2010/11/01

甲賀の飛び出し坊やは忍者風


上柘植インターから、東近江に向かう道中、 脇道のススキの陰の「飛び出し坊や」が目に入った。

「さすが甲賀の町、飛び出し坊やも忍者風だな~」と妻と話していると、本当に忍者の「飛び出し坊や」があった。あまりにもグッドタイミングなので笑ってしまった。しかも、これから飛び出すのではなく、渡りきった様子なのが、「やるな~忍者」って感じだ。

でも、忍者のコスチュームより、普通の子どもが忍者風の方がいい。このあたりのセンスは大事だ。

こんな風に「ろばの子」へ向かう途上は道中も、いつものように「遊び半分」の実に楽しいものだった。 目的地に着くまで目をつぶって突き進む感じはどうにも好きじゃない。プロセスも含めてすべてを味わいたい。

ちなみに滋賀県や京都府には、この「飛び出し坊や」の数はやたら多い。「坊や」ではなく「女の子」の人形もあった。



「飛び出し坊や」とは・・・・

主に児童への交通安全の呼びかけやドライバーへの注意喚起のために、通学路などに設置されている看板のことである。横断旗の入れ物を兼ねるものもある。正式な名称は存在せず、飛び出し人形・飛び出し小僧・飛び出し君・飛び出し注意君などとも呼ばれている。


2010/10/31

主がお入り用なのです!

「お招きがあれば2~3人以上のキリストの御名に集う交わりであれば何処でも参上しますので気軽にご連絡ください」と広報したところ、早速オファーをくださったのは、滋賀県東近江市にある「ろばの子キリスト教会」

「ろばの子キリスト教会」と聞いて、何だか楽しい気分で出かけた。まさに聖書にあるとおり、「主がお入り用なのです」と私を招いてくださったようだ。

そこには、いろんな経験を越えてこられた兄弟姉妹たちが、本当に純粋な信仰で集っておられた。メッセージが終わってからも、食事をしながら楽しい交わりが続く。

主は各地にこうした群れを「直接」養っておられるのだと改めて確認することが出来た。主が私にこうした出逢いを与えてくださっている事実を通して励まされる方もきっとおられると思う。

誰も組織したり扇動したりしなくても、主がつなぎ、主が結ばれる。人手によらずにいのちは育っていくのだ。

今後も主が必要とされるところなら、何処へでも出向いて行こう。

2010/10/30

学びのたより

11月が始まった。

いよいよニューアルバムの録音に着手する。しかし、一方で今月は研究授業を公開しなければならずその準備もある。今日はそっちの話。

①拠点校指導員をしていて「どう授業を組み立てるべきか」を他人に教えていた者が、さてどんな授業を展開するのか。

②人権教育研究会の事務局長をしていてさまざまな啓発活動を企画してきた者が、平素の学級経営や授業の中にどんな風にそうしたポイントを押さえているのか。

③特別支援教育にのコーディーナーターをして外部でも講演などをしていた者が、支援の必要な子がいっぱいいるクラスで具体的にどんな配慮をし手立てをこうじるか。

参観者は意地悪な方々ではないが、おそらくいろいろな興味をもって見てくれるはずだ。

6年ぶりに学級担任を持って半年を過ぎた。4年生ともなると15年ぶりで、「こんなに幼かったかなあ」と困惑する日々を過ごしている。毎日仕事帰りの余力は殆どゼロに近く、そんな中でやりくりしてきた。

教員生活も25年を過ぎてから、授業づくりについて根本的な見直しを迫られているのだ。 それなりに今まで通りの無難な授業をするのでは「研究」にはならない。

①一斉指導型のわかりやすい授業ではなく、教師を中継点とせず、子どもどうしが直接つながり合いお互いから学び合う授業。

②「わかること」「できること」を積み上げていく授業ではなく、「わからない」「できない」から始まる授業。

③全体として流れまとまってしまう授業ではなく、どの子の学びも途切れたり、逃げたりしないような授業。

他の人があまり試みないようないろいろな実験をやってきたが、この3つの課題は全くクリア出来ていない。

授業というライブはボサ・ノヴァより難しい。

同業者の仲間たちからのリクエストもあって、「発達障害の子が学級集団の質を問う」ことに関連する資料を当たってみたのだが、直接そういうものはない。発達障害の子どもたちのことに関しては、まわりの健常(そんなもんあんのか?)とされる子どもたちとの関係性に言及したものはほとんどない。すべてはその子の障害克服のためのあれこれのものだ。

しかし、直接特別支援のことは出て来ないが、先のことばをくれた岩谷氏も推奨するJunさんこと石井順二氏の学びのたよりは秀逸である。

暇なときに、ちょっとずつアーカイブを読まれるといいと思う。

http://www2.yecc.gr.jp/~manabukai/manabinotayori/tayori-1.htm 

2010/10/29

「風のメロジア」CDジャーナルに登場

Salt&Uribossaの 「風のメロジア」がCDジャーナル11月号に登場。 松山晋也というライターの「よろしく哀愁」というコーナー(P118)で、今月のよろしくCDの1枚として紹介されている。

「中途半端にメディアで紹介されるのも何だかなあ」という感じで、SaltもUribossaも掲載誌を買おうともしない無関心さだったのだが、書店で立ち読みしようと3軒回ったが、在庫がなかったので意地になってネットで注文した。



「奈良在住の男性2人によるボサ・ノヴァ・ユニット。音作りは典型的なジョアンジルベルトスタイルだが、軽やかなボサ・ノヴァ・ギターに乗る歌詞は、日本語のリズム、音節をしっかり主張し、節回しにも、時に70年代フォーク的ニュアンスが感じられたりする。カッコつけない、背伸びしない、抹茶味のボサ。ユニーク、そして誠実。」(松山晋也)


「風のメロジア」 日本語によるオリジナル・ボサ・ノヴァ全12曲 定価 2000円

試聴 http://www.youtube.com/watch?v=pr6E6xQ6KbE

http://www.youtube.com/watch?v=X2eoNErmAM0&feature=related

2010/10/28

子どもの眼



子どもはいろんなものを見ている。その眼に写っているのは、いったいどんな世界だろう?

