2011/03/28

カフェテラスNZ 春のイベント


奈良市法蓮町にあるカフェテラスNZのプロデュースに関わらせていただいたことは、私にとってもかけがえのない大切な経験となった。

オーナーの真絹さんとは、彼女がスタッフとしてハーブクラブで出逢った。いつかハーブクラブのようなお店を持ちたいという夢を、彼女の努力と家族の支えが実現させた。自らもハンディキャップを持つ真絹さんが、誰もが自然にくつろげる空間を作り出そうとする姿に私は心を打たれた。

「毎月イベントが出来たら・・・」そんな願いを叶えてあげたいと思って手伝ってきた。「私がいなければ」ではなく、「私がいなくなっても」やっていけるようにサポートしてきた。真絹さんは能力はあるけれど、顔を合わせてのミュニケーションが苦手。初めの頃は新しいゲストを迎えることにもかなりの緊張があったが、今では私の仲介なしに出演交渉をして、年間の計画を立てるまでになった。MCも回を重ねるごとに上達した。その場の空気をよみ、冗談を交えたり周囲を気遣ったりしながら、見事な司会をしてくれる。

障害児教育が私の専門だが、小学校という職場では長くてもたった6年間しか子どもたちの成長を見届けることが出来ない。就学を終えた後の彼らの人生の方が遥かに長いのに、将来の自立や幸福感から逆算して、現在の支援を考える教師はほとんどいない。

私の場合も立場や力の限界から、出来ることより出来ないことの方がずっと多い。最初は、そんな職場では出来ない罪滅ぼしを、真絹さんとの関わりの中でしているような気がしていた。

でもそれはほんの数ヶ月の間のことだった。回を重ねるごとに、私は、真絹さんとご家族、そして、カフェに集まる人たちとの関わりを単純に楽しめるようになった。

NZに出演してくれた仲間のミュージシャンたちや、ライブに来てくれた友人たちは、みんな同じような感覚を共有してくれたと思う。

人はどこからでも始められる。いくらでも成長できる。

すでに大人である真絹さんの短時間での変容は私の期待や予想よりも遥かに著しいものがあった。逆に、学校がもう少しまともな支援をしていれば、真絹さんの才能はもっと早い時期に開花し、さらに多様な可能性の扉を開けたかも知れない。学校というのは、実に思い上がった勘違いの空間である。学校に適応出来ないくらいで少しも負い目など感じる必要はないのだ。真絹さんとの出逢いが、学校にいる子どもたちとの出逢い方まで少し変えてくれたような気がする。

今や私はほとんど無用の存在となり、ご家族の恩情で持ち上げていただいているにすぎない。これは私が心から望んでいた結果なので本当に満足している。

4月のイベントは、朗読のプロフェッショナル泉座。彼女たちの公演もあちらこちらでいっぱい企画させてもらった。

日本語の美しい響きを堪能したい。

8 件のコメント:

  1. 将来の自立や幸福感から逆算して、現在の支援を考える教師はほとんどいない。

    耳が痛い、ですが、全く同感です。学校に適応し楽しく過ごしても、学校が終わったとき、どう生きていいのかわからない、ではなんのために学ぶのか、です。

    こういう視点で学校を考える、具体的に伝えられるよう、私もしなければ…。

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  2. 先進国における学校教育制度は、産業革命以降に「労働者」という人材をつくるための整えられました。

    チャイムがなり、ノルマがあり、みんなに同じことを強要するところなどは、まさに工場に近いものであって、人格を養うためでも、本質的に批判力をもった自由な市民の教養のためでもないです。

    もともと障害のある子をはね除けるシステムにならざるを得ないのだから、相当無理があるのです。

    これからの学校がいったいどうなっていくのか、非常に不安があります。

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  3. 尾崎ママさんよりコメントいただいていますが、最近はどうやら、Googleアカウント以外はスパムとして分類されているようです。メールボックスから復活させてもらいます。以下は尾崎ママさんのコメントです。

