2010/07/22

ヨブを呼ぶ声

彼らは彼とともに七日七夜、地に座っていたが、誰も彼に話しかけなかった。彼の痛みがあまりにもひどいのを見たからである」(ヨブ2:13)

ヨブの友人は十分いい奴等だったが、不愉快な役立たずの慰め手にしかならなかった。

彼らは、「教訓」を語ったからだ。

私たちは、人に適用する「教訓」ならうんざりするくらい豊かに持っている。私なんぞ「教師」の類は特に・・・・・

吐き気がする。説教など語るも聴くもうんざりである。

苦しみや哀しみの渦中にいる友や兄弟には、実際「何も言えない」
ただ「何も言えない」しんどさを七日七夜明けても共有していられたらと思う。

主は、御自身が造られた創造世界の素晴らしさをヨブの疑問とは無関係に語られたけれど、答えにならないその答えこそが唯一の答えだった。

苦しみには必ず意味がある。意味がわからなくても意味があるとわかることは力強いことだ。

ヨブは答えを聞いて納得したのではなく、答えを持っておられる御方を信じたのであり、その答えの前に「全ての苦しみを贖う御方」のリアリティーをその苦しみのただ中ですでに味わっていた。それはそれ故なく苦しんだ者の特権である。

私たちは人生の苦しみに対して無力である。しかしながら、その苦しみの中にあるからこそ、自らが神から慰めを受けた事実によって、苦しみの中にいる人を慰めることが出来るのだとパウロは言う。(Ⅱコリント1:4~7)

(キリストの)苦難のあるところには慰めがあふれる。それは理屈ではない。法則である。

そうとも、キリスト者に起こることがキリストの苦難でなくて何であろうか

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