大人は子どもたちに、「ほら、これをみてごらん」と言えるものをどれだけ作って来ただろう?

子どもだった頃の私は、ずいぶん早くから、「あんな大人にはなりたくない」と思う連中が、このうんざりするような世界を作ったのだと気づいていた。

そんな私もやがて大人の仲間入りをし、自らもこの腐り果てた世界の共犯者であることを自覚するに至った。そして、気がつけば眼の前に立ちはだかった壁のレンガひとつとして子どもと関わる仕事についている。

しかし、私はせめて自らのからだを抜きはずして、その隙間から「この壁を突き抜けた世界があること」を見せてやりたい。背丈の足りない子どもの足台になってやろう。

この世界は既に終わっているが、それでおしまいではない。

どんな時も希望を失ってはいけないと・・・・・

2010/10/26

Saltの「アホ」リズムな箴言⑦


(31)人は自分の信じたい情報を選びとるしかない。それは多くの場合、自分にとって都合の良い情報であることが多い。同じ嘘なら少しはマシな嘘をつきたいし、同じ見るならちょっとでもいい夢を見たい。誰だってそう願う。すべての事柄について、100%の真実をつきつけられたら、私たちはそれに耐えられないに違いない。いずれにせよ、人は何を信じたかによって自分に値をつける。

(32)自殺は意気地なしの行為である。のみならず卑怯だ。何が意気地なしでどこが卑怯かと言うと、自殺は、己の自意識過剰によって現実が裏付けられなくなった時に、その高ぶった自意識を守るために現実を消去する取引だからだ。親や子どもや友人といったあらゆる関係性を一方的に暴力的に断ちきる行為だからだ。

(33)正義を追求することが必ず大いに報われ、人からの間違いのない評価や豊かな暮らしにつながるのであれば、正義を追求するという目的は、賞賛や冨を得るための手段になってしまう危険性があり、正義はその時点で本質を手放してしまう。

(34)言霊なんてない。人のことばはいつも後付けのもの。通り過ぎる本質を追いかけても永遠に追いつかぬ鬼。

(35)文章にとって最も大切なことは品格である。次に大事なのは光を感じさせる影を描くことだ。

2010/10/25

~するのは誰の為?



昔は「世の為、人の為」という建前がそれなりに立派に見えた。今はそんな建前よりも、生々しい本音を語ることが当たり前で、それが恥ではなくなってきた 。時代の流れとは言え、そうした風潮はあまり好ましくない。

そして、本当に「世の為、人の為」は建前で「自分の為」は本音なんだろうかと問いたくなるのだ。

そもそも、神は人を複雑な関係性の中で共存させながら祝福することを目的としてこの世界を創造されたのであって、ある個人の為の単独の幸せなど存在しないと言ってもいい。

子どもに勉強することを勧めるときも、「勉強するのは自分のため」と言うのが当たり前になった。「~するのは、自分のため」を全面に押し出すと、「俺のことなんだから、ほっといてくれ」という理屈を肯定するしかない。

緒方洪庵の敵塾は、「世の為、人の為」の学問を教えた。私はその精神が好きだ。知恵は他人の幸せのために使うべきだ。

「私の利益」を勘定に入れずに何か打ち込んでいるときが、結果として私が一番得をしていたのだと後から気づかされることが多い。恵まれたのは誰かとともに分かち合うためであって、そのことによって自身もさらに潤うのである。

桐生市の小学生6年生の女の子がいじめを理由に自殺した。こういうニュースを聞かされる度に本当にやりきれない気持になる。ご遺族や関係者の慰めを願いつつ、あえて言うが、「人は自分の幸せのために生きているんだ」と教えられた子どもは簡単に人を死に追いやり、また自らも命を絶つ。実は自分の為だけに生きているほどしんどいことはないのだ。

誰かを傷つけることは自分を傷つけることなんだ。誰かを誹謗中傷することは自分を蔑むことなんだという関係性の理を知っていれば、世の中はもう少しだけやさしくなる。

自分ひとりで生きている人なんかいない。みんな誰かを支え、また支えられている。力のある人が無い人を支えているだけじゃない。その逆だっていっぱいある。

ただ生きているだけで、誰かの役に立ち得るのだと知っていれば、人は不幸にも耐えられる。試練や困難を乗り越えることができる。家族や恋人や友人の為に、同じ境遇にある人の為にもう少しだけ、明日一日をがんばれる。

幸せは独り占め出来ない。「人はひとりでいるのはよくない」これが神のプラン。神御自身のすべてを分かち合うために人は作られたのだから、神と離れた私の祝福も、隣人とは無関係の喜びも存在しないのだ。

写真は秋の遠足で撮影した浄化センターのエアレーションタンク。この中では日夜、微生物が汚水を分解しているのだが、彼らは世の為人の為にエコしているわけでなく、自分の幸せを追求しているわけでもない。ただ自分のいのちのプログラムを生きているだけである。一方、人間の集団の自浄能力は今日きわめて低い。ヒトとしてのいのちのプログラムを顧みず、人と人との関係性を無視することによって、社会に下水を垂れ流している状態である。

2010/10/24

カナン教会の年末の予定

10/31  家庭礼拝 Saltは滋賀県の教会で奉仕します。
11/ 7   メッセージ(約束の地カナン⑪)
11/14  分かち合い
11/21  家庭礼拝
11/28  メッセージ(ひねくれ者のための聖書講座21)
12/ 5  分かち合い
12/12  メッセージ(約束の地カナン⑫)
12/19  クリスマスベント
12/26  家庭礼拝

来年度の予定は未定です。希望があればSaltは各地に出向きます。
ご連絡は、@kcn.jp まで(@の前にsaltを付けてください)