    池本さん、こんばんは。早速NZの春のイベント宣伝してくださってありがとうございます。真絹の小さい頃からの夢だったカフェをオープンして試行錯誤で営業してきてこの4月で6周年です。池本さんがプレゼントしてくださった「ライフ イズ
    ビューティフル」という曲を聴くといつも励まされます。前に進むことが出来ず落ち込んでるとき、悩んでいるとき、何気なく言われた池本さんの一言に何度励まされ、救われてきたかわかりません。もっと早くに池本さんに会っていれば、と思ったこともたびたびです。でも、今だから沢山のすばらしい人たちと会えたわけで、この時期というのは私たち親子にとって意味があることなのかもしれません。今年はまた制度が変わるため何が自分にとって大切なことかを自分なりに選択しなければいけない大事な年です。真絹に冷静に助言を与えてくださり、いい方向に彼女を導いてくださる方が周りに沢山いてくださること本当に心強いです。感謝!感謝!です。

    http://kyoko-ozaki.cocolog-nifty.com/

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  4. ママさん、いつもありがとうございます。

    ゲストの方々が1回きりではなく、誰もがNZと継続して良い関わりを持ってくれるのが嬉しいです。

    今年のアースデーには、Tetsunariのゴスペル・グループがふたつ壮馬もアンニョン・クレヨンというユニットで出ますよ。

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  5. 学校の起源は教会(日曜)学校から始まったと聞いた事があります。

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  6. 「先生がいて生徒がいるような場所」を広い意味で学校と呼ぶとすれば、寺子屋も学校ですよね。

    寺や教会などの宗教勢力が選ぶ力の内人間に押しつけるという組織も古今東西どこにでもあるし、そういうものがやがて権力と結びついていっそう堕落していきます。

    私は先進国における学校教育制度と書いています。そのひとつの大きな柱は殖産興業であり、さらにもうひとつのねらいは富国強兵だということです。

    私は日曜学校の存在やあり方にはかなり否定的な考えを持っています。実際、真理について、ろくな刷り込みはされていないと思います。

    義務でやらされてるようなことに自由も真理もありません。教育はやがて否む為の自我を形成することに力を注ぐべきです。

    結果として、教会学校や宗教的な教会が律法の役割を果たすことはありますが、それは主催者たちの思惑ではないところに、ねじれと不幸があります。

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  7. ピンポンパンさんからのコメントです。

    ちょうどうちの教会での日曜学校参加者コンテストが始まったとブログで書いたので、エシュコルさんがこの記事・コメントをリンクしてくださいました。

    記事とコメントとも、共感することがあちらこちらに書かれてあります。 まずは、日曜学校の存在やありかたに否定的に思っているのは私だけでもないということを知り、面白いなと。
    【チャイムがなり、ノルマがあり、みんなに同じことを強要するところなどは、まさに工場に近いものであって、人格を養うためでも、本質的に批判力をもった自由な市民の教養のためでもないです】これを読んだ時、自分が日本から去りたかったのは小さい頃から孤立心が強く日本のコレクティブソサイエテイで自分は生きていきたくないという意志だったのに、何故かクリスチャンになってからは教会の中でのコレクテイブソサイエテイにすっかり染まっていたなと感じ、皮肉というか。
    【将来の自立や幸福感から逆算して、現在の支援を考える】
    これは、先生としてだけではなく、子供の模範となる大人全て頭にいれておく必要があると思いました。

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  8. ピンポンパンさん、ありがとうございます。

    たぶん横の関係性と縦の関係性のバランスが悪いんですよね。優先順位がおかしくなるとどうしょうもないです。

    モーセもヨセフもエジプトで力をつけました。普通の学校を否定して教会的価値の中に囲い込むのも私は違うと思います。

    物事が正しく相対化されて初めて自由な意思による選択の意味が生まれるのです。

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