2009/11/02

人間関係のスタンス

そばにいても遠くに感じる人がいて、遠くにいても近くに感じる人がいる。

毎日会っていても全く気持ちが通じない人がいて、滅多に会わないのに瞬時に意気投合できる人がいる。

顔を見ただけで気分が悪くなる人がいて、名前を想い出すだけで元気が出てくる人がいる。

頻繁に合っていても記憶に残らない人がいて、数えるほどしか会ったことがなくても忘れられない人がいる。

「出逢い」がさらに新しい「出逢い」を生む。一度きりの関係もあれば、ずっと続く関係もある。もちろん、悲しい別れもあるが、私は来る者は拒まないし、去る者は決して追わない。ずっと続く関係は、努力なしに続いていくものだと思っている。

私は、神様の恵みによって、良き出逢いを与えられていると思う。所詮一人の人間が一生に経験することなどささやかなものではあるが、いろんな方との出逢いと人間関係の中で織りなされる図を見るのは楽しいものだ。

おそらく、すべての人に多くのチャンスが与えられていると思うが、気づかないまま通り過ぎたり、無理に追いかけたて失ったりしていることもあるだろう。

私が人間関係において大切にしたいポイントは以下の7項目。

①一定以上の共有できることばや体験があるということ
②それぞれが価値を認めるものを互いに理解しあえること
③干渉しすぎないこと
④依存しないこと
⑤高め合えること
⑥分かち合えること
⑦相手に要求しないこと

この7項目の過半数を満たしてくれる人は少ない。1項目も満たしてもらえない人は、どうでもいいので、ものすごくテキトーに付き合っている。

仕事や役割は別として、私は誰の「先生」でもなく「生徒」でもない。自分が楽しいと感じれば、多少の無理をしても引き受ける。でも、それはあくまでも「自分が楽しむ為」であって、それ以上の価値を自分では計算しないことにしている。

信仰がある人だろうが、ない人だろうが、男だろうが、女だろうが、障害のある人だろうが、外国人だろうが、年寄りだろうが、子どもだろうが、私のスタンスは変わらない。誰の為にも自分を犠牲にする気はないし、そういうのは偽善だと思っている。

私は誰にも媚びないし、「何か」の為に「誰か」との関係を利用することもしない。未来に備えて名刺を配ることはない。自分が良いと信じるものでも、絶対他人に押しつけたりはしない。ただ、静かに自分のよって立つところは明らかにし続けるだろう。

私の中では、良いものは明らかに良く、忌むべきものを好む姿は醜悪だ。面白くない奴とは長くは遊ばない。

立派な人にはなりたくないし、なれそうもない。

犠牲は十字架が100%であって、私はそれに何も加えることが出来ない。「復活の喜び」をただ喜ぶだけである。

2 件のコメント:

  1. 初めて、コメントさせていただきます。
    いつも、色々お世話になっております。
    今回の「人間関係のスタンス」とても素晴らしくまとめられていて、何度も読み返させていただいております。
    そうだな!っと思うことでも、言葉にする事の難しさ、読む方が色々な勝手な解釈をされて、有らぬ誤解を恐れず書き出すお気持ち、また参考にさせて頂きたいと思います。
    どうしても、人間自分がかわいいモノ、良く思われたい、良い人になりたい、何かを成したい、などから自分らしくない言葉や態度になりがちです。
    自分が自分らしく
    楽しいこと、喜ばしいこと、満ち足りること
    これが、最近の課題?でも有ります。
    あいも変わらず、自分にとっての数年前からの
    慌てない、焦らない、諦めない、も十分とは思えませんが、人のまねではなく、あの人がこう言っていたでもなく
    主から与えられた言葉をただ喜ぶこと
    迷いも有りながらも、ありがたく日々を過ごさせて頂いております。
    どうぞ、お体とさらに大切なお心をキリストにあって神自身がソルトさんをお守り下さいますように。
    内容のないコメントになりましたが、いつもありがとうございます。
    また、よろしくお願いいたします。 

          電気屋です。

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  2. 電気屋さん、コメントありがとうございます。

    全く気がつかずすみませんでした。

    こちらこそ、よろしくお願いします。

    いつも好き放題なことを書かせてもらっていますが、

    ちょっとでも何かのお役に立てれば幸いです。

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