2010/10/23

もうひとつの原点


大雨による奄美地方の災害の傷跡も癒えない中、あの中越地震から6年目を迎える。

Y.B.M氏のコーディネートによって、丸山祐一郎氏らとともに現地で数回のコンサートを行った。

この写真は震源地である川口町の被災青年たちが、ボランティアと自衛隊の為に催したコンサート。 被災地で行われる慰安のためのコンサートとは逆のパターンだ。

最初はぎこちなかった自衛隊の隊員たちも、時間とともに打ち解け、最後にはボランティア・スタッフも、被災地の青年も、参加したミュージシャンも、みんな肩を組んで「上を向いて歩こう」を歌った。あの夜を私は忘れないだろう。

ギターと歌という素朴なかたちが表現できるもの、共有できるものの可能性と音楽の素晴らしさを感じた。何もかも失っても、祈ることと歌うことは出来る。

災害は、人にとって本当に必要なものは何なのか?そんな「暮らしの原点」を見つめさせられる。

演奏が終わってから、このライブを企画してくれた被災青年のグループの女性スタッフに「ご自宅の被害状況はどうですか?」と聞いてみた。

すると、彼女は笑顔でこう答えた。
「屋根がなくなったので青空がキレイです。お風呂も露天風呂になりました」

2010/10/20

腸、気持ちワルイ


教室の掃除をしていると、何だか怪しげな臭いがした。臭いを辿っていくとベランダの片隅に置いてあるバケツに埋もれたビンにたどり着いた。

ビンの中には生き物の内臓らしきものが詰められていた。数日前にクラスのやんちゃ坊主ふたりが、亀の腸の話をしていたのでピーンと来た。やはりそのふたりが河原で死んでいた亀を砕いてその内臓を抜き取ってビン詰めしたものであることが判明。

彼らはすっかり隠したことさえ忘れていたのだ。

実は、この少年たちが死んだ亀から内蔵を取り出している現場をクラスメイトの母親が目撃。その方にしてみればまさか元から死んでいた亀とは知らず、甲羅を砕いている少年の姿を間に合わなかった浦島太郎のような気分で見ておられたというわけだ。

その方から「娘のクラスメイトにあんな残虐なことをする子たちがいるなんて。いのちを大切にするということから考えてもいかがなものか・・・・」という丁寧なお便りまでいただいていた。

しかし、こういうタイプの子どもがクラスに複数いることは、私にとっては面白くてたまらない。いちいち相手をするのは大変だが、私の想定外のことをやらかしてくれるのがいい。

どうやら、亀の甲羅の中がどうなっているのかどうしても知りたかったらしい。

「オレらだって、生きてたらそんなことせえへんって・・・」という証言は信用できるので、先ほどの心優しいお母さんには、彼らの名誉のために、亀はすでに死んでいたのだということをお伝えした。

それにしてもなあ。腸、気持ち悪かった。

2010/10/18

Saltの「アホ」リズムな箴言 その⑥


26神の全能は、私たちがどうしても忘れられないでいる辛い過去を忘れさせてくださり、御自身も忘れてくださるだろう。

27不特定多数の目に見えない相手に向かって深い愛を語る人は、たいてい家族に恨まれていたり、親しい友人と仲違いしたままだったりする。

28一度車に乗って長いトンネルの中を走り始めたら、停まることも曲がることも引き返すことも出来ない。

29人は騙す者であり、騙される者であり、そして騙されていたい者である。つまるところ、真偽のほどはわからないのだ。何につけ、万人を納得させる証明は難しい。

30全てをわかろうとすると人は混乱する。何とか自分のわかる筋書きにしようとすると、これが本当だという嘘が生まれる。

2010/10/17

Saltの「アホ」リズムな箴言 その⑤


21田舎の親から送られてきた野菜を奉って拝んだり、宅配業者のお兄さんを家にあげて歓迎するのは、感謝の方向性が狂っている。まず田舎の両親に「ありがとう」の声を届けるべきであろう。感謝は大きさではなく方向が大事である。偶像礼拝は感謝の対象を間違っているのだ。

22女性のストッキングやハイヒールに興奮したり、特定のからだの部位に異常に執着したりという様々な性的倒錯は、偶像礼拝の見事な雛型である。性的な嗜好の歪みは宗教の有り様と見事にリンクしている。

23キリスト教は「ナザレのイエス」の事実を歪曲したゴシップの塊である。歴史の中で三流週刊誌の様に俗信を煽り続けたが、初めからその程度の質の情報だということ。まともな見識があれば誰も相手にしない。

24狡猾な告白者は、肝腎なことを内に秘める為に、周辺の差し障りのない罪については詳細かつ饒舌に語るものだ。

25弱者に対して上から差し伸べられた手はキレイに見えるが汚れている。下から支える手は汚れていてもきよい。

2010/10/16

龍馬より壮馬Live!





カフェテラスNZの秋のイベント「龍馬より壮馬Live」が無事終わった。これまで、壮馬のLiveは毎回あいにくの雨。今日はテラス席での爽やかなひとときとなった。

写真茶話会を終えたY.B.M氏一行も少し遅れて到着。遷都1300年で盛り上がる古都奈良の秋は、けっこうにぎわっているようだ。

結婚してちょっと大人になった壮馬を寡黙なオジサンPoolyが支える。シンプルだが芯のあるサウンド。
アンコールが終わってから、今日誕生日だと聞いたお客さんの為だけにこっそりお祝いの歌をプレゼントする壮馬の姿も見た。

それにしても真絹さんの挨拶は、だんだん言葉数も増えて良くなってきた。周りの人たちを気遣う言葉が増えてきたのには本当に驚かされる。

冬が来る前に壮馬&Poolyと室生で遊ぶ約束をした。来年のアースデーに向けて曲作りをしようというのだ。これもなかなか面白くなりそうだ。

2010/10/15

天然

このところサッカーに話題をさらわれている感があるが、プロ野球クライマックスシリーズが面白い。ゆっくり観戦する時間はないが、晩飯を食いながらチョロっと見るだけでも、けっこう見応えがある。

