえてくる。しかも、それが彼自身の実践というのではなく、共同研究者や参観者という立場で取材されたものであるから、いっそう驚かされる。

著書の大半を占める授業記録に関する部分的な書き抜きには無理があるので、彼の哲学が感じられることばを選んでご紹介したい。教育関係者はもとより、学力低下問題や子どもの学びに興味関心のある方は是非読んでいただきたい良書である。以下、前記の著書より抜粋。

「何が学力を向上させるのか、そもそも学力とは何なのかということについては、ここで述べたいことではない。それよりも私は、学びに対する意欲がこれほどまでに低落していることのほうが心配なのだ。考えてもみてほしい。何十年もすれば今の子どもたちが日本の国を背負うのである。そのとき、人とつながれない、積極的に学ぶ意思のない大人になっていたら、この国はいったいどうなるのだろうか。子どもが未来への大きな可能性を抱いた存在であるという考えに変わりはないし、そうでなければならないと思うだけに、私たちはこの黄信号をこのまま放置することはできない。」(P18)

「一言で言えば、知識伝達型授業から脱却することである。もちろん、知識を伝えることがすべてよくないというわけではない。しかし、学ぶ意欲は、教えられる学びよりも、自分で発見する学びのほうがずっと高まるということを否定する人はいないだろう。だから、教師は、教えることを急がず、子どもの考えから学びを出発させ、子どもの多様な考えの交流によって学びを生み出す『学び合う学び』に転換していくことが必要なのである。 とは言っても、それはことばで言うほど簡単なことではない。何十人ものの子どもに一律に一つのことを教える大工場の大量生産システムのような知識伝達型授業は、一斉指導という方式によって、明治以来日本の教育を席巻してきたわけである。百年以上にも及ぶこの蓄積は、私たち日本の教師のからだに染みついている。だから、その転換には時間がかかるのである」(p21)

「学校は、多数の子どもが学ぶ場である。学ぶ基本は一人ひとりの子どもにある。学びは、学級として一つのものがあるのではなく、同じテキストで同じように学んでいても、一人ひとりの中に個別に存在するものである。このことについては、「一斉指導方式」によって十派一からげに教え込んできたこれまでの日本の教育のあり方は見直す必要がある。個が埋没するような学校教育では、これからの時代を生きる子どもを育てることはできない。しかし、それは、学力というものも、学びということも、すべて個別に、分析して見るということではない。学ぶ基本は個人に存在するけれど、それはまた他者とのかかわりを抜きにしてはありえないものなのである。生きるということは、個別に生きてはいるけれど、他者とのかかり、つながりを抜きにしてはありえないのと同じことである。個別の生き方が素敵な人ほど、他者とのつながりもまた素敵である。それは他者から学んでいるからである。人は、周りの人とともに生きることで、自らの生き方を豊かにしているのである。学校という所は、大勢の子どもが集う場なのだから、そこで触れ合う多くの仲間から、多くのことを学び、それぞれが豊かになっていけるようにしなければならない。それが、一人ひとりの学びを保証するということである」(P177)

「学ぶことにおいてもっとも大切な行為は『聴く』ことである。人一人で教えられることはしれている。豊かに学ぼうとすれば、他者から学び取るしかない。それには、他者のことばに耳を傾ける態度が不可欠である」(P180)

「子どもと子どもの間に聴き合うかかわりが生まれた学級は、子どもの声が温かい。表情がやわらかい。派手に主張する子どもが影を潜め、おだやかで声のテンションが低い。受け入れられているという安心感が、子どものすがたをそのようにするのだ。そして、そのような雰囲気が、つなぐこころを引き出す。『学び合う学び』でもっとも中心的なはたらきである『つなぎ』は、このような『聴き合うかかわり』によって生まれてくる」(P180)

