2009/10/22

45分のドラマ

小学校では、頻度や程度の差はあっても、毎年、教科やテーマを決めて授業研究を行っている。代表の教師が授業を提供し、それについて全職員が感想を述べ合ったり、専門家の指導を受けたりするのである。

一般的には外部に非公開で校内だけで行われるが、市町村、都府県の教育委員会や文部科学省の指定を受けて、公開される場合もある。公開の規模が大きくなると、余計な雑務も増えるが、そこそこの予算がつき、学校の教育環境全体を嫌でも見直さざるを得ないので、カンフル剤的な刺激にはなる。

この「授業研究」の質が、実はその学校の「子どもたちの学びの質」と見事にリンクしている。もちろん、授業を作るのは各クラスの子どもたちと指導する担任教師だが、学校全体でレベルアップしていくということは事実としてある。

努力や探求がなくても、授業は時間割とともに流れてはいくが、気合いを入れ、魂をこめれば、授業の45分は驚くべきドラマを生む。優れた授業実践によって子どもは磨けば、教室は宝石箱のように輝くが、放っておけば瓦礫の山と化す。私自身も、子どもたちとともに学ぶ45分の中で大いに磨かれた気がする。

私の所属校の校内研修が変わりつつある。これは非常に画期的なことだと喜んでいる。私自身これまで相当退屈していた時間がけっこう面白いものになってきた。その方法を紹介したいと思う。

授業の参観者は、自分が担当する子ども2人だけを45分間集中して観察し続ける。その子が挙手して発表したことを記録するだけではなく、細かい表情の変化やつぶやきを、事実に基づいて時系列でメモしていく。その子がどんな様子だったのか、どんな気持ちだったのか、どこで学びが成立し、どこで途切れたのか。自分の考えをどんな風に伝え、友達の考えをどんな風に聴いたのか。どんな情報のやりもらいをし、すりあわせをして、何をつかみ、45分の中でどのように変容したのか。その事実を元に、参観者全員が必ず発言するというものだ。

こうすると、指導者の授業の上手下手という技術に関連したことが、議論の中心になることはなくなる。勿論、指導者の動きや発問、具体的な支援の方法についても述べられるが、あくまでも「子どもの学び」が中心に語られるので、たとえ失敗が明らかになっても、指導者が無駄に傷つけられるということがなくてすむ。

これまでの一般的な研究協議では、発言力のある人がその授業について一定の評価をしてしまうと、それと大きくはずれた意見は言いにくくなってしまうものだ。職員同士が互いの過去の経験や人間関係に気を使いながら発言するということが多い。そんなわけで、一言も発言しない人もいれば、何度も長く喋る人もいる。これは、どんな職場の会議でも同じだろう。

一般に教員というのは、それぞれにそこそこプライドも高く、まずまずの気遣いの出来る人たちなので、あからさまにどぎつい発言することはほとんどない。特に身内でやる研修会ではそうである。その代わり、失敗や問題点の原因を探求するとなると、不必要な遠慮やねぎらいで本質がぶれてしまうことが多い。

しかし、一人が子どもふたりについての45分を語り出すと、そこにあふれるのは、子どもについての事実である。話が途切れることはなく、自分以外の全ての発言が自分の気づけなかった細かい情報になるので、ものすごい情報の質と量になる。個人に向けられた教師のまなざしは、概ね善意とやさしさに支えられているので、同じ事実でも肯定的な表現で授業のドラマの細部が浮かびあがってくるのである。

良い授業を経験し、子どもの笑顔が輝くと、小学校に勤められて本当に良かったと思う。

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