せっかくリーグ優勝しても3位のチームに出し抜かれてはたまらない。逆に短期決戦で勝ち抜けばリーグ3位でも日本一にもなれる可能性もあるとなれば選手たちも必死だ。

勢いづくロッテを王者ソフトバンクがいかに迎え撃つかだが、昨日はロッテ成瀬が今日はソフトバンク和田がともにしびれるようなピッチング内容で完投勝利をあげた。

ピッチャーが良いと緊張感が違う。球場で見るなら乱打戦、TV観戦なら投手戦だ。

さて、今日の本題はここから。茶の間の爆笑会話。

長男 「お母さん、どっち応援してんの?」

 妻  「そりゃ、日本ハムやん」

長男 「・・・・・」

※ どうやら、妻はロッテと言うつもりだったらしい。

2010/10/14

Saltの「アホ」リズムな箴言 その④


⑯勤勉であることはそれ自体悪いことではないが、「内容が薄いこと」や「的はずれであること」を忘れさせる負の効能がある。

⑰何か違う。こんなはずじゃない。そんな違和感をかき消したりごまかしたりせずに、「その感覚は何なのか」をしっかり見つめ付き合うことが重要だ。

⑱地はアダムの罪の故に呪われたものとなったので、エデンの東の自然はエデンのそれとは大いに異なっている。エデンの園の秩序や生態を自然と呼ぶなら、私たちの知っている自然は極めて不自然なものであると言わねばならない。

⑲人が自ら命を絶つことは許されてはいるが望ましくない。自らいのちを捨てることが出来るのはそれをもう一度える権威を持っておられる方に限られている。十字架は神の自殺であるが故に、人の自殺は神の領域を侵す罪なのだ。

⑳100年の年月を費やして巨大な箱舟を作り、そのしるしによって警告を発し続け、家族しか救えなかったノアの事業は、キリスト教的には大失敗である。しかし、これが神の効率であり方法である。

2010/10/12

エクソダス


昨日のリジョイスでは、演奏が終わってから兄弟姉妹たちとの交わりがあり、その中で「ニッポンキリスト教からエクソダスする」という話が出た。私はあまりこの種の表現は好きではない。自業自得で喧嘩しても、己を正当化するためにこの論理を使うことが出来る。お世話になった教会と不義理な別れ方をして、もっと中途半端な状態で悪態をついている見苦しい連中も大勢いる。

交わりの中で、「所属している教会から出て行くばかりがエクソダスではないと思います」と穏やかに控えめにmeekさんが語られた。牧師職でありながら、長い葛藤の末に結果として教団を出られたmeekさんのことばには重いものがあった。

2000年前、キリストを求めていた人は大勢いた。イエスを見た人も大勢いた。しかし、イエス・キリストと個人的に出逢った人はどれだけいただろう。彼のいのちとつながる出逢いをした人たちの共通点は、本物への「渇き」であった。自分を取り巻く環境や自分自身の在り様に、つまり人生そのものに本質的な「違和感」を感じていた。

この「違和感」がなければイエス・キリストと結びつくことは決してない。自分が「罪人」であることを知らず、彼が「救い主」であることがわからないなら、すれ違うしかない。

救われる前の「この世」に対する違和感、救われてからの「この世的なもの」に対する違和感をいずれも大切にすべきである。

何でもかんでも見るたび聴くたびに「アーメン」など軽く口にする人たちを私は信用しない。

さて、所属教会からのエクソダスの話に戻るが、もし、あなたの所属する教会があなたの「違和感」を育み、あなたを「本当の信仰」に導こうとしているのなら、それはそれで、その教会は信仰の初等教育機関としては役に立ったのだと言える。それは、律法が救いを得させることはなくても養育係として重要な役割を持っているのと同じ。

学校はいつまでも通うためではなく、卒業するためにある。そして、卒業するのは、受けるためではなく、世の中に与えるためである。

兄弟姉妹一人ひとりが発信源であることが望ましい。私たちが立派な何者かである必要はない。私たちが預かる神のことばが世の隅々を照らし、腐敗を食い止めるのだから。あなたと私は違っていても、手にしている聖書は一言一句同じ筈。それこそが「世の光」「地の塩」の意味である。

教会とはエクレシア、すなわち、「召し出された者」「目に見えないひとりの花嫁」「キリストのからだ」それ以外のことは聖書には書かれていない。

2010/10/11

リジョイスでリジョイス



普通の民家をあまり手を入れずに上手に改装したリジョイスというお店が今回の会場。オーナーはSueちゃんのお友達だ。

PruneのLiveも回を重ねるごとに変化している。

今回はSueちゃんの提案でリコーダー曲を主体にした構成にした。さらにお客さんのリコーダーを持参してもらってミニリコーダー講座をやろうということになった。

Pruneの活動がリコーダー講座とうまくリンクしているのが面白い。ライブの後のいろんな方々とのお話も良かった。

2010/10/10

散歩中に三歩先を天皇が通る

最近、にわかに駅周辺が綺麗になった。昨夜ライブのリハーサルのためにやって来たSueちゃんが「駅のトイレ、綺麗になってましたよ!」と言っていた。すかさず「Sueちゃんが来るから綺麗にさせてん・・・」と切り返したが、もちろんSueちゃんの為ではないし、私にそんな権限もない。 実は、平城遷都1300年記念祝典御臨席及び地方事情御視察のため御来県になり、そのコースに室生寺と長谷寺が入っているというわけだ。午前10時30分頃、近鉄特急で室生口大野の駅で降りて、黒塗りの車で駅前の細い道を通られる。天皇が駅のトイレで用を足すこともなかろうが、トイレが綺麗になって困る者はいないから、まあ、いっか。

特に熱烈にお迎えするつもりはなかったのだが、どんな警備や歓迎をするのか興味があって、ダム周辺の散歩予定を駅付近に変更すした。散歩中に三歩先を天皇が通るというのも面白い。住民に対する事前の広報がなかったのでそれほど大勢の人も集まらず、ピリピリした感じも物々しい様子もなかった。

とは言え、白バイやパトカーの先導でお付きの人々の関係の車が連なりちょっとした行列が続く。そして、行く先々で交通や入場の規制はかかる。

この平成の時代になってなお、天皇陛下が来られるともなればこれだけの騒ぎとなるわけだ。当然の事ながら庶民の日常と普通に接することはあり得ないし、御自身が庶民の日常を体験されることも許されていない。

