2010/09/24

無駄

もうずいぶん前の記憶だが、娘の小学校の卒業式の日、教室での最後の場面でなぜか私が保護者代表ではなむけのことばを言うようにたのまれたことがある。

不意のことだったので、それらしいことも言えず、だいたいこんな話をした。

「これから君たちがやらなければならないことはいろいろある。しかし、やらなくてはならないことじゃなく、やってもやらなくてもどうでもいいようなこと、人が無駄だからやめろと言うようなことこそ進んでやろう。貧乏人には無駄遣いなんてしたくても出来ない。だから、無駄をたくさん抱えているというのは豊かさのしるしなんだ。やるべきことをやってからしか本当に無駄なことは出来ない」

このことばにあるように、私は「無駄」ということばをかなり肯定的に使っているが、私の仕事には私の楽しめない「無駄」が多すぎる。

自分で覚悟して引き受ける「無駄」はいいが、他人から押しつけられる「無駄」は耐え難い。ここに厳密な境界線がある。

自分で引き受ける無駄というのは、意味や価値がないということではなく、私がそのことを「やりたいからやる」以上、効果や見返りを求めないということだが、押しつけられる無駄には、そもそも意味や価値を感じないので、効果や見返りがあっても不愉快なのだ。だから、やりたくない。

とは言え、そういうことも仕事として給料の中に含まれているので、拒否するわけにもいかず、仕方なくかなり柔軟に対応出来るようになって来たけれど、最近、妻に「そんなことをそこまで嫌がるのはアンタだけや」と言われ、「そうなのか?!」と愕然とした次第。

私は誰もが多少苦痛に耐えて乗り越えているものと思っていたが、私の感じている無駄は私以外の大多数にとっては「必要」の範囲に入るという思いもかけない答を出され、確かに周りの状況を説明するには、そう考えた方がわかりやすいということがやっとわかった。

このように私の考えることにも、いちいち無駄な遠回りが多いのだが、それが私なので仕方がない。私は巧く噛み合う歯車になる気はないので、違う動力にて単独で回転するだけ。

たまに噛み合ってちょっとだけ他の歯車と連動する。その程度の協調関係がちょうどいい。空回り万歳!

2 件のコメント:

  1. Saltさんと全く同じかどうか知らないが、ア~メンである。

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  2. 簡単に他人の戯言にアーメンなどしないほうがいい。

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