「聴き合うかかわりは、聴き方、聴き相方を教えて出来るものではない。どれだけかたちを教えても、どれだけトレーニングを積んでも、それだけで聴ける子どもは育たない。『聴く』ということは、内面的な心のはたらきと、そこに存在する他者関係を築くための人間的なはたらきかけもしないで、聴ける子どもを育てることなどできはしない。そこで、私はもっとも原則的なことを述べたい。それは、子どものことを言う前に教師自身に子どもの声が聴けているかということである。これまでも私は、日本の教師はいかにも『発信型』であり、『受信』下手だと述べてきた。発問をし、説明をし、指示をし、というように、子どもに向かって発信することには一所懸命だが、子どもの内に生まれるものを受け止める『受信』は、『発信』に比べればいかにも希薄だ。それは、一斉指導方式で、大勢の子どもに一律に教えてきた日本の教育のあり方が染みついているからだと言える。これでは、仲間のことばに耳を傾け、聴き合い、つながり合って学べる子どもは育つはずがない。聴ける子どもを育てるには、何よりも先に、教師自身が『聴ける教師』になる必要がある」(P181)

「『学び合う学び』と言えども、授業の形態となると、学級全員による話し合いになっていることがほとんどである。・・・・それほど日本の学校には、一斉指導方式が染み付いている。・・・45分間始めから終わりまで学級全員でということになると、いろいろ不具合なことが出てくる。多くの教師がもっとも懸念しているのは、発言の偏りである。そこで陥るのは、なにとか子どもたちを発言させようと、発言を促す指導に偏ってしまう傾向である。そのことにより、子どもに発言を無理強いし、逆効果になってしまった事例を私はいくつも知っている。また、発言することだけが目的になり、言うことは言うが、仲間のことばに耳を傾けようとしない子どもになってしまった事例もかなり見られる。子どもたちは聴いてもらえるから話せるのである。要するに、話せる子どもにしたいのなら、話したい雰囲気をつくりたいのから、それより前に、『聴くこと』のできる教室にしなければならない。どんな考えでも、たとえ間違っていても、たとえことば足らずであっても、きちんと聴いてくれる、受け止めてくれるという信頼感があれば、子どもたちは話そうという気持ちを抱くのである。そのためには、教師がまず聴けなければならない」(P194~195)

「グループの学びには、いくつか原則のようなことがある。人数はあまり多くしないで、男女混合にすること、課題をはっきり示すこと、全員の考えを聴くこと、考えをひとつにまとめないことなどである。中でも、よい考え一つにしぼるような話し合いにしないことが重要である。それをすると、必ずだれかが饒舌になり、自分の考えを押し付けるようになる。そうではなく、どんな考えも、寄り添い合って聴くこと、そして、互いの考えを比べながら、それぞれが自分の考えを見つめることである。他者の考えを聴き知ることで、自分の考えを磨き発見していく。そういうグループの学びが望ましい」(P196)

「こうしたい、こうでなければならないという意識を払拭し、子どもの内から生まれるものから学びをつくろうとして、子どものことばに耳を傾けるようになって、私は驚嘆するような子どもの読みにいくつも出会うことになる。私は、かつて感じたことのない感動を何度も味わい、子どもとは、こちらが受けとめようとすれば、こんなにも豊かなものを生み出してくるのだとつくづく感じたのだった。そして、もう一つ、はっきりと認識したことがある。それは、子どもの読みは、決して一つにはならない、その多様な読みの交流こそが、文学を読み合う愉しさだということであった」(P199)

2 件のコメント:

  1. 石井順治数冊読みました。
    唸ってしまいました。

    「ことばの教育は、教師のことば・教室のことばの見直しから」
    の小論を読み、ただただおっしゃる通りです。
    時間との戦いという言い訳をもって、多くの子どもたちから「ことば」を奪っているのが「教師」と言われる僕なんです。

    今一度、いや毎時間、肝に据えないと

    彷徨坊主

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  2. ホンマにこの人、なかなかのものですよ。

    この人もはじめからこうだったわけじゃなく、「レベルの高い授業をして教え込む」スタイルで突き進んで挫折した経験をお持ちです。

    教える自分ではなく、学び育つ子どもを軸に物事を考えれば、自ずと何が「より正しい」かは見えてくるはず。

    これが「絶対」だとか「すべて」だとか思っているわけではありませんが、少なくとも一問一答の糞みたいな授業に比べれば「より正しい」ことは、実際に見聞きして実感しています。

    是非、手の届くところから初めてください。

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