このように考えると、イエスが人となって全く普通に庶民の日常を体験されたことは驚くべきことだ。地元住民に「あれは大工の息子で、我々と一緒に住んでいるじゃないか」と近所のおっさんに批判されたことは、「この方はまことに神の子であった」というローマの百人隊長の証言にもまして輝いている。

昨日もリコーダー講座に参加されたシュタイナー大好きの方が、子どもの発達について「10歳で魂が受肉する」と話しておられたが、「魂が受肉して人となる」という発想も、「天皇は現人神である」という思想も、神の子イエスの受肉の変型にすぎない。

そう言えば、昨夜SueちゃんとMomoちゃんを駅まで送ったとき、4頭の子鹿を見た。子鹿たちは12時間後に天皇が同じ道を通ることなど知らない。私たちは、子鹿たちを発見するとちょっと離れて車を止めて、彼らが移動するのを待ってから再び車を動かした。道は誰のものでもない。交通規制は「シカ」たないが、「馬鹿馬鹿しいよ」とシカも言っている。

Saltの「アホ」リズムな箴言 その③




⑪新聞を切り抜いて脅迫状を作るように、新聞の代わりに聖書を使う事も出来る。そうして出来たメッセージはたとえ平和のメッセージであっても神の啓示ではなく、ハサミとノリの仕業である。

⑫どれだけ大切なものだったかは、失ったとき初めてわかる。

⑬一番言いたいことは決して口にしないこと、二番目に言いたいことを出来るだけ丁寧に伝えること。

⑭考えても考え抜いても初めの思いつきと大して違わない結果しか出せないこともある。それでもなお程度時間をおいて考え直した末に達した似たような結論をより良しとせよ。

⑮過去や未来について多く語ることに、今日のすべてを費やすことはない。

2010/10/09

無敵の力


○○式描画法は好きではないが、「○○式など知ったことか!」というような子どもの表情が面白い。

2010/10/08

Saltの「アホ」リズムな箴言 その②


⑥誤解する程度に理解し合っている人間関係が最も良好であって、互いに相手の真実を正しく認識すると関係は壊れ始める。それ故、未知の部分を美しい想像で埋めるユーモアと事実を程よく脚色するセンスが大切なのだ。


⑦仕事の忙しさを協調する人は、自分の段取りの悪さと能力の低さを自分で言いふらしていることに気づいていない。


⑧忙しいけれど退屈だと感じたときは注意した方がいい。


⑨やたら家柄や学歴を自慢する人は、他に誇るものが乏しいさびしい人生を送って来られたのだから、羨むよりは憐れむべきである。


⑩人生やらねばならぬことは山ほどある。別にやらなくてもいいけど面白そうなものを探しながら川を逆流するのは人生の豊かさである。達人は川の遡上を楽しみながら、やらねばならぬことの山の頂にも軽く辿り着き、さらに未踏峰を目指す。

2010/10/07

Saltの「アホ」リズムな箴言 その①


①毎日がつまらなくて退屈なのは決して周囲のせいではなく、自分自身がつまらなくて退屈な人間なのだ。

②気持ちはあったけど行動しなかったというのは、行動しなかったばかりでなく、そもそも気持ちさえなかったのだという証でしかない。行動したことだけが人の気持ちの全てである。

③自分自身が満ち足りていれば、むやみに他者を攻撃することはない。又、周囲の視線も意見の相違も大して気にはならない。

④批判には2種類ある。他者をこきおろすことで自分を正当化する場合、あるいは、守べるき真理の純粋さの故に混入物を除去する場合。

⑤大声で繰り返し主張することを本人はたいてい信じてなどいない。

昼休みの光景

2階の職員室からふと運動場に目をやると、南の端にある遊具に無敵少年たちが雀のように仲良く並んで群れていた。

ほとんど何も考えていない無敵ぶりと謎の連体感に心を動かされてパチリ。

散らばり具合と無造作な動きがいい。

2010/10/04

龍馬より壮馬 

10月16日(土)  午後3時開演    御代1500円也

カフェテラスNZ 奈良市法蓮町1330番地の1
Tel&Fax 0742-42-7115

毎月行っていたNZでのLiveもシーズン1回の年4回ペースになり、私のプロデュースの手を離れ、オーナーの真絹ちゃんが、ほぼ全てを仕切ってくれるようになった。彼女にプレゼントしたLife is beautifulの歌詞そのままの進歩を続けている。

壮馬君は、真絹ちゃんもお気に入りにシンガー。シンプルなコードワークに乗せた何処か切ないメロディに苦く鋭くたたみかけるような歌詞が印象的。明るくて軽いトークでライブはテンポよく運び、アンコールが終わる頃にはみんなCDが買いたくなるだろう。

多分、いつものように伝説のジャンベ叩きスキンヘッドのPoolyもやってくるはず。 http://www.youtube.com/watch?v=u_nbRo9UhUA(アースデー09でのパフォーマンス)


http://www.youtube.com/watch?v=EHzNxl28Lzc

http://www.youtube.com/watch?v=Zm4MpPikIMc&feature=related

前々回NZにも来てくれたVoGoさんとのデュオがなかなかいい。


Prune Liveのご案内

Prune Live 2010 秋
と き 10/11(祝) 14:00~
ところ 菜食カフェ&織り工房リジョイス

Prune初の投げ銭ライブ  ケーナ/Sue  ピアノ/Momo  ギター/Salt

http://rejoice168.sunnyday.jp/

阪急宝塚線岡町駅下車徒歩5~6分 〒561-0881 豊中市桜塚1丁目11-10

今回は、リコーダーの曲を何曲かやります。
何曲かやりますが、大した難曲ではありません。
リコーダーをお持ちの方は是非ご持参下さい。

リコーダー講座のご案内


2010/10/01

これもサイエンスの入り口


理科の「空気の学習」の導入。
身近なもので空気の力体感できる出来るだけ簡単で馬鹿馬鹿しいものはないかと、校内を物色していると、印刷室に筒を発見!これは使えそうだ。

これにぴったりくる玉はないかな?さらに校内をウロチョロ。相談室でちょうどいい大きさの紙コップをゲット。先に突っ込んで反対から勢いよく息を吹き込むと、ポンッと間抜けな音を立てて飛んで行く。

これは面白いぞ。あっちから的、こっちから籠といろんなグッズを持って来て会場設営。後は見てるだけ。

これは思いっきり息を吐くのでモヤモヤがスッっとする。銀じ郎さん、通級のメニューにいかが?

2010/09/30

実りの秋


ひと雨ごとに涼しくなってきた。教室前の廊下に心地よい風が吹き込み、「麦」の文字が揺れていた。

春から蒔いた種は教室でも実りつつある。

うまくいかないこともたくさんあるが、そんなものは別にうまくいかなくてもいいのだ。

ただいのちは育つ。

4月と9月に身体測定があるが、子どもの背丈はたった5ヶ月の間に平均3cmも伸びている。

私が引っ張って伸ばしたんじゃない。

2010/09/28

写真家・内堀タケシによるフォト・ディスカッション


 写真家の内堀氏とは、なにわのブラジル「カイピリーニャ」というブラジル音楽を聴かせるレストランで出会った。Salt&Uribossaの「ひと味チャウダージ」のときだ。ライブが終わってから、ちょっとことばを交わすうちに話が盛り上がり、お互いに正体を明かした。
 写真家と小学校の先生の何処に接点があったかというと、彼がアフガニスタンの子どもたちの写真を撮ってること、そして私が担任している4年生は、2学期にアフガニスタンを舞台にした国語の教材を学習する予定であること。そして彼は日本から使用済みランドセルをアフガニスタンに届ける仕事をしていることでもつながった。
 あれこれ話しているうちに、「先生の学校に行きましょうか?」という話になり、東京在住の彼が、私の学校の子どもたちの為だけに来てくれたのだ。昨日は夜間中学の生徒さんに、今日は4年生2クラスにそれぞれ2時間ずつ、午後は希望のあったクラスに+αの特別レクチャーもしてくれた。
 このところ写真について考えることが多くなったが、今回も写真の持っている圧倒的なメッセージの力に驚かされた。お年寄りにも子どもにも確かに伝わった何かがあった。神さまがくれる出逢いは、いつも不思議だ。これぞ半分遊びで半分真面目のSaltな仕事ぶり。





2010/09/27

水魚の交わり




長野戸隠から電気屋さん御夫妻が奈良に来られた。長旅でお疲れのはずなのに、玄関で靴を脱ぐ前に屋根に上がってしまった電気屋さん。実は今回は交わりのオプションとして日曜日のメッセージとともに、築17年のわが家の雨漏りや水漏れ補修もお願いしていたのだ。しかし、このスピードとパワーにはいつも驚かされる。
私の側でもてなせることはあんまりないのだが、許される時間とその日の天候によって、柔軟に対応できるように何種類かの観光コースを考えていた。しかし、選べるのはひとつ。結局あれこれ悩んだ末、大宇陀を案内することにした。大宇陀は私にとっても妻にとっても、けっこう思いのある町である。
長野も奈良もともに海がない県だが、山並みの稜線も植生も異なる。そして気候も歴史も違う。何とも言えない「まったり」「ぼんやり」した奈良の空気感を電気屋さんはどう感じられただろうか。

2010/09/25

日中関係への思慮浅き配慮

沖縄・尖閣諸島沖での漁船衝突事件で、政府は中国の圧力に屈して、船長を釈放する決定をくだした。日本は、国家として中国より「格下」の国であることを受け入れ、自ら進んで内外に示したわけだ。日中関係への配慮だそうな。

今回の異常な判断は、昨年12月の習近平国家副主席の来日時に「1カ月ルール」を破って天皇陛下との「特例会見」を実現させたことよりもなお悪い。

刑事訴訟法47条は「公益上の必要が認められる場合」は証拠書類の公開を認めている。政府は、中国漁船側がぶつかってきたことが一見して分かるビデオの公開を避けた。日本に有利になることが「公益」にかなわないと判断したわけだ。通常の感覚では理解不能である。

そんな重要な決定を政務三役が釈放決定を知らなかったと言うのだから、さらにびっくり。

大阪府の橋下知事は、「そんなことは政治家が責任を持って言わないといけない。政治家がしっかり方針を出すべきだ。司法が判断するのは違うんじゃないか。検事に(判断の)負担を押しつけている」と述べ政府を批判しているが、全くその通りである。

こんなおかしなことは世界中何処を探してもありはしない。

日本丸よ。いったいどこへ行く?

2010/09/24

無駄

もうずいぶん前の記憶だが、娘の小学校の卒業式の日、教室での最後の場面でなぜか私が保護者代表ではなむけのことばを言うようにたのまれたことがある。

不意のことだったので、それらしいことも言えず、だいたいこんな話をした。

「これから君たちがやらなければならないことはいろいろある。しかし、やらなくてはならないことじゃなく、やってもやらなくてもどうでもいいようなこと、人が無駄だからやめろと言うようなことこそ進んでやろう。貧乏人には無駄遣いなんてしたくても出来ない。だから、無駄をたくさん抱えているというのは豊かさのしるしなんだ。やるべきことをやってからしか本当に無駄なことは出来ない」

このことばにあるように、私は「無駄」ということばをかなり肯定的に使っているが、私の仕事には私の楽しめない「無駄」が多すぎる。

自分で覚悟して引き受ける「無駄」はいいが、他人から押しつけられる「無駄」は耐え難い。ここに厳密な境界線がある。

自分で引き受ける無駄というのは、意味や価値がないということではなく、私がそのことを「やりたいからやる」以上、効果や見返りを求めないということだが、押しつけられる無駄には、そもそも意味や価値を感じないので、効果や見返りがあっても不愉快なのだ。だから、やりたくない。

とは言え、そういうことも仕事として給料の中に含まれているので、拒否するわけにもいかず、仕方なくかなり柔軟に対応出来るようになって来たけれど、最近、妻に「そんなことをそこまで嫌がるのはアンタだけや」と言われ、「そうなのか?!」と愕然とした次第。

私は誰もが多少苦痛に耐えて乗り越えているものと思っていたが、私の感じている無駄は私以外の大多数にとっては「必要」の範囲に入るという思いもかけない答を出され、確かに周りの状況を説明するには、そう考えた方がわかりやすいということがやっとわかった。

このように私の考えることにも、いちいち無駄な遠回りが多いのだが、それが私なので仕方がない。私は巧く噛み合う歯車になる気はないので、違う動力にて単独で回転するだけ。

たまに噛み合ってちょっとだけ他の歯車と連動する。その程度の協調関係がちょうどいい。空回り万歳!

2010/09/23

河野甲レザーワークの世界




さまざまな分野から、毎回見応えのある作家を呼んで来るオーナーはなかなかの目利きだなといつも感心させられている。

今回の河野甲さんも、繊細かつ大胆な発想と技術で、ちょっと見たことのない質感の作品を作っておられた。

息子を駅まで送ったついでのわずか30分ほどの滞在だったが、とてもいい時間だった。

http://www.39moon.com/blog/ 【ギャラリー夢雲】

カナン教会のスケジュール

9.26 特別集会  メッセンジャー 電気屋さん

10.03 「コンプレックス」(ひねくれ者のための聖書講座⑳)
  10  家庭礼拝
  17 「逃れの町」(約束の地カナン)
  24  分かち合い
  31  家庭礼拝

9月最後の週は、私のブログにもユニークかつ濃厚なコメントをくださっている「電気屋さん」がメッセージをいてくださいます。講壇を離れれば無口な私と違って、電気屋さんは、日常の会話が全部メッセージみたいな方です。彼のブログにも頻繁に登場する素敵な奥様も同伴で来られます。お楽しみに。

10月も、Saltによるメッセージは3日と17日の2回です。

10日、31日は私は基本的にフリーにしています。もし、お招きがあれば2~3人以上のキリストの御名に集う交わりであれば何処でも参上しますので、気軽にご連絡ください。

2010/09/22

コンプレックスについて その②

せっかくの休日だというのに、あれやこれやと役場の地域振興課に顔を出したり、地元の中学校や小学校に行ったり・・・・・と、けっこう大まじめに仕事をしてしまった。

まあ、いいや。仕事しながら、半分遊んでるから。

以下は昨日のつづき。

さて、肝心の聖書はどう言っているのか?

「人の心は何よりも陰険でそれは直らない。だれがそれを知ることが出来よう」(エレミヤ17:9)

人の心は良くはならない。しかも、その陰険さの質も程度も本人では捉えきれない。

「しかし、イエスはご自身を彼ら(エルサレムで御名を信じた人たち)にお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてのだれの証言も必要とされなかったからである」(ヨハネ2:23~25)

イエスは信じた者を信用しない。イエスの信頼を得ようとがんばるのは不信仰なのだ。イエスに知られていることを知ることが唯一の安息なのである。 信用に足りない私を愛してくださっている。だから、安心。

コンプレックスは、神から離れた後ろめたさと取り繕いの間におこる葛藤であり、神を抜きにしているから、それ以外の本来無関係な事実が原因であるかのような症状が発症するのだと私は考えている。

聖書は小説ではないので、世の小説家が本来最も紙面をさくであろう登場人物の内面の葛藤などは描かれない。また心理学の本でもないので、ある行為に関する分析も解説もない。
ただ人間の意志決定や行為に関する事実が淡々と描かれるばかりだ。

偉大な葛藤の記録を残してピストルで自分の頭を撃ったり、奥深い人間のドラマを描いて女と心中したりというのはよくある話だ。人は残された作品に共感するかも知れないが、神はただ自殺を評価する。要するに、神の前に取り繕う能力の優越など競っても仕方がないのだ。

全うなクリスチャンであっても、信仰があるにも関わらずコンプレックスを引きずって生きているかも知れない。それは、私たちが肉の弱さの中にある以上、やむえないことなので、そのこと自体を責めても悔いてもどうにもならない。

しかし、断言出来ることがふたつある。ひとつは、コンプレックスは信仰からは生まれはしないということ。そして信仰はあらゆるコンプレックスを乗り越えるということ。

とりあえずは、こんなところで・・・

コンプレックスについて その①

運動会の代休で、少しのんびりさせてもらっている。ありがたいことだ。このゆとりを、たまっている仕事の片づけや諸々のリクエストへの応答に当てようと思う。

最近あちらこちらでコンプレックスに関する話題を目や耳にする。少し前に、友人からの依頼もあったので、この機会に簡単に私見を述べる。

コンプレックスを「劣等感」と結びつけて考える人が多いけれど、学問的に言えば、それは正解ではない。(学問が一般的理解より優位とは全然思ってはいないが・・・・)本来、コンプレックスとは「ある事柄と本来無関係である感情との結びつき」のこと。つまり事柄と感情の複合体である。

コンプレックスの意味は、スクリーンがたくさんある巨大な映画館をシネマ・コンプレックス(いわゆるシネコン)と言うけれど、そのコンプレックスと同じ。数学では、複素数をコンプレックスナンバーと言う。また、文学では、複文のことをコンプレックスセンテンスと言う。いずれも「劣等感」とは関係ない。いずれもただ「引っ付いている」という意味。心理学で使う場合は、「心的複合体」というちょっとわかったような、わからないような訳語がつく。「劣等感」は「劣等複合」といってコンプレックスのひとつの表れのひとつに過ぎない。

コンプレックスが劣等感の同義語として広く受け入れられた背景には、アドラー心理学の流行がある。「劣等複合の克服が人格の成長につながる」とした彼の理論をそのままコンプレックスの説明として無批判に飲み込んだからだ。欧米コンプレックスを克服しながら、高度成長を目指した戦後の日本人の事情にマッチしただけのこと。

コンプレックスは感情の複合。人の感情は「劣等感」だけではない。嫌悪、憎悪、敵意、恐怖、そして、愛着や葛藤など、あらゆる感情がある種の事柄と結びついて人間の深層に潜み、その人の価値観や行動に少なからぬ影響を与える。例えば、ファザコンやマザコンは父母への過度の愛着、エディプス・コンプレックスは息子の父親に対する敵意、ダフネ・コンプレックスは処女の男性嫌悪・・・etc

コンプレックスは、時としてその人の主体性をおびやかすこともある。流行の不登校の原因とされる「学校恐怖症」などもその一例だ。 特に本人が自覚する理由がないのに、どうしても学校へ行けなくなるのである。本人でさえ原因がわからないから問題なのである。学校へ行こうとすると、本当におなかや頭が痛くなったりする。

似非カウンセラーや素人教員は、「このようになったからには何かの理由があるはず」と考えて、子供を問いつめ、「どうして」「なぜ」に当てはまる理由を求める。そうすると、事態はますます混乱するのである。そして、ありもしない「いじめ」を告白させて、ますます親や子どもを袋小路に追いつめる例もある。本人さえほとんど意識出来ない、言語化出来ない原因をさぐり当てるのは、実は至難の業なのだ。

主体性をおびやかすもう一人の自分、それがコンプレックスの正体なのだが、このような分裂的な無意識の中の自己内対話をモデル化したのが、先ほど述べた劣等感コンプレックスの重要性を強調しアドラーである。 アドラーは、フロイトの「性欲」説に対して、人間にとって根元的な欲望は「権力欲」であると主張した。

アドラーによると、人間は誰でも劣等感をもっているが、その劣等感を補償しようとして、「権力への意志」が働くと考えたわけ。 アドラーがこの劣等感を補償する働きに気がついたのは、人が何か特定の器官に何らかの欠損や故障などの劣等性があるとき、それを補償する働きがその人の体にあることを知ったからだそうだ。意外に単純な気づきなので、何だかなあという感じ・・・「性欲」や「権力欲」はいずれも人間の中にプログラムされている要素であるが、それらを極端に浮かび上がらせてモデル化することには、いささか乱暴さを感じる。

患者には、よくわからないモヤモヤに○○コンプレックスという名前を付けてもらって安心したい欲望があり、学者には、自分のモデルの中に人を押し込めて標本化したいという欲望がある。Salt流に皮肉ってやれば、そんな共依存はまさにSMクラブ的なのだ。

2010/09/21

congratulations! vol.2


「第27回全国都市緑化ならフェア」にて、つっちゃん&もりっちの作品が金賞に輝いた!
みんながんばってるなあ。
彼らが主催する蚤の市「Pokket Marche」もどんどん規模も大きくなって、全国から出店希望者が押し寄せ、抽選で40店舗は落とされると聞いた。
「次回pokket Marcheには、是非ギター持って来てください」と誘ってくれたので、ちょっとその気になっているが、後はスケジュールの調整がうまく行くかどうか?
つっちゃん、もりっち、おめでとう!!

2010/09/20

congratulations!

18日に行われた大阪府障がい者芸術コンテスト(音楽部門)本選にて、Sueちゃんのキンキ雑楽団がパフォーマンス知事賞を受賞。


決勝進出の8組に残っていたのは聞いていたが、本当におめでとう。


リコーダー講座の受講生でもあるさっちゃんや、真絹ちゃんの活躍も大きい。


世間の評価なんてどうだっていいが、良い評価を拒む理由はない。


橋下知事も見る目あるなあ。


審査員は嘉門達夫他。自らの盗塁の数だけ車いすを贈っていた元阪神の赤星選手も来ていたようだ。


http://www.daisyokyo.or.jp/new/22_tomoiki.html

赤とんぼ

久しぶりに近くを散歩した。

娘が指さした先に赤とんぼがいた。

いつの間に季節は移ろい、風もやさしくなった。

時の流れは私を待ってはくれない。

飛び立つ一瞬前の「静」の中にある緊張感がいい。

2010/09/19

運動会







秋空の下での運動会。 9月の残暑の中、練習してきた成果を存分に発揮した子どもたちに拍手。
ホンマ、疲れましたわ。










2010/09/18

昭和フォークメドレー

運動会前日の為、授業+準備。仕事を終えてからカフェテラスNZへ。今日は、相方uribossa氏がサポートする同級生バンドのフォークライブがあったのだ。

いつもPAでお世話になっている阿南さんは、その昔、関西ではちょっと名の知れた「主人公」というバンドでベースを弾いていた。そのバンドのギター・ヴォーカルの今村さんは、Uribossa氏の高校時代のクラスメートでもある。そんなご縁で、NZのパパさんや、真絹さんも巻き込んでのひと味違うイベントになった。

パパさんや真絹さんの歌が、なかなか味わい深くて、本当に胸に染みた。プロの歌でもこんなにいいなと思ったことは最近ない。

音楽は奥が深い。うまけりゃいいってもんじゃない。

「オレにも出来そうだ」と誰もがギターを手にした時代があった。確かにほとんど音楽的素養が無くてもそれなりに楽しめてしまうフォークソングって、ある意味すごい。

Salt&Uribissaのコーナーもあって、「海岸通り」と「昭和フォークメドレー」を演奏させてもらった。

2010/09/17

雨に歌えば



雨がそんなに嬉しいのだろうか?

カメラもまわっていないのに、ジーン・ケリーよりも楽しげに踊っていた彼もまた無敵少年。

敵を意識し始めると、子どもは小さな大人になってしまう。

敵が出来るのは仕方ないが、敵を敵と思わぬ自由があれば、大人も無敵になれる。

偉大な子どもたちよ。私も3分後のことを忘れて、雨の中を走りたい気分だった。

2010/09/16

ムテキ


「ムテキ」と言っても、「霧笛」ではない。「無敵」である。「無敵」と言っても強いわけではない。敵が存在しないのである。話題の写真家「梅佳代」は、男子は「馬鹿で、無敵で、かっこいい」と言っていた。小学校のある層、あるタイプ、ある期間の子どもたちは、この梅佳代評がけっこうピッタリくる。


物凄い雨で運動場は水浸し。雨があがれば、無敵少年たちの遊び場に。どこから持ってきたのかわからぬ板きれも登場し、全身泥だらけで遊んでいる。こういう体でとびついて来たりするのだ。まさに「無